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教養とは精神の財産

日本人もカネや物のことばかりではなく、知的な楽しみに価値を見出すようになってほしいものだ。いや、せいぜい高校までの教科書程度の教養でいいのである。それすらほとんど理解しないままで終わる人が多いのは勿体ない話で、たとえば、ふとした時に詩の一節を思い出せるというのは大変な精神的財産なのだ。




(以下引用)

【中国】羽生結弦の演技に解説者が感動 → 思わず漢詩を詠む / 調べたら感動的に美しい意味! 他国の選手に捧げる最大級の賛辞に感動が止まらない件




(ロケットニュース24 / ソシオコーポレーション) © ロケットニュース24 提供 (ロケットニュース24 / ソシオコーポレーション)


フィギュア男子、オリンピック2連覇! 66年ぶりの偉業を成し遂げた羽生結弦選手。もちろん金メダルという結果も素晴らしいが、何よりその演技に魅了された人も多いだろう。


そんな羽生選手の活躍に感動したのは日本だけではない。各国から称賛の声があがっているが、中国ではこんな形で羽生選手が讃えられている。なんと実況で漢詩が詠まれたのである。


・羽生選手の演技に解説者が感動 → 思わず漢詩を詠む
その実況動画はスポーツ専門チャンネル『CCTV5』が放送したものだ。その動画を確認すると、羽生選手のフリーの終了後に感嘆を込めた声で、以下の漢詩が詠まれた。


「容颜如玉 身姿如松
翩若惊鸿 婉若游龙」


ざっくり意味をとると


「その容貌は宝玉のよう、立ち姿は松のごとし、飛ぶ様子はまるでオオハクチョウ、美しさはまさに遊ぶ龍のようだ」


と言ったところである。なんと中国っぽい表現! 即興でこれだけの漢詩を詠んでしまうことにも感動してしまうが、言葉ひとつひとつを読み解くと、実に深い意味が込められているのがわかる。


・なんで「松」なの?
たとえば「松」。これは「站如松、坐如鐘、行如風、臥如弓」という言葉から来ている。意味は「立つときは松のようにのびやかに真っ直ぐ、座るときは鐘のようにどっしりと、歩くときは風のように力強く、眠るときは弓のような姿勢で」というもの。日本語の「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」に似た表現と言えるだろう。


知らずに「松みたい」と言われると「フーン(たぶん褒めてるんだろうな)」くらいにしか思わないが、「松」という言葉に、羽生選手の立ち姿が、のびやかでスラっとしていて美しいという意味が込められているのだ。


・ハクチョウは優雅なお姫さま
そして、オオハクチョウのくだりの「惊鸿」。これは「女性のしなやかで美しいさま」を表し、唐代・玄宗皇帝の寵姫が舞ったという舞も「惊鸿舞」と呼ばれている。……お姫さま! 優雅さを表す最上級の言葉と言えるのではないだろうか。


羽生選手の演技と言えば、芯が通っていて、ときに力強く、ときにしなやか。これ以上ピッタリな表現はないかもしれない。


・バンクーバーのメダリストも賛辞を贈る
実況で、この詩を詠んだのはCCTV5のスポーツ解説員・陳瀅(ちん・えい)さんだ。フィギュアスケートは彼女の専門分野のひとつだという。


いくらプロの解説者とは言え、演技を見た直後に、そのエッセンスを詰め込み、古典的な表現を盛り込み、美しい韻を踏んだ詩をサラリと詠んでしまうなんて、陳さんの教養ハンパねえ……! そう思うと同時に、中国文化の奥深さを感じはしないだろうか?


なお、この日の解説にはバンクーバー五輪・フィギュアペア銀メダリストの佟健(とう・けん)さんも入っている。彼は、オリンピックが羽生選手にとってケガ以来初めての試合であり、多くの期待を背負っていたという背景に触れて、「このプレッシャーに打ち勝つチカラには、本当に感心と尊敬の念に堪えません」と賛辞を送っていた。


・他国の選手をたたえ、祝福する姿
オリンピックなどスポーツの世界大会では、自国の選手の活躍に注目が集まりがちだ。男子フィギュアは、中国の金博洋選手も十分にメダルを狙える位置だった。そんななかで、こうやって素直に他国の選手を讃え、祝福できるのは素晴らしい! 国を越えて感動を分かち合う、スポーツの理想の姿だと言えるだろう。


参照元:新浪体育、新浪看点、Sina Weibo @人民網(中国語)
執筆:沢井メグ






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ブリカスとは鰤の粕漬ではない

私は人種差別が大嫌いだが、エリザベス女王の亭主をブリカスと呼ぶのには異存はない。まさに、ブリテンのカスっぷり全開である。ちなみに、白人は美的にはやはり優れている、と思うのだが、その理由が「歴史的にそう洗脳されているから」だけなのか、それとも美の本質として何か合理的理由があるのか、誰かに解明してもらいたいと思っている。またブリテンの文化も尊敬している。しかし、ブリテンがしてきた歴史的悪行はひどいものである。(私がしばしばユダ金とか書くのは人種産別ではない。ユダヤ人という「人種」は存在しないし、たとえ存在するにしても、ユダヤ人一般とユダ金は別である。)


(以下引用)




1:2015/06/28(日) 13:13:22.10 ID:
1 左 「生まれ変わったら、死のウイルスになって人口問題を解決させたい」(1987年、著書の序文で) 
2 二 「このくそったれ!」(相手がフィリップと気付かず、駐車違反の切符を切ろうとした警察官に対して)
3 遊 「まだ槍を投げ合っているのですか?」(2002年オーストラリア訪問時、オーストラリア先住民ビジネスマンに質問)
4 一 「あなたは女性ですよね?」(1984年ケニア訪問時、現地人女性に質問)
5 中 「きみは太りすぎているから無理だろう」(2001年「将来宇宙飛行士になりたい」と語った12歳の少年に返答)
6 三 「おお嫌だ。酷い病気にかかるかもしれないじゃないか」(オーストラリア訪問時、コアラを撫でるように頼まれた際の返答)
7 捕 「なんとか食べられずに済んだのですね」(1998年パプアニューギニアを探検した学生に発言)
8 右 「英国人女性は料理ができない」(1966年)
9 投 「あなたたちはほとんど海賊の子孫なのではないのですか?」(1994年ケイマン諸島訪問時、現地人に質問)
 
2:2015/06/28(日) 13:14:35.14 ID:
コメディアンかな
 
3:2015/06/28(日) 13:15:40.71 ID:
一番からもう強い
 
5:2015/06/28(日) 13:16:39.18 ID:
こいつ婿養子やろ
こいつとかダイアナとか王室に入る奴はなぜこういうのばかりなのか
10:2015/06/28(日) 13:18:51.00 ID:
>>5
元々貴族だから
 
 
7:2015/06/28(日) 13:18:03.70 ID:
ブリカスのくせに他人のこと海賊言えるんか
15:2015/06/28(日) 13:19:45.46 ID:
>>7
実際英国に海賊として雇われた奴らはみんなカリブ海やアメリカに散っていったんやで
20:2015/06/28(日) 13:21:02.87 ID:
>>15
そういうことやなくて
ブリカスの生まれがもう海賊やんけ
海賊の子孫が他人のこと海賊の子孫いうとか草生えるわ
 


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誰が何を「裁量」するのか

「裁量労働制」についての記事だが、お堅い内容の前半は省略。わりと分かりやすく書かれた部分だけ転載。特に対話形式で書かれた部分は非常に分かりやすい。何をどれだけやるかに関しては労働者には裁量権は無い、というわけだから、とんでもない仕事量を押し付けられても、報酬は定額しか貰えないという、雇用者にとっての「働かせ放題労働制」であるわけだ。


(以下引用)




 裁量労働制は、あくまでも、業務の進め方に労働者に裁量がある制度、ということになります。


 ここがミソです。

業務量に裁量はない

 労働者は、使用者から下る業務命令を遂行することで労務を提供します。


 すなわち、

  1. 使用者から「これをやれ」と命令がなされる
  2. 労働者はそれを遂行する
  3. 労働者は仕事の結果を使用者へ渡す

 これが労働者のお仕事サイクルです。


 このうち、2.だけに裁量がある制度ということです。


 そうです。1.には労働者に裁量はないのです。


 これは、要するに、業務量については労働者には裁量がないということを意味します。


 


 したがって、次のような現象が起きます。


('◇')ゞ「仕事終わったんで、定時前だけど帰ります!」


( ゜Д゜)「もう終わったの?じゃあ、次はこれやって」


( ;∀;)「え?でも・・・裁量労働なんで・・・」


( ゜Д゜)「あ、そう。業務命令を断るんだ。へー。」


(*_*)「やりますよ・・・」


 ほかにも、


( ゜Д゜)「おまえたちは、裁量労働制だ。好きなときに帰れるぞ。」


(*´▽`*)「わーい。」


( ゜Д゜)「ただし、俺が与えた仕事を全部終わらせてからだがな」


( ;∀;)「えーん。」


 とか、


(-"-)「仕事が多くて終わらないッス」


( ゜Д゜)「仕事の進め方は自由でいいぞ」


(-"-)「いや、仕事が多すぎるんです。終わらないんです」


( ゜Д゜)「でも、仕事の進め方は自由だぞ。」


(-"-)「・・・・(怒)」


 ということになります。

定額働かせ放題

 で、どれだけ長く働いても、あらかじめ、みなすとした時間だけ働いたとしかされません。


 たとえば、1か月10時間の残業があるとみなすとした場合は、100時間残業しても10時間しか残業していないとみなされます。


 そのため、給料もみなされた労働時間分しか払われません。


 使用者にとっては、ラッキーです。


 仕事を目いっぱい与えて、あとはどうぞご自由にとすれば、いいのです。


 どんなに長く働いても払う給料は一定です。


 これが裁量労働制の実際です。


 それゆえに、定額働かせ放題とネーミングしたわけです。

裁量労働制についての幻想

 ところで、よく、裁量労働制だと早く帰れるとか、病院に行けるとか、子育て時間ができるとか、そう言う人がいます。


 裁量労働制があったから早く帰れた・・・・と。


 果たして、そうでしょうか?


 実は、意外と思うかもしれませんが、裁量労働制と早く帰れることは無関係です。


 たとえば、9時始業で、18時が終業時刻(休憩1時間)の会社で働くある労働者がいたとします。


 その人が、15時に帰っても、使用者が18時まで働いたとみなすことは、裁量労働制に関係なくできます


 これはなんにも制限されていません。


 しかし、21時まで働いた労働者の終業時刻を18時とみなすことは、裁量労働制でないとできません


 裁量労働制でない場合は、21時までの残業代を払う義務が使用者にあるのですが、裁量労働制だとこの義務を免れます。


 これぞ、裁量労働制の真の意味なのです


 なので、残業代を払わないで働かせられる裁量労働制の方が、一般的な時間管理のある労働者よりも長く働く傾向にあることは、ある意味、当然なのです。

撤回しかない

 この裁量労働制の拡大をしようとしているのが、「働き方改革」です。


 これが、本当に「働き方改革」なのでしょうか?


 喜ぶのは労働者ではなく、ブラック企業ではないでしょうか?


 裁量労働制は速やかに撤回すべきだと思います。


 あと高プロも一緒に撤回すべきだと思います。

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食べたい時が美味い時、というCMの意味する「法則」

別ブログに載せたものだが、こちらにも載せておく。




時の経過による感情の風化
至言である。かなりのリツィートと「いいね」がついているところを見ると、ある年齢になった人は誰でも思い当たるのだろう。
逆に言えば、失恋なども、そのうち時が癒す、ということだ。





             さんがリツイート

「やりたいことをやりたいときに出来ないと、どんどん情熱が薄れていく」っていうことが、ようやく最近わかってきた。本が読みたいときに忙しくて読めず、観たい映画の上映館が近くに無いせいで観れず、書きたい物語が作業優先度が低くて書けなかった結果、全部「したい」欲求が消え失せててやばい





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スポーツの中のエリートと一般人

スポーツライター広尾晃のブログから転載。
まあ、勝利至上主義の部活や民間スポーツ組織があってもいいと思うが、学校の部活が勝利至上主義だけになるのは息苦しい。「そだねー」とか言いながら、おやつも食べながらのんびりやる「ゆる部活」まあ、要するに同好会みたいな部活も学校にはあってほしいとは思う。
だが、現実には、最初はそのように始まったものも、下の記事のような感じで「エリートによるエリートのための部活」になるのがスポーツというものだろう。というのは、スポーツとは(登山などの特殊なものを除いて)ほとんどが勝負事であり、「勝ち負け」を競うのが運命的に決まっているから、いつの間にか勝利至上主義になるのである。
私は学校教育の体育の中から競争性を完全に排除して本当に児童生徒の健康増進・体格体質向上だけを目的とした運動(まあラジオ体操や空手の型などだ)だけをさせる真に「体を育てる」意味の「体育」にすべきだという意見で、スポーツエリートたちが競争がしたければ「プロ用部活」でやればいいと思う。その中からプロスポーツに進む者もでてくればいい。何なら、スポーツ専門校をも作ればいいと思う。
要するに、エリートと一般人を同じ土俵で戦わすのは愚劣だということだ。そのために一般人は見えない被害を受けている。清宮のように小6だか中1で身長180体重90キロもある者と、身長150センチ、体重40キロの子供が同列で扱えるはずはない。大人と子供どころの差ではない。心理的には巨人と小人だろう。甲子園なども、常勝校は実質的にはほとんどスポーツ専門校である。


(以下引用)




私には私のスポーツ、となぜならないのか?



日本ではスポーツを「楽しむ」のは、何かいけないことのように思う人が多い。

例えば、学校やコミュニティで同好会が誕生したとする。野球でもサッカーでもいいが、スポーツ好きな人が集まって、練習をしたり、試合を楽しんだりする。野球でいえば、好きな人はキャッチボールをするだけでも楽しいものだ。試合は勝ったり負けたり、それはそれで楽しい。

しかし、それを外部から見ていた人の中から「だらだらしている」「まじめじゃない」「遊んでいる」という批判が出る。
仲間の中にも「もっと本格的にやりたい」という人が出て、練習は厳しくなり始める。外部から指導者がやってきたりする。本格的にスポーツをやってきた指導者は「これは一からたたき上げないと」などという。「遊び半分でダラダラやる奴は出ていけ」などと言い始め、初期のメンバーが離脱し始める。
上昇志向が強いメンバーや、後から来た本格的にスポーツをしたい人などがメインとなって行く。
地域の試合などにも出場する。レギュラーと控えが生まれる。勝利の実績が積みあがると、次第に「名門意識」も芽生えてくる。「うちはいい加減な気持ちでスポーツをするやつは必要ないんだ」などという。

かくして素朴にスポーツが好きだった人は排除され、スポーツエリートだけがスポーツをする権利を獲得するようになる。




少年野球などが典型だが、こういう感じで日本のスポーツチームは生まれていく。
スポーツには「努力」「上昇志向」が必要だとされ、「勝利のために頑張るもの」だとされる。だから、マイペースでスポーツを楽しみたい人は、スポーツの機会を奪われ「見る人」になっていく。

もちろん、草野球など草スポーツもあるにはあるが、それは正規のスポーツとは見なされない。

高齢者スポーツなど、「遊び」「ゆとり」以外の目的など設定する必要はないと思うが、そういう分野でも「勝利至上主義」がたっとばれ、80歳で何メーター泳いだとか、何秒で走ったとかがもてはやされる。そういうのを見ていたら、他の高齢者は引け目を感じて、嫌気がさすだろうと思うが。

なぜ日本人は「他の人に比べてどうか」ばかり気にするのだろう。スポーツが好き、スポーツをやりたいというのは「個人の動機」であって、自分で完結してもいいはずだ。自分のペースで楽しめばいいはずだ。
私には私のスポーツ、となぜならないのか?だから、日本のスポーツ文化は何年たっても豊かにならないのだと思う。





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歯科医が美人である必要性はあるか

これが、汚らしい中年や老年の歯科医に言われたら、「アホか、お前、痛いのが好きな奴なんておるか!」と心の中で言いつつ、「まあ、嫌いです」くらいは言えるだろうが、美人歯科医だと、どう答えるべきか少し迷いそうである。そんなのに出逢ったことは無いが。








美人歯科医「ちょっと痛い治療ですけど麻酔なしで平気ですよね」 ワイ「いや痛いのはちょっと」 美人歯科医「えっ!? 痛いの嫌いですか・・!?」  






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「する自由」と「されない自由」の衝突

「はてな匿名ダイアリー」から転載。
あまり説得力がある論だとは思わないし、私自身、この論に全面的に賛成するわけではないが、方向性としてはこの論者と同じ考えである。
私が気持ち悪いのは、この「喫煙者弾圧」が、上からのみの弾圧ではなく、下からの同意(主にネット世論)を得ての弾圧であることだ。つまり、上と下が同意しているのだから、弾圧される側に逃げ道が無い。
はたして喫煙というのはそれほど重大な犯罪なのだろうか。副流煙被害という怪しげな部分を除けば、自分自身の健康を害するだけの嗜好であり、自己決定権の範囲の話ではないか。
そして、こうした形の弾圧が他の部分にもどんどん応用されていかないだろうか。

弾圧する対象は何でもいいのである。理屈が通っているかどうかも問題にはならない。ただ、怪しげな「科学的根拠」と、上と下が合意しているらしき世論を形成すれば何でも弾圧できる。



(以下引用)


2018-02-19

喫煙者排除に潜む日本の病巣

喫煙後45分間」も大学構内に立入禁止 北陸先端大が全面禁煙に踏み切った理由
https://www.excite.co.jp/News/smadan/E1509591737132/


上の記事を読んだ。なんとまあ喫煙後45分は呼気から有害物質が検出されるから受動喫煙防止のため立入禁止なのだそうだ。


もちろん私は一定分煙に関しては異議を唱えるつもりはない。ネカフェ喫煙ブースに泊まることになった時はあまり臭い辟易した経験もあるし。
しかし、今回のJaist全面禁煙や、居酒屋含む飲食店全面禁煙の流れはあまり常軌を逸していると感じる。


タバコ臭いを嗅がないでいられる権利」ばかりを尊重しすぎて、「タバコを嗜む権利」を脅かしていないかということだ。


タバコ臭いを嗅がないでいられる権利」に正当性をもたせるのは簡単である。「臭くて嫌だ」と主張すれば済む。さら一般の人が受動喫煙として害になるか検証されていない、服についた煙の微粒子やら呼気に含まれ有害物質についても、化学物質過敏症の人の被害を引き合いに出せば、被害者簡単に創出することが出来る。


しかしながら「タバコを嗜む権利」の方は、「タバコを吸いたい!」といった子供じみた権利の主張以外に何が出来るというのだろうか。結局非喫煙者の支持をとにかく得にくい構造になっているのである


こうして「被害を受けない権利」だけが尊重され、「する権利」は衰退していく。
この構造は、現在日本のあらゆる場所で表出していないだろうか?


保育園では子供の金切り声による騒音を避けるため、園児たちは二重サッシで仕切られた室内でこじんまりと遊ばされている。


海岸での花火は近隣住民迷惑になるので禁止


路上駐輪は景観が損なわれるので即撤去


風俗店は即摘発


こういった流れが進行しているのも、活動的主体となりやす子供や若年層が減少し、一方で客体となりやす高齢者が増えたのと無関係ではないだろう。


どんどんと窮屈になる日本他人の多少の迷惑を許容する代わりに、「する自由」に満ちた社会のほうがずっと心地よいと思うのだが。


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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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