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描写の視点の問題

別ブログに書いた記事に、少し付け加えて小論にする。
先に、自己引用をして、その後で追記を書く。

(以下自己引用)
恩田陸は小説の名手で、文章の達人だが、その名手でも基本的な、単純な間違いはするという例である。「光の帝国」の一話から抜粋。

私は眼下を通ざかっていく、その男を青ざめた顔で見送った。


言うまでもないだろうが、これは一人称描写である。つまり、視点はあくまで「語り手(この小説では「私」)」にある。である以上、鏡やガラスに写った自分の顔でもないかぎり、自分の顔が「青ざめている」とは分からないはずだ。
そんなことは分かり切っている、私(作者)はそう書きたいからそう書くのだ、というのもひとつの創作姿勢ではあるだろうが、読者としてはかなり興ざめすることは否めない。まあ、やはりうっかりミスなのではないか。そして、編集者もその点を見落としたのだろうと思う。
(追記)

最近読んだ「夏と花火と私の死体」(乙一)の冒頭あたりに、次のような描写がある。最初に読んだ時に、私は上記の引用文と同じ感想を持ち、かなり興ざめしたが、最後まで読んで、この作品は唯一無二の傑作だ、と思った。だが、冒頭の「一人称描写」のミスが、ミスなのか、意図的にそう書いたのかは分からない。語り手の「私」は既に死んだ人間だから、普通の人間とは違う感覚を持っており、自分自身を「外部から」見ることができるのだ、としても、この段階ではまだ「生きている」のである。幽霊は時間も超越しているから問題なし、とするのだろうか。あるいは最初から「死者の思い出話」だから、ここには「ふたりの私」がいるのか?
などと事々しく書いたが、その記述自体は一見単純で、上記の自己引用で批判したのとまったく同じである。

わたしは羨ましそうに石垣を見ながらつぶやいた。

この「羨ましそうに」が問題なのである。これは、他者の目から見た表現であり、自分で自分の顔や表情が「羨ましそう」かどうかは分かるはずがない。つまり、ここでは描写の視点の混乱があるわけである。
まあ、こういう細部はどうでもいいくらいで読むほうがいいのだろうが、私は気になるのである。おそらく正解は、「死者の思い出話」だから、「ふたりの私」がいる、ということになるのだろう。つまり、恩田陸の「光の帝国」とは事情が違う、という結論になりそうだ。
なお、傑作だが二度と見たくない映画(アニメ)の代表作である「火垂るの墓」の冒頭部が、死者の語りである。主人公の少年の霊が、死んでいる自分の死体を見下ろしている場面での少年のモノローグから始まる。




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