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天上の天国と地上の天国

「白痴」を読み終わった(昔読んだ時より、理解が深くなったのか、いっそう面白かった)ので、今は「カラマーゾフの兄弟」の再読を始めたが、最初のあたりに、昔は疑問にも思わなかった「社会主義」に関する言葉があり、気になるので少しメモしておく。
それはこういう言葉だ。

「社会主義は決して単なる労働問題、即ち、いわゆる第四階級の問題のみでなく、主として無神論の問題である。無神論に現代的な肉をつけた問題である。地上から天に達するためでなく天を地上へ引きおろすために、神なくして建てられたるバビロンの塔である」(米川正夫訳)


「バビロンの塔」はもちろん、「バベルの塔」だろう。問題は、それがなぜいけないのか、ということだ。確かに、バベルの塔は人間の僭上な行為として神の怒りを買い、滅ぼされた。しかし、「天を地上に引き下ろす」つまり(神抜きで)地上の天国を作ろうという人間の行為は非難されるべきものだろうか。それが神という存在を無意味化するという、神への反逆という面を除けば、それは永遠の幸福を得たいという人間の涙ぐましい行為ではないだろうか。そして、神が存在しなければ、地上の天国を作ろうという行為が批判されるだろうか。
引用した箇所から数ページ後に、こういう言葉がある。これはアリョーシャの考えだ。

「長老は神聖な人だから、あの人の胸の中には万人に対する更新の秘訣がある。真理を地上に押立てる偉力がある。それですべての人が神聖になり、互いを愛し得るようになるのだ。そして貧富高下の差別もなくなって、一同が一様に神の子となる。こうしてついに神の王国が実現されるのだ」

赤字にした「貧富高下の差もなくなって」というのは、まさに社会主義の理想ではないか。前に引用した部分との違いを言えば、神聖な人間が真理を地上に押し立てる云々だろうが、それはおそらく全人類のキリスト教思想への帰依ということだろう。好意的に捉えれば、「どのような手段で社会を貧富高下の差を無くしても、信仰によらないかぎり、つまり人間の心そのものが自然に道徳を守るようにならない限り、地上の天国は不可能だ」ということだろうか。

問題は、普通の人間が普通に考えて、キリスト教を、あるいは神の存在を信じられるか、ということである。この、悪に満ちた世界を神が創造したなら、その悪の犠牲になった無垢な人間の苦悩や死がいかにして正当化されるのか。それがイヴァン・カラマーゾフの問いかけだろうと思う。私は、イヴァンの思想に与する。たとえ神が存在しても、それは善なる神であるか、あるいは人間的な善悪に関係しているかどうか、人間に分かるはずはない。としたら、神に帰依することは不可能であり、人間は人間の力で地上の天国を打ち立てるように永遠の努力をするしかないだろう。社会主義はそういう思想だと私は思っている。(ただし、マルキシズムを私はよく知らないので、宮沢賢治の言う「世界がぜんたい幸福になるまでは個人の幸福はありえない」が社会主義の定義だとしておく。)

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