「東海アマ」ブログ記事の一部を引用して考察する。前にも同じような考察をしているが、まだすっきりしないので、再度考えてみるわけだ。
一番の問題は「利他主義」という言葉だろう。これだと、「何よりも他者(の利益)を優先する」思想にしか聞こえない。だが、アマ氏が記事中で引用している「三方良し」は、
これは、「売り手、書いて(夢人注:「買い手」の誤り)、作り手の三方に利益をもたらすものが本当の商いの道」という意味で、商いによって、みんながトクをし、誰も損しないという思想である。
というもので、「売り手」つまり自分自身の利益もちゃんと勘定に入っているのである。それでなければ商売になるはずがない。それを「利他主義」と言っていいのか。
「利己主義」と「利他主義」を同時に成立させるのは「社会主義」と言うしかないだろう。つまり、社会全体の利益を自分だけの利益より優先させる思想だ。だが、東海アマ氏は共産党を憎悪しているので、共産主義を思わせる「社会主義」という言葉は絶対に使いたくない。だから無理やり「利他主義」という言葉を振り回しているのである。
東海アマ氏は「論理の出発点に他者への強烈な感情があるので自分の論理が歪んでいる」ことに気づかないのだろう。
揚げ足取りになるが、「利他主義」を主張するアマ氏の「利他」の対象外であるらしい現在の最悪の「敵」である隣人(近所の泥棒老人)に対し、その悪事を許し、自分の憎悪を捨てることができた時に、私は氏の「利他主義」を少しは信じるかもしれない。
なお、「利他主義」でも「利己主義」でもなく、人間と人間、あるいは人間と社会、あるいは人間と世界を結び付ける感情が「愛」であるわけだが、それは主義でも何でもなく、感情である。「主義」で行動する(思考する)人間は必ず独断と偏見で世界を歪んで解釈する、と言えるだろう。新興宗教信者なども、一種の「主義」で世界や社会や他者や自分自身を見ているわけだ。
(以下引用)
日本企業を代表する、近江商人や伊勢商人の伝統から、三井高利の「三方良し」の思想を挙げておく。
これは、「売り手、書いて、作り手の三方に利益をもたらすものが本当の商いの道」という意味で、商いによって、みんながトクをし、誰も損しないという思想である。
外国では違う。商売は、売り手だけが儲かる必要があり、製造は作り手だけが儲かり、購入者は、自分だけがトクをすればよいという姿勢である。
こうした利己主義を前提とした社会システムが長続きするはずがなく、したがって、外国には日本のような古い企業が少ないのである。
三井高利の思想は、まさに「利他主義」によって社会を運営するという方向性だった。 目先の金儲けだけを優先させる「利己主義」を前提とした企業で、長続きするものなどありえない。
長い寿命を持つ組織体、企業は、すべて「社会全体に奉仕する」という思想性を持っていた。これが「古き良き日本」だったのだ。
もう一つの視点として、日本のような凄まじい自然災害国家では、あらゆる価値が自然に襲われて粉砕されゆくなかで、普遍的価値を求めるとともに、絶えず、復旧し、災害を克服するイノベーションが求められたということが大きな意味を持っている。
そして、すべてを失って、「人間が生きている」という一点だけに依存して、再び新しい価値を創成してゆかねばならないことが、日本人の特性を生み出している。
災害は人々を鍛えるのである。何もないなかで、歯を食いしばって、無言で生きてゆくための価値を作り出してゆく人間性を災害国家が与えてきた。
また知的能力を強く刺激し、鍛えてきたのだ。
今、我々は、アウターライズ地震と南海トラフ地震という二つの巨大災厄を目前に控えている。
これもまた、過去数十年間蓄積してきた価値を木っ端微塵に粉砕する可能性があり、我々は再び、すべてを失った荒野から再出発しなければならないかもしれない。
経済的にも、自民党、安倍晋三や麻生太郎という国賊政権のせいで、日本国民には数百兆円という重すぎる負担が覆い被さってくることが避けられない。
ゼロどころかマイナスから再出発させられるのだ。おまけにロシアに核攻撃を受ける可能性もある。まさに踏んだり蹴ったりの恐ろしい困難が襲いかかってこようとしている。
こんなときに、本当に頼りになるのは、生身の人間的能力と、利他主義の思想しかないと書いておきたい。それだけで、子供たちは新しい世界を生き抜いてゆかねばならない。
一番の問題は「利他主義」という言葉だろう。これだと、「何よりも他者(の利益)を優先する」思想にしか聞こえない。だが、アマ氏が記事中で引用している「三方良し」は、
これは、「売り手、書いて(夢人注:「買い手」の誤り)、作り手の三方に利益をもたらすものが本当の商いの道」という意味で、商いによって、みんながトクをし、誰も損しないという思想である。
というもので、「売り手」つまり自分自身の利益もちゃんと勘定に入っているのである。それでなければ商売になるはずがない。それを「利他主義」と言っていいのか。
「利己主義」と「利他主義」を同時に成立させるのは「社会主義」と言うしかないだろう。つまり、社会全体の利益を自分だけの利益より優先させる思想だ。だが、東海アマ氏は共産党を憎悪しているので、共産主義を思わせる「社会主義」という言葉は絶対に使いたくない。だから無理やり「利他主義」という言葉を振り回しているのである。
東海アマ氏は「論理の出発点に他者への強烈な感情があるので自分の論理が歪んでいる」ことに気づかないのだろう。
揚げ足取りになるが、「利他主義」を主張するアマ氏の「利他」の対象外であるらしい現在の最悪の「敵」である隣人(近所の泥棒老人)に対し、その悪事を許し、自分の憎悪を捨てることができた時に、私は氏の「利他主義」を少しは信じるかもしれない。
なお、「利他主義」でも「利己主義」でもなく、人間と人間、あるいは人間と社会、あるいは人間と世界を結び付ける感情が「愛」であるわけだが、それは主義でも何でもなく、感情である。「主義」で行動する(思考する)人間は必ず独断と偏見で世界を歪んで解釈する、と言えるだろう。新興宗教信者なども、一種の「主義」で世界や社会や他者や自分自身を見ているわけだ。
(以下引用)
日本企業を代表する、近江商人や伊勢商人の伝統から、三井高利の「三方良し」の思想を挙げておく。
これは、「売り手、書いて、作り手の三方に利益をもたらすものが本当の商いの道」という意味で、商いによって、みんながトクをし、誰も損しないという思想である。
外国では違う。商売は、売り手だけが儲かる必要があり、製造は作り手だけが儲かり、購入者は、自分だけがトクをすればよいという姿勢である。
こうした利己主義を前提とした社会システムが長続きするはずがなく、したがって、外国には日本のような古い企業が少ないのである。
三井高利の思想は、まさに「利他主義」によって社会を運営するという方向性だった。 目先の金儲けだけを優先させる「利己主義」を前提とした企業で、長続きするものなどありえない。
長い寿命を持つ組織体、企業は、すべて「社会全体に奉仕する」という思想性を持っていた。これが「古き良き日本」だったのだ。
もう一つの視点として、日本のような凄まじい自然災害国家では、あらゆる価値が自然に襲われて粉砕されゆくなかで、普遍的価値を求めるとともに、絶えず、復旧し、災害を克服するイノベーションが求められたということが大きな意味を持っている。
そして、すべてを失って、「人間が生きている」という一点だけに依存して、再び新しい価値を創成してゆかねばならないことが、日本人の特性を生み出している。
災害は人々を鍛えるのである。何もないなかで、歯を食いしばって、無言で生きてゆくための価値を作り出してゆく人間性を災害国家が与えてきた。
また知的能力を強く刺激し、鍛えてきたのだ。
今、我々は、アウターライズ地震と南海トラフ地震という二つの巨大災厄を目前に控えている。
これもまた、過去数十年間蓄積してきた価値を木っ端微塵に粉砕する可能性があり、我々は再び、すべてを失った荒野から再出発しなければならないかもしれない。
経済的にも、自民党、安倍晋三や麻生太郎という国賊政権のせいで、日本国民には数百兆円という重すぎる負担が覆い被さってくることが避けられない。
ゼロどころかマイナスから再出発させられるのだ。おまけにロシアに核攻撃を受ける可能性もある。まさに踏んだり蹴ったりの恐ろしい困難が襲いかかってこようとしている。
こんなときに、本当に頼りになるのは、生身の人間的能力と、利他主義の思想しかないと書いておきたい。それだけで、子供たちは新しい世界を生き抜いてゆかねばならない。
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