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カルリクレスに対するソクラテスの議論

「ゴルギアス」の中の、ソクラテスの主張の要約を先ほどまで書いていたのだが、どこかのキーを触ったとたんにそれが全部消えてしまったので、1時間ほどかかった仕事がパーである。まあ、誰も求めていない仕事だから、それはウィキペディアなどに任せることにする。今は、その気力も出ないので、その報告だけにする。報告しないと、言ったこともやらない無責任な奴だ、ということになるだろうから。やらなかったのではなく、アクシデントで、やったことが消えたのである。

簡単にまとめておく。

「カルリクレスは欲望の満足が幸福と言うが、欲望の満足は当人に害悪になることもある。それよりも、正義や節制のほうが、当人にも周囲にもよいものだ」というような話である。
だが、これは、「周囲の満足や不幸などくそくらえ。俺は、自分が満足しさえすればいいし、放埓のかぎりを尽くして身を滅ぼしても満足だ」という人間を納得させる議論ではない、と私は思う。

ざて、あなたはソクラテス派か、カルリクレス派か。上級国民はほとんどがカルリクレス派であることは確かだろう。

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「ゴルギアス」より、カルリクレスの言葉(承前)

(前回の続き)カルリクレスの発言である。

けれども、始めから王子の身分に生まれた人たちだとか、あるいは、自分みずからの持って生まれた素質によって、独裁者であれ、権力者であれ、何らかの支配的な地位を手に入れるだけの力を備えた人たちだったとしたら、およそそのような人たちにとっては、節制や正義の徳よりも、何がほんとうのところ、もっと醜くて、もっと害になるものがありうるだろうか。その人たちには、数々のよきものを享受することが許されているし、しかもそれを妨げるものは何もないのに、自分たちのほうからすすんで、世の大衆の法律や言論や非難を、自分たちの主人として迎え入れるようなことをしたのではね。
いや、彼らは、正義や節制の徳という、その結構なものによって、かえって不幸にされるのだということは、これはどうしても避けられないのではないかね、もしも彼らが、自分たちの味方の者に対して、敵に与えるよりも、何ひとつ余計に分けてやることをしないというのではね。しかも、せっかく自分が支配している国の中において、そのありさまだとしたならばだよ。
いや、ソクラテスよ、真実には―その真実を、あなたは追求していると称しているのだがーこうなのだ。つまり、贅沢と、放埓と、自由とが、背後の力さえしっかりしておれば、それこそが人間の徳(卓越性)であり、また幸福なのだ。しかしそれ以外の、あなた方の言うようなあれらのもの(夢人注:正義や節制の徳)は、上べを飾るだけの綺麗事であり、自然に反した人間の約束事であって、愚にもつかぬもの、何の値打ちもないものなのだ。


(引用終わり)

さあ、どうだろうか。このカルリクレスの言葉は、道徳や倫理や法律の存立基盤を脅かす、明晰な論難ではないだろうか。私だったら、この言葉の前に、何の反論もできず、呆然と立ち尽くすだろう。少なくとも、考えをまとめるのに数十分以上は必要で、即座の応酬が前提の弁論の場では何一つ言えないと思う。そこに、「弁論術」を身につけることの必要性もあるのだが、その「弁論術」も、この「ゴルギアス」の前半部分でソクラテスに存在意義を否定されている。
要は、弁論術は真実追求の目的ではなく、その場の聴衆の賛意や弁論での勝利を得るための「迎合」だという理屈であるが、それは「哲学」や「真理の探究」を絶対視した立場だけに通じる理屈であることは言うまでもない。
そして、上記したカルリクレスの言葉に対しても、ソクラテスは「哲学的理屈」あるいは「純論理性」だけに基づいて反論し、相手を黙らせるのだが、その沈黙が同意の上での沈黙ではないことは言うまでもない。まあ、「言うまでもない」とは、その後の世界の歩みを見れば、権力者はほとんどがカルリクレスの徒であることを見れば分かる、ということである。詳しくは同書を自分で読んでいただきたいのだが、ここで、あるいは『国家』において、プラトンが正義や節制の絶対的意義の証明に「失敗」している(と私は思うのだが)ことが、その後の哲学の展開というか、人類の道徳思想が2000年以上もの間、ほとんど進歩しなかった、どころか低下していった理由がある、と私は思うのである。
何しろ、プラトンですら失敗しているのだから、これを論じるのは哲学者にとって鬼門である、と思われたのではないか。その結果、哲学は無益の学となったわけだ。

なお、ソクラテスがカルリクレスに反論した内容を、そのうち気が向いたら要約するかもしれない。
これも追記しておく。私がカルリクレスの言葉を面白く思うのは、「自由」とはまさに贅沢と放埓のことだ、という、誰もが無意識に思っていることをはっきりと言語化したことである。もちろん、倫理とは束縛の体系(カルリクレスに言わせれば、「自然に反している」もの)であるから、「自由」の対極なのであり、心から倫理を好む人など、ほとんどいないだろう。だが、好むものが当人にとって「よきもの」か、嫌われるものが当人にとって「悪しきもの」かと言えば、「忠言、耳に逆らう」を想起すれば、そう単純ではないことが分かるだろう。ソクラテスの論点も、大方、それに基づくものだ、と私は理解している。






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亡者の行進

ネットゲリラ氏のユーモア感覚は私と少し似ているところがあるようで、だからその文章が私は好きなのだろう。こういうところでグルーチョ・マルクスが出てくるのがいい。カール・マルクスよりも私はグルーチョ・マルクスが好きだ。「聖者の行進」ならぬ「亡者の行進」なんてフレーズもいい。銭の亡者。国会なら「政治屋の行進」か。


「欧州連合(EU)域内で事業を行う多国籍企業に納税情報などの開示を求める欧州委員会提案は、二重課税の拡大や企業秘密の流出につながりかねず、反対する姿勢を明確にした。」



だそうで、経団連、論理性めちゃくちゃ。
納税情報を開示すれば、「二重課税」の防止になるはずでしょう。それに、納税情報開示くらいが、なぜ「企業秘密の流出」になるのか。
あっ、「企業秘密」って、脱税の事実のことね。wwww


(以下引用)

犯人「取り調べ反対」

| コメント(7)

経団連がタックスヘイブン規制に反対、というんだが、銭の亡者ですからw オリックス宮内が副会長だったか、タックスヘイブンで名前が出てるしw 銭の亡者が銭を守りたくて政治家にすり寄って、自分に有利な法律を作らせる。政治家もまた銭の亡者なので、和気藹々w 亡者の行進w 

経団連、欧州案に反対=課税逃れ対策で-パナマ文書
が団連が国際課税に関してまとめた提言案が18日、明らかになった。
欧州連合(EU)域内で事業を行う多国籍企業に納税情報などの開示を求める欧州委員会提案は、二重課税の拡大や企業秘密の流出につながりかねず、反対する姿勢を明確にした。19日に発表する。
 EU諸国はタックスヘイブン(租税回避地)の実態を暴いた「パナマ文書」の問題を受けて課税逃れ対策を強化。影響は日本企業の海外事業にも及びそうな気配になってきた。
 経団連の提言案は、欧州委の提案について「懸念する」と指摘。
事業を行う国ごとの所得、納税額といった国別報告事項は「企業の機密情報を含む」ものであり、一般公開を可能な限り回避するとした国際合意に反すると訴えた。

経団連には二軍があるらしいw おいら誘われたので間違いない。「私を入れたがるクラブには入りたくない」("I would never wanna belong to any club that would have someone like me for a member.")と言ったのはグルーチョ・マルクスだが、同じ理由でおいらも断りましたがw


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プラトンの「ゴルギアス」より、古代の新自由主義者、カルリクレスその1

少し長い引用になるが、同書から、問題のポイントとなる部分を抜き出しておく。同書後半にある、カルリクレス(「ル」の字が小文字だが、面倒なので大文字のままにしておく。引用先は岩波文庫、加来彰俊訳。同書p161~p163)の発言である。世界の上級国民のほとんどは彼の意見と同意見ではないだろうか。そして、この世界の悲惨の多くはここに根本原因があるのではないか。


カルリクレス:なんてあなたは甘い人なんだろうねえ! あなたのいう節制家(夢人注:自分で自分自身に打ち勝ち、節制する人。自分の中にあるもろもろの欲望やそれに伴う快楽を支配する者)とは、なあんだ、あのお人好しの、とんま連中のことかね。
(中略)
けれども、人間、およそどんなものにせよ、何かに隷属しているのであれば、どうして幸福になれるだろうか。いや、むしろこういうふうにするのこそ、自然本来における美しいこと、正しいことなのだ。それを今、ぼくはあなたにざっくばらんに話してみよう。

つまり、正しく生きようとする者は、自分自身の欲望を抑えるようなことはしないで、欲望はできるだけ大きくなるままに放置しておくべきだ。そして、できるだけ大きくなっているそれらの欲望に、勇気と思慮とをもって、充分に奉仕できる者とならねばならない。そうして、欲望の求めるものがあれば、いつでも、何をもってでも、これの充足をはかるべきである、ということなのだ。

しかしながら、このようなことは、世の大衆にはとてもできないことだとぼくは思う。だから、彼ら大衆は、それをひけ目に感じて、そうすることのできる人たちを非難するのだが、それはそうすることによって自分たちの無能を覆い隠そうとするわけである。そして、放埓はまさに醜いことであると彼らは主張するのだが、ぼくが前の話の中で言っておいたように、こうして彼らは、生まれつきすぐれた素質をもつ人たちを奴隷(夢人注:道徳や倫理や法の奴隷、の意味だろう。)にしようとするわけなのだ。そしてまた、自分たちは快楽に満足をあたえることができないものだから、それで節制や正義の徳をほめたたえるけれども、それも要するに、自分たちに意気地がないからである。

(次回に続く)


どうだろうか。現代の新自由主義者や、多くの世界的大企業経営者やその幹部たちの思想はこれではないか。そして、保守主義者や右翼の思想の中に、こうした「力こそ美徳であり、権利である」という思想は無いか。あるいは、ニーチェやラスコリニコフの思想も要するに、これではないだろうか。はたして、プラトン(ソクラテス)はこの思想に対して、有効な反駁はできるのか。その前に、カルリクレスの言葉の後半を次回に載せる。



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プラトンの「ゴルギアス」

二、三日前からプラトンの「ゴルギアス」を読んでいるのだが、その中で扱われている問題が、私が長い間考えていた問題とほぼ同じなので、興味深い。つまり、

1)悪ははたして当人にとって良いこと(利益のあること、つまり善)なのかどうか。
2)善人として生きること(欲望を抑制し、自分に悪を禁じて生きること)はつまらない人生なのか。


という問題である。
1)は、「悪を為すことは善である」という奇妙な命題になる(同じプラトンの「国家」では、トラシュマコスという男が、まさにそういう言い方をしていた。)が、現実に、そう信じて生きている人は無数にいる。ただし、この場合の悪とは、「他人に害悪を為すこと」の意味である。他人に害を与えることで自分の利益になるなら、それは自分にとっての善であり、それこそが「生きるに値する生」だと思っている人は多いのではないか。
哲学が大多数の人には無意味な学問だ、と思われているのも、この問題に答えきれていないからではないだろうか。
単純な話、「なぜ人を殺してはいけないのですか」という、ある青年の質問に、まともに答えきれた大人はほとんどいなかったのである。せいぜいが、「人を殺していいなら、(そう質問した)あなたを殺してもいいことになるではないか」「殺人を認めると、この社会が成り立たなくなる」くらいのもので、それであの質問者が本当に納得するかどうか、疑問である。

道徳や倫理というものは、単に社会秩序を守るだけの意味しかないのか。
それとも、社会秩序とは無関係に、悪を否定し、善を守る意義が別にあるのか。

この問題に真摯に答えている哲学というものを私はプラトン以外に知らない。というより、あまり哲学自体を知らないのだが、学校で習った「倫理社会」での各哲学の要約でも、そのことには触れていなかったと思う。
だが、この問題は、あらゆる人の人生の根本にある問題であり、さらにはあらゆる社会の倫理や道徳に、それが成り立つだけの重みがあるかどうかの大事な問題なのである。倫理や道徳が、社会秩序維持のためだけの意味しかないなら、「世界がどうなろうと、俺ひとりが一杯の紅茶が飲めればそれでいい」と思う人間を倫理や道徳は縛れないことになる。そして、実際、そういう人間はこの世界に無数におり、しかも社会の上位層(特に経済界)にこそその割合は多いのである。

長くなるので、「ゴルギアス」の話は数回に分けて書いてみたい。






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英国瞥観行その13


写真はおなじみの「永遠に成長しない少年」である。ケンジントン公園にある。
私も、いくつになっても頭の中身は子供のようなものだから、非常に親近感を持っている。
J.M.バリーは日本では「ピーター・パン」だけが有名だが、「あっぱれクライトン」なども非常に面白い芝居で、どこかの出版社がバリーの作品集を発行してくれないかな、と思っている。概して、18世紀から20世紀初頭にかけての英国の小説や脚本は、日本で翻訳されているものが少なすぎると思う。原書さえ容易には手に入らない。ジェイン・オースティンなどはわりと訳されているが、サッカレーとかアンソニー・トロロープの翻訳など、ほとんど目にしたことがない。今の英文学者も、翻訳するのは現代作家ばかりで、読む気がしない。まあ、そういう私自身、オースティンなど、「高慢と偏見」以外は読む気にもならないのだが。ところで、「ブリジット・ジョーンズの日記」などという映画が、「高慢と偏見」の現代への換骨奪胎だ、ということは知らない人も多いのではないか。
サッカレーの「虚栄の市」など、社会の階層を登る野心に燃えた若く貧しい女性が主人公だ、と聞いただけで、面白そうではないか。いかにも現代的主題だ。まあ、そう言えば、バルザックの主人公などもそういうのが多いのだが。
何はともあれ、そういう日本語に訳されていない外国古典文学の名作、秀作というのは膨大にあるのではないか。昔のように英文学者が活躍していないというのは、日本で英語教育が声高に叫ばれているのと反比例しているようだ。出版業自体が衰退しつつあるのは歴然としているが、それも古典という「見えない財産」を疎かにしてきた結果ではないだろうか。

私程度の長さで生きてきても、世間は文化資産をずいぶん無駄にしているなあ、と思う。古典とか、古いものを大事にしない文化は、どんどん軽薄化していくのではないか。カネになるものと、価値があるものとはまったく別だ、と思うのである。価値あるものを生み出した人々がきちんと報われるような社会、世界になってほしいものだ。


さて、「英国瞥観行」は、これでいったん終わりとする。後あと思い出したことや、書く価値があると思ったことは、気が向いたときにまた書くことにしたい。












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日本は自然災害の国である、という事実を直視せよ

ネットゲリラ氏が珍しく「www」がまったく無い文章を書いている。それだけ、同情に耐えない、ということだろう。惻隠の情がある人間なら、そうあるべきだ。惻隠の情の無い人間は人ではない。
私も時々皮肉まじりにひどい発言をするが、それは世の偽善者たちを皮肉る場合か、大馬鹿たちを皮肉る場合だけである。同情すべき相手を攻撃するという非道はやったことはない。まあ、馬鹿も偽善者も同情すべき対象だ、と考えるほどの聖人では私はない。馬鹿や偽善者を持ち上げるような発言をする人間(馬鹿、あるいは超善人)が多いから、この世は改善されないのである。それが「地獄への道は善意で舗装されている」ということだろう。
まあ、馬鹿であることは悪徳のひとつだ、と考えるべきなのだろうし、日本社会の人間の大方は善人だが、同時に馬鹿であり、それが大問題なのではないか。
そうでなくて、毎年何件もの地震災害や大雨災害、その他の自然災害がある国で、その事前対策も事後対策もほとんど無きに等しい、という阿呆なことがまかり通るはずはない。それどころか、この地震大国の上に54基もの原発を建てて、平然と生活している国民である。


(以下引用)

これで住めなくなった家何軒くらいだろ?

| コメント(0)

熊本地震、避難者が18万人くらいいるというんだが、自宅に戻れるのがどれくらいいるのか? 自宅が完全に倒壊した、あるいは半壊して、直さないと帰れない。そういう人だけでも、ずいぶんの数になるだろう。問題は、老夫婦とか。年寄りはカネもないし、未来もない。何千万もかけて家を建て直しても、自分の寿命が尽きてしまうw 仮設住宅がいつまでも残ってしまうのは、それが原因です。
熊本県内の避難者 16万5500人余
NHKが熊本県内各地の自治体に取材したところ、17日午前0時現在、少なくとも41の市町村で16万5500人余りが避難所などに避難しています。
このうち避難者が最も多いのは熊本市で、5万3461人が市内の避難所などに避難しているということです。
このほか、宇土市で1万5946人、八代市で1万5015人、大津町で1万2520人、宇城市で1万1314人、阿蘇市でおよそ7300人などとなっています。
政府から補助金とか出るのか知らんけど、自己負担が大きい。収入のない年寄りには、そもそも家の建て直しは無理なんです。そういう現実を見ようとしないので、仮設住宅で暑い思い、寒い思いをしながら死んで行く老人が絶えない。今後も大地震は起きる。そうした対策を考えなきゃ。



(夢人追記)「追記」の位置が、「ネットゲリラ」記事内になりそうだが、最初の設定ミスでそうなった。熊本地震がどういうひどい状態になっているかをよく知らせている記事だと思うので、転記しておく。
これは、ヘリコプターによる輸送しか物資を送る手段は無いだろう。こういう時こそ自衛隊(私は、「災害救助隊」にすべきだという意見である。)の出番だ。米軍が協力するなら、その協力も得ればよい。ただし、それと日米安保の承認は別の問題だ。

「食料、底をついた」 足りぬ物資、避難者悲鳴 ガソリン不足も深刻化

西日本新聞 4月17日(日)23時34分配信

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 水も食料もガソリンも仮設トイレも足りない-。16日未明の激しい地震で被害が拡大した熊本県では体育館や駐車場に避難する人が一時、18万人を超えた。道路や鉄道などのインフラが寸断し、多くの被災者に支援物資が届かず、悲痛な声が相次いだ。旅館や民家が山崩れに襲われた熊本県南阿蘇村では、大量の土砂をかき分け行方不明者の捜索が続く。家族は「早く助けて…」と声を震わせた。

<写真>主要な交通手段断たれ…地震で崩落した阿蘇大橋


■子どもが空腹

 「米・水・保存食 HELP」。熊本県御船町の老人総合福祉施設「グリーンヒルみふね」は、駐車場に白いラッカースプレーで大きな字を書いた。

 入所者や地域住民約200人がいるが、町から届いたのはペットボトルの水9箱だけ。吉本洋施設長(44)は「あと3日で食料が枯渇しそうだ」と語った。

 だが、町にも余裕はない。藤木正幸町長は16日夕、フェイスブック(FB)で「町には緊急物資が何一つ入ってきません。町民は水分補給もできずに飢えと戦っています」と訴えた。その後に届いた支援物資の食料も17日昼で底をついた。炊き出しのおにぎりは1人1日1~2個しか配れない状態という。

 FB上では、具体的な避難所名を書いて「指定避難所ではないため、物資が一切届きません」「中学校は水も止まり、食料もありません。救援物資を」といった書き込みが相次ぐ。

 各地の避難所には数百人が身を寄せ、配給のカップ麺やおにぎりを求める長蛇の列で2~3時間待ちのケースも珍しくない。

 同県西原村の西原中で1歳3カ月の息子と避難する園田唯代さん(25)は「おにぎり1個とアイス1個が配給されたが、子どもがおなかをすかせている」。別の女性(48)は「並んでも全員に行き渡らないまま、配給が終わってしまう。朝からパン2個しか食べていない」。この避難所は断水しており、トイレは地面を掘って、ブルーシートで囲んだだけという。


■国道は大渋滞

 ガソリン不足も各地で深刻化している。同県高森町の国道325号沿いのスタンドは、17日に営業を再開したが、午前8時半の開店とともに給油待ちの車で500メートルの行列ができ、片側1車線の国道は大渋滞に。

 自衛隊などの緊急車両が通行できない事態になり、1時間ほどで給油を中止した。同町の自営業男性(47)は「余震が心配で車中泊を続けているが、夜は暖房用にエンジンをかけるので燃料の残量が少なくなってきた。遠方まで買いに行っても給油できる保証はないし、どうすればいいのか」。

 同県南阿蘇村の特別養護老人ホーム「水生苑(すいせいえん)」では電気と水が止まり、情報源はラジオが頼り。食料は3日分備蓄していたが底をつく恐れがあり、16日から1日2食に減らした。関係者は「役場に支援をお願いしたが、避難者が多すぎて『自分たちでどうにかしてください』と言われた」。

 近くのスーパーやコンビニは閉まっており、往復100キロの店まで買い出しに行く必要がある。だが、発電機の燃料や、買い出しに使う車のガソリンは入手困難。停電で水のくみ上げもできず、入所者は次第に追い詰められている。

=2016/04/18付 西日本新聞朝刊=



西日本新聞社









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酔生夢人
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男性
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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