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爆弾は誰のもの?

アメリカが落としたんだから、米国政府に請求しろよ。(笑)
ついでに、20世紀以降にアメリカが他国に及ぼした被害の費用をすべて請求したらいい。





不発弾処理費、誰が出す? 請求された地主「頭真っ白」
 

大阪市浪速区で撤去される不発弾=昨年5月9日、同市提供© 朝日新聞 大阪市浪速区で撤去される不発弾=昨年5月9日、同市提供

 戦時中に投下され、私有地から見つかった不発弾。撤去時の防護壁や警備の費用を払うのは国か、自治体か、それとも土地所有者か――。大阪市から負担を求められた所有者が、支払いを不服として裁判を起こしている。「戦争の遺物」ながら責任の所在を明確に定めた法律はなく、自治体ごとに対応が分かれているのが現状だ。


■支払い不服、提訴


 「すぐに用意できる金額ではなく、頭が真っ白になった」。大阪市浪速区の不動産管理業の男性(58)が所有する土地から米国製1トン爆弾が見つかったのは昨年3月。作業は自衛隊が実施したが、万一に備える防護壁の設置費など576万円を市から求められた。


 速やかな撤去のためいったん支払ったが、今年4月に市に返還を求めて大阪地裁に提訴した。「今後、負担を求められて困る市民が出ないよう、適切な司法判断を待ちたい」


 裁判で市は争う姿勢だ。民法の「土地の所有権は土地の上下におよぶ」との規定をもとに、これまでも土地所有者側に負担を求めてきた。市によると、これまで異を唱えられたケースはないという。


 一方、今回の訴訟を機に、市は「国の責任」についても問う方針だ。吉村洋文市長は記者会見で「不発弾の処理は本来は国が負担すべきだ」と発言。7月、国に訴訟の当事者として参加するよう促す「訴訟告知」の手続きをとった。国は「方針はまだ決まっていない」としている。


■自治体の対応、まちまち


 費用負担のあり方は、各地で異なる。私有地から見つかった不発弾の処理実績がある自治体を取材したところ、東京都品川区や浜松市、宮崎市は自治体が負担。神戸市や大阪府八尾市は大阪市と同様、土地所有者側が払っていた。








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日本人のメダル狂い

孔徳秋水氏のツィッターから転載。
そういえば、千葉すず騒動というのがあったなあ。
ただ、孔徳秋水氏は、こうした「組織のボスたち」(たいていは、なぜその組織やその人間に権力が与えられているのか、まったく国民や部外者は知らない)の横暴に対して、「日本国民は三流」と言っているが、国民は最初から蚊帳の外だろう。
マスコミの論調が国民の意見を代表しているわけでもないし。そもそも、「一流の国民」はどこだよwww

だがまあ、千葉すず騒動を思い出して、「日本人のメダル狂い」に水をかけておくのは有意義だと思う。熱狂は「狂」の字が示すように、いつもキチガイ行為なのである。



「オリンピックは楽しむつもりで出た」
「そんなにメダルメダルというのならば、ご自分で出ればいいじゃないですか」
「日本の人はメダル狂いですね」


まさに、おっしゃるとおり、である。オリンピックなど、税金を使って派遣する必要も無い。自費で出ればいいのである。企業のスポンサーが付くなら、それはアマチュアではないから、ただのプロの宣伝活動だ。金メダルでの「国威発揚」など望むのは右翼くらいだろう。

世の中の仕事の大半は不要な仕事であり、特にスポーツや芸能など遊びにすぎない。それに大騒ぎするマスコミや国民は阿呆の極みである。
ただ、当人がその「遊び」に一生を賭ければ、そこに世阿弥とか千利休とか芭蕉のような存在が生まれる。そうは言っても、それは他人が応援して自己満足を得る類いのものではない。
まあ、応援されて迷惑、ということもありそうな気がするww 千葉すずの発言にはそういうニュアンスがある。 
応援することで自分は相手に対して何かの特権を有するような気持ちを持つというキチガイ的なファンというのもいるのではないか。いやファンの大半はそうではないだろうか。「ファン」と「ファナティズム」は同根かもしれない。




(以下引用)



[8/26 17:50] >次のシドニー五輪の代表選考会に五輪標準記録を突破して優勝したにもかかわらず、代表に選ばれなかったのだ。生意気な千葉は五輪に連れて行かない、という連盟幹部の匿名のコメントも紹介される。こうなると、もはやメディアと日本水泳連盟を共犯とする社会的リンチの様相を呈した。


  1. [8/26 17:50] アスリートは一流でも国民は超三流の日本>「オリンピックをバカにしている」「わがままだ」などというバッシングが、千葉選手に向けられたのだ。いまで言う「炎上」というやつである。千葉選手への攻撃はメディアのそれだけに留まらなかった。

     

  2. [8/26 17:48] 日本は国民が三流>競技後、インタビューに答えた千葉選手はこう語った。「オリンピックは楽しむつもりで出た」「そんなにメダルメダルというのならば、ご自分で出ればいいじゃないですか」「日本の人はメダル狂いですね」ところが、日本社会はこの千葉選手の明るさと朗らかさを受け容れなかった。


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新しい「コミュニスト」

最近、「コミュ力(「力」はカタカナではなく、漢字の「力」だよ。)」という言葉を聞くが(最近、ではなく、ずいぶん前からか。)社会で生きる上でコミュニケーション能力が必要なことは言うまでもない。
だが、それが行き過ぎて、コミュ力さえあれば、真面目さや実務能力は要らない、という植木等の「無責任男」のような学生が増えているような気がする。
そこで、提案である。


コミュ力絶対主義者を「コミュニスト」と呼ぶことにしたらどうか。(笑)




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お里が知れる着こなし

「日刊ゲンダイデジタル」から転載。
「谷間の百合」さんがブログで小池百合子の着物の着付けを嘆いていたので、日刊ゲンダイのこの記事を読んでみたが、なるほど、ひどい着こなしだったようだ。
まあ、現代では着物というのは金持ちのご婦人の道楽だ、というのが私のような底辺の人間の感想だが、それだけに、着物の着こなしは一朝一夕ではできないと思う。カネと時間をかけ、研究と体験を積み重ねないとまともな着こなしはできないのではないか。女子大生が卒業式で袴を着れば、それで「着物大学」は卒業、というわけにはいかないだろうwww
帯を胸高に締め、裾が広がった結果、この写真だと、何だか朝鮮のチマ・チョゴリに見えてしまう。そういう着付けで、自分で違和感を感じない、という感性は、安倍マリオ氏にも通じるようだww まあ、どちらも「お座敷には出せない人間」(山口瞳氏が自分の弟について言った言葉だである。まあ、こういう感覚は、あまり好きではないが、妥当性はあると思う。)だのに、それが堂々と日本を代表して世界に恥をさらす、というのは何とかならないか。天皇ご夫妻がどんな場面でも品位を保っている姿を見習うがいい。



(以下引用)

着付け師も「残念」 小池知事“リオ五輪着物”大失敗の理由

「あれは失敗だった」とネット上でケチョンケチョンなのが小池百合子都知事(64)の“勝負服”。リオ五輪閉会式に和服で登場したのはいいが、「着物が残念過ぎる」「あまりにもモッサリ」「不自然というか丸いというか……」とボロクソだ。なぜ珍妙な印象を受けるのか。

「全体的にバランスが崩れているからです」と言うのは、和服着付け歴20年の谷口美智子氏だ。

「まず気になるのが帯の位置。小池知事の帯は若い女性が締める高さになっています。和服の世界ではミセスになると体形が変わるので、帯の位置を下げるのが常識です。小池知事は3センチほど高かった。また、肩や二の腕などが膨らんで身幅が大きく見えます。これは、内側に着る襦袢と、着物のサイズと素材が合わないからでしょう。本来はもっと細身に着られるはずなのに残念です」

 帯から裾にかけてのラインにも違和感を覚える。スカートみたいに裾が広がって見えるのだ。

    



 谷口氏によると、本来は締める前にウエストのあたりで着物の内側と外側を引き上げて、裾が逆三角形型にすぼまるようにしなければならない。その引き上げが不十分なため、裾が広がったのではないかという。

「手足の動きも気になります。五輪フラッグを振る時、体を安定させるために両足を開いたのはやむを得ないでしょう。ただ、和装に慣れている人なら、両足を開いて片方の足を少し後ろに引き、引いた足のつま先を内側に向けるもの。自分から見て両足が『ハ』の字形になり、奇麗な印象を与えます。逆ハの字形はよろしくありません。あと、両手を左右にだらりと下ろすのも作法に合っていません。やはり、両手は前で揃える。そうでなければ、両手を膝に添えるくらいの配慮が欲しいものです」(谷口美智子氏)

 ネットユーザーは「経費削減のために着付け師を同行させなかった」と推測するが、東京都によると「着付けの専門家が帯同しました。着物の代金も着付けの費用も公費からは出していません」(広報課)とのこと。ポケットマネーでの和服パフォーマンスだったようだ。


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「男の子」が国を滅ぼす(笑)

「東洋経済オンライン」の木元寛明とかいう軍事史研究家の「日本に戦車の必要な4つの理由」という記事の最後の部分である。
なぜ、専守防衛が国是のはずの日本に戦車が必要なのかを、分かりにくくごちゃごちゃ書いているが、前から言っているように、長大な海岸線を持つ日本がすべての海岸線を守ることは不可能であり、どこからでも侵略できるのである。そして、日本は同時に山岳地の多い地形であり、戦車が走行できるのは、路上や平坦地がほとんどだ。戦車が活動できる場所は限定される。
そもそも、二次元平面でしか動けない戦車など、三次元の立体空間で動く飛行機の敵ではない、ということは、既に第二次世界大戦で実証されている。

なぜ戦車を持つか、と言えば、それは軍事企業がカネが儲かるから、という一事にすぎない。

それに多くの「男の子」は戦車が大好きなのである。だから、可愛い女の子が戦車に乗って「試合」をするというアニメを「男の子」が作ったりする。現実の女の子は、「アホらしい」としか思わないのではないか。「男の子」は可愛い女の子や武器やメカが大好きであり、死ぬのが自分でさえないなら、戦争も大好きなのである。
戦車というのは、完全装甲された状態で砲撃するというイメージであり、いわば板金鎧(プレートアーマー)で身を護った西洋の騎士のようなものだ。「自分は安全な状態で相手をやっつける」という、「男の子の夢」のシンボルだから、人気があるのだろう。

野暮を承知で書いておくが、わざわざカギ括弧付きで「男の子」と書いたのは、精神年齢12歳の政治家や官僚や軍人や知識人たちのことを言っているからだ。



(以下引用)



第3は、陸上戦力は国土防衛の最後の砦です。万が一侵攻を受けた場合、最終的には侵攻部隊を海に追い落とさなくてはなりません。これは攻勢による決戦であり、その骨幹となる装備が戦車なのです。たとえ日本本土への直接侵攻の蓋然性が低いとしても、それがゼロでないかぎり、「国家百年の計」として侵攻部隊を海に追い落とすための備えを営々と持続しなければなりません。


国土防衛作戦は、対着上陸作戦――沿岸地域における防勢行動――から始まり、陸海空全戦力を集中し、米軍の来援を得て、最終的には決戦――攻勢行動――により侵攻部隊を完全に撃破することです。国土の寸土たりとも侵攻国に与えてはいけないのです。


50年、100年先は別としても、見通せる将来では、陸上戦力の骨幹となるのは相変わらず戦車でしょう。戦車の最大の特色は、ハイテクノロジーを駆使した攻撃力と防御力が一体となった究極の兵器であることです。


陸上戦力は国土防衛の最後の砦です。陸上自衛隊をして最後の砦たらしめる本尊が戦車なのです。したがって、最新鋭の戦車を開発し、必要最小限の戦車を部隊に装備し、勝つための訓練を徹底して行い、ノウハウを次の世代に確実に伝えなければなりません。


第4は、戦車は国家の防衛意思を体現した陸上装備のシンボルです。一躍、世界のトップクラスに躍り出た90式戦車は、約20年間の研究開発、エンジンなど主要構成品の研究試作、システムの研究、1次・2次試作などを経て制式化し、この間1500社以上の企業が関係したといわれます。


戦車の研究開発から製造までを一貫して行える国は、世界を見渡しても10指に満たないでしょう。戦車は国家の技術力を挙げての結晶であり、官民協力の成果でもあります。このことは戦車という究極の兵器に、国家の防衛意思が具体的に込められていることの証左です。


戦車の研究開発は、ひとたび中断すると技術の進歩に追いつくことが極めて困難となります。世界に冠たる戦車を作り続けることが国家究極の防衛意思の表明なのです。



(追記)これも、「男の子」が夢と現実を混同して国のカネの無駄遣いをしている例。



はぁとふる売国奴 @keiichisennsei 13時間前

とある日本の超電磁砲 超速射・レールガン(電磁加速砲)を日本独自で開発へ 防衛省が概算要求 (1/2) - ITmedia ニュース


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「すず」役が「のん」に決定

「この世界の片隅に」を実写化するなら、すず役は能念玲奈がいいなあ、と思っていたが、独立騒動からの芸能プロダクションと芸能界総がかりの能念玲奈いじめで、芸能界引退寸前まで行ってしまい、実現不可能なプランとなっていた。それが、アニメの声優としてすず役に抜擢されるとは、やはり同じように考える人はいるものだ。現在は「のん」と名前が変わったが、あの、ぽやっとした感じは、まさにすずにぴったりの個性である。
「ノンちゃん雲に乗る」という映画があったが、「のん」もこれから雲に乗って飛翔しろ。ヤクザ的支配の芸能界より上を行け。

「ミッフィーの信号機」は、ツィートが連続していたのでついでに転載した。ドイツ語のwachtは英語のwatchに相当するのかな、というのが興味深かっただけである。私がミッフィーファンというわけではない。まあ、子供が喜びそうな信号機で、こういうのもいいのではないか。



(以下引用)



            

  1. 片渕須直コメント 6年前「この世界の片隅に」をアニメーションにしようと思ってからずっと、すずさんの声を探していました。監督補の浦谷(千恵)さんと互いに誰がいいかを考えていたところ、2人とも同じ声を思い描いていました。ご縁に恵まれ…
  2. 674件のリツイート 512 いいね
  3.  

  1. ユトレヒトにあるミッフィーの信号。


(追記)弓月光のツィッターからも転載。



            

映画『この世界の片隅に』キャストが本日ついに発表されました。主人公すずを演じるのはなんと、のんさん‼︎ 泣けるPVをまだご覧になっていない方はこちらから!konosekai.jp 原作本も続々重版中です!


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怒ることと叱ること

漫画家田中圭一のブログから転載。描かれている漫画が手塚絵であるのは、彼の芸風なので、初見の人は怒らないこと。
私は怒りっぽい人間なのだが、自分の感情に圧倒されてしまうので、他人を「叱る」ということが実に苦手である。演技の上手い人間でなければ、自分の感情をコントロールして他人を叱ることはできないのではないか。つまり、嘘つきほど叱るのが上手www そして、嘘つきほどリーダー的資質があるwww
まあ、「真田丸」などを見ていても、真っ正直な石田三成が他人からもの凄く嫌われていく様がよく分かるのだが、家康や真田昌幸のように平然と嘘のつける人間を「政治力」のある人間と言うのである。ただの有能官僚にすぎない三成が政治の舞台で主人公になれないのは当然だが、だからといって嘘つきが嘘つきであるだけで価値があるわけではないのは当然だ。正直者にはそれにふさわしい、「縁の下の力持ち」という役があるwww
さて、問題は、「なんのために叱るのか」だが、叱ることが「自分は叱られている人間に比べて有能である、上位の存在である」ということのアピールのため、いわゆるマウンティングのためである、ということは実に多いのではないか。無益どころか有害な叱責というものを目にしたことのない人はいないだろう。自分がそれを受けたことも多いだろう。
「あの叱責で俺は目が覚めた」「俺を思ってくれるからこそ本気で叱ってくれた」というような青春ドラマ的な叱責もあるだろうが、叱責のだいたい6割くらいは有害無益な叱責であるように思う。そもそも、失敗した人間は心の中では自分が失敗したことをよく承知しているし、反省していることが多いのだから、そういう場合は穏やかに、「これは失敗だったね。まあ、次からは注意して」くらいで十分なのである。阿呆な人間はそれで増長してまた失敗するかもしれないが、その時は少し厳しく叱ればいい。それでも反省しない究極の阿呆ならば、見限ればいいのである。
少なくとも、怒声をあげたり、叩いたりするような叱責は、演技でないとすれば、叱る方が動物レベルに堕しているということだ。


(以下引用)

田中圭一のゲームっぽい日常 なんのために叱るのか


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大学で学生を教える立場になって、あらためて「叱る」という行為が、すごく無意味であるように思いはじめた。思えば、サラリーマンを30年もやっているが、私が上司から叱られた回数は軽く100回を超えると思う。だが、思い起こすにこれらの経験がサラリーマン田中圭一の成長の糧になったのか、少々疑問である。


上司が部下を叱る場面を何度となく見てきたが、必ずいくつかのお決まりフレーズがある。


「何度言ったらわかるんだ?」


「なぜ、こんな簡単なことができないんだ?」


「こんなことしたらダメだって、オレは前から言ってたよな?」


「やる気がないんだったらそう言ってくれ。他のヤツにまかせるから。」


・・・などなど、ミスした部下を追い詰めるフレーズが多いような気がする。それをもって「叱る」というのであれば、あえて問いたい、「何を目的として部下を叱るの?」と。


部下の能力をアップさせ、戦力になるように育てること。結果、組織全体を強力にしてミッションを高い精度で達成できるようにすること。・・・これが目的であれば、部下を無駄に追い詰めることは無意味どころか有害だ。


あるソフト会社に勤務していたころ、そこの社長が、常に社員を大声で罵倒するタイプで、彼に「なぜ部下を追い詰めるのか?」と聞いたことがある。社長の答えはこうだ。「罵倒され悔しい思いをして、そこから、なにクソ!っと発憤しなければいけないんだ。それができなければサラリーマンとして成長できない。」


その考え方は、あまりに偏っていると私は感じたし、その方法が万人に通用するとも思えなかったので、その会社を早々に退職した。その会社では心を病んで辞めていく社員が後を絶たなかったが、逆に残った社員は強力に会社を牽引していった。あの社長の叱り方は、部下の成長以前に、社長につきあえる社員をふるいにかけているので、ある意味正解なのだろう。私とは価値観が合わなかっただけなのかもしれない。


しかしながら、人は褒められて伸びるタイプも多いのだ。皮膚感覚として、褒められて伸びる人:叩かれて伸びる人 = 8:2 くらいじゃないだろうか?


さて、私が今教えているのは学生である。彼らは学費を払ってマンガの描き方を習いに来ている、いわばお客様でもあるのだ。そして私の役目は、彼らの能力をアップさせることであり、マンガ家として食っていけるようにすることである。授業を真面目に聞かない学生や課題を期限までにやってこない学生を「叱って」意味があるのか、最近そう思い始めている。なぜ課題をやらないのか?なぜ授業を受けないのか?その理由を明確にして個別に対処すべきだと思っている。目的は「叱る」ことじゃない。課題をやらせて能力をアップさせることなのだ。目的と手段を取り違えてはいけないと思っている。


考えてみれば、前述のサラリーマン時代の「上司が部下を叱る現場」で私が見てきたのは、部下の成長を促すというより「お前って仕事ができないよね?でも、俺って仕事ができるよね。」という上司の自信を確認する行為であることが多かったように思える。中間管理職ともなればなにかとストレスが多いのも理解できるが、部下を叱ることで「自分はまだましだ。」と確認するのは、あまりに虚しくないだろうか?


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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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