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安倍友的人物だらけの日本社会

もう、あれだな。社会的地位など、人格とはまったく無関係という事件がボロボロ出てくる。昔から下半身には人格は無いと言われていたが、最近はあまりにも馬鹿すぎる事件が多い。
町長なら妾を持つくらいのカネはあるだろう。妾では飽きるというのなら最近は中学生でも高校生でも安くで売春をしているんじゃないか。何も、数キロ先にいる、たぶんほとんど自分と無関係の女性のところまで出かけて行って襲う必要はないだろう。

若い女性の貧困も蔓延しているようだし、そろそろ日本社会は売春合法化でもしたほうがいいんじゃないか。若い男も貧困のために結婚できる可能性はどんどん低下しているのだから、買春でもしないと一生童貞であるwww
もちろん、売春合法化などすれば、やはり「従軍慰安婦の国」だ、性奴隷合法化の野蛮国だ、と世界から非難されるのは明白である。しかし、安倍内閣のやってきたこと、安倍内閣の下の不祥事を見れば、日本が野蛮国であるのも明白なのだから、看板と中味が一致するだけである。



【!?】町長「家にいたら数キロ先のホテルにいる女性の助けを求める声が聞こえた。なので助けに行って抱きついた」

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伊達勝身町長 岩手県 岩泉町 辞職に関連した画像-01
【岩泉町長わいせつ疑惑】女性記者に抱き付いた伊達勝身町長が辞職 「迷惑は掛けられない」議会が全会一致で承認(1/2ページ) - 産経ニュース

伊達勝身町長 岩手県 岩泉町 辞職に関連した画像-02

岩手県岩泉町の伊達勝身町長が辞職を申し出、全会一致で承認された

伊達町長は岩手日報の女性記者が泊まっていたホテルを訪ね、何度も部屋のドアをノック。記者がドア開けると部屋に入り、抱き付いて複数回キスをしたという

町長は抱きついたことは認めたもののキスをしたことは否定。わいせつ目的でなく、病気による幻聴が原因の「迷惑行為」だったと強調していた

以下、全文を読む




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<ネットでの反応>

意味わからんですけど

リアルいぬやしき

聞こえたんですけど何か?ぐらいの感じ。

たしかこれ、PTSDで前から幻覚幻聴に悩まされてるとかどうとか言ってませんでしたっけ?




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富岡八幡宮殺人事件の真相?

「ギャラリー酔いどれ」経由で、「ネットゲリラ」記事のコメントの一部を転載。
なるほど、真犯人(教唆犯・主犯)は神社本庁(日本会議とツーカー)だったかwww


(以下引用)



  今スッキリで
  弟が 姉を非難した中に
  「神社本庁に入るべき金を奪った」があったと

  もう弟が神社本庁(日本会議)の特攻要員で、
  姉が神社本庁(日本会議)宮司を
  セクハラ告発で 警察にも行きだしたから 口封じだろ
  -----------------------
  やはり日本会議と統一教会は 破防法の対象だわ。怖すぎw
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日本刀の誘惑

私は神社という空間はわりと好きで、何となく清浄の気があるように思っているのだが、清浄どころか血みどろwww 利権のあるところ争いあり、である。
面白いのは、ヤクザの出入りでもないのに、日本刀が武器に使われた点で、これは日本の殺傷事件の中でもわりと珍しいのではないか。日本刀の所持には法律で厳しい規制があるから、日本刀は滅多に使われない。しかし、神社などにはなぜか日本刀が伝来の宝物として所持が認められているようで、神社内部の抗争だったから、日本刀まで出てきたわけだろう。
神社が日本刀を所有していても、それを見せてくれるところは少ないし、神社というのは、カネにならないサービスはあまりしないように思われる。
京都に建勲神社というのがあって、そこに名刀が保存されていると、あるネットテレビ作品で知って、見に行ったのだが、所持する宝物の類は一切公開されておらず、無駄足を踏んだことがある。なお、建勲神社は明治維新のあるエピソードの舞台にもなったらしいが、そうした話も神社に行っただけではまったく分からない。こういうのをサービス不足と私は言っているわけだ。だから、有名寺院などと違って、神社見物などする人も少ないのだろう。

今読んでいる「大菩薩峠」の机龍之介は、最初は武芸への執心から人を斬っていたのだが、やがて殺人淫楽症になり、通りすがりの町人でも女でも誰でもいいから人を斬らないと血が治まらなくなる。手にした経験が無く、ガラス越しに眺めた経験しか無いが、日本刀にはそういう蠱惑的なものがある。私も、政界や経済界やテレビ界の中に、日本刀で真っ二つにしてやりたい奴が何人もいる。






これだから地元はお詣りいかない

| コメント(11)

富岡八幡宮事件なんだが、なんとなく筋が見えてきたんだが、結局は、神社の利権をめぐっての姉と弟の争いです。当初、弟が宮司を継いだんだが、素行が悪くて女遊びが激しいというので解雇され、姉が宮司になろうとしたんだが、神社本庁が認可せず。結局、富岡八幡宮は神社本庁を抜けて、姉が宮司になるも、10年越しで揉めていた弟に襲われて、弟も自殺して、みんな死にました、という結末のようだ。日本中が利権で煮詰まっちゃってるw

<富岡八幡宮司ら切られ3人死亡、1人けが トラブルか>
 7日午後8時35分ごろ、東京都江東区富岡1丁目の富岡八幡宮内で「人が倒れている」などと、通行人から110番通報があった。警視庁によると、敷地内や近くの路上などで4人が頭や腹から血を流すなどして倒れており、3人の死亡が確認された。他に男性1人が重傷という。警視庁は刃物で切りつけられたとみている。
 捜査1課などによると、死亡したのは宮司の富岡長子さん(58)と富岡さんの弟(56)、弟の知人の30代の女。重傷なのは長子さんの運転手の男性(33)。現場には、サバイバルナイフや日本刀などが残されており、血が付着していたという。弟と女が長子さんらを襲った後、弟が自殺を図った可能性があるという。4人の間に何らかのトラブルがあったとみて調べている。

大きな神社やお寺というのは儲かるんです。その利権を巡っては、殺し合いまでするというw やっぱり東アジア反利権非武装戦線は必要だなw


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読書の速度と会話の速度

私は、ロシアの神秘思想家、あるいは霊能者のグルジェフが言っている、「理性のセンターと感情のセンターは別」という考えをかなり信じているのだが、要するに「感情は理性ではコントロールできない」ということである。そして、しばしば感情は理性より強い。世の中が理性だけで動いていたら、誰も恋愛などしないwww 結婚の方は理性でやるものだから、今のように経済的に恵まれない庶民が結婚しないのは当然(合理的)である。

それはともかく、下のツィートの「識字と虚構読解力、そして会話力はすべて別」というのは面白い考え方である。(虚構読解力と識字が別かどうかは疑問だが。)確かに、文章を読む習慣が無い人ほど会話力はむしろ高いような気がする。

会話力の中の語彙は、会話経験の中で覚えた語彙だから、間違いも多いが、「ちゃんと操れる語彙」になっている。これは外国語会話でも同じで、英語の文章読解能力と英会話の能力とはまったく別に思える。英会話は、「場に応じて即座にちゃんと操れる英語語彙や英語短文」を持っているかどうかで決まるのであり、テスト以外ではのんびりと読んでいい英文読解とは異なる技術である。
なお、文章を読む習慣が積み重なった人は、他者の言う言葉の意味内容を正確に理解しようとする傾向が強すぎて、実際の会話のテンポに合わない傾向があると思う。
要するに、会話というのはテニスやピンポンのラリーのようなものであり、いちいち考えている暇はなく、勘で打ち返すものだ。だから、いわゆる「陽キャラ」連中の会話内容を後で検証したり、外部から見ていると、論理性も倫理性も無い、(冗談の内容もだいたいが他人の真似である)滅茶苦茶なものであることが多い。
なお、会話のテンポが異常に速くなったのはテレビが広まってからであり、それ以前の映画を見ると、会話のテンポは実に穏やかなものである。






さんがリツイート

あえて名前は伏せますけど、ある人気アイドルの女の子で「漫画は字が多いから読めない、絵だけ見てる」と話す子は10年前に既にいたんですよね。その子は普段の会話ではむしろ頭の回転が速い子で、観客の声にも当意即妙で返す。識字と虚構読解力、そして会話力、これ全部別のような気がするんですよね。


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興行界の本質


久しぶりに「馬鹿国民帝国日本の滅亡」から一部転載。
いわゆる「芸能界」や「スポーツ興行」、まあ、要するに「興行界」の本質を実に端的に言い表している。
つまり、ヤクザ支配の世界ということだ。芸能人やスポーツ選手はその奴隷。
それを自分から志願してその奴隷世界に入る馬鹿もたくさんいる。
(奴隷がたくさんカネを稼いでいるように見えるのは実はごく一部であって、大半は売れない時代に一般人以下の窮乏生活をしているし、成功して引退した芸能人やスポーツ選手でも、その大半は、上とのコネが無いかぎり、カネも失って廃人のような暮らしをしているのではないか。)


(以下引用)




 



ヤクザが、女に売春させて稼ぐ話は知ってるな…



 



部屋を用意して、客を取って、時間いくらって決めて、迷惑な客にはシバキをして…



 



その女が美人で、しかも歌もうまい、おしゃべりも楽しいとなりゃ、売春だけじゃあもったいない。



 



そこで、歌姫にして、今度は部屋を取る代わりにステージとか舞台とか用意して、客を取って、いくらで何時間と決めていく…



 



売春ビジネスが、ちょっと進化すると、もう芸能ビジネスになってしまう



 



そして、手元にいるのが女でない場合、ひょうきん者には”お笑い”か、手品、曲芸等の芸をさせ…



 



屈強な男なら、ボクシングでもプロレスでもいいけど、格闘技をやらせる…



 



 



だからさ…”相撲”ってのも、こういったビジネスの延長にあるわけだよ。

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安いと高いは買い様による

この前から中里介山の「大菩薩峠」を読んでいるが、(まだ途中なのだが)これは大傑作である。たとえるならば、日本版「レ・ミゼラブル」である。話は面白いし、人物像は主役脇役みな個性的で魅力がある。悪党すら、面白い。とんでもない人間の屑が善良な美女に執着(ストーキング)してとうとう手に入れるかと思えば、心優しい人間(たいていは女性だが、中には悪どい女性もちゃんと出てくる)が、その善良さのゆえに惨憺たる目に遭ったりする。
一般的には机龍之介が主人公視されているが、主人公のひとりと言うべきだろう。脇役のひとりひとりの人生がそれぞれ簡潔に描かれているのであり、群像ドラマである。
まあ、若いころには文体の「ですます調」が安っぽく感じられて食わず嫌いをしたのだが、たくさんの小説を読み飽きた目にこれだけ面白く読める小説というのは滅多にない。しばしば出てくる美文調の表現も、少し古文を齧っていれば気にせずに読める。まあ、中学生ではさすがに読み味わうのは無理か。大学生でも無教養な学生には無理かもしれない。
とにかく、単純な「正義は勝つ」ではないし、だからと言って悪を勧めるわけではもちろんないし、ニヒリズムでもない。面白ければそれでいいといいう無責任な書き方でもない。たしか「大乗小説」と作者が言っていたとかどこかで読んだ記憶があるが、まさにそれである。大乗的見地から人間界の浮き沈みを眺める小説というわけだ。こういう小説を読めば、自分で生きるよりもはるかに面白いwww 学校で古文漢文を学ぶのも、こういう小説が読めるようになるためと思えば無駄ではない。
作中に出てくる、どんな患者でも(格安の)十八文で診る酔いどれ医者の道庵先生の言葉。

「どうして、世の中が斯う面白いんだか、世間でクヨクヨしている奴の気が知れねえ、おしなべて天下の事が十八文で定まりがつくんだ、十八文より高くもなし、そうかと云って十八文より安くもねえ、安いと高いは買い様による」


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悲しみの色

「谷間の百合」から転載。
味の嗜好がそれぞれなように歌の嗜好もそれぞれだが、私も谷間の百合さんにほとんど同意見である。
実は、「この世界の片隅に」の主題歌が「悲しくてやりきれない」だと知った時に、「おお、素晴らしい選曲だ。この作品(漫画原作)のイメージにぴったりではないか」と思ったので、実際に映画(アニメ)を見て、コトリンゴ嬢の歌を聞いた時には正直言ってかなりがっかりしたのである。もちろん、コトリンゴのファンにとっては最高の歌なのかもしれないが、妙に気が抜けたような歌い方で、私にはまったく「悲しみ」は伝わらなかった。いや、力を籠めて歌えというのではないし、谷間の百合さんが言うように「明るく」歌えというのでもない。ただ、無色透明な中に、ある種の絶望を籠めて歌ってほしかった。
そもそも、「悲しくてやりきれない」の悲しみは、空を見上げたり、空を行く雲を眺めている時になぜか湧き起こる、「やるせないもやもや」であり、たとえば戦争への怒りとか人が死んだことへの悲しみのような具体的な対象があっての感情ではない。それだけに「この限りないむなしさの救いはないだろか」と思いつつも、しかし、人が生きるのは、こういうもやもやを心の底に抱いて生きるということだ、という感じがこの歌にはあり、だからこそ「この世界の片隅に」にぴったりだと思っていたわけである。
すずさんはいつも呑気な感じで生きているが、それは「やるせないもやもや」を心の底に押し込めているということでもある。たとえば、自分が結婚した相手と本当に結ばれてよかったのか、それとも水原を自分は愛していたのではないか、あるいは、夫はもしかしたら遊郭の女と関係があるのではないか。そういう不快な感情はこの漫画やアニメの中ではほとんど表面化しない。それは戦争という理不尽な出来事への怒りが表面化しないのと同様だ。しかし、心の奥底には、そういうもやもやがかすかにあるのである。
さて、コトリンゴさんの歌に、そういう「伏流水」は感じられただろうか。
なぜアニメの監督(片淵監督)さんがフォーク・クルセイダーズの歌でなく、別の人にこの歌を歌わせたのか、そこが私には分からない。クルセイダーズの歌があったからこそ、この曲を主題歌に使おうと思ったはずだ。それが、なぜ別の歌手になったのか。私には分からない。


(以下引用)


「悲しくてやりきれない」を悲しく歌ってはいけない。

はしだのりひこさんが亡くなりました。
つぎつぎと人が死に、そのスピードが速まっているのを感じます。
かれを偲んで、ユーチューブで何曲か聞いたのですが、「悲しくてやりきれない」を聞いたとき、いままで、わたしの中でわだかまっていたものを吐き出したくなりました。
この曲は「この世界の片隅で」のオープニングテーマ曲に採用されコトリンゴさんが歌っています。
圧倒的な高評価、好評価を受けています。
なので、それに異を唱えるのは身のすくむような思いなのですが、大袈裟ですが、千万人と雖も吾往かんの気持ちを奮い起こして書きます。

わたしは、コトリンゴさんのあの歌い方は作品を殺したと思っています。
「フォーク.クルセダーズ」はたんたんとむしろ明るく歌っているのですが、それが正解だと思います。
悲しそうに歌うことはあの作品の本質の理解を誤らせます。
あの作品のどこに悲しみの本質があったのでしょうか。
親や兄の死も、驚くほどあっさりと描かれています。
悲しみは、ただ生きていくことに追われている中で消化、無化されていたのかもしれません。
感じ方は人それぞれで、わたしが悲しいと思ったのは、幼馴染の水原とまだあどけなさの残る若い娼婦の死ですが、当人たちは運命を運命として受け入れていて、呪ったり悲しんだりしていません。
そこに悲しみの本質があるのではありませんか。
だからこそ、明るくさらっと歌うことで透明感が生まれ、ほんとうの悲しみを表現できるのだと思うのです。
戦争のさなかに、悲しみが入り込む余地はありません。
戦争は、恐怖であり、戦慄であり、残酷な酸鼻を極めた世界です。 
あのような感傷的、情緒的な歌い方は戦争の美化につながりかねません。
あの歌い方に感動するのは戦争を知らない人間の情緒的な反応なのだろうと思います。


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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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