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論理と倫理

「徽宗皇帝のブログ」に「論理より倫理が大事」と書いたのを読み直して、これは案外大事な主張かもしれない、と思ったので補足しておく。

「あなたは言葉と人間と、どちらが大事ですか」

と聞いたら、「言葉が大事だ」と答える人はほとんどいるまい。口先だけで人を丸め込むために使う、という言葉の使用法を知らない人はいないだろう。社交辞令や嘘は言葉の機能の半分以上である。言葉は人間を現実から引き離すものだ、とすら言える。「何かを言葉で表現した瞬間に、人は物そのものを見なくなる」という小林秀雄の言葉は、言葉の危険性(現実の抽象化機能)を端的に指摘した優れた言葉であるが、それ自体もまた言葉であるのが皮肉である。
で、話を元に戻して、

「あなたは言葉と人間とどちらが大事ですか」

と聞かれたら、まともな人間なら人間が大事と答えるだろう。まあ、ボードレールやオスカー・ワイルドなら、言葉が大事、と答えるかもしれないが、ああいう文学的キチガイ連中は相手にしない。(言うまでもなく、私はそういうキチガイたちを敬愛している。)

なぜそういう質問をしたかと言うと、「論理」とは基本的に他者を説得するための理屈なのである。当人が納得するためならべつに論理的でなくてもいいのは、宗教信者などを見れば分かるとおりだ。むしろ、「不合理ゆえに我信ず」という有名な言葉もあるように、対象となる存在に合理性を超えるものがあるから信仰もある、と言えるほどだ。

そして、ここまで長々と書いてきたのは「論理」とは「論のための理屈」にすぎない、と言いたいからだ。その「論」とは何か。「ごんべん」が付いていることから分かるように、ただの言葉である。ハムレットで言われている「言葉、言葉、言葉!」である。妄言詭弁、何でもあり、の「言葉」だ。

そんなもののために生きている人間を切り捨てていいはずはない、というのが私の主張である。

「倫理」の「倫」とは、「道」の意味だとどこかで読んだ記憶があるが、「にんべん」が付いていることから分かるように、「人が生きる上で通るべき道」である。
「人間」以前の動物的連中でもカネの有難さは分かるが、それは動物がエサの有難さを知っているのと同じ話であって、人間であるならば、「倫理」を持って生きる必要がある。そういう倫理を持たない人間をサイコパスと言うのである。社会の上位層ほどそういう人間が多くなるのは、「経済絶対主義」の社会である資本主義の必然かもしれない。












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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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