本居宣長の「古事記伝」を現代語訳した「雲の筏」というサイトから転載。
つまり、この「注釈」の書き手は本居宣長である。文中の「師」は契沖か。(訂正:賀茂真淵のようだ。日本史で習ったが忘れていたwww)
「オオナムチ」という神の名前に疑問があって調べて出会ったサイトだ。
(以下引用)
○大穴牟遲神(おおなむじのかみ)。この名の読みは、万葉巻三【三十三丁】(355)、同巻六【二十三丁】(963)に「大汝(おおなむじ)」と書き、同巻十八【二十五丁】(4106)にも「於保奈牟知(おおなむじ)」とあって、古語拾遺では大己貴と書きながら【この字は書紀の表記である。】「古語於保那武智(おおなむじ)の神」とあり、新撰姓氏録では「大奈牟智(おおなむじ)神」、文徳実録八に「大奈母智(おおなもじ)」、三代実録には「大名持(おおなもち)」、延喜式に「大名持」、また「於保奈牟智」などとあるので理解すべきである。「遅」は濁音だ。【それなのに書紀には「大己貴は『おおあなむち』と読む」とあるので、現在まで世人がそう読んでいるらしいのはどうだろう。この訓注は師も疑っていたが、実に疑わしい。この名に「おおあな」などと「あ」を挿入した例は、古い書物には全く見られない、それに「大己貴」と書いたのも納得できない。「己」という字は「おの」を「あな」に当てたのだろうか。「汝」と言うときに「おのれ」と言う場合もあるから、「汝(な)」の仮名として使ったのだろうか。何にせよ紛らわしく、腑に落ちない用字法である。それを後世の人は、元の意味を深く探ることもせず、単に「大己貴」の字についてその名の意味を議論しているのはどうしたことか。とかく書紀は、こういう場合に変わった文字使いを好む書き方なので、気を付けるべきである。】「大穴」と書いたのは、この記をはじめ、万葉巻七【二十三丁】(1247)に「大穴道」、出雲国造の神賀詞、延喜式神名帳、出雲国風土記などに「大穴持」、新撰姓氏録には「大穴牟遲命」などがある。これらもみな「おおな」と読む証拠は、和名抄で信濃国埴科郡の郷名「大穴」を「おおな」と記してあることだ。「牟遲」と「母智」は通音で、いにしえから二通りに伝えているが、間違いなく「母智」と書かれたのは上記の文徳実録のみで、他はすべて「牟智」であるから、「持」と書いてある場合でも「むち」と読んでいいだろう。【「智(ち)」は、この記では「遅(ヂ=じ)」とあるから濁音に違いないのだが、「持」と書いた例も多いので、清音で呼んでいたこともあるのだろうか。この清濁は疑わしいところがある。】この名の意味は、師の説によると「『穴(あな)』は『那(な)』の仮名であり、『牟(む)』は『母(も)』の転訛であって、『大名持』が正しい書き方である。一般にいにしえには、名が広く長く聞こえることを誉れとしていたらしく、天皇が宮所を遷したり、子のない皇后、あるいは御子たちは名代の氏を定め、名背(なせ)、名根(なね)、名妹(なにも)などと言い、万葉巻二(110)に『大名兒』などとあるのも、すべて名高いという意味の美称で、人に『なんじ』というのも本来『名持ち』から出た賞め言葉である。だからこの命(みこと)は、天下を造り治めた名が特に秀でていることを『大名持ち』と称したのだ」ということだ。○葦原色許男神(あしはらシコオのカミ)。【「あしはらの」と「の」を補って読むのは誤りである。これは「出雲建(いずもたける)」、「難波根子(なにわねこ)」などと同じ類の名なので、「の」は決して入れずに読む。】「色許」は「醜」と書き、前に「志許米・志許米伎」とあった箇所【伝六の三十九葉、四十葉】で述べたように、普通は憎み罵って言う言葉だが、ここでは勇猛さを賞めて言っている。それも人が畏れるという意味で、あの黄泉の醜女なども、煎じ詰めれば同じ意味になる。【後世に、非常に勇猛な人を「鬼神のようだ」と言うのと同じである。また考えると、今の世で、堅く盛り上がったようなのを「しこり」、「しっかり」などと言う。「色許」はその意味かも知れない。「しこぶつ」という言葉<訳者註:この言葉は意味不明>もある。】頭に「葦原」と付いているのは、天下を支配したからである。【前に述べたように、この世を「葦原の中つ国」と言うのは、天上から見て呼ぶ名だから、この神の名も、もとは天神たちが呼んだ名だろう。】中巻には内色許男(うつしこお)命、内色許賣(うつしこめ)命、伊賀迦色許男(いがかしこお)命、伊賀迦色許賣(いがかしこめ)命などといった名前もある。【どれも「色(し)」の前に「の」は入れない。】孝徳紀にも高田醜(たかたのしこ)【「醜」は「しこ」と読む】という人名がある。○八千矛神(やちほこのかみ)。万葉巻六【四十六丁】(1065)に「八千桙之神乃御世自(やちほこのカミのミヨより)云々」、同巻十(2002?)にも同じように歌っている。これも武威を讃えて、限りなく多くの矛を持っているように言ったわけだ。「千」の意味には、もう一つの考えもある。それは「國號考」の「細戈(くわしぼこ)千足(ちだる)國」の解釈のところで述べてある。○宇都志國玉神(ウツシクニタマのカミ)。「玉」は【借字】御魂である。だから「国御魂」とも言う。この「御魂」は、前述の「宇迦之御魂神」のところで言った通り、国造りに功績があった神を国玉・国御魂と言うのである。【その理由は後に見える。】そのためこの神名は、この神だけでなく、倭大国魂の神【これも大穴牟遲だというのは間違いだ。】高市郡に吉野大國栖御魂(ヨシノのオオクズのミタマ)神社、山城国久世郡に水主坐山背大國魂(ミズシにいますヤマシロのオオクニタマ)神社、和泉国日根郡に國玉神社、摂津国東生(ひがしなり)郡に生國魂(いくたま)神社、兎原郡に河内國魂神社、伊勢国度会(わたらい)郡に大國玉比賣神社、度會乃大國玉比賣神社、尾張国中嶋郡に尾張大國霊神社、遠江国磐田郡に淡海國玉神社、能登国能登郡に能登生國玉比古(のとのいくくにたまひこ)神社、対馬上縣郡に嶋大國魂神社など、それぞれの地方で国造りに功績があった神をこう名付けて祀っている。これらの他にも、国々に国玉神社、大国玉神社というところが多い。どれも同じである。その中には、この大穴牟遲神を祀ったところもあるだろう。「宇都志(うつし)」というのは、この名はもともと須佐之男命が「お前は宇都志國玉の神となれ」と言ったことから来ているからだ。それは根の国にいて言った言葉なので、この世を指して「顕見国(うつしくに:現世)」と言ったのだろう。書紀にも「顯」と書かれている。【あるいは、前に宇都志日金拆命(うつしヒガナサクのミコト)という名もあるから、特別な意味でなく、単に「うつくし」の意味としたのでもあろうかと思ったこともあるが、やはりそうではないだろう。】○「并有2五名1(あわせてみないつつあり)」。五名は、師が「名いつつ」と読んだのこそわが国の言葉遣いである。【ある説に、大和国城上郡の狹井坐大神荒魂(サイにいますオオミワあらたま)神社の五座は、この五名を祀るという。神祇令の令義解(りょうのぎげ)には、「狹井は大神(おおみわ:大物主神のこと)の荒魂である」とある。】書紀では「大國主神、またの名は大物主神、また國作大己貴命と名付け、また葦原醜男とも言い、また八千戈神、あるいは大國玉神と言い、または顯國玉神とも言う。」と七つの名を挙げ、古語拾遺では「大己貴命、一名大物主神、一名大國主神、一名大國魂神」と四つの名を挙げている。この神は、書紀本文では須佐之男命が櫛名田比賣を娶って生んだ子とある。いにしえには、遠祖までを含めて「おや」とい、子々孫々までを「こ」と言ったので、【このことは前述したし、後でも述べる。】これも須佐之男命の子孫の意味であって、それを「御子」と言い伝えたことから紛れたのだろう。【それをこの文にこだわって、八嶋士奴美(やしまじぬみ)命から大國主神まで、すべて同一の神だと説くのは、はなはだしい強弁である。】というのは、この記に各世代の世継ぎははっきり書いてあり、六世の孫であることは明らかだからだ。書紀にも一書には「八嶋篠の五世の孫は大國主神である」と書いてあり、他の一書に「素戔嗚尊の六世の孫が大己貴命である」【これは「子の六世の孫」とあるので、七世のようにも見えるがそうではない。この六世は素戔嗚尊から六世である。】とあり、新撰姓氏録にも「素佐能雄命の六世の孫、大國主」とあって、どの伝えも合致している。
つまり、この「注釈」の書き手は本居宣長である。文中の「師」は契沖か。(訂正:賀茂真淵のようだ。日本史で習ったが忘れていたwww)
「オオナムチ」という神の名前に疑問があって調べて出会ったサイトだ。
(以下引用)
○大穴牟遲神(おおなむじのかみ)。この名の読みは、万葉巻三【三十三丁】(355)、同巻六【二十三丁】(963)に「大汝(おおなむじ)」と書き、同巻十八【二十五丁】(4106)にも「於保奈牟知(おおなむじ)」とあって、古語拾遺では大己貴と書きながら【この字は書紀の表記である。】「古語於保那武智(おおなむじ)の神」とあり、新撰姓氏録では「大奈牟智(おおなむじ)神」、文徳実録八に「大奈母智(おおなもじ)」、三代実録には「大名持(おおなもち)」、延喜式に「大名持」、また「於保奈牟智」などとあるので理解すべきである。「遅」は濁音だ。【それなのに書紀には「大己貴は『おおあなむち』と読む」とあるので、現在まで世人がそう読んでいるらしいのはどうだろう。この訓注は師も疑っていたが、実に疑わしい。この名に「おおあな」などと「あ」を挿入した例は、古い書物には全く見られない、それに「大己貴」と書いたのも納得できない。「己」という字は「おの」を「あな」に当てたのだろうか。「汝」と言うときに「おのれ」と言う場合もあるから、「汝(な)」の仮名として使ったのだろうか。何にせよ紛らわしく、腑に落ちない用字法である。それを後世の人は、元の意味を深く探ることもせず、単に「大己貴」の字についてその名の意味を議論しているのはどうしたことか。とかく書紀は、こういう場合に変わった文字使いを好む書き方なので、気を付けるべきである。】「大穴」と書いたのは、この記をはじめ、万葉巻七【二十三丁】(1247)に「大穴道」、出雲国造の神賀詞、延喜式神名帳、出雲国風土記などに「大穴持」、新撰姓氏録には「大穴牟遲命」などがある。これらもみな「おおな」と読む証拠は、和名抄で信濃国埴科郡の郷名「大穴」を「おおな」と記してあることだ。「牟遲」と「母智」は通音で、いにしえから二通りに伝えているが、間違いなく「母智」と書かれたのは上記の文徳実録のみで、他はすべて「牟智」であるから、「持」と書いてある場合でも「むち」と読んでいいだろう。【「智(ち)」は、この記では「遅(ヂ=じ)」とあるから濁音に違いないのだが、「持」と書いた例も多いので、清音で呼んでいたこともあるのだろうか。この清濁は疑わしいところがある。】この名の意味は、師の説によると「『穴(あな)』は『那(な)』の仮名であり、『牟(む)』は『母(も)』の転訛であって、『大名持』が正しい書き方である。一般にいにしえには、名が広く長く聞こえることを誉れとしていたらしく、天皇が宮所を遷したり、子のない皇后、あるいは御子たちは名代の氏を定め、名背(なせ)、名根(なね)、名妹(なにも)などと言い、万葉巻二(110)に『大名兒』などとあるのも、すべて名高いという意味の美称で、人に『なんじ』というのも本来『名持ち』から出た賞め言葉である。だからこの命(みこと)は、天下を造り治めた名が特に秀でていることを『大名持ち』と称したのだ」ということだ。○葦原色許男神(あしはらシコオのカミ)。【「あしはらの」と「の」を補って読むのは誤りである。これは「出雲建(いずもたける)」、「難波根子(なにわねこ)」などと同じ類の名なので、「の」は決して入れずに読む。】「色許」は「醜」と書き、前に「志許米・志許米伎」とあった箇所【伝六の三十九葉、四十葉】で述べたように、普通は憎み罵って言う言葉だが、ここでは勇猛さを賞めて言っている。それも人が畏れるという意味で、あの黄泉の醜女なども、煎じ詰めれば同じ意味になる。【後世に、非常に勇猛な人を「鬼神のようだ」と言うのと同じである。また考えると、今の世で、堅く盛り上がったようなのを「しこり」、「しっかり」などと言う。「色許」はその意味かも知れない。「しこぶつ」という言葉<訳者註:この言葉は意味不明>もある。】頭に「葦原」と付いているのは、天下を支配したからである。【前に述べたように、この世を「葦原の中つ国」と言うのは、天上から見て呼ぶ名だから、この神の名も、もとは天神たちが呼んだ名だろう。】中巻には内色許男(うつしこお)命、内色許賣(うつしこめ)命、伊賀迦色許男(いがかしこお)命、伊賀迦色許賣(いがかしこめ)命などといった名前もある。【どれも「色(し)」の前に「の」は入れない。】孝徳紀にも高田醜(たかたのしこ)【「醜」は「しこ」と読む】という人名がある。○八千矛神(やちほこのかみ)。万葉巻六【四十六丁】(1065)に「八千桙之神乃御世自(やちほこのカミのミヨより)云々」、同巻十(2002?)にも同じように歌っている。これも武威を讃えて、限りなく多くの矛を持っているように言ったわけだ。「千」の意味には、もう一つの考えもある。それは「國號考」の「細戈(くわしぼこ)千足(ちだる)國」の解釈のところで述べてある。○宇都志國玉神(ウツシクニタマのカミ)。「玉」は【借字】御魂である。だから「国御魂」とも言う。この「御魂」は、前述の「宇迦之御魂神」のところで言った通り、国造りに功績があった神を国玉・国御魂と言うのである。【その理由は後に見える。】そのためこの神名は、この神だけでなく、倭大国魂の神【これも大穴牟遲だというのは間違いだ。】高市郡に吉野大國栖御魂(ヨシノのオオクズのミタマ)神社、山城国久世郡に水主坐山背大國魂(ミズシにいますヤマシロのオオクニタマ)神社、和泉国日根郡に國玉神社、摂津国東生(ひがしなり)郡に生國魂(いくたま)神社、兎原郡に河内國魂神社、伊勢国度会(わたらい)郡に大國玉比賣神社、度會乃大國玉比賣神社、尾張国中嶋郡に尾張大國霊神社、遠江国磐田郡に淡海國玉神社、能登国能登郡に能登生國玉比古(のとのいくくにたまひこ)神社、対馬上縣郡に嶋大國魂神社など、それぞれの地方で国造りに功績があった神をこう名付けて祀っている。これらの他にも、国々に国玉神社、大国玉神社というところが多い。どれも同じである。その中には、この大穴牟遲神を祀ったところもあるだろう。「宇都志(うつし)」というのは、この名はもともと須佐之男命が「お前は宇都志國玉の神となれ」と言ったことから来ているからだ。それは根の国にいて言った言葉なので、この世を指して「顕見国(うつしくに:現世)」と言ったのだろう。書紀にも「顯」と書かれている。【あるいは、前に宇都志日金拆命(うつしヒガナサクのミコト)という名もあるから、特別な意味でなく、単に「うつくし」の意味としたのでもあろうかと思ったこともあるが、やはりそうではないだろう。】○「并有2五名1(あわせてみないつつあり)」。五名は、師が「名いつつ」と読んだのこそわが国の言葉遣いである。【ある説に、大和国城上郡の狹井坐大神荒魂(サイにいますオオミワあらたま)神社の五座は、この五名を祀るという。神祇令の令義解(りょうのぎげ)には、「狹井は大神(おおみわ:大物主神のこと)の荒魂である」とある。】書紀では「大國主神、またの名は大物主神、また國作大己貴命と名付け、また葦原醜男とも言い、また八千戈神、あるいは大國玉神と言い、または顯國玉神とも言う。」と七つの名を挙げ、古語拾遺では「大己貴命、一名大物主神、一名大國主神、一名大國魂神」と四つの名を挙げている。この神は、書紀本文では須佐之男命が櫛名田比賣を娶って生んだ子とある。いにしえには、遠祖までを含めて「おや」とい、子々孫々までを「こ」と言ったので、【このことは前述したし、後でも述べる。】これも須佐之男命の子孫の意味であって、それを「御子」と言い伝えたことから紛れたのだろう。【それをこの文にこだわって、八嶋士奴美(やしまじぬみ)命から大國主神まで、すべて同一の神だと説くのは、はなはだしい強弁である。】というのは、この記に各世代の世継ぎははっきり書いてあり、六世の孫であることは明らかだからだ。書紀にも一書には「八嶋篠の五世の孫は大國主神である」と書いてあり、他の一書に「素戔嗚尊の六世の孫が大己貴命である」【これは「子の六世の孫」とあるので、七世のようにも見えるがそうではない。この六世は素戔嗚尊から六世である。】とあり、新撰姓氏録にも「素佐能雄命の六世の孫、大國主」とあって、どの伝えも合致している。
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