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「弁証法」懐疑論

私は、東海アマ氏を高く評価し、尊敬する部分もあるのだが、彼は、「知識と記憶力は凄いが、判断力がダメダメである」という評価である。ある種の偏見が固定観念となり、まともな判断力が無い、という印象だ。言い換えれば、膨大な知識と記憶力がほとんどムダになっている。
その原因が何か、と考えた場合、知識の選択の際に、既に偏見で判断しているというのが大きいと思うが、彼の判断の根底が、彼がしばしば力説するヘーゲルの「弁証法」にあるのではないか、そしてそれが彼の判断をダメダメにしているのではないかとふと思ったので、その考察をしてみる。つまり、「弁証法否定論」を試みようというわけだ。
もちろん、私はヘーゲルなど読んだことがないので、その一般的理解である「(正⇔反)→合」という思考法に、或る種の陥穽があるのではないかという考察である。
この論理形式は、「科学的思考」の基本でもあると思うが、そこに何かの陥穽があるのでは、という疑念だ。でなかったら、新コロだの新コロワクチンだの地球温暖化だの二酸化炭素否定論だのと、科学があれほどの間違いをしてきたはずがないだろう。もしかしたら進化論もビッグバン説もすべて間違いかもしれない、と私は疑っている。あるいは、ウィルス説そのものが間違っている可能性もあるだろう。あるいは「相対性理論」も間違いでないとも限らない。

まあ、そういう「子供っぽい」疑念はともかく、「弁証法」を考察してみる。これは、「或る説」に対して、「別の或る説(前説を否定する説)」が出てきて、それを突き合わせて考察することで、「両者を止揚した、より『正しい』説」が出て来る、という考え方だろうと私は理解している。問題は、これが「単なる二説の比較である」ことではないか。実は、他にも無数の説がある中で、「どうでもいい説」や「一見合理的に見える愚説」だけを突き合わせて、学界や論争者に都合のいい「答え」を出しているだけではないか、ということだ。これこそが、「科学の誤り」の根本ではないか、ということであり、しばしば「政治の誤り」の原因にもなるだろう。

そして、さらに言うなら、「論理そのものの問題」というのが出て来る。
私の考えでは、論理とは「説明手段」(「自分自身への説明」含む)でしかなく、「思考手段」としてはさほどたいしたものではない。つまり、1+1=2を永遠に続けても、何も出て来ないということだ。本当に大切なのは「直観」であり、そこにこそ「正解」はあることが多いと私は思う。もちろん、その「直観」は実は長い間の知的修練の結果、無意識の中に蓄積された知的経験の記憶から生じるのであり、小学生が「ビッグバン説は間違いだ~」と言っても、あまり説得力はないだろうし、私が言っても同様だ。しかし、問題は、「専門家」たちの思考や知識も「偏見」で固まっているだろう、ということだ。「論理」は、それを是正する力があるだろうか。

まあ、とりあえず、「論理(形式論理)」や「弁証法」は、実は「設定された土台の上での議論にすぎない」とだけ言っておく。

ちなみに、私はデカルトによる「分析と総合」という思考法が科学的思考、あるいは論理的思考の基本だと考えている。これはヘーゲル的な「二者択一」の陥穽を持たない。




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