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士道と天道

「混沌堂主人雑記」から転載。
横井小楠については、勝海舟が「俺はこれまで怖いものを二人見た。横井小楠と西郷隆盛である。小楠の策を隆盛が行えば、これほど凄いことはない」という趣旨のことを言っているので興味があったのだが、その思想そのものについては詳しくは知らなかった。そもそも、小楠は「思想の固定性(教条化)」を嫌う、プラグマティストだったのではないか、と私は推測している。その小楠が「天道」を口にしていたとは、下の文章で初めて知ったが、「天道」は「史記」の昔から「天道是か非か」の言葉で日本人には親しまれていた言葉だから、小楠がそれを口にしてもおかしくはない。ただそれが、彼の中でどの程度の比重を持っていたかは分からないのだが。

それは、すべての国、すべての立場に居る人についての普遍的な考えである。
俗に言う、天(すべての者が思う正しい存在)が説く考えなのである。
力あるものが正義なのでなく、誰が見ても正しいことこそが正義なのである。
つまり、天は良心なのである。

と書かれているところを見ると、下の文章の筆者の「天道」についての考えは「絶対的正義」という少々危険な思想に私には思えるのだが、「士道」と「天道」を対比する考え方は面白いし、「士道」を、組織の掟にすぎない、と喝破しているところは私も同感する。これは歴史的に見ても正しいと思う。つまり「支配階級の存在意義を強弁するためのマニュアル」が「士道」だったわけだ。日本人の「日本的道徳」(これは上に従うというだけの奴隷の道徳の面が大きいのだが)の支柱の一つが「士道(武士道)」だったとも言える。
私が「武士道」よりも「騎士道」が好きなのは、「武士道」には実は「弱者を守る」という思想が入っていないからである。むしろ、「無力な者は生きるに値しない」というのが武士道の本質であり、「女子供は力のある者に従属することがその義務だ」という思想だからだ。
何より、「主君のために命を捧げる」思想ほど私の大嫌いなものはない。まあ、山本周五郎の作品などは嫌いじゃないが、そういう時代に生まれなくて幸いである。普段俸禄を貰っていようが、いざとなれば主君を見捨てて逃げる家来が一般的だったら、日本の封建社会はずいぶん平和だっただろうwww (「赤穂浪士」は、「逃げなかった」稀な例だったからこそ「事件」になり大衆文学化されたのであり、彼らに「名誉ある切腹」を与えたのは、「武士道」規範維持のための英断だったと、誰かが論じている。)まあ、それは半分冗談だが、社会や組織の「空気」によって人間が縛り付けられるというその一つとして「士道」はあったのであり、「偽武士集団」の新撰組が、偽武士だからこそ士道にこだわり、その結果、内部粛清の嵐も含めてとんでもない殺人集団になったのは、「士道」の本質を示す好例だったと言えるだろう。つまり、下の文章の言うとおりだと思う。


(追記)今、こういうのを見つけたので追記しておく。そう言えば、こんなことを言っていたなあwww 「氷川清話」かな? さすがに勝海舟である。
他人のモラルを咎めたがる人間が、そのモラルを自分で守っている例は少ない。自民党の「愛国心」とかねwww 


            

武士的気風は日を遂うて崩れて来る。しかしおれは今更のやうには驚かない。封建制度の武士は、田を耕すことも要らねば、物を売買することも要らず、厭でも応でも書物でも読んで、忠義とか廉恥とか騒がなければ仕方がなかつたのだ。武士の常禄がなくなれば、武士気質も段々衰へるのは当り前のことさ。


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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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