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「紅天女」VS「白梅仙女」

毎度、夢の話である。
覚醒前の朦朧状態で考えたことだから、純粋に夢の話ではないのだが。
で、今朝のそれは、『ガラスの仮面』のことだった。
いよいよ、『紅天女』の上演が間近に迫るころ、某劇場で新進劇団、新進演出家による『紅天女』のパロディ、あるいは改作である『白梅仙女』が公開され、大評判になり、もはや『紅天女』を超えた、『紅天女』を今さら上演する必要すらない、とマスコミが騒ぎ立てる、という話だ。
どういうわけか、半覚醒状態だと私の想像力は自由に働き、その新進演出家(宮藤官九郎みたいな顔をしている。)のインタビューまで作り出したのだが、その中には、
「『紅天女』のような名作を個人が私物化して、上演できないままであるのはいかがなものか」
という、まったくもっともな意見などもあった。
「名作は、いろいろ演じられて、新たな解釈を加えられてこそ、永遠の生命を持つんじゃありませんかね」
「僕のやったのも、その一つです。著作権の問題で、『紅天女』という名前が使えなかったことに、僕は怒りすら感じているんですよ。だから、よし、絶対に『紅天女』を超えてやる、と思っていました。幸い、主演の○○さんを得て、それが実現できたというのは、自惚れではなく、これほどのお客さんが彼女の演技とこの舞台を絶賛していることで証明されているんじゃないですかね」
「そもそも、『紅天女』自体、泉鏡花という天才の作品があったからこそ生まれたのじゃないですか。泉鏡花の『夜叉ヶ池』や『天守物語』があったからこそ、その系譜の上に、『紅天女』が生まれたんだと僕は思っていますがね。泉鏡花の遺族が著作権を盾に、彼の作品を上演禁止にしていたら、日本演劇界はどれだけの財産を失っていたでしょう」

まあ、上に書いた後半は今思いつきで書いただけだが、『紅天女』と著作権(上演権?)問題というのは、面白い問題ではないか、と思う。
そのほかに、田舎から出てきた素朴な少年と、都会の頭の回転のいい(だが、自分の存在の根幹に自信の無い)少年や少女との交流という、漱石の『三四郎』の高校生版みたいな話を覚醒前の夢の中でなぜか考えていた。(もちろん、田舎の少年が素朴であるなど幻想だ、という批判は承知の上である。だが、一般に、田舎の少年は「人間ずれ」していない者が多いのは確かだろう。)


なお、美内すずえ(前に「鈴江」と書いたのは間違い。)氏が私のアイデアを使うのは大歓迎です。付け加えるなら、最後の試練で北島マヤに敗れ、『紅天女』に出ることができなくなった姫川あゆみ(一時は絶望して演劇界からの引退まで考えたが、例の演出家の励ましで再起。)が、この『白梅仙女』で、全身全霊を賭けた舞台を勤めて、マヤを震撼させる、という案も。



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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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