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「三四郎は」と「三四郎が」の違い

私は、些細な謎を推理するのが好きなのだが、今、市民図書館から借りて読みかけ(三読目か四読目である)の、夏目漱石の「三四郎」の一節に、こういう部分がある。話ももう終盤というあたりだ。

広田先生が病気だと云うから、三四郎見舞いに来た

これを読んで、不思議に思わないだろうか。三四郎はこの小説の主人公で、話は彼の経験したことが中心となって進んでいる。ところが、

広田先生が病気だと云うから、三四郎見舞いに行った

ではなく、「三四郎が見舞いに来た」である。これでは、三四郎は主人公でも何でもなく、有象無象のひとりのようではないか。
そこで気が付くのは、それこそが漱石の意図なのではないか、ということだ。つまり、漱石は三四郎という人物を描きたかったのではなく、彼を中心に起こる、さまざまな人間模様を描きたかったのであり、三四郎は、いわば話の結節点ではあっても、「主人公」でも何でもない、ということである。主人公は、むしろ、「無意識の偽善者」であり、三四郎を翻弄する、美禰子ではないか。
もちろん、彼女を無意識の偽善者と断定するのは彼女に気の毒で、彼女は、単に「誰かに愛されたい」という願いから、無意識的に男を操縦する手管を使うだけだろう。その相手が、誰になるのか、彼女自身にも分からないから、「候補」となりそうな相手には謎めいた接近をしたり、遠ざけたりするわけだ。
彼女が三四郎に「迷子のことを英語で何と言うか知っているか」と聞き、「ストレイシープ(迷い羊)」だと教えるのは、彼女自身がまさに精神的迷子であることを示している。

私が、この作品を映画化するなら題名を「迷い羊たち」とする。この話の登場人物の中の若者たちは、みな、迷いの中にあり、それこそが青春の本質だろう。



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酔生夢人
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男性
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趣味:
考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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