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二つの自由

「春と修羅☆」から転載。
「アナと雪の女王」主題歌翻訳の一部である。(一箇所だけ、勝手に私が変えた。「全てのものをちっぽけなものに」を「全てのものをちっぽけなものにし」と変更。そうでないと、この部分が「恐怖」の修飾語でなく、語り手自身が「すべてのものをちっぽけなものにする」独裁者的存在であるかのようになる。もっとも原詩を知らないので、これは私の独断。歌詞は曲に乗らなければならないから、舌足らずな文になったのだろうと思ったわけだ。)

私は「新自由主義」ひいては「自由主義」が大嫌いなのだが、それは、そうした思想が現実には「一部の特権階級の自由」だけを拡張する装置として働いているからであり、その結果、99%の人間は自由どころか奴隷的境遇にどんどん押し込められていっているからだ。
しかし、下の歌詞に言うように「正解も間違いもルールもなく」「空や風と共に生きる」という(内面的)自由は、人間の生き方の理想であり、禅で言う「随所に主となる」生き方だと思うので、ここに紹介したわけである。
まさに、生きることには本来、正解も間違いもルールも無いのである。
ただ、社会を形成し、社会の中で生きるために、さまざまな正解や間違いやルールが作られ、人を縛り、あるいは自律的にそのルールに従うだけのことだ。
その「正解」やら「ルール」が過大視され(「小保方事件」などもその一例か)、それが社会的精神病になったために、多くの人にとって「生き難い」社会が作られてきたのが近代文明の大きな特質だろう。つまり「行為」に対する罰や褒賞が異常に偏向し、あまりに過大であるため、社会全体が神経症的になり、やたらに攻撃的になるか、あるいは何をするにも怯えて生きているわけだ。
ところで、その「ルール」を作り、これが「正解」だとしている連中は誰なのだ、その「ルール」で得をしているのは誰なのだ、と考えれば、我々は少なくとも、そのルールや正解の虚妄性を知り、少なくとも精神的には「自由」になることができる。そして、精神的な自由は、あるいはそれを得ることで物質的・社会的な犠牲を払うにしても、それに値するものなのかもしれないのである。





(以下引用)



全てのものを
ちっぽけな物にし、 そして、以前は私を 抑圧していた恐怖も
今では私に届かないのよ

 


私が出来ることを 理解する時よ 限界を知り それを乗り越える


 


正解も、間違いも無く ルールも無いわ


 


私は自由なの なすがままに ありのままで
私は空と風と 共にある者よ


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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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