忍者ブログ

「通俗道徳」という言葉の起源

「通俗道徳」という言葉は私の嫌いな言葉の筆頭に近いが、その言葉の起源はどこか(あるいは誰か)を調べると、下の記事に出会った。現代の歴史学者らしい安丸良夫という人物のようだ。

まあ、要は、人間(下級国民や、組織の下位層)を奴隷的労働に忍従させるために使われた「道徳」のことのようだ。

問題は、「通俗道徳」という言葉がひとり歩きして、「道徳否定論」になる可能性が高いことだ。今のネット時代には、そういう事例は多いのではないか。

下の記事全体(引用した以外の部分)はかなり言葉が学者的(衒学的)で難解だが、有益な内容だとは思う。

ちなみに、「高尚な道徳」というのがあるとしても、それはすべて個人的道徳でしかないのに対し、「通俗」というのは世間一般に広まっていることを意味し、それこそが本来の道徳の理想なのである。つまり、「通俗道徳」という批判の言葉は、猫は猫だからケシカラン、と言うに等しい言いがかりだ、というのが私の考えだ。
自分の道徳は特殊な(高尚な)もので、「通俗」なものではない、という人間がいるとしたら、聖人気取りの詐欺師か偽宗教家だろう。
下の記事で言われている類の「労働道徳」を言うなら、それは「通俗道徳」ではなく、「奴隷道徳」「(労働者に無意識的に内面化されるよう仕組まれた)労働規範」と言うべきだ。(ニーチェがキリスト教を「奴隷の宗教」と言ったことはよく知られている。)

(以下引用)

2023.04.01

まるで奴隷…惨めな労働に道徳的な価値があるとされたのはなぜ?

生産性という病(2)

貧困は怠惰のせい? 日本の通俗道徳

 まずは私たちにとって浅からぬ関係にあるであろう日本の場合から見ていこう。


 日本において、労働の道徳化は江戸時代後期から明治時代にかけて醸成されてきた。それは日本が近世から近代へと移行していく、まさに過渡期にあたる。


 歴史学者の安丸良夫は著書『日本の近代化と民衆思想』のなかで、この時期に形作られていった労働にまつわる道徳を「通俗道徳」と名付けた。すなわち、勤勉、倹約、謙虚、孝行、さらには忍従や献身といった徳目からなる生活規範である。これらの「徳」を実践することで、富や幸福がもたらされると信じられていた。当時の大部分の日本人は、社会的な圧力や習慣によってそれらを内面化することで、これらの通俗道徳を自明の当為として生きていたという。


 通俗道徳は元禄・享保期に最初に形成されはじめた。当然、そこにはそうした思想形成をうながす導因がなければならない。安丸によれば、この時代の日本人における現実的な課題、それは「どうしたら家の没落をふせげるか」だったという。


 江戸時代後期、すでに大阪などの都市部を中心に商業活動が活発化し、商人たちが商品の需要と供給を管理するための仕組みが整備されていた。商品経済が到来しつつあったこの時代、地主階級における「家の没落」はすでに珍しいものではなく、家を失った者の多くは大阪か堺に流出して、そこで都市貧民層を形成した。そうした状況のなかで、「没落」に対する恐れと不安の只中から、倹約や勤勉を「善きこと」として重んじる通俗道徳が発生してきたのだという。


 やがて、こうした諸思想は農村部でも展開され、民衆を教化する役割を担うようになる。


 一八世紀末以降、おりしも経世家の二宮尊徳や大原幽学などが各地を巡りながら窮乏した農村の復興をはかろうとしていた。尊徳によれば、農村の貧困と荒廃の原因は、農民たちの精神の内部にまで浸透した怠惰・飲酒癖・博打などの悪習であるという。尊徳は、これらの悪習をやめ、倹約と勤勉を身につければ生活を立て直すことができると農民に説いた。これは言うまでもなく通俗道徳である。

二宮尊徳

 だが実際には、農村の窮乏の原因には、封建権力と商業高利貸しによる苛酷な収奪などの経済的な要因が深く絡み合っていた。だがそうした問題はいっさい棚に上げ、尊徳は貧困の問題を農民の生活態度と内面の問題に還元させている。つまり、貧困は一方的に彼らの怠惰と努力の欠如のせいにされたのである。


 このように、地主や農村の指導者は、通俗道徳を繰り返し説くことで、農民たちに勤勉で禁欲的な生活規律を内面化させた。

 だがここには、安丸も指摘するように、無視することのできないイデオロギー的虚飾が隠されている。


 というのも、通俗道徳に従えば、人が貧困に陥るのは当人の努力が足りないからであって、そうであるのならば不幸な境遇を嘆くのは道徳的に堕落した「甘え」にすぎず、日頃から勤勉と倹約に努めない本人の自業自得である、ということになる。これはいわゆる「自己責任」のロジックであるだけでなく、近代化していく社会の内側で生まれてくる歪みや不公正から民衆の目をそらすことができるという意味で一種の詐術でもある。人々は社会を変えようと試みるより、ひたすら自己変革や立身出世に邁進するようになる。かくして、さまざまな困難や矛盾の解決を、忍従や自己規律にもとめる精神主義が形成されていったのである。


拍手

PR

賭博の違法性という不思議な法律

正直言って私は賭博というのがなぜ犯罪とされているのか、根本的な疑問を持っているのだが、株式投資など、賭博以外の何物でもないだろう。公営ギャンブルは許されて、それ以外のギャンブルは違法というのも不思議な話だ。要は政府による専制的行為、国民呪縛行為だろう。「お前らは政府に逆らえないよ」というメッセージを内包しているわけだ。

ちなみに、私は子供のころ、台風が来るたびに(家族全員外に出られないから)家族花札をして小銭を賭けていたので、違法行為をしていた可能性があるが、時効だろうwww これもちなみに言えば、我が家では母親が最強だった。(父親はたぶん不参加だった。)最初に子供たちに資金をあげて、最後はそれをすべて巻き上げていたwww


で、この大谷問題も何が問題なのか分からなかったが、ホリエモンの解説で、少し理解できた気もする。まあ、単に「気がする」だけだが。
要するに、大谷翔平の口座からカネが出ていたということは、大谷自身が賭博をしたと見做されても仕方が無い、ということで、場合によってはこれで彼が選手生命を失う可能性すらある、ということではないか。その背景に、「大谷潰し」や「異国人嫌悪」の策動があるような気もする。まあ、「気もする」だけだが。

(以下引用)

堀江貴文氏、水原一平氏問題で私見「アメリカではすでにスキャンダルの状態」



堀江貴文氏(2023年1月撮影)
堀江貴文氏(2023年1月撮影)
  • リラックスした表情で練習をするドジャース大谷。右は水原一平通訳(2024年3月12日撮影)
  • 水原一平氏(2024年2月撮影)
  • 16日、ソウルシリーズが行われる高尺スカイドームで会見したドジャース大谷翔平と水原一平通訳(左)(撮影・菅敏)
  • 20日のパドレスとの開幕戦で試合を見守る水原通訳(右)とドジャース大谷(撮影・菅敏)


ホリエモンこと実業家の堀江貴文氏(51)が22日までにYouTubeチャンネルを更新。ドジャース大谷翔平投手(29)の通訳を務めてきた水原一平氏(39)が違法なスポーツ賭博に関与したことで球団から解雇された件について私見を述べた。


堀江氏は、水原氏が違法なスポーツ賭博で少なくとも450万ドル(約6億7500万円)の借金を負い、大谷名義の口座から胴元に振り込みが行われていたことが発覚したことを受け、「これは完全に有罪になる可能性非常に高いでしょう。金額が大きいので下手をすると刑務所送りになってしまう可能性もあるでしょう」と推測した。


大谷サイドは現在、大谷が借金を肩代わりをしたとする水原氏の発言を否定しているが、堀江氏は「想像でしかないんですけども」とした上で、「水原一平さんのギャンブルでの借金を肩代わりすることに大谷翔平さんは同意をしていた可能性が高い。なのですが、彼にお金を渡すとまたお金を使い込んでしまう可能性が高いということで自分の口座から支払った、というような話がチラホラ出てきているので、この可能性も結構あるだろう」と指摘。「そうなると大谷さんが違法な業者に対してお金を渡したということになるので、マネー・ロンダリングとか様々な何らかの法律に触れる可能性は結構ある」とした。


続けて「大谷さん自体が悪いことしているということは(ないと思う)、少なくとも悪人ではないとは思いますし、借金をしているわけでもないし、違法なギャンブルをしているという証拠はないと思うんですが、肩代わりしたとしてもお金の送金に関わってしまっているということは非常に問題ですし、おそらく球団側に報告せずに内密に済ませようとしたということも非常に問題になってくる可能性がある」と私見を述べ、「アメリカではすでにスキャンダルの状態で、かなりセンセーショナルに報じられている可能性があるということで、もしかしたら本当に選手生命の危機になってしまう可能性も出てきている」とした。


また大谷について「本人が悪いことをやっていると思っていないから非常に残念な話でもあるし、そういう人を身内に起用してしまった脇の甘さもあると思う。これを機に、人をあんまり信用しすぎないということを覚えることも大事なのかな」と述べ、「翔平選手にとって良い方向に進めばいいですが、最悪の場合、卒業されてしまう可能性もゼロではない」と繰り返した。


拍手

私立青嵐高校(2)



同年2024年の秋には、私立星嵐高校の話題はほとんど聞かれなくなっており、9月の学園祭にわざわざ千葉の山奥まで行くような物好きは稀だと聞いていたから、千葉秀作がその学園祭に行ったのも自分の意思ではなく両親の命令と友人の勧誘によるものだった。そして、彼はその偶然を運命に一生感謝することになる。

両親が彼に星嵐高校を見てこいと言ったのは、当然、彼が学校での劣等生だったからだったが、あるいは学費無料というのが真実の理由だったかもしれない。学費無料のため、そして一応は高卒の資格が得られるために、去年の入学希望者は定員の3倍以上あったのである。
だが、進学科の定員が40名しかないということで、大半の生徒が馬鹿だろうというのが世間の評判であり、それは中学生の間での定評にもなっていた。子供には自分で判断するだけの知識も知性も無いのが普通なのである。
秀作の友人の大木賢哉がなぜこの高校の学園祭に誘ったかと言うと、彼の従兄の矢島武則という、柔道は馬鹿強いが学校の成績は最悪の快男子がそこに通っていて、なかなか愉快な学生生活を送っているという話をしていたからのようだ。もちろん、大木賢哉も従兄同様の劣等生である。

学園祭は三日間にわたって行われるが、その間、1時間に1本の送迎バスが学園から一番近いS駅までのピストン輸送をする。これも無料で、しかも学園祭では、いろいろな屋台で食べ放題だと聞いていたので、初秋の、あるいは晩夏の一日を山奥までピクニックに行くのも悪くはないと、この新奇な学園の学園祭に物見遊山気分で来る中学生や父兄も結構いるようだ。と言うのは、行きのバスは、まだ朝の8時の段階でほぼ満員だったからである。まあ、それでも50人定員のバスだから、半日稼働してすべて満員でも250人程度にしかならないだろうが。

駅から20分程度でバスが星嵐高校に着いた。(思ったよりはるかに早い到着で、確かに周囲は林に囲まれているが、時間だけの印象だと山奥というほどでもないようだ。)学園の外観は、巨大な捕虜収容所という印象であり、その異常に広大な敷地(かつてのゴルフコース全体)を保安名目で鉄格子と金網の長大な壁が囲んでいる。そして、その上端はご丁寧にも鉄条網である。つまり、一度中に入ると、校門以外からは出入不可能なようだ。後で聞いた話だと、その上端の鉄条網には電気が流れているという噂もある。

「私立星嵐高校」と独特の字体の漢字が刻まれた黒い大理石のような石の看板の嵌った白い門柱の校門を入ると、ヴェルサイユ宮殿のような外観の学園本部まで100メートルほどの白い砂利の道があり、本部前は幾何学的な印象の樹々の並ぶ庭に囲まれた広場になっている。車はそこから校舎の傍の駐車場に入るようだ。つまり、自動車のような不細工な物体は人目につかないようになっている。
本部前の庭園は不思議な印象を与える。非日常的というか、超現実的な雰囲気である。本部の前には高さ40センチほどの低い石の壁(縁石)に囲まれた人工の池があり、噴水が水を高く空中に噴き上げている。その水が初秋の朝の日光によって、空に小さな虹を作っているのを秀作は眺め、この本部前の庭園を見ただけでもここに来た甲斐はあったな、と思った。
しかし、それはこの日の遭遇の序の口であったことを彼はまだ知らない。





拍手

新コロワクチン加担者たちが殺人者であること

最近、対中国戦争を煽るというか、中国嫌悪を煽るような記事が多くて私は少しうんざりしている岡氏のブログだが、下の記事(一部)は、哲学や倫理のひとつの問題としても扱える、「善意による悪行」という面白い話題なので、転載する。まあ、要は無知による悪行なのだが、こういう行為はある意味では悪意による悪行以上の凶悪性を持つ場合もありそうだ。世の中の大惨事の多くは、一部の人間のプロパガンダで煽動された「善意の人間」たちが、害を大きくしたのではないか。
まあ、そこに文中でも言う、「騙された側の責任」という問題もあるわけだ。
と同時に、それが悪であることを知っていても、それに加担しないと自分や家族の生命が守れない、というのはどのような戦争でも(主に戦場で)生じるジレンマである。だから私は戦争をこの世で最大の悪だと言うのである。
新コロでの「無知による加害者」は、ただの馬鹿である。もちろん、医療者の中には、それに加担しないと自分や家族の生活が守れないから仕方なく加担した人が多いだろう。生活の基盤(仕事)を失うことは、緩慢な死の宣告に等しいのだ。だが、即座に殺されるわけではないから、やはり「意図的な殺人加担」としか言えないだろう。この場合は「カルネアデスの舟板」の無罪原理(緊急避難論)には相当しない。
今回の記事タイトルの「殺人」は、たとえば、高いビルの上から、多くの歩行者がいる路上に向けて鉄の砲丸を投げ落とすような行為であり、確実に誰かが死ぬわけではないが、誰かが死ぬ「確率」は非常に高い、そういう「確率の犯罪」でもある。

(以下「大摩邇」から引用)


2021年から始まった接種キャンペーンでは、地域で最も誠実で、実直で、そして「正義感にあふれる」人たちが、周囲に熱心に接種を奨励してきました。


当時、東日本のある地方に住んでいる読者様からメールをいただきまして、その町か村では「長老」的な方々がいて、毎日、熱心に人々の家をまわり、「打ったか? 打ってないなら早く打とう」と、すべての住民たちに声をかけていたそうです。


その読者の方が言うには、その長老の方々は、ふだんは(つまり、コロナ前までは)確実に誠実であり、そして「正義感」が強く、何より「村の人たちのことを誰よりも大事にしてきた」人だったそう。


「愛に満ちていた」という表現でもいいのでしょう。


読者様は、


「なんでこんなことになってしまったんでしょうか?」


と、あれは 3年前ほどですかね、そう書かれていました。


どうしてそうなってしまったのかは具体的にはわからないにしても、前回の記事に書いた「誠実さ」、「正直さ」、そして「正義感」が誤った方向に突き進んだ場合にこのようなことになるのだとは思われます。


「愛」という言葉もあります。


愛という言葉は曖昧な概念ながら基本的には良い概念、ポジティブな概念として使われます。


しかし、


「愛と共にワクチン接種を熱心に勧めた」


となると、愛の概念が怪しくなってきます。


勧めている本人は当然、それは愛や良心や正義に基づく正しい行動だと信じて疑いません。


しかし、医学的観点、あるいは統計学上の観点から見れば、


「明らかに人倫にもとる行為」


であったわけです。強制的な命の毀損と関係します。


とはいえ、3年前の当時、医学者以外の人で、mRNA ワクチンの作用機序を知っていた人たちは非常に少ないでしょうし、いたとしても、当時の研究あたりまででわかっていたことは、「スパイクタンパク質自身の有害性」あたりまででした(実はこの一点の有害性で十分なんですが)


医師の人たちでも、当時は正確な作用機序をあまりよくわかっていなかった方々もいたかもしれません。


機序がわからなくて人々に勧めたのでしたら、単に「無知の誠実」ということで、ご本人もだまされていたことになりますが(とはいえ、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」という概念もありますが)、


「知っていて勧めた」


なら、これは「悪を自分で認識していた」ことになります。


この場合は「悪い」と対処していいのだと思いますが、しかし、実際は大部分の人たちが、それは医師も一般の人も含めて「機序を知らないで勧めた」のがほとんどでしょう。


 


では、「悪が本人に認識されていない場合、それは悪ではないのか」ということが問題になります。


 


これに関しては、今後の歴史の中で「あれは悪だった」と語られることになる局面はあるであろうにしても、今はどうなのか。


そういう人たちに対して、どういう感覚で向かえばいいのか。


難しいことですが、私も今もよくわかりません。


他人に対してだけでなく、たとえば、愛を持って自分の子どもに接種を勧めて、その子どもが一生不可逆の障害を負ってしまった。さて、その場合、親は自分自身にどう向かえばいいのか。


 


ワクチンについては、政治家や専門家などが責められることもありますが、専門家はともかく、「当時、政治家でワクチンの作用機序を知っていた人がどれくらいいたのか」というと、


「ほぼゼロだった」


と私は考えています。


あるいは、


「わかろうと努力した政治家もゼロだった」


と思います。


医学がこの世を支配しているわけですが、政治家や社会の上層階級にいる人たちは、誰よりも医学洗脳が進んでいる場合が多いです。医師や医療というものを信奉している。


あるいは医師たち自身たちがそうです。


医師から一般の人々まですべてを貫く「医療の宗教化」は、医療教育でのマインドコントロールから始まる。そしてその歴史
In Deep 2022年11月15日


以下は、大阪府の 65歳以下の医療従事者のワクチン接種率の推移ですが、1、2回目は 99.6%ですからね。統計的にはほぼ 100%の世界です。65歳以上はもっと高いです。



BDW


全職種の中で、最もワクチン接種率が高いのが医療従事者でした。そのような医師たちを信奉している政治家たちがどのように行動したのかの想像は難しくありません。


陰謀論以前に、こういう人たちは、大多数が医療マインドコントロールに完全に染まっています。


当時、これらのほとんどの人たち(政治家はすべての人たち)が、mRNA ワクチンを理解もしていないし、理解しようともしないまま、何のしがらみかは知らないですが、とにかく闇雲に推進した。


今後も、出てくるすべての政治家たちが同じでしょう。


表面上でワクチンに反対の主張をする政治家がいたとしても、作用機序を自分で勉強しない限り、「無理解の反対」であるだけです。「無理解での推奨」と、さほど差はないのです。


 


今後、ワクチンではなくとも、何か同じような局面は必ず出てきます。


そして、それが「人命の尊重」のキーワードと共に、また「無理解」の政策が展開される事態が、どんなジャンルにしても(医学だけではなく、経済でも軍事でも)出てくるはずです。


そこでまた「愛と正義感を持つ誠実な人々による周囲への伝播」が始まります


本来であるなら、今後、阻止されなければならないことです。


しかし、どんな分野でも「無知と共に愛と誠実が襲ってくる」と、人はなかなかそこから逃れることは難しいです。


 


これらの「無知による悪」に私たちはどう対応すればいいのか。


 


それはわかりません。


わかりませんが、私たちは「私たち自身」を研ぎ澄ませるしかないです。


前回の記事に書きました悪の特性である「ダークトライアド」でさえ研ぎ澄ます必要があるのかもしれません。


たとえば、悪魔という存在は「感情を理解できず、現実と事実しか見ない」とされていますが、それに倣うことも必要です。


コロナワクチン下の世界で自分たちを守るために必要であったのは、まったく感情や心情や協調ではありませんでした。事実と現実と数値だけでした。


冷たい響きに聞こえるかもしれないですが、今後の社会では「愛に満ちた無知の正義」を私たちは振り払うべきです。


時代的に、そろそろサバイバルの本格的な時期もそう遠くもないあたりにさしかかっているともいえなくもないかもしれない時期に、もはや、曖昧な感覚は不要なのかもしれません。


事実の中に、たまに奇跡は起きるかもしれないですが、その奇跡もよく調べて見ると、単に見逃していた事実や理論が働いただけということもあります。

拍手

私立星嵐高校(1)

私の別ブログに書き始めた、「私立星嵐高校」という小説の第一回である。まあ、何となく「青春小説」を書いてみたくて書き始めたもので、何の構想もプロットも無いのだが、この回に書いた藤村某の発言は私の考えそのままなので、こちらにも載せておく。案外、数年後に、同じような主旨の私立高校が出て来るかもしれない。

(以下自己引用)


千葉県の某ゴルフコース跡地を、藤村隆行という、一般には無名の企業家兼投資家が買って、私立高校を設立すると発表されたのは2023年の春で、その高校(名前は星嵐高校)の内容がかなりユニークだと一部で話題になったが、全国的にはほとんど知られていない。
一番の話題は学費無料という点である。
二番目には、コースがユニークだということである。
大きく四つのコースに分かれ、A:難関大進学コース(定員10人)、B:普通進学コース(定員30人) C:健康科学科(定員30人) D:自由科(定員30人)だ。ちなみに、健康科学科は、医療・看護・薬学、あるいはその研究の道に進みたいという者が対象だ。
入学試験は、1:学科試験 2:推薦書 3:面接 と、いたって普通である。

さすがに、学費無料は話がうますぎると用心する父兄や生徒は多かったが、その学費無料の魅力もまた大きく、2024年2月から3月の間に行われた入学試験は、300人の応募者が集まった。

この高校の説明会は、2023年の春と秋に行われ、そこで創設者藤村隆行の挨拶と設立趣旨説明が行われ、その後、質疑応答があった。その要点はつぎのようなものだ。

質問「日本に有益な人材を作りたいというのが設立趣旨だったが、それはエリートを作りたいということか」
応答「答えはイエスであり、ノーでもある。今の日本の官僚や政治家や経済界や学界が日本をむしろ汚染しているのは多くの人が感じているだろう。彼らをエリートとするなら、エリートは唾棄すべき存在である。つまり、答えはノーだ。私が「有益な」と言うのは、日本国民全体をより幸福にすることであり、その意味で有用な人間をエリートと言うなら、答えはイエスだ」
質問「自由科とは何か」
応答「言葉そのままである。この科では、大学入試のための授業はまったく行わない。生徒が進学したければ、自分で勝手にやるか、仲間同士で教えあえばいい。そのための施設、教材、参考図書の類は自由に利用できるし、教師の援助も受けられるが、基本的に『授業』は無しである。つまり、生徒はこの学校のすべての設備や制度を利用して、自分自身の人間的可能性を自由に広げ、作っていくというコースだ。たとえば、音楽家や絵描きや小説家などを目指すのもいいし、プロスポーツ選手を目指すのもいい。研究者や実業家になるのもいい。もちろん、3年間、いや、5年まで延長可能だが、その期間をだらだら遊んで過ごしてもいい。すべて自己責任である。そういう意味での『自由』だ。自由は責任を伴うものだというのが私の考えである。つまり、すべては我が身に跳ね返ってくるということだ」
質問「星嵐高校という命名には何か意図があるか」
応答「実は、最初に考えたのは「青い嵐」の青嵐だ。青春という嵐の季節を、精一杯に味わってほしいという意図だったが、同名の高校が実在するので、この名前は諦めた。そこで、『この地球という星に嵐を起こしてほしい』という願いをこめて、この漢字にした」

拍手

曲と曲のテーマ(中心曲想)

今朝の散歩での浮遊思考の大部分は私には珍しく音楽についてのものだった。念のために言えば、私はまったく音楽の才能がなく、楽譜も読めないし楽器も弾けない。(ギターは少し弾いたこともあるが、まったく上達しなかったし、練習もしなかった。)で、これから書くことはまったく大間違いの記述がほとんどになるかと思う。
では、何を言うのかと言えば、「音符を3つ並べれば、それでひとつの曲のテーマになる」という定理である。たとえば、「ドーミーソ~」と並べて、最後のソの音を少し長くすれば、それで曲のテーマができた、ということになる、という乱暴な理論だ。
ちなみに、「ドレミファソラシド」は音階の基本だが、これを逆にして、各音符の長さに変化をつけただけでも名曲になる。これはチャイコフスキーの、たぶん「くるみ割り人形」のある曲がそれである。つまり、「ドーシラソファーミレドー」だ。まあ、手近に楽器が何かあれば確かめてみればいい。「あ、聞いたことがある」となるはずである。

この「理論(笑)」の延長で、そう言えば、スティービー・ワンダーの曲のメロディは、非常に単純だがきれいなものだったなあ、と考え、その単純さが、万人への親しみやすさだったのではないか、とも考えた。たとえば「I just called to say I love you」は歌詞も単純で曲も単純だが名曲である。これなども、冒頭の4音符(正確に覚えていないし、半音混じりかもしれないが「ド、レーミファー」という感じ)がその後の曲の展開を導いたのではないか。

拍手

他者への想像力(思いやりと猜疑心)

コメントの大半が真面目で、有益なスレッドだと思うので、転載する。
このスレッドから少しズレた内容の感想を書く。

私が社会の実際の姿を少し知るようになったのは、かなり老齢になってからである。
もっとも、その前から小説や漫画やネットに触れることで、大半は想像がついていたが、しかし、学生の間は、社会との現実的接触が無く、完全に社会常識ゼロに近い状態だった。
無菌状態の子供を社会に放り出すことの非人道性、残酷さに、私の学校教育批判の最大のポイントがある。かろうじて、小説や「有害漫画」を読むことで、子供は社会の現実を知識的に知るのである。だからこそ、「いじめ程度の」(あえて挑発的に言っておく)悪に出会うことが子供には再起不能の体験にもなり、漫画や映画やテレビドラマの題材にもなるが、社会の悪はそのレベルのものではない。竹中平蔵のように悪を行うことが成功への道であったりもするのが現実だ。
詐欺が社会に蔓延するのは、(学校教育などで)そうなる(人々の多くが無知で無邪気な人間になる)ように社会が作られているからでもある。

つまり、無理にこのスレッドと関連づけるなら、社会のほとんどの人は「他者への想像力が欠如している」という話である。

(以下引用)




28379017_s
健常者が障害者に向ける無理解や誤解と同じように、障害者が健常者に向ける無理解や誤解も存在することがわかるエピソードが話題に。

反応&感想

この話マジで難しいけどお互いを想像することが必要よなぁ
四時間も歩けるのは登山家くらい?
ワイは10分も歩いたら腰が痛い
小学生の頃「車椅子?ただ座って押して貰うのに疲れるの?」と無知故に思っていたが、車椅子体験をしたことで座位を保ったり手で動かしたりするのは疲れるんだと学んだ。同じように歩いたことなければ想像できない人もいるね…。
数年前に生まれつき目が不自由な方とお話する機会があって、「視えている方は視たものを全て記憶出来るはずなのですから“見間違える”なんて私には考えられないことです」と言っておられたのが凄く衝撃的ではあったですね…。
健常者側が障碍者に対して想像して接しろて言われるけど、障碍者が健常者側を理解しろとは教えられないし、車椅子持ち上げる大変さを想像する必要がなかったんだろうね
「体験出来ない事への理解は難しい」
確かに体感しないとわからないよな。
そう。分からないものは分からない。「想像すれば分かるだろ」という言葉がいかに横暴ということか。
障害に限らず、あまりに生きてきた前提が違うとお互い『常識の通じない我儘な人』に見えちゃうのってこういう事なんだなと思った。
双方に配られたカードに共通点が無いと想像する所にすら至らない事もあるし、知識で多少カバー出来るのもたかが知れてるから、丁寧なコミュニケーションも大事…
同じ車椅子のユーザーでも体幹を維持できないとか、ちょっと歩けるとか、排泄困難とか色んなバリエーションがあるので実際にどんな困難があるか聞いてみないと良くわからないし。生まれつき歩けない人は健常者がどれだけ歩けるのかも知らない人もいるだろう。お互いに会話していかないと何もわからない
知らないことを笑うよりも教えることでお互い気持ちよく過ごせそうだけど。なぜそう振る舞うようになったかの目線は忘れないようにしたいな
僕も彼らのことよく理解できてないし、彼らも僕のことをよく理解できてないってことをちょっとでもわかってればなんか見える世界が違ってきそうだね。

拍手

カレンダー

11 2024/12 01
S M T W T F S
30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析