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細部に神は宿る

「細部に神は宿る」という言葉は、優れた創作のほとんどについて真実であるだろうし、その創作を味わい、感動した人々が、実はその作品の細部を、いや、場合によっては本質すら見逃していることも多いだろう。同じものを見ていても、我々はすべて、実はそれぞれ別のものを見ているのである。



(以下引用)



アニメーション版「この世界の片隅に」を捉え直す(2)「『かく』時間」

2016/11/30 3:26

 マンガ「この世界の片隅に」には、「かく」場面が多い。鉛筆で、絵筆で、羽で。すずはかくことが好きだ。婚礼の日ですら、嫁ぎ先の片隅に居場所を見つけ、行李の前に座り込んで兄に絵入りのはがきを書く。祝いの席で出た食べものをひとつひとつ鉛筆で絵に描いてから、「兄上のお膳も据ゑましたよ。せめて目でおあがり下さい。」とことばを添える。しかし翌朝、はがきの表に自分の名前を書き終えたすずの手がふと止まる。すずは新しい家族に尋ねる。「あのお………… ここって呉市? の何町? の何番ですか?」


 「ぼうっとしている」すずは、嫁ぎ先の住所すら把握していなかったというわけなのだが、ここでわたしがなぜ「すずの手がふと止まる」と書けたかといえば、マンガのコマ運びがこうなっているからだ。


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(『この世界の片隅に』上巻 80ページ)

 すずが表書きを書くコマはわずか3つにすぎない。けれど読者はこの3コマから、鉛筆の動きと停滞を読み取ることができる。まず、第1コマ目は名字を書いている途中で(途中、というのが大事なのだ)第2コマ目ではもうすずは名前の濁点を書いている。この2つのコマを比較して、読者はこの氏名が滞りなく記されたことを知り、さらにはいままさに鉛筆は濁点を打ち終わり、氏名の最後までたどりついたのだと知る。ところが3コマ目では、濁点の上に置かれた鉛筆の先が動かぬままアップになっている。ここから、1と2の間には動きが、2と3の間には停滞があることを、読者は割り出す。マンガはたった3コマで、鉛筆の運びの変化を表すことができるのだ。


 何をくどくどと細かいことを、と言われそうだが、ここで問題。ではアニメーションで、この場面はどのように描かれているでしょう?


 わたしは、この氏名を書く場面で、作画と動画の描写力に唸ってしまった。なぜならアニメーションはマンガの1コマめと2コマめの中にさらに踏み込み、名字である「北條」と名前である「すず」の部分を描く速度を明らかに変化させているからだ。特に名前の「す」の字、その丸い部分を書くとき、鉛筆の動きはまるでそのカーヴを待ちかねたように、そして「すず」という名前に「す」の字が二度も表れることが楽しくてたまらないとでも言いたそうに、スピードを上げてくるりとターンする。


 ひらがなの「すず」を書くときのいかにも手慣れた速さに対して、「北條」と書くとき、鉛筆の動きは一画一画確かめるように慎重になる。それは、すずがこの名字に不慣れであることを示している。名字と名前の差は、声によっても示されている。自分の新たな名字を書きつけながら、のんの声は「ほーじょー」とその描線の遅さをたどたどしく声でなぞるのだが、「すず」では無言なのだ。嫁ぐということは、不慣れな名字を書くということ。井戸の水汲み、火起こし、煮炊き、隣組、煮干しの頭と腸とり、嫁ぎ先でのすずの動作は、どこか名字を書くときに発した「ほーじょー」の間延びした声に似て「冴えん」。呉の新しい生活と広島の生活。選んだ道、選ばんかった道。交差する手。かーきーのーたーね。


 アニメーターたちが、すずの「かく」動作にまるで自分の「かく」動作を乗せるように丁寧に描き分けていることは、すずの描線のスピードの変化だけでなく、筆の運び方、持ち方にも表れている。たとえば広島に戻ったすずが街に出てスケッチをする場面では、輪郭を写し取ってから影を描く動作が表現されているのだが、ここですずは鉛筆を持ち替え、芯を寝せてすばやく斜線で影を描く。描く音までが、芯の先が紙に鋭く当たっているときと広く当たっているときを鳴らし分けているようで、この場面を観るとこちらまで絵を描きたくなってしまう。




 絵を描く場面といえば、見逃せないのが「波のうさぎ」を描くシーンだ。マンガではうさぎに筆が置かれているのはほんの一コマだけれど、アニメーションでは、そのうさぎを描く筆が動いている。胴体がすっと曲線で一塗りされたあと、白い絵の具を景色に置くように、うさぎのしっぽが筆でぽんと描かれる。筆が紙の上を曲線で掃いていくときはさあっと音がするから、このしっぽを描くときのぽん、はとても印象的だ。


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(『この世界の片隅に』上巻 47ページ)

 すずが「波のうさぎ」を描き終えてからのマンガの見開きは「この世界の片隅に」の中でもひときわ幻想的だ 。すずの描いた絵は景色にとってかわり、水原が絵の中を立ち去っていき、すずがそれを見送る。このとき、水原は「よいよいらん事するわ」と言ったあと、見開きの絵の中で後ろ姿になっている。水原は絵の中で、二つの吹きだしを使ってこう言う。「出来てしもうたら帰らちゃいけんじゃろうが」「こんな絵じゃ海を嫌いになれんじゃろうが」。吹きだしが見開きの真ん中と左下端に置かれることで、読者の目線は吹きだしのことばを読み進めながら、すずが水原に投げるまなざしをなぞって、地面に咲く椿の花へとたどりつく。この、吹きだしの配置も含めた見事な画面はあえてここでは図示しないので、ぜひ原作で確認していただきたい*1


 では、この場面をアニメーションにするとしたらどうすればよいか。もちろん、絵が景色にとってかわることを表現しなければならない。しかしそれだけでは足りない。いつ、景色にとってかわるかを映画で表現しなければならない。マンガはページをめくること、コマを切り替えること、吹きだしを配置することで読書の時間を進める。めくられたページに思わぬ見開きを広げることで読者を打つ。しかし、アニメーションの時間は人物の動きによって流れ、カットによって切り替わる。その時間の中で、絵は景色にどう取って代わるのか。


 アニメーション版はここで、原作の読者をも不意打ちする試みを行っている。まず、水原は「よいよいらん事するわ」と崖の端に来る。そして「出来てしもうたら帰らにゃいけんじゃろうが」と言いながら絵を見る。マンガでは、絵の中の水原が発するセリフだが、アニメーションではまだ水原は絵に見入ったままだ。そして「こがいな絵じゃあ」と立ち上がった直後、とつぜんその声が遠くなる。画面一面にすずの絵が広がり、波のうさぎが一匹一匹、しっぽを伴って跳ねている。水原の遠い声がする。


 「海を嫌いになれんじゃろが」。


 この活き活きと動いている海は、水原の「嫌いになれん」海なのだ。嫌いになれん海が動いている。うさぎが跳ねている。もっと観ていたい、絵の中にいたいと観客が思いかけたそのとき、絵はすばやく取り去られ、籠の中の椿のアップが目に飛び込んでくる*2 。この、水原のことばの中途で声の遠近を切り替え、そこに動く絵の短いカットを重ね、観客が耽溺するよりも早く消し去る絶妙なタイミングは、絵コンテ集を見るとあらかじめ精密に設計されていたことがわかる*3。ちなみに、すずの絵が画面に現れる時間は、絵コンテではわずか4秒だ。




 アニメーションでは、原作にない場面でも絵が描かれる。中でもひときわ衝撃的なのは、20319日、呉を襲った空襲場面だろう。敵機を撃ち落とさんと対空砲火が空で炸裂する。その煙が、まるで絵に描いたように色鮮やかだ。最初に観たとき、わたしはこれを幻想的な脚色だと思っていた。しかし、片渕監督の談話によれば、当時の対空砲火はどの軍艦から撃ったかを見分けるために煙が白黒を含めて6色に着色されていたのだという *4。原作はモノクロで描かれており、そこに色を思わせるような描写はなかったから、これは監督の調査から生まれた着想に違いない。


 しかし真に驚かされるのはそのあとだ。


 体に響く重い対空砲火が響く最中、空に広がる砲煙に代わって、突然、画面に絵筆が現れ、絵の具をスクリーンに叩きつける。たん、と砲火とは異なる音がする。これは明らかにすずの幻想だ。ぼうっとしているかに見えるすずの思いがけない欲望、たとえそれが戦闘であっても絵筆で描きたいという止めることのできない渇望が漏れ出し、絵の具の音をきいている。その幻想を抑えつけようとすずは叫んでいる。「ここに絵の具があればって、うちゃ何を考えてしもうとるんじゃ!」叫びは観ているわたしをも撃つ。なぜなら、スクリーンの上でたん、たんと絵筆が置かれていくのを観ながら、わたしは波のうさぎのしっぽをふいに思い出してしまっているからだ。あの愛らしいしっぽを描く筆の動きで、砲弾が炸裂している。すずの絵を見るようにわたしはこの場面に見とれている。


 これら二つの場面を結びつけることは、わたしの気のせいなのか。いや、そうではない証拠に、発光する弾子はとつぜん絵となり、ゴッホの星月夜のように輝き出す。物語も、それを動かす側も、そしてそれを観る側も、「かく」ことの魔力、善悪を問わず眼前に現れるものを写し取ってしまおうとする貪婪な魔力に絡め取られている。




 すずの「かく」という行為は、できごとを写し取るばかりか、できごとを呼び出しすらする。このすずの力について、アニメーションは原作以上に踏み込んでいる。それがはっきり表れているのが、「大潮の頃」の一場面、天井からざしきわらしが現れるところだ。原作では、すずは両手で蒲団をおさえたまま天井を見つめており、次のコマに突然ざしきわらしが現れる。


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(『この世界の片隅に』上巻 27ページ)

 これに対し、アニメーション版では、すずは右手を上げ、まるで天井の木目を手がかりに空中に何かを書き付けるようなまじないめいた所作をし、その手の動いた方向にざしきわらしが現れる。指先が直接なにかの描線を生みだすわけではない。しかし、この動きは明らかに「かく」動きだ。


 天井に「かく」動作は周作との初めての夜に試みられ、そして211月に広島に帰ってすみと語らうときに繰り返される。いずれも原作にない動作だ。いや、正確には、原作の211月の場面には小さな手がかりが埋め込まれている。「あー 手がありゃ鬼いちゃんの冒険記でも描いてあげられるのにね」とすずが右手を天井に向けて掲げたそのとき、すずが小さい頃に使っていた、「ウラノ」と記されたちびた鉛筆が隣に描かれているからだ。さらに先では、読者が姉妹の家族の運命に思いを馳せている間に、幻の右手がこっそりそのちびた鉛筆をつかみ、物語を描こうと身構えている。これもここではその手がかりだけを図示するので、あとは原作で確かめていただきたい。


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(『この世界の片隅に』下巻 130ページ)

 マンガのすずは、目を見開き、あるいは手をかざし、ただの天井に目をこらす。ちょうど、広島の街で鉛筆をかざし、そこにあるものをまなざそうとするように。一方、アニメーションは、天井を見つめるすずに「かく」力を読み取り、あえてまじないのような指の動作を入れた。観客はアニメーションを観ながら、すずが天井の木目をなぞる非接触の「かく」動作の中に、右手の存在を感じることになる。


 「右手」の力は、すずが幼い頃、祖母の家の天井の木目をなぞっていたあの謎めいた所作によってすでに発揮されていたのだろうか。そう考えてから、わたしはこのアニメーションがリンの物語に新たな光を当てていることに気づく。

 *1  「波のうさぎ」は漫画アクション11月15日号(11月1日発売)に再掲されており、大画面でこの見開きを見ることができる。
*2  水原がすずのために集めたコクバの上に載せた椿の意味については、ユリイカの拙論を。 細馬宏通「『漫画アクション』の片隅に 『この世界の片隅に』の居場所」 ユリイカ201611月号 特集=こうの史代
*3 「この世界の片隅に」劇場アニメ絵コンテ集(双葉社)p.62
*4 「『世界』を描かないと『片隅』が見えてこない」、映画「この世界の片隅に」片渕須直監督インタビュー


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細馬宏通
1960年生まれ。滋賀県立大学人間文化学部教授。声と身体動作の関わるいろんなことに興味を持っています。高齢者と介護者の声とからだの動きをとらえ直す「介護するからだ」(医学書院)、古今東西の歌のきこえ方を論じる「うたのしくみ」(ぴあ)の他、「今日の『あまちゃん』から」(河出書房新社)、「ミッキーはなぜ口笛を吹くのか」(新潮選書)、「浅草十二階(増補新版)」「絵はがきの時代」(青土社)など著作多数。最近は雑誌「ユリイカ」をはじめあちこちでマンガについての論考を書くようになりました。バンド「かえる目」では作詞・作曲とボーカルを担当。


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