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古典の花園10 第二章4

4 
薮入りの、寝るや。ひとりの親の側。 (炭大祇)
 
 薮入りは、他家に奉公に行った子供が、年に二回実家に帰れるという風習です。その時には、親も子も別れていた間の寂しさを、その一日で埋め合わせようとしたことでしょう。これは川柳ではなく俳句ですが、この俳句のテーマを蕪村は『春風馬堤曲』という素晴らしい漢詩と俳句のコラージュによるシンフォニーにしています。そのラストが大祇のこの俳句なのですが、私などは、この大祇の句を見ただけで『春風馬堤曲』の最後を読んだ時の感動がこみあげて涙ぐんでしまいそうになるほどです。
 単独の俳句として見た場合、気がつくのは、「ひとりの」という言葉の利いていることです。親一人、子一人の家族でありながら、子供は奉公に出ていて会えない。それが一年に一度か二度だけ会えるのです。その喜びが、この「ひとりの」親の側で寝るという言葉でよくわかります。


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古典の花園9 第二章3


 拾はるる親は闇から手を合わせ。 (「柳多留」作者不詳)

 これは少し説明が必要でしょう。これは捨て子の話なのです。ですから、「拾はるる親」は、親が拾われたのではなく、「拾われた子の親」つまり子を捨てた親なのです。生活に困って子供を捨てたものの、子供が誰かに拾ってもらえるか不安で闇からそれを見守り、やっと拾ってくれた人に対して闇から手を合わせて拝んでいるのです。わずか17字で展開されるこうしたドラマが、日本の短詩形文学の特徴なのです。この、子を捨てた親を私たちは非難できるでしょうか。自分たちと一緒にいることの方が死につながると考えて、せめて子供だけは親切な人に拾われて幸せな人生を送ってほしいと思って捨てたのかもしれません。

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古典の花園9

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「一生のお願ひ」を母は聞き飽きる。 (「柳多留」作者不詳)

これは1の川柳と対をなす川柳です。息子は「一生のお願いだ」と頭を下げますが、母親にしてみれば、それは何度も聞いた言葉なのです。しかし、それをまた許してしまうのも母親ならではです。そして、1の川柳へと無限のサイクルが続くわけです。こうした甘い母親も現代では珍しくなった気がします。母親が子供を甘やかさなくなると、子供には逃げ場が無くなるでしょう。もちろん、甘やかすとは言っても、それは「世間様に済まないことをしてはいけない」という歯止めがあっての甘やかしです。とかく他人に対して厳しい現代社会の中で、せめて家庭だけでも安心して甘えられる場であってほしいものです。


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古典の花園7 第二章1


第二章 家族愛

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母親はもったいないが騙しよい。 (「柳多留」作者不詳)

 私がもっとも好きな川柳です。「もったいないが」という中七にこめられた愛情が、この川柳の笑いを温かなものにしています。かつての笑いには、どこかこのような温かさがあったのですが、現代の笑いはとげとげしく、他者を傷つける笑いがほとんどです。たとえば、教室で、先生が一人の子供のちょっとした癖や欠点を槍玉にあげて冗談を言う。するとクラス全体がどっと笑い、ネタにされた子供も笑う。こうした風景は良く見ます。だが、その時、笑われた人間の心がどれだけ血を流していることでしょうか。いや、こうした現代批判はやめましょう。ただ昔ののどかな笑いの中に溢れる人間愛を感じれば良いのです。
 この川柳には意味の解説は不要でしょう。ドラ息子が金に困って母親を騙し、金を手に入れることは、よくあるものです。しかし、騙しながらも「もったいないが」と思う、その部分に、なんとも言えない愛情と優しさがあるのです。

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古典の花園6


 山伏の腰につけたる法螺貝の、
 ちゃうと落ち、ていと割れ、
 砕けてものを思ふころかな。(「梁塵秘抄」)

「山伏の」から「割れ」までは、「砕けて」に掛かる序詞のようなもので、装飾文です。しかし、その割れる法螺貝のイメージや「ちゃう」「てい」という音のイメージが、この詩の生命でもあるのです。「意味」にしか価値を認めない現代の言語観が、我々の生活をどんなに貧困なものにしたことでしょう。ここでも、ただの比喩でしかない落ちて割れる法螺貝の幻想が、この謡を支えているのです。こうした重層性を持った言語表現が日本の詩歌の特徴であることは、多くの評論家が指摘しています。(それを最初に指摘したのが、先に書いた三島由紀夫だったと私は記憶しています。もっとも、これに近いことを谷崎潤一郎も言っていますが。)言語の一義性を重んじる論理的言語観に対し、言語の意味の揺れや重なりこそ言語の美につながるという、高度な言語観がここにはあります。



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古典の花園5 第一章4

4 
舞へ舞へかたつぶり。
 舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん。踏み破らせてん。
 まことに美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。(「梁塵秘抄」)

 これは日本のマザーグースと言っていいでしょう。美と残酷とナンセンスが融合した、不思議な感覚がここにはあります。蛇足的な説明をすれば、文末の{~てん。}は、完了の「つ」と意志の「む」の結びついたもので、「~してしまおう。」の意味。舞いを舞わせる対象として、かたつむりほど不適当なものは無いと思いますが、このかたつむりは、舞いを舞わないと馬の子や牛の子に蹴られ、踏み割られることになっています。彼の運命は決まったようなものですが、それでも、奇跡的に、美しく舞ったなら、華の園で遊ばせてくれるというのですから、おそらく彼は必死で舞うことでしょう。詩歌の不思議なところは、ただの仮定として言われたものも、そのイメージは生じるところで、三島由紀夫が「見渡せば花も紅葉もなかりけり。浦の苫屋の秋の夕暮れ」という藤原定家の歌について述べたように、定家のこの歌には、現実には存在しない花や紅葉のイメージが幻想の背景となっています。それと同様に、このかたつむりの謡は、美しく舞うかたつむりのイメージを、読む人、聞く人の心に描き出すでしょう。 

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古典の花園4 第一章3


 仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあはれなる。
 人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ。(「梁塵秘抄」)

 不幸な民衆の精神的な救いは仏への帰依でした。私は神も仏も信じない人間ですが、かつての庶民の信仰のいじらしさには胸が打たれる思いがします。仏がもし存在するなら、この謡のようなひそやかな存在の仕方なのかもしれません。「あはれ」とは、しみじみと心打たれる感じを言います。必ずしも「哀れ」という悲哀感だけではなく、「しみじみと喜ばしい」ことをも言います。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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