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民族差別と迫害の心理分析

異国の人間、あるいは他文化圏の人間が隣にいる時の居心地の悪さというのは何が理由か。
それは、要するに「こいつとはコミュニケーションが困難だろう」と即座に予想されるのが第一の理由だろう。
と言うことは、話の行き違いで喧嘩になり、極端な場合はお互いに殺し合いをする可能性もある、ということだ。もちろん、それは「同じ文化圏の人間ならそうはならない」という誤解が前提にあるのだが、そちらは「まあ、まず大丈夫だろう」と心の中でなあなあになる。普段は同じ日本人にも警戒する人間も、こういう場合は「日本人同士だもんな」と都合よく解釈する。
大雑把に言えば、異文化の人間も、同じく人間としての精神的共通項が多いはずだが、問題はその「些細な(はずの)違い」が、お互いに「絶対的な違い」になることだ。
たとえば、「他人の咀嚼音に我慢できない人」というのは西洋人に多い。日本人が蕎麦やみそ汁を啜る音を下品極まる音と見做すわけである。それだけで、日本人を低劣な人種だと見下す馬鹿もいるだろう。
昔の日本人から見れば、人前も憚らず抱き合いキスする西洋人は動物的だと思われたはずだ。
これらは一例にすぎないし、現在では世界全体の風儀が西洋化しているから「絶対的な違い」ではなくなってはいるだろう。
西洋人の場合は最初から日本人とは違う文化だと思っているから、お互いの違いへの「覚悟」が最初からある。
ところが、日本国内にいる朝鮮人(韓国人)についてはどうだろうか。
日本人は彼らの風儀や言動が自分たちと違うことを許容するだろうか。いや、それを「かつて自分たちの植民地であった『劣等民族』」の風儀や言動と最初から見下げるのではないか。
つまり、西洋人に対しては、「自分たちより優れた文化圏の人々」と最初から畏怖し、朝鮮人に対しては逆に、最初から見下していたのではないか。

欧州やロシアにおけるユダヤ人迫害の場合も、「なぜ連中はここにいる必要があるのだ」と常に煙たがられていたわけだが、それは単純に「言葉も通じにくいし、我々とは違う風習(文化)を持っている」という煙たさだっただろう。それが、たとえばユダヤ人の商人に掛けで買い物をし、その催促をされた時に、「『俺』の国に勝手に居座っているくせに、偉そうな顔をしやがって」と逆恨みし、相手に暴行を加えたりする。そうすると、周囲の人間のほとんどは、理屈の通っているユダヤ人の味方をするのではなく、「同胞」の味方をするわけだ。つまり、感情が理性より大きな力を持つ。そうした小事件が積み重なっていくうちに、ユダヤ人憎悪は深層流となり、迫害は迫ってくるのである。
要するに、こうした民族差別の問題は、感情の問題だから、理性ではなかなか解決はできないのではないか、というのが私がここで当座の結論としておきたい考えだ。
ちなみに、「感情と理性は別のセンターを持っている」というのは、ロシアの神秘思想家グルジェフの考えで、私は、これを「理性は感情を制御できない」というテーゼとしている。
もちろん、「制御できない」は大げさな言い方で、「非常に困難だ」ということだ。







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