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「現実の重力」とファンタジー

とりとめもない浮遊思考なのだが、現代における「物語的フィクション」すなわち、小説、映画、アニメ、漫画など、「物語」を骨格とした創作ジャンルにおいて、陰惨な現実が「物語の持つ希望や救いや明るさや夢」を相当に浸食しているのではないか、という気がする。ファンタジーの中にまで陰惨な現実性が侵入して「ダークファンタジー」化する傾向があるわけだが、現代人はファンタジーを「現実逃避」であり、いい大人が真面目に接するものではない、と思っていたのだろうと思う。その結果が鬱病や自殺の増大である。これは現実から精神的にすら逃避することができない人々の終着駅ではないだろうか。
最近の「けものフレンズ」(「観る抗鬱薬」と言われているwww)の大ヒットは、人々が本当に求めているのは何かを示しているように思う。いや、それ以前に、これまでヒットしたアニメ作品のほとんどは「明るいファンタジー」だったのである。ファンタジーとは、「現実の重力」を逃れ、想像世界に飛翔することが本来の意義だったはずだ。そこになぜ現実の重力をわざわざ持ち込み、ダークにする必要があるのか。その一方では、主人公が自分の身長くらいもある巨大な剣を振り回したりする荒唐無稽さはお構いなしだwww (言うまでもなく、前に書いた方の「重力」は比喩である。つまり、「不快な現実性」のことだ。自分が自分以外ではありえないという「自同律の不快」からの脱却が物語の起源であり物語の意義だろう。)

これ(「現実の重力」によるファンタジーの汚染)は狭義のファンタジーだけでなく、小説や映画など、物語的フィクション一般に言えることだ。

最近の小説の書き手は素晴らしい力量を持っている人が多いように思う。いや、私は最近の小説はほとんど読まないのだが、読んだ限りではたいていそうである。だが、その中の一つとして、「読んで楽しかった」という印象が残らない。ほとんど、陰惨なリアリティを感じるだけである。たとえば、男の作者が、女主人公がレイプされる場面を描き、その体内感覚まで見事に描写している小説があったが、その筆力、あるいは取材力には感心しても、この小説を読むことで私に何が残ったかと言うと、暗鬱な感情だけであった。こんな感情を得るために小説を読みたいという人間がどれくらいいるだろうか。また、小説を書く意義とは何なのだろうか。
いわば、純文学が扱うべき主題を娯楽文学が扱っている、というのが現代の小説界の傾向のように思う。確かに、そのようにリアリティのある小説は評論家からは高く評価されるだろうが、はたして一般的な読者は小説に「現実の重力の苦しさ」を求めているのだろうか。






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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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