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第一章 ポニーを連れた少女(1)

最初に言っておくが、これは第一稿というか、未定稿であり、後で訂正すべき部分はたくさんあるが、その部分もそのままにしておく。そういう推敲課程も記録しておくわけだ。(夢人)
各部の間の空白部は原書のものではなく、翻訳の都合上空いたもの。決定稿ではその空白は無くなる予定である。



第一章 仔馬を連れた少女 2016/04/21 (Thu)


毎年、三月の終わりには、ガラの首都クリアでは大きな市が開かれた。東の国々の、彼女以外の数千もの人々と同様に、オヌア・チャムトンもそこに仕事のために行った。仕事とは、彼女の場合は仔馬たちを買うことである。この年は彼女はほかの交渉ごとがあり、それはうまく行かなかった。市に滞在した50日めの日の暮れるころには、彼女に必要な助けはもはや得られないように思えた。力になる人もなしに、彼女の家畜たちを南まで連れていくことになるのは、面白くない展望であった。 
「あのう、馬買い人のオヌアさんですか?」そう話しかけたのは、内気で田舎育ちに見える一人の少女だった。「あなたが人を雇うつもりだと聞いて。私は―」少し間を置いて、彼女は続けた「動物を扱うのがうまいんです。どんな動物でも」彼女はオヌアが彼女を観察する間、待った。緑に染めた羊毛の服を着て、スカートは長靴とレギンスが見えるくらいの短さだ。巻き毛の髪は頭巾で巻かれて、その余りが細い肩にかかっている。柔らかでふっくらとした唇が、彼女の繊細さを示している。顎はしっかりとしている。背中には矢の入った箙を負い、手には弦を外した弓を持っている。



(追記)別の場所でも書いたが、「仔馬」は「小型馬」の誤り。つまり「ポニー」である。固有名詞以外はなるべくカタカナ語を使いたくない(そうするとファンタジー性が薄れる)ので、つい「仔馬」と書いてしまった。いずれ全体を見直すまでは、そうしておく。今は、訳しながら考える、というその過程そのものを重視して、そのままにしておく。




「それはあんたのかい」馬買い人は弓を指差して言った。
灰青色の目が閃いた。「これ以外に持ち歩くやり方、知らないんです」
「ふん、弦をかけなよ」少女は言われてためらった。「そう思っただけさ」オヌアはからかうような口調で言った。「で、本当はいったい誰のだい」
少女は巻かれた弦糸を帯の間から取り出した。楽々と弦を弓の一方にかけ、足の前でもう一方をかける。弓の弦の一方を上げ、もう一方まで下げ渡して弦をきれいに張る。弦のかかった弓を彼女は握って体の横に持つ。二つの指で弦を耳のあたりまですらりと引き、射る姿勢を見せた。オヌアは、この少女が射手の篭手をはめているのに今気づいた。
「今は矢は箙の中だけど」少女はゆっくりと弦を射放しながら言った。「的が何だろうが、確実に射るよ」
オヌアはにかりと笑った。「感心したよ。私じゃあ、弓をそんなに大きく引けないね」


少女は弓から弦を外し、それを巻いて帯の間に収めた。「私もよ。最初は。これ、解体したの。でなければ、今でも引けなかったでしょうね」
「十字弓(クロスボウ、弩)だったの?」その質問はオヌアが意識するより先に口から出ていた。(この娘は雇いたくない。彼女をその母の元に送り返したい。彼女は家出娘に違いない。)
「ええ。奴らが来るの―」何かが彼女の目の中で羽ばたいた。彼女は下を向いた。「いえ、来たの。山賊たちが。私は羊たちを見ているしかなかった。だから、十字弓と長弓と投石器のやり方を習ったの。」―かすかな笑いが現れた。―「自慢しているんじゃないのよ」
(山賊たちが来たー)オヌアは考えた。(「来た」と言い換えたのは、彼女が家を離れるのは少しの間のことだと私に信じさせたいからだろうか、それとも家がもう無いからだろうか)
何物かがその少女の側に現れ、大きな茶色の目でオヌアを胡乱げに見た。毛に覆われた、山岳地特有の小型馬である。(訳者注:この章の題名にうっかり「仔馬」と書いたが、原語の「ポニー」は小型馬であり、仔馬とは別なので、今、訂正しておく。前に書いた部分の訂正は、気が向いたらする。)鉄灰色の雌馬だ。肉付きがよく、毛並みもよく手入れされて、荷物二つは容易に運べそうだ。




「あなたの?」少女は頷いた。「いくらの値で売るの?」オヌアは小型馬で一杯の背後の囲いに向かって身を動かした。「私は市にいるんだからね」
「私はクラウドを売れません。彼女は家族です。たった一人の」再びオヌアは悲しみの閃きを見たが、それはすぐに脇に押しやられた。
「あんたの名前は何かね」クミール(訳者注:何を意味するか不明。魔術的な何かだと思う。あるいは、「クミール」と「目の光」は同一かもしれない。)が小袋の中で彼女の指にくっつき、「目の光」と呼ばれる粉を探らせた。
「ダイネです。奥さん」柔らかな声が返ってきた。「ベラリダイネ・サッラスリ」
「目の光」はオヌアが自分の魔術の才を使うときにはその指を痒くした。「いま何歳だね、ダイネ」
「十五歳です」オヌアだけに見える赤い炎の輝きが少女の顔を取り巻いた。この嘘は悪い嘘ではない―顔をしかめるような気持ちで馬買い人は考えた―彼女はそう言うべきだと街路で学んだのだろう、だが、嘘は嘘だ。彼女は13歳ほどに見えた。




「どこから来たの?」
「スノウスデール、北の方。二週間ほど歩いたところ」
赤い炎は見られなかった―彼女は本当のことを言っている。オヌアはため息をついた。「あなた、逃亡者? 家から、あるいは悪い主人から」
「いいえ、奥様」柔らかな唇が震えた。「私には家族はいません。クラウドだけです」
今度も赤い炎は見えない。オヌアは手から粉を払い落とした。「私はオヌア・チャムトン、クミリ・ラーデーの」
ダイネは困惑した表情になった。「ク、ク、―何?」
「クミールは東に住む人々よ。ラーデーはクミリ部族の、1支族の名前」ダイネの困惑は少しだけ和らげられたようだ。「気にしないで。あんたは動物を扱うのが上手いと言ったね。こっちへ来な」彼女は少女を自分の囲いへと導いた。その中にはさまざまな色とさまざまな大きさの27頭の毛深い小型馬が動き回っていた。

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ワイルド・マジックについて

数日前に作った別ブログに書いている、「ワイルド・マジック」というジュブナイル(青少年向け小説)の翻訳を、ここにも載せておく。パソコンの調子が悪いうえに、ブログはサーバーや政府(世耕グループ)の意向でいつ、無断で閉鎖されるか分からないから、危険を分散しておこうというわけだ。せっかくやった頭脳労働(というより遊びだが)を無駄にしないためである。
まず、前置きだけ転載し、その後は少しずつまとめて転載する予定である。あらかじめ言っておくが、いつ突然終わりになるか分からない企画であり、そもそも、下の記事にあるように、物語の後半部分を私は持っていないのである。だいいち、原作も、4部作の第一作だけ書いて、他のシリーズに浮気して、こちらはほったらかしのようだ。まあ、田中芳樹的な作家ではないかww ならば、その第一部の、そのまた一部だけ紹介しておくのも、タモラ・ピアースとやらいう作家の日本での宣伝になるだろうから、著作権のことは大目に見てもらいたい。日本での翻訳者に私を指名するなら、それも考慮します。まあ、いつこちらが死ぬか分からないが。




「ワイルド・マジック」 前置き 2016/04/21 (Thu)
Tamora Pierceという作家のWild Magic (The Immortals Book 1)というのを、いい加減に、辞書もろくろく引かないで訳してみる。つまり、分からない単語や文は、適当に自分で創作するわけである。それなら、著作権にも抵触しないだろう。
タモラ・ピアースは、おそらく英国の児童文学者かと思うが、日本ではあまり知られていないのではないか。さきほどネットで少し調べたが、「女騎士アランナ」というのが知られているようだ。
実は、少し前に英国旅行をしたとき、そこのホステルの本棚に、破れて後半の無いこの本があったので、それを勝手に貰って帰ったのである。私は英語は喋れず、読めないのだが、少しだけ理解できる部分だけを読む限りでは、何だか面白そうだし、後半部分が破れていて読めない、というのも気に入った。
最初に地図があり、「トータール」という国が舞台らしい。海に面した国で、首都あるいは話の中心らしい町はコルス、海岸の町だ。その西にエメラルド・オーシャンという海が広がり、トータールから少し離れた西南にコパー諸島というのがある。
まあ、舞台説明は、小説自身の中でも行われるだろう。それでは、次回から始める。


(4.22追記)ウィキペディアから、この作品の表紙の解説を転載しておく。私が持っている断片には表紙は無かった。なかなか面白そうな表紙である。弓を引いているのは少年ではなく、少女。主人公である。作中ではズボンではなく、レギンスの上からスカートをはいている。レギンスとは何かは私は知らない。馬も、この絵だと普通の馬だが、作中では小型馬、ポニーである。作者は英国ではなく米国の人らしい。まだ最初の3ページしか訳していないが、これから城や竜がでてくるようなら楽しみだ。後ろの海がエメラルド・オーシャンだろうか。


The Immortals - Wild Magic.jpg
Original Simon & Schuster/Atheneum U.S. hardcover of the book featuring the title character





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消費税増税は日本経済にトドメをさす

最初から「消費税増税は、何がなんでもやる」という方針なのだから、熊本大地震への対応があのように冷淡なのだろう。昨日転載した、明月飛鳥氏の説、つまり、政府の「地方切捨て」「金儲け(政府財政)最優先」方針を裏付ける発言ではないか。(なお、大分でもかなりな被害が出ているらしく、「熊本大地震」という呼称のせいで、大分への救援が低調だという声もあるが、ここでは分かりやすく「熊本大地震」と呼んでおく。)

政府の言う「大震災級」とは、どの程度の被害が出ればそうなのだろうか。死者が何万人も出ないとそうは認定しないのか。
だが、そもそも消費税をなぜ増税しないといけないのか、政府の説明で納得している国民ははたしてどの程度いるのだろうか。
それどころか、前回の5%から8%への増税で日本が大不況に落ち込んだことを、政府はどう考えているのか。
つまり、国民経済は政府財政に優先する、という視点(安部政権成立後の政府の膨大な無駄遣いを見れば、増税の必要性など無いことが分かる。)が、ここにはまったく欠如している。国民経済が好景気に向かえば、増税するまでもなく、税収は上がるのである。これは、それこそ、経済学の初歩の話だろう。馬鹿たちが国を動かしていると、国は滅びるしかない。


(以下「ハフィントンポスト」から引用)

菅義偉官房長官、熊本地震 は「大震災級という状況ではない」

投稿日: 更新:
SUGA 2016
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菅義偉官房長官は4月20日の記者会見で、熊本県などで相次いでいる地震は、2016年4月の消費税率の引き上げについて安倍晋三首相が引き上げを再延期する条件として挙げている「東日本大震災級の事態」には当たらないとの認識を示した。再増税については予定どおり引き上げる方針を強調した。


菅官房長官と報道陣とのやりとは次の通り。

――今回の熊本の地震を受けて、消費税を来年4月に引き上げるという考えには変わりないでしょうか。

そこについては、全く現時点においては変わらないということです。


――消費増税についてなんですが、稲田(朋美)政調会長が日経新聞のインタビューの中で、経済に深刻な影響を与えると判断した場合は、1%ずつ上げるという考えも選択肢としての考えもあると示しました。この考え方については、長官、いかがでしょうか。


それは政調会長の考え方なんでしょ。政府の考え方は、総理が言っていますように、基本的にそうした環境の変化があるというふうには現時点では考えていません。


――政府として、1%ずつ刻んで上げていくとのことは、選択肢としてはないと。


今まで考えたことはないです。


――現時点において消費税については変わらないとのことですけども、かねてから、リーマン・ショックか大震災のようなことが起きなければ、先送りはしないとのことですが、だいぶ地震の全容が見えてきた今、今回の地震については東日本大震災のようなものには当たらないとお考えでしょうか。


経済の好循環を力強く回していく、ここに政府として全力を取り組んでいるわけでありますから、そうした状況ではないというふうに判断しています。

消費増税について、安倍首相は「リーマン・ショックや大震災のような事態が発生しない限り、予定通り引き上げる」と繰り返している。だが熊本地震では、トヨタ自動車の生産停止など企業活動に影響が出ており、与党内でも増税を先送りするとの見方が出ている


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官僚と安部政権(あるいは上級国民)の頭に「地方」は存在しない

「反戦な家づくり」の明月飛鳥さんの記事の末尾である。
実は、同ブログを読むのは久しぶりだったが、またしても名推理だと思う。実に論理的だ。

(1)福島は放置状態
(2)海外へのばら撒き、政権維持のための株価操作はする
(3)できるはずのない(やってはいけない)東京オリンピックを強引に勧誘
(4)3.11の被災者援助は形だけで、無用な公共工事はする
(5)TPPの諸外国での頓挫がなければ、強引に推進予定
(6)熊本大地震にはまったく無関心

などから得られる結論として、飛鳥さんの推測する「新日本へのグランドデザインとしての地方切捨て」「(既得権階級の既得権は残し、できれば拡大する形での)政府の財政維持、財政再建」という「秘密の政府方針」は、かなり説得力がある。
つまり、今の日本で税収が上げられるのは東京だけである。だから、フクシマの後でも東京は首都であり続ける必要があった。(橋下を使った二重首都論や大阪遷都論が成功していたら、話は別だっただろう。)東京以外の地方は、税収面を考えれば、「ペイしない」のである。経済合理性だけで物事を考える習性のある官僚や経済人が「地方は切り捨てるべきだ」と考えてもおかしくない。つまり、「地方活性化」など、嘘も嘘、ただのキャッチフレーズだけであり、本音ではすべて切り捨てたいのだ。そもそも、これからの日本で「儲かる産業」など無い。ならば、「カネ食い虫」をいかに切り捨てていくかが官僚の最大の懸案事項となるだろう。そんなときに、地方で大災害が起こっても彼らが興味を持つはずもない。官僚の考えと安部政権の考えは同じである。歴代自民党政権と官僚とは一心同体なのだから。
さて、安部政権のやってきたことは、「何か大企業の金儲けのネタはないか」(東京オリンピックもそれ)「何か税収を増やす方策はないか」「与党が国民に支持されていると思わせる手段はないか」「野党の人気を落とす手段はないか」「与党の失策を誤魔化す手段はないか」ばかりである。どこにも「国民のために、これをやる」という政策がない。
である以上、熊本大地震が起こっても、あれほどに政府が冷淡なのは当然極まることではないだろうか。
この政府は、はっきりと「反国民」の政府であり、「国民を食らう」一種の怪物だ、と思う。


なお、「地方切捨て」の別の形が「道州制」「地方分権論」ではないだろうか。この「道州制」待望論が経済界からでてきた発想であることに私は長い間、それがなぜか考えていたのだが、これは明らかに「持ち株会社」の発想である。
つまり、系列会社内の事業ごとに成功不成功があれば、不成功の事業所は切り捨てればいい、という発想だ。そうして、貧乏県は貧乏県だけで勝手にやらせればいい、という考えなのである。「持ち株会社」としての「東京」さえ押さえれば、他県は実はどうなってもいい、というのがこの「道州制」の本当の意味なのではないだろうか。
実に非人間的な、冷酷な発想だが、「経済合理性」の行き着くところ、そういう考えが生まれるのも当然なのかもしれない。



(以下引用)


私は、東北震災以降の一連の政府対応、今回の点数稼ぎすらしない態度、異様な原発稼働などをみて、「これが日本の近未来のグランドデザインなんだな」と感じた。

どういうことか。

安倍晋三は口先ではGDP600兆円とか言っているが、できないことなど本人も分かっている。
実際は人口半分くらいの国として生き延びていくしかない。
そして、そのために彼らがやろうとしていることは、「お荷物」である地方の切り捨てと、新たな収入源の確保だ。

その二つを両立するものこそ、これだ。

原発推進の正体は「日本列島を核の墓場にする計画」だったのではないか
2011.4.1


福島は彼らにとっても想定外だった。何が想定外かと言えば、核処分場にすることもできないほど酷い壊れ方をしてしまった。
次の格好のターゲットは、薩摩川内である。

だから、危ないからこそ川内原発を止めない。
また、九州は博多から南はほぼ無人の荒野になってくれれば、こんなに好都合なことはない。
熊本が復興することなど望んではいないのだ。

6年前には「まさか」と言っていた人たちも、もしかしたらと思い始めている。
いわゆる陰謀論などではない。
非情な支配者の論理で考えれば、そういう結論に行き着く。

とりあえず自民党で、というあきらめは、こういう地獄へつながっている。

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人工知能の可能性と人間の未来の生活

ながたかずひさ氏のブログ「犀角抄(旧ユルネバ!)」から転載。
非常に面白い思考素がたくさん入っている文章なので、とりあえず保存のみ。


(以下引用)

2016年04月11日

AIがとまらない? よろしい、ならばBIだ。


 いやAlphaGoは衝撃的でしたね。


 チェスや将棋のソフトの強さは、原理的に人間にも理解できる強さでした。総当りで良さそうな手を深く読んで、評価関数の高い手を選んでいく。評価関数の作り方のところに一応機械学習は入っているのですが、まあ理屈はわかるし、わかるからこそ三浦八段(当時)みたいなトッププロが負けても納得はいく。
 ところがAlphaGoは、僕も後追いダイジェストでしか見てないのですがトッププロが「なんだその手」という手を放ってそれが後になって効いてくる。あるいは囲碁では難解な、中央からの攻めに果敢に取り組む。観戦してる人間も知らないうちに形勢が逆転されて負ける。
 慌てて解説とか読むと、どうもまだ秘密のベールに包まれている部分も多いそうですが、どうやら「読んで」戦っているのではなく、「感覚で」、
「この絵から勝ちの絵に向かうにはこのへんに打つのが良さそう」
というのを見出して、打っているらしい。まず現状認識からしてどこに石があるか論理的に把握しているのではなく、画像として「こんな感じ」と把握してるらしい。
 つまり理屈は無い。勝ったら勝ったで(たぶん)AlphaGoも「なんで勝ったか」はわかってない。

 そう言われてみるとそれは非常に「人間くさい」行動パターンであり、ということは逆に、「知性の限りを尽くしている」と思い込んでいる囲碁の対戦においても人間は勘に後付けで理屈なすりつけてるだけで、そうであるならば日常などもっとそう。いやむしろ「知性」という言葉は
「直感で感じた方向性(これだ!)に、理屈を捏ね付ける感覚・行為」
と言い換えるべきかもしれない。
 ここにおいてデカルト以来の「近代」が崩壊してですね(笑)

「どこまで人間に似ているか」というのは結局わからないのでさておいて、擬似的にでも「かなり人間みたいなことができる」となると、具体的には「『判断』も人間に近いものができそうだ」となると、「AIにいろいろ任せよう」という考え方も加速します。
 自動運転が最たる例ですが、
「機械なんか危なっかしくて任せてられない」と
「機械の方が人間よりずっと優秀」の
垣根はある日突然外れる。現にABS(アンチロック・ブレーキ・システム)でもDSC(横滑り防止装置)でも既に人間なんか逆立ちしたってかなわない芸で人間を助けてくれているんだから、これもう一壁越えると、
「人間が運転するバスなんか危なくて乗ってられるか」
になる。75ぐらいの目の下にクマできてるおじいちゃんがヨボヨボと運転席に乗り込んで「えーっと」とか言いながらシフトレバー弄ってるバスと、同じマシンなら鈴鹿でセバスチャン・ベッテルに勝てるAIが運転するバスと、どっち乗ります?

 ウチも電力自由化で別のところから電気買ってみようかなと画策中で、電気のメーターをスマートメーターに換えてもらったのですが、これあるともう「検針員」という仕事要らないわけですよね。
 ホントは今までもそうやってコツコツ人の仕事が「コンピュータ」に剥ぎ取られていってたわけですが、「判断」まで取られちゃうとこりゃ大変。いままでよりずっと「高度だ」と信じられていたジョブが、上の例のように「むしろ」AIに取られる。
 薬剤師とかねえ。弁護士とか。
 学校の先生とか。
 AIきっと我慢強く丁寧に教えてくれるし、世界中のビッグデータで「だいたいの詰まり方」とか持ってるから「ここがこうわからないんじゃないんですか?」みたいなところもヘタな先生より詳しいよきっと。
 むしろ師とか士とか付いてる方が危ないですね。
 複雑な条件から判断せねばならぬほど、AIの方が強い。
 つまり今まで「高度」という言葉は「知性が必要」を表現していたわけですが、その知性とやらが上述のように実はたかだか「直感にあとから色を付ける行為」だとすると(あるいは実際にはそうでないにせよ、現実へのアウトプットとしてはそうであってもさほど差がない場合)、AIで十分。いや、AIの方がいい。

 奥さん翻訳者なんでわりと顔面蒼白になってるんですが、うん、AlphaGoのように本気で取り組まれると、特に産業系とか、論文とか、ニュースとか、だいたいフォーマットが決まってるものはなんかもう、人がチェックする必要もないぐらいの翻訳AIがすぐにでも出てきそうです。
 幸か不幸かGoogleや最先端のAI研究者にとって「英語を他言語に訳す」という行為そのものにほぼ価値が無いから放置されてるだけで。
 もちろん「翻訳」という仕事がある日全部無くなるわけではなくて、責任主体として「私がチェックしました」という判子を押す役が人間に残るんでしょうけど、量も変われば質もまったく違う仕事になりますね。あるいは文芸系ならばしばらくは大丈夫でしょうし。できれば「この訳者さんの訳で読みたい」までいけてれば、その人が現役の期間ぐらいは持つかも。

 というようなことで、世の中の「仕事」の総容量がものすごい勢いで減っていったら、失業者で溢れかえるわけです。
 大変ですね。
 とりあえずワークシェアみたいな、「労働は1日3時間、週3日まで」と決めてみんなで分け合う。あるいは以前は「仕事」ではなかった、たとえば「家事」とか「留守番」みたいなのをネットのマッチングと補助金かなんかで「仕事化」してコツコツばらまく。さらにはお家の前でたこ焼きを焼くような小商いに精を出す。街の人が寄り集まって小銭を落とす、じゃ明日は○○さんの立ち呑みで一杯、とみんなでくるくる小銭を回してですね。
 結局経済って回ってりゃいいので、本来的にはまったく無価値なモノやコトやサービスでも「お金を回すための手段」だとみんなが納得してりゃそれでいいわけです。『ザブングル』のブルーストーンがそうですな、なんて例を出さなくても、現在の日本の公共投資とかたぶん8割方そういうためのものです。
 それが気持ち悪い・あるいは環境や次世代からスティールしてるだけだ、と叫ぶならはっきり地域通貨みたいな、地域独立経済圏を小さく区切ってその中と外で「貨幣」の価値を変えてもいいかもしれません、けどこれはちょっと僕にはよくわからない。昔の中国はそれに似てて、ある人が使う通貨が何十種類もあったりしたそうです。日々状況に応じてレートが変わっていたそうで、わりと人間もそういう環境ならそういうものとして動けていたようです。ただ、それが結局統一通貨になっていくのはその方が便利だからで、まあ貨幣って物々交換より便利だから流通してる面が大きいわけで、そんな状態だと物々交換とあまり変わりませんもんね。
 明示的に地域通貨みたいなことをしなくても、人間の社会的活動から「貨幣仲立ち」を剥がしていく手もあります。「経済成長」というのは貨幣仲介ではなかった人間活動を貨幣仲介にするってことですから、これを逆回しにする。保育園に入れるんじゃなくておばあちゃんに預ける。葬式は地域みんなで出す。
 はい、無理ですね。
 まあ一部取り返した方が幸せなコトもきっとあるでしょうけども。

 などなど、そういう弥縫策でも足りなくなったら最後はBI、ベーシック・インカムかなあ、と思ったりもします。国民全員に月何万円か渡す、という。「そんな財源どこにあんねん」とお思いでしょう? 渡す額にもよりますが、年金・健康保険・生活保護など社会保障を大幅に(どこまでかはやり方次第ですが)減らせるので、意外と非現実的なお金が必要なわけでもないようです。
 月5万×1.3億人で78兆? 合ってます?
 国家予算96兆で社会保障32兆(地方交付税交付金を加えると47兆)なので、工夫すればなんとかいけそうですよね。
 社会というのは(あたりまえですが)構成員が居ないと成立せず、かつ構成員ができるだけしあわせでないと暴力が支配して崩壊する。そうすると「儲けている」人々もその基盤を喪って元も子もないわけですから、そのぐらいだったらまだ税金を払って「社会」を維持した方がいい。
 Appleが困った時にJobsはMicrosoftにお金借りに行って、Gatesも機嫌よく貸したわけです。
 これ。
「働かざるもの食うべからず」
は資本主義では嘘で、資本転がしている方が労働するより儲かる仕組みになってるのは皆さんご存知のとおり。「働く働かない」と「食う食わない」は独立事象なんですな。だからもし国内に十分なリソースがあるなら、とりあえず「食う」を全員満たす、のは倫理的にもそんなに無茶な話ではない。
 経済的な不安や不満が小さくなると、だいたい国家に要求することなんて治安維持と安全保障、あと災害対策ぐらいになるでしょうから国(や地方自治体)としても本来は大助かりだと思うんですが。

「AIに人類は滅ぼされないか」
といえば、我々だって犬猫を滅ぼしてないわけで、彼らが知性から進んで意思みたいなものを持ったとしても、持ったならばこそ、滅ぼすというエネルギーに対して見合うメリットが無ければ放置されるんじゃないでしょうか。SFなどでよく言われることですが、私達だって飼い主としてネコを飼ってるのか、使用人としてこき使われてるのかわかりませんで。エサ用意して寝床あっためてグルーミングしてさあ。人間相手にだってしないのに。

 これ、AIにジョブを奪われる、は決して他人事ではなくて、誰にでも起こることなんです。AlphaGoが考えもしなかった手を打ってくるように、彼ら彼女らは思いつきもしなかったやり方である「仕事」を自分たちの物にしてしまうかもしれない。
 芸術家とかいちばんヤバイ。
 少なくとも「ウケる」とか言い出したらディープラーニングの出番でしか無いですやんか。
 いや、もう実はラノベとかPixivの絵とか、AIが作ってるのがポツポツあったりして。マッドサイエンティストが、というか、デミス・ハサビスがニヤニヤしながら閲覧数とか評価とか眺めていたり。あの人アニメ好きそうだしなあ。
 上の「知性」の定義が実は違いそうだ、というのと同様、「創造性」の定義が実は間違ってるのかもしれません。
 でもそういうAIが活躍するようになって、それでも対抗できるアーティストが居て、そこではじめて「美とはなにか」「快感とはなにか」「おもしろいとはなにか」みたいな難問にあるていど輪郭のある答えが見えてくるのかもしれません。

 ぼく思いますに、極端に言うと「美しい」とか「おもろい」とかって「それが好き」の表現バリエーションに過ぎないんじゃないかと。
 で「好き」ってなにかというと、それはよくわからない。
 よくわからないままにAIが各人の「好き」なものをたくさん作ってくれるでしょうから、それをずらり並べてようやく「ははあ、好きってこういうことか」と腑に落ちるのかもしれない。

 いったい本当にはどのようになるのか検討もつきませんが、AIの時代になるとガラッと社会が変わりそうで、ちょっと楽しみではあります。
 社会は変わっても世界は変わらない。
 とりあえず人間は、桜の花を愛でていればいいのではないですかね。

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何でもない日万歳!

「我が名はアラム」という題名で、本屋では見た記憶があるが、読んだことはない。アメリカのどこかの田舎町の、ある少年の生活を連作短編の形で書いたものではなかったか。とすれば、「我が名はアラム」という、威張った感じの言い方は、内容にふさわしくない、とは言える。だがまあ、猫のくせに「我輩」と自称する威張った猫だっているのだから、子供が「我が名は」と名乗ってもいいのではないか。少なくとも、「我が名はアラム」のほうが、「僕の名はアラム」よりは読みたくなる気持ちにさせそうだ。誤訳の名訳、ではないか。

サローヤンが描いたアメリカは、戦争前のアメリカ、あるいは戦時中のアメリカだったと思うが、今なら読んでみたい気も少しある。現在の殺伐とした、抑圧的なアメリカ(だと私は推定しているのだが)と比べるならば、まだ戦時中(第二次大戦中)のアメリカのほうが牧歌的だったのではないか、と勝手に空想しているのである。

「何でもない日万歳!」と、「不思議の国のアリス」のアニメの中でキチガイ帽子屋と三月兎が歌うが、「何でもない日」がいかに素晴らしいものか、非常時になって分かる。いや、自分で体験しなくても、ニュースなどで大事件を見ると分かる。子供というものは、毎日が「何でもない日」であり、また「毎日が冒険」でもある。大人でも本当はそうなのだが、大人は感受性が鈍化しているから、それを忘れてしまう。小説などを読むと、その失われた感受性を少し取り戻せるようだ。それは、世界が再び輝きを取り戻すということである。(なお、「何でもない日」は、「アリス」の原作では「非誕生日」で、誕生日以外の364日のことである。)



(以下「日々平安録」から転載)、




2016-04-20

[]W・サローヤン「僕の名はアラム」Add Startomatina23

 村上春樹柴田元幸のコンビの企画で、昔文庫にあったがいつの間にか消えてしまった作のいくつかを復活させようとするものの一冊らしい。確かにサローヤンという名前も昔きいたことがあったが読まないままにいつの間にか消えてしまった。柴田さんの訳はJ・ロンドンの焚き火の話が圧倒的に面白かった記憶があり、それで書店で手にとってみて、柴田氏の解説が面白くて買ってきてしまった。


 といっても実は、面白かったのはそこで引用されている同じサローヤンの著「人間喜劇」を訳した小島信夫氏の訳者あとがきなのである。いわく「小説は悪人を書いてきた。悪人でないまでも悪的要素をこれでもか、これでもかと書くためにこそ、あらゆる手法を発展させてきたのである。・・個性とは悪のバライエティだといってもいいくらいなのである。」 日本の私小説なども、人間がいかに酷い醜い存在かということの暴露合戦だったのかもしれない。


 しかし、さらに凄いのはその先。「いったいバイブルというものを読むと、私の偏見からもしれぬが、キリストでさえも、善人とは思えない。天と地の間にある、この特殊な位置が、おそらくキリストを、いいようのないきびしさと孤独と逆説とに満ちさせたにちがいないが、時に悪人の相さえも呈する気がする。キリストには寛容の精神などない。寛容と見える場合にも、私たちは油断することが許されない。次に寛容は別の人に向けられる。寛容にさえもきびしさがつきまとうからなのだ。私たちは寛容をあたえられた場合にも、次におびえなければならぬことになりかねない気がする。」 うーん。


 わたくしなどはウッドハウスのジィーヴスものなどを読んでも、なんで西欧の人士があれほどウッドハウスを賞賛するのかよく理解できないけれども、それは、西欧を覆う罪の意識の重さを実感として感じることができないためなのだろうと思う。西欧の人たちはおそらくウッドハウスの描く罪の意識のない世界を読んで救われるのである。キリストの眼差しのない世界に憧れるのである。すべての人が罪人である世界はつらい。それで、このサローヤンの短編集は悪人のいない世界、「善人の部落」を描くものらしい。


 ところで、この短編集は原題が「My name is Aram」で、まさに「僕の名はアラム」なのだけれど、「僕の名はアラム」というのは日本語としてどうもしっくりこない気がする。「ぼくはアラム」「アラムって名前」「おいらはアラム」・・なんでもいいけれども、「僕の名はアラム」といういい方はしないような気がする。漱石の「我輩は猫である」を「I am a cat」と訳したら変である。福原麟太郎氏は確か「Here am I, a cat」と訳していたように記憶する。


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政治家という上級国民

「カレイドスコープ」から転載。
熊本大地震発生後の安部官邸の「高等遊民」ぶりを見事にまとめている文章である。こんな政府は国民にとって百害あって一利なしだろう。
パナマ政府に3000億円、ウクライナ政府に2000億円、
そして、熊本支援に、なんとわずか23億円である。
安部は、「総理は国民のためにあるのではなく、国民は総理のためにある」と考えていることが明白だ。こんなキチガイ、小児病総理をトップに持つ日本国民もまたキチガイなのだろう。

なお、「高等遊民」は漱石の「猫」に出てくる言葉で、社会の無駄飯食い、ということだ。「猫」の高等遊民たちは知的で愛嬌があるが、官邸や国会、あるいは霞ヶ関の高等遊民たちは本来「公僕」であるべきなのだから、許しがたい。



(以下引用)



Wed.2016.04.20  
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安倍晋三、菅義偉が「激甚災害指定」しない理由

熊本大地震は「大震災級」ではないので、消費税10%は生きている。
この間に、オスプレイの必要性を徹底的に国民に植え付けよう。
さらに、新しい原発を再稼動させよう。
「日本を破壊するためなら、何だってやります政権」だ。

安倍内閣が、激甚災害指定を延期しているオゾましい理由

安倍晋三という男が、異常な人格をもった危険な人物であることは、すで海外メディアによって世界中に周知されている。
それは、晋三が、自分の評判に対して、一般国民のささいなツイートにまで過激な攻撃性を見せてきたことでも自明である。

ところが、晋三の「人としての」人格的欠損要因は、それだけではない。

任期中に憲法改正を」・・・己の腐りきった我欲の強さゆえ、官邸の面従腹背の連中に利用されていることに気が付かないほど致命的な知性の欠落が見られるのだ。

つまり、状況判断がまったくできないのだ。
つくづく、日本に核ミサイルがなくて良かったと、胸をなでおろす。

この「安倍小心病」は閣僚全員に転移したらしく、アルツハイマー・二階俊博も民進党のツイートは気になるらしい。

「ぶつぶつ言っている人は現地に見舞いに行け」と言ってるが、政権与党の閣僚の誰一人も、いまだに現地に行っていないことの方が異常事態である。

まず、「なぜ、いつまで経っても「激甚災害指定」を行わないのか」・・・

国民の命にかかわる情報を官邸の菅義偉の圧力に屈していっさい報じない無法者の集団である犯罪放送局・NHKが、「政府 早ければ来週にも激甚災害指定へ」と、信じられない見出しをつけて報じた。

「信じられない見出し」とは、「早ければ」と言っているだけで、「遅ければ」再来週になるかも知れないのだ。いや、政治日程の都合で、さらに引き延ばされるかも知れない。

その間に、二次三次災害が起こるだろう。多くの被災者が力尽きてしまうかも知れない。後藤、湯川両氏と同様に「政府に見殺し」にされようとしているのだ。

政府の激甚災害指定は、「内閣府の最近の激甚災害の指定状況について」によれば、平成18年、平成21年、平成24年についてだけは、3件から4件と少ないものの、それ以外の年では7件以上指定されている。

平成23年3月11日の東日本大震災の時は、その2日後の3月13日に政令第十八号として、「激甚災害及びこれに対し適用すべき措置の指定に関する政令」として制定された。

これを機に、被災した事業者には銀行からの借り入れ資金の返済猶予、個人では住宅ローンの支払い延期などが決定された。
一時期は、住宅ローンの借入残高の返済を免除するという話まで国会で検討された。

亀井静香が震災前に決めた「モラトリアム(返済猶予)」によっても、多くの中小企業が倒産から免れた。(安倍政権になってから、それは打ち切られてしまった)
GDPは、震災翌年から、じわじわ上がり出した。

巨大直下型地震の被害状況が日に日に甚大であることが明らかになっていく最中、今日になって、官房長官の菅義偉が信じられないことを言い出した。

熊本大地震は大震災級ではない」と言ったのである。
どこをどうみても、新潟中越沖地震より被害は大きい。

これで、外資は逃げていくだろう。「こんな危険な政府の国には投資できない」と。
すでに日本のメガバンクをはじめとする金融関係者からも、正面切っての非難の声が上がっていることは報じられている。

やっていること、言っていることのすべてが支離滅裂、デタラメなのである。どんどん国が破壊されていく。

いったい全体、何が起こっているのか。

300%「ありえないこと」が、この国では日常的に起きているのだ。
そして、多くの国民の命が、この男と菅義偉のような凶悪な閣僚によって、さらに奪われようとしているのである。

被災地には最低限の物資さえとどいていない。自民党は民主党に「想定外は二度と許されない」と言っていたのではなかったのか。

赤ちゃんのおむつ、重篤な病人のケア(人工透析など)・・・NHKは、こうした肝心なことを報じない。凄まじい秩序の崩壊が起こっているのだ。

晋三が、激甚災害指定しない理由は、今月末からの外遊にある。

晋三が議長を務める、5月26日から始まる主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)で、大花火を打ち上げるための好材料を海外から仕込むために、今月末からの外遊を最優先にしたいとの考えを崩さないからだ。

まず、今月下旬から欧州各国の訪問のほか、5月初めにロシア・ソチで、プーチン大統領との非公式首脳会談が予定されている。

震災対応すっぽかしにしてこの両方のスケジュールをこなしたところで、破綻寸前の安倍政権はなんら成果は得られないだろう。

しかし、安倍晋三にとって、そんなことなど、どうでもいいのだ。GPIFの年金投資によって株価を見かけ上げたように、伊勢志摩サミットで欧州とロシアとの関係が、あたかも良好であることをアピールするのが狙いだからだ。

特に、北方四島返還については、首の皮一枚という状況にある。
オバマだけでなく、とうとうプーチンも安倍晋三に引導を渡す寸前まで来てしまったからだ。


北方四島返還交渉が危ない状況になっていることは、いずれ分かるだろう。

総理大臣が激甚災害指定した場合、「緊急対策本部」が設置されることになるが、そのとき災害対策本部長には内閣総理大臣が就くことが決められている。


防災担当相である河野太郎では、
「緊急対策本部」の責任者にはなれないのだ。

そうした裏事情を国民に悟らせないようにするために、被災地の地元自治体の首長は、中央キー局の報道にはいっさい出て来ない。
地元ローカルのテレビ局では熊本県知事などの声明は出ているはずである。

伊豆大島の三原山噴火、北海道有珠山山麓噴火、もちろん東日本大震などでは、連日連夜、被災地の首長が出ずっぱりだった。

官邸の菅義偉が、ここでも圧力をかけて報道させないのである。どこまで愚劣で凶悪な男なのだろう。

激甚災害指定してしまえば、4月下旬からの欧州への外遊、プーチンとの非公式会談も延期となって、5月26日からの伊勢志摩サミットでは、中身がスカスカの不毛なものとなってしまう。

今の安倍内閣には、悪材料しかない。

「アベノミクス」は海外のメディアによってボロクソに叩かれているし、国際的に著名投資家たちからは、ペテン師とまで言われてしまった。

それでも、「読売巨人軍は永遠です」と言った長嶋茂雄のごとく、「アベノミクスは永遠です」と言うつもりか。


福島第一原発の放射能汚染水問題は、東電に丸投げ状態で放ったらかしたまま大震災が起こった。

オバマのシリア空爆に真っ先に賛同の意を表明したかと思ったら、シリアの同盟国のロシアのプーチンに尻尾を振る。

そのロシアに敵対するウクライナのシオニスト大統領に2000億円の拠出を約束したり、エジプトにイスラム国対策のために200億円を出すと言いながら、その反対のイスラエルと武器の共同開発を含む準同盟を結んでしまう、という、世界の誰も理解不能なことを平気でやり続けているのである。

さらに、ジョセフ・スティグリッツとポール・クルーグマンの二人のノーベル経済学賞受賞者の重大な提言を無視するかのように、「熊本大地震は大震災級ではないから、現時点では消費税を10%に上げる」と公式に言ってしまうなど、すでに外交などできない状態になっている。

それでも、あたかも外交成果があったかのように喧伝しているのは、寿司ともメディアだけである。
実態は安倍晋三と彼の内閣は、鼻であしらわれているのである。国内メディアしか見ていない国民は何も知らないのだ。

官邸と防衛省制服組は、この大震災を好機ととらえて、ここぞとばかりオスプレイのデモを展開している

安倍官邸と戦争大好きの防衛省・制服組は、ここぞとばかりオスプレイのデモンストレーションをやっている。

当初、中谷元・防衛相は18日の参院決算委員会で、「米側から協力の申し出があった」のでそれを受けたと言っていたが、事実は正反対であったことが判明した。

この大震災を利用して、オスプレイが日本になくてはならない航空機であることを国民に強く印象付けるために、オスプレイを災害支援に要請したのは官邸であったことが判明したのだ。

しんぶん赤旗が、米軍の機関紙「ストライプ(日本名 星条旗新聞)」に確認して分かったことだ。

さらに、熊本県八代湾沖に停泊している海自の大型護衛艦「ひゅうが」にオスプレイを着艦させ、給油拠点に使うとの計画があることを中谷防衛相「調整中」と否定しなかったのである。

まるで、この震災が日本の航空母艦とオスプレイの強さをアピールできる絶好のチャンスといわんばかりだ。

安倍内閣のすべてが「嘘、嘘、嘘」なのである。

震源は断層に沿って北東と南西に広がっている。

それでも、規制委の田中俊一委員長は18日、「不確実性があることも踏まえて評価しており、想定外の事故が起きるとは判断していない」と、川内原発を止めない。

環境省の丸川珠代は、「原子力規制委員会が独立性を保つために、いかに機能するかということが問われている」と答弁。

よく確認してくださいな。
丸川珠代は、「規制委員会の独立性を保つために原発を停止させない」と言ったのだ。

まったく本末転倒。いかに頭の悪い大臣か、すで海外メディアでは既報となっていることではあるが。

そんな中、規制委員会は、伊方原発3号機の再稼働に向けて必要な全審査を終え、すでに40年を超えている老朽原発の高浜原発1号機と2号機について新しい規制基準に適合しているとして延長運転を可能にする審査書を決定した。

被災者が困窮して、次々とエコノミー・クラス症候群になっている事態にも全く関心を示さず、国民が何人死のうとも痛痒を感じない酷悪非道の閣僚たちのエネルギーの源泉は、「ワタチの任期中に憲法を改正して、いつでも戦争のできる国にしちゃいましょう」という、ならず者の論理である。

だから、激甚災害指定は、さらに延期されるかもしれない。

そのせいで、多くの被災者が、彼らによって殺されていくのである。熊本大地震の災害関連死が11人になって死者は合計59人に増えた。

悪いことに、次の大災害が迫っている。それは原発災害と大規模な経済災害だ。
今度は、私たちが安倍政権とこの政府に殺される番だ。

たまりかねたのか、民進党は19日、官邸に一刻も早く被災地の熊本に「災害対策本部」を設置するよう申し入れをした。つまり、民進党は、早く激甚災害指定しろ!と言ったのである。

そして、やはり19日、山本太郎議員が官邸に「川内原発の停止申し入れ」を行った。

20160420-2.jpg

なんと、官邸はノラリクラリとたらいまわしにして3時間以上も浪費させたという。結局、官邸は正式な受け取りを拒否し、外で受け取ったのである。

都合の悪い人間は遠ざける。
聞きたくないことは、耳をふさいで知らんふり。

それでも抵抗する奴には、一般人であろうが執念深く報復する。

精神異常者の安倍晋三は、そういうことだから、激甚災害指定をグダグダ言いつつ引き延ばすだろう。

「ワタチの任期中に憲法改正するためなら、国民を見殺しにしたった構わないやい」と考えているからである。

安倍晋三の政府は、震度7の巨大直下型地震が襲ったその日、パナマにモノレール建設事業費として2800億円の円借款を拠出することを決定した。

その同じ日、熊本の被災地支援には、14日の発災から6日経って、ようやく23億円が充てられることになった。

ウクライナへの2000億円といい、パナマへの3000億円といい、実質的にはどうせ返ってこないお金である。

あれだけオーストラリアの首相に尻尾を振って、潜水艦の受注を目論んでも早くも日本が外されてしまった。これも予想どおり!
インドネシアの高速鉄道計画で競り負けしたときと同じパターン。

安倍晋三が本当は何をしたいのか、まだ分からない人は助からないだろう。
この馬鹿が、わずかのヒントを与えてくれた。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
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