「F爺」こと小島剛一氏のブログ記事の一部だが、あのひろゆきを論理で徹底的に叩きのめしたことで分かるように、物の考え方がマニアックなほど論理的であるようだ。私も屁理屈をこねるのが好きだが、さほど頭が緻密ではないので、論理を妄想的にこね回すだけである。
ただ、論理というのは、アナログの世界をデジタル的に切り取るような面があるので、すべてが論理世界の中に適合するわけではない。そういう限界の事例が、「日本人に茶髪が増えている」ことを論じた下の記事(引用はその一部で、読者の質問に答えたもの)にもあるようだ。F爺氏はそれを日本人の西洋コンプレックスだと見ているようで、私も基本的にはそれに同意だが、熊谷直実の故事にあるように、老人が若者に伍して戦うために(相手に舐められないために)白髪を黒髪に染める例もあるわけで、髪を染める理由もいろいろあり、西洋コンプレックスだけが理由ではない、ということだ。たとえば、単に茶髪のほうが軽快な感じがする、という審美的な理由でも、「西洋コンプレックス」のひとつとなるのだろうか。
>ただ、いろいろな髪色が存在する、欧米を参考にしているだけなのではないでしょうか。違います。参考にする必然性が無いのに「欧米を参考にする」思考様式・行動様式は、欧米コンプレックスそのものです。という問答の中で、質問者もF爺氏も頭から抜けているのが、アニメという存在である。アニメでは、似たような顔の少女キャラがたくさん出るので、髪の色と髪型、特に髪の色で区別するのは普通である。つまり、若い娘が髪を染めるのに抵抗感が無いのは、西洋コンプレックスより、幼時から日常的にアニメを見て育ってきたこと、そして髪の色が黒色ではないことに違和感が無いことからだろう。これが、「論理の枠(西洋対日本という構図)から抜け落ちた事象に気づかないため、論理が成立しない」事例である。
ちなみに私は論理的でありたいとは思うが、論理とは説明手段にすぎない、とも思っていて、直覚的に正解を得る「悟り」には劣ると思っている。
(以下引用)

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