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スポーツと戦争

さすが小田嶋師である。勝利を求めない戦争が無い(侵略軍の撃退も、勝利である。当然、勝利のために膨大な敵味方の人命が失われる。)ように、勝利を求めないスポーツも無い。スポーツにおいて勝利を求めない、というのは実に革命的発想で、日本国憲法的である。
ただ、平和の希求という、憲法なら素晴らしいことも、スポーツ(競争、つまり競い争うのが本質である事象)だと矛盾そのものになる。
では、なぜスポーツだのに勝利を求めないのか、と言えば、1-0の点差のまま負けることで本戦に進め、そのことでビジネスチャンスが拡大するからだ。そのためなら、この試合の観客など糞くらえ、というわけ。





  1. 日本代表は、フェアプレーポイントによる決勝トーナメント進出を誠実に希求し、攻撃の発動たる縦パスと、サイドからのクロス又はスルーパスは、得点のプロセスとしては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、敵陣ペナルティーエリアには侵入しない。チームの交戦権は、これを認めない。



  2. 後半35分過ぎから堂々と展開された専守防衛憲法第9条サッカーにわが軍の本気を見た




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予防できない犯罪

今の時代、宅配便は生活に必須の要素であり、配達員が来たら、ドアを開けるしかない。
その配達員の中にこういう人間がいたらどうなるのか、ということは私も少し考えたことはあるが、世間はそういう心配も無さげに平気で動いているようなので、すぐにその懸念は忘れてしまった。
まあ、原発と同じである。滅多に事故は起こらないし、便利なようだし、世間は誰も文句も言わないで原発が動いているのだから、いいんじゃないか、と思っていると、ある日(一個人や一部の人にとって)破滅的な事件が起こる。起こってから被害者は泣き叫ぶことになる。
では、それをあらかじめ防ぐことができたか、というと、恐らく不可能だったのではないか。なぜなら、宅配便無しに今の社会はおそらく動かないからである。


(以下引用)パソコンのコピー機能がおかしくなっており、時々変なコピーになるようだが、どうしようもないので、引用記事部分はこれからもこんな風だとあきらめてくださいwww 編集画面だとまともなので、パソコンの問題ではなく、ブラウザー(と言うのか、ブログの元締め、管理会社)の問題かもしれない。










 配達先の母子家庭の高校生の少女に性的暴行をしたとして、佐川急便の配達員だった男(39)が強制性交等罪で福岡地検に起訴されていることが28日、判明した。福岡地裁(平塚浩司裁判長)で同日あった初公判で、男は起訴内容を大筋で認めた。日ごろの配達で被害者方が母子家庭であることを把握しており、当日は母親が留守だった。


 男は重山聡被告。起訴状によると、今年4月、福岡県内の被害者方を訪れ、少女に性的暴行をしたとされる。検察側の冒頭陳述によると、重山被告は2009年に配達員になり、配達時の母親との会話などから母子家庭であることや高校生の娘がいることを知った。事件当日は電報便の営業を口実に被害者宅を訪れたという。


 少女の母親は「(重山被告が)配達に来た時は1、2分世間話をしていき、私がパートで不在の時間も詳しく知っていた。なぜ娘がこんな目に遭わなければいけないのか」と話し、少女は事件後「男性が怖くなり、学校に行けなくなった」と訴えているという。重山被告は事件を受けて解雇された。【平川昌範】
























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近藤誠医師への強力な擁護発言

「逝きし世の面影」から転載。
医療界の「カネの成る木」である癌治療の根幹を否定する発言が近藤誠医師以外から出てきたのは驚きである。もっとも、近藤医師はご自分の専門である放射線治療は有意義だ、というポジショントークもしていたのだがwww 
まあ、癌治療が根本的に無意味だとは近藤氏も岩田氏も言ってはいないが、近藤氏の思想を頭から否定してきたこれまでの医学界を批判する動きが医学界内部で出てきたのは朗報だと思う。
宗純氏は、この岩田教授の発言(ブログ記事)を揶揄するような口調で書いており、いったい誰の味方なのか、それとも医学界にも近藤氏にも敵する立場なのか分かりづらい。ということで、宗純氏の論評部分は引用しない。
私の文章も同じかもしれないが、下手に冗談を混ぜると真意が見えなくなるものである。まあ、私の場合は賛同者を増やす意図はまったく無く、単なる面白がらせ(のつもり)の冗談と、社会の不条理に対する義憤で頭に血が昇っての悪口だけだ。つまり自分自身のストレス解消のブログにすぎないのだが。


(以下引用)


『近藤誠氏との対峙の仕方』2017/11/09神戸大学岩田健太郎教授のブログ『楽園はこちら側』

1990年代後半、近藤誠氏と当時のがん治療のオピニオンリーダーたち(外科医)の論争で、近藤氏はがんもどきの存在を主張し、なんでも切ったり化学療法をするのは間違っていると論じた。根拠となる臨床試験も参照していた。
一方、当時の外科医たちは実験医学と経験主義ばかり。「切ってる俺達がちゃんと仕事してんだから文句言うな。くじ引き試験?患者で実験する気か。エビデンス?なんだそれ?」って感じで、全然議論が噛み合ってなかった。
近藤氏の意見は理路整然としていたが、当時の外科医たちはひどかった。アメリカはエビデンスエイスドメディシンをバリバリ学んでいたが、日本の医療界は数周時代遅れ。日本のがん領域のトップってどうしてあんなに、、、、と大いに失望させるような稚拙な議論ばかりだった。
患者で実験するなっていうけどさ、動物実験の知見をそのまま臨床応用するほうがよっぽど実験じゃん。日本の医学で進んでるのは基礎医学だけ、臨床医学は全然ダメだ。
90年代の日本の臨床医学はどの領域も概ね「学問」の体をなしていなかった。数年前、某所で高名らしい某科の名誉教授が「研究は誰々に教えていただいた。臨床はやっているうちにできるようになった」とおっしゃっていて、ひっくり返りそうになったが、このどうしようもない妄言暴言も当時のエートスを正しく表現したという意味では名言だった。
現在、リンパ腫や前立腺がんや腎癌で自然消退したり、進行しないがんがあることは分かっている。
近藤氏の指摘通り「がんもどき」は存在するのだ
近藤氏の当時の見解には拝聴すべき点が多々あった。あれを黙殺、全面否定、人格攻撃してしまった日本のがん学術界の罪は大きい。慶応大学の罪も大きい。
(抜粋)

『医療界は反省し、総括し、そして近藤誠氏に謝罪してから、各論的に批判すべきだ。』2017/11/17神戸大学岩田健太郎教授のブログ『楽園はこちら側』

98年当時の近藤誠氏の主張は極めて現代的で、概ね正しい。そもそも瑕疵ゼロで何十年もの時間の批判に耐える論考なんてほぼほぼ実在しない。全体的には非常によくできた主張というべきであろう。
近藤氏の主張が当時の医学界で異端、エキセントリックだったわけでは決してない。むしろ世界的には主流と言ってよいものだろう。しかし、日本の臨床医学界はあまりに遅れており、傲慢で、井の中の蛙だった。
よって日本でのみ近藤誠氏は「異端」となる。実に気の毒な話である。
インターネットが普及した現在であれば学術界や権威が否定しても、近藤氏の主張の正当性はすぐに明らかになったはずだ。しかし1997年のネット環境は悪く、情報量もずっと少なかった。だからサポートする味方はできなかった。
近藤氏の主張は、
1.がんは手術すれば良いとは限らない。
2.抗癌剤を使うとデフォルトで決めるのは間違っている。
3.がん検診をすれば患者に利益があると決めつけるのは間違っている。
4.ロジックとデータが大事。統計も大事。
と、まったく「当たり前」の主張である。
対して国立がんセンター名誉院長(当時)の市川平三郎氏の主張はデタラメ。例えば、
1.個人と集団は違うから、くじ引き試験(RCTのこと)はあてにならない(これは完全には間違いではないが、RCT全否定の根拠にはならない)。
2.日本の外科医は優秀で手術がうまいのだから、優秀じゃないアメリカ人のデータなんてあてにならない。
3.がんは早期に見つければ良い。最新の画像(当時のヘリカルCTなど)を活用すればよい。早く見つかって「助かる人もいる」。
いずれも、現在臨床医学的に見れば「非常識」だ。
近藤氏が繰り返し主張するのは「事実」「データ」「ロジック」の大切さだ。21世紀ですら日本の医療界はしばしばこうしたところを欠くのだから、97年当時はもっとひどかった。
おまけに現在でもそうだが、多くの日本人医師は論文を読まない。ランセットやNEJMといったメジャーなジャーナルを読まない。英語ができないという極めてシンプルで恥ずかしい理由のためだ。「この国では医学が科学になっていない」。

文科省や厚労省は「反省し、総括し、改善しない」。前人の批判をタブーとし、前職のやったことはアンタッチャブルになり、うまくいったこととうまくいかなかったことの区別をせず、ただただ「いろいろあったけどみんな一所懸命頑張ったよね」で終わらせてしまう。だから同じ構造の失敗を繰り返す。
この悪癖は日本社会全体にも普遍的で、特に医者界隈でも多い。例えば、多くの医局の同門会では先人、前職の批判はタブーであり、反省、総括、改善、、、今風の言葉で言えばPCDAがまったくない。
日本のがん診療界はかつての非科学的な態度や診療を大反省すべきだ。総括もすべきだ。そして近藤氏に当時の非礼と不見識を謝罪すべきだ。少なくとも当時の近藤氏の名誉を回復することなしに、ただただ人物批判、人格否定してもただのいじめではないか。
当時の無茶苦茶ぶりを看過して、一方的に近藤氏を叩くのはフェアとはいえない。医学界の悪習をそろそろ見直し、過去を直視するプラクティスを習慣化すべきだ。
(抜粋)

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細川の殿様の最良の行動

「ネットゲリラ」から転載。
私は、殿様とか大名というのは山賊の親玉の成り上がりだと思っているから、その子孫もほとんど尊敬していないのだが、その家に歴史、つまり文化遺産を保存し伝えているという点だけは感謝している。皇室については、それこそ日本文化そのものだと思っているから、ひとつの時代の考えだけで断絶させるのは、それこそ法隆寺を古い建築だから燃やしてしまえというようなものだ、とは何度も言っている。ロシア皇帝家(ロマノフ家か?)だって、ロシア革命で皆殺しにせず、恩給でも与えて博物館管理人にしておけばよかったのである。そうすれば、ロシア文化も厚みが出ただろう。一時の興奮で文化資産を滅ぼすのは、子孫に対する罪だと思う。文化資産は子々孫々伝える義務があるのである。
とはいえ、今回の細川元総理のやったことは日中友好の実にスマートな形のもので、彼が現役総理の時にやったすべてのことより良いのではないかwww


(以下引用)




普段、国宝の茶碗でメシを食ってるような人

| コメント(3)

細川の殿様が、蔵書整理で、中国に4175冊というんだが、なんせ古い家なので、タララモノは山ほどある。殿様、陶芸やってるんだが、どうせ殿様の手すさびだろうと思ったら、意外に評価が高いそうで、考えてみりゃ、国宝の茶碗とかゴロゴロ転がっている家だw 普段、国宝の茶碗でメシを食ってるような人なので、目が肥えているw 中国は相次いだ戦乱で、古典籍の多くが失われた。今、中国の金持ちは物凄い勢いで神保町を買い漁っている。珍しい本だと億の値も付くらしいw アベシンゾーが馬鹿な分、こんなロートルまで頑張ってますw

2018年6月27日、細川護熙元首相が自身が理事長を務める永青文庫の収蔵する漢文書籍4175冊を中国に寄贈したことが、中国のネット上で話題になっている。
中国メディアの澎湃新聞は、北京市の中国国家図書館で26日、漢籍の贈呈式が行われたことを伝えた。
中国訪問中の細川元首相は贈呈式であいさつし、「日中平和友好条約締結40周年の節目に寄贈することができて喜びに堪えない」「研究に役立ててもらえば大変うれしい。中国の悠久の歴史に必ずや資するものと確信している」などと述べた。
中国のラク樹剛(ラクは各ヘンに隹)文化観光相は、細川元首相の日中友好事業への尽力に謝意を表明し、「新しい時代の中国と日本の文化交流と協力のモデルとなり、推進する役割を果たす」と述べた。
澎湃新聞はまた、香港・文匯網の報道を引用し、今回の寄贈について「日本から中国への漢籍の寄贈として1945年以降で最大規模のものだ」とし、「その中には、唐代末期から1000年も失われていた政治参考書『群書治要』全50巻など、中国の歴史から失われて久しい重要な書籍も含まれる」とも伝えた。

まぁ、研究者としては、デジタル化されたアーカイブがあれば本物はどうでもいいわけで、ネトウヨみたいにギャーギャー騒ぐ必要もないんだが、それにしても、マトモな政治家が出てくると、アメポチどもが寄ってたかって引きずり下ろすという現象は、そろそろヤメにしていただきたいw

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豚が肉屋を支持する理由

「混沌堂主人雑記」から、記事の一部を転載。
あるお坊さんのブログ記事だと思うが、非常に面白い内容である。一般大衆は伝統的宗教やカルト的新興宗教への嫌悪感を持ちながら、しかし宗教的叡智への関心は非常に高くなっている。そういう傾向からそのお坊さんは「post-religion」という概念を考え、これからの世界はその方向に進むのではないか、と見ているようだ。ただし、既成宗教が終わるのではなく、既成宗教に依存しないが宗教的精神を自ら考察し体現化していく人々と、既成宗教が並立していく、という形のようだ。
この考察に私も同感だ。と言うより、私がこのブログでよく書いているのはその種の考察である。ただし、考察するだけで体現はしない。人間の自己愛の強さは度し難いもので、宗教的行為は自己愛の対極にあると私は思うからだ。私にはそんな立派なことはできない。
まあ、宗教とか何とか言うよりも、その人が存在することでこの世界がほんの少しでも良くなったと評価できるなら、その人はこの世に生まれた価値がある。その逆ももちろん膨大に存在する。安部とか麻生とか小泉とか竹中とか橋下とかetc,etc
さて、下の記事の中で、私が赤字にした部分は、私が以前から書いている「組織悪」であり、実は組織悪とは自己愛の拡大化なのである。そういう観点からも下の記事は面白い。また、青字にした部分は精神分析学的に面白い。下級国民の安部自民党支持者を精神分析したらこんなものだろう。


(以下引用)色字部分は夢人による強調。


しかし、その叡智がどんなに素晴らしいものであったとしても、人間の営みである以上、求める人の行列ができれば、それを我が物にしようとする人、そこで商売を始めようとする人が出てきます。そこに、神や仏の威を借るキツネによる権威生成のための抑圧装置としての宗教組織が生まれます。聖性や霊性に対する人々の素朴な祈りが組織化され、少数の権威者のエゴを満たすため、商業利用や政治利用されていきます。信者を組織につなぎとめ拡大する常套手段は、罪悪感や不安や恐怖を植え付けた上で、その解放の唯一の方法として信仰を示すことです。抑圧構造の中で無力感を育てられた被抑圧者は、抑圧を自分自身が望んだものとして肯定することで自意識を保とうとするため、自ら抜け出すことはできず、依存関係が完成します。
そのような抑圧は、多かれ少なかれあらゆる宗教組織に見られます。宗教組織に限らず、人間である限り避けることのできないカルマといっても良いかもしれません。あえて言えば、この抑圧がマイルドなのが伝統宗教で、極端に出たのがカルト宗教です。マイルドなキツネを選ぶか、カルトなキツネを選ぶか? もちろん、どちらも選ばないで済むなら、それに越したことはないでしょう。だからといって、「無宗教」を選択することもノーリスクではありません。なぜならば、抑圧は人間社会の隅々まで浸透していて、ほとんどの人がそれを自分の中にも無意識に内面化しているからです。
無宗教によって、自分のエゴというキツネによる抑圧で自縄自縛に陥っている人も大勢います。「俺には宗教なんて必要ない。そんなものは弱い奴が信じるものだ」という人ほど、自分自身がすごく縛られています。宗教ではなくても、たとえば科学教だったり、お金教だったり、多くの人が無意識の中で何かに縛られて、自分で自分の枠を作り、自家中毒的に生きている。なりたい自分になりたいけれど、なれない。常に欠乏感に襲われ、自分で自分を無意識に縛りつけている。そのことに無自覚な人ほど案外コロッと、何かのきっかけでカルトにはまってしまったりするものです。

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入院は天国か地獄か

「女だから言えること」というブログから記事の一部を転載。(別ブログにもこの記事は載せたが、特に下の引用部分について考察したい。)
下の記事の筆者自身も精神病院への入院経験があるだけに、書かれた内容に事実の持つ重みがあるが、入院患者は入院によって明らかに病状が良化するにも関わらず、患者の大半は入院生活を嫌がる、ということについて考えてみる。

もちろん、精神病院への入院は世間体が悪いという昔からの社会風潮が最大の原因だろうが、私の想像では、「他人に決められたパターンで生活しなければならない」ことの苦痛が最大の理由ではないかと思う。これは私が特にそれを苦痛に思う人間だからだろう。
朝昼晩の食事、服薬、運動、休憩など、すべてが決まった時間に決まったやり方で行われ、患者はベルトコンベアの上の品物のように流されていくだけである。
それを楽だと思い、「ここは地上の天国かよ」と思う下記記事筆者のような人もいれば、「他人に命じられたこと、決められたことをやるのは死ぬほどいやだ」と思う人もいるのではないか。私などはそうである。自分の意志でぼんやりと無駄に時間を過ごすのは大好きだが、病院(せいぜい高血圧の薬を貰いに行く程度だが、最近はそれもやめている。)などで「強いられて」無駄な待ち時間を過ごすのは不快そのものである。
つまり、そこに「自分の意志」(たとえば、就職や入学などのように、会社や学校という場に入ることで生じる不自由さを受け入れることへの同意も、一応は自分の意志がそこにあるということだ。)があればいいのだが、自分の意志がまったく認められず、他人の決めたルールの中でしか動けない、というのは、自分が生きた人間ではなく死体か物体であるような気がするわけだ。
だから私は、約束事とか予定というのも大嫌いなのである。嫌いだが、「生きる上で仕方がないからこれは受け入れておく」と決めたことだけ受け入れるのであり、嫌いであることは変わらない。なぜそれほど自由が好きなのか、自分でも分からない。自由であってもロクなことは何ひとつしないのだが、ロクなことをしないでいられるというのも自由だからこそである。
念のために言うが、私の政治信条の上での最大の敵は「新自由主義」であるwww



(以下引用)

入院したら状態が良くなるという現実


 精神病患者の家族会の人たちの話によると、発達障害からの二次障害で精神病になる人も少なくなく、特に統合失調症の患者さんは薬を飲みたがらない、あるいは全力で拒否する人も多く、どんどん悪化させていたりします。



 結局、家族会の方々のお話によると、入院して退院した直後が一番、状態が良いとのことです。(ただし、正しい治療を行っている病院に限る。)私も精神病棟に何回か入院していますが、入院すると休養が取れる上に、治療に集中できるので非常に状態が良くなりました。早く退院したいという患者さんもいましたが、1人暮らしの精神病で働くことも、食事も、服薬も、自分ではコントロールできない状態だった私としては「三食昼寝付き、エアコン付きで、掃除も風呂洗いもシーツ交換も他人がしてくれるなんて、ここは天国かよ。」と思ってました。



 さらに、精神病棟での、初期から中期の統合失調症患者の回復具合は目を見張るものがありました。また、私の父のような重度の人が少ないのにも驚きました。早期発見早期治療ができている人たちが入院していたためでしょう。また、慢性の人も父ほどの症状の人はいなくて驚きました。



 精神病者をどこかに閉じ込めるなんて良くないみたいに考える人もいるかもしれませんが、本人の病状は滅茶苦茶良くなるし、家族は患者の面倒を見なくて良くなるしで、いいことずくめに見えました。ただ、問題なのは本人が入院生活を嫌がって早く退院したがること。精神病院は食事の時間も決まっており、栄養バランスの良い食事を3食食べ、外出禁止の人は買い食いできません。さらに薬も決まった時間に必ず飲ませるので、良くなるのだと思いますが、本人がそれがとても良い環境だと気づけないことは残念なことだったりします。




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安倍政権とは皿の上に蛆が湧き、それを蓋で抑えている状態

「混沌堂主人雑記」から抜粋転載。
混沌堂主人さんがよく引用する「神戸だいすき」さんが安倍政権について易を立てたところ、「山風蠱」の卦が出た、と書かれていて、それだけでも「おおっ。実にぴったりの卦だな」と思ったのだが、その後に書かれていた「山風蠱」の説明が実にナイスである。

「容器の中の腐った空気が蓋に閉じ込められた状態」というのは、まさに今の日本の政治状況、そして社会状況そのものだろう。当然、中には蛆が湧いているというのが、「山風蠱」である。「蠱」は皿の上に蛆の湧いた状態を表わす漢字。もちろん、蛆は経団連や官僚や自公政治家。


(以下引用)


内卦は巽で風です。
外卦は艮で山です。

風というものは流通振作の性質があります。

風は空気を移動させ、あらゆるものに清新な感触を与えていく働きがあります。

しかし、この卦においては、艮の山の麓に押しとどめられてしまい、吹きぬけることができません。

それにより、空気を濁らせ、湿気をよび、カビを生えさせたり、物を腐敗に導いたり、ついにはウジの湧くような状態にまで至らせます。

たとえば洋服を風に当てることをせずタンスの奥深くにしまい込んでいたりするとカビが生えたり虫に食われたりします。

その場合は艮が箱の蓋で、巽は腐った空気です。

艮の蓋のある容器に、巽の臭い風が閉じ込められていれば、いやでも物を腐敗させるようになります。

蠱という字は、蟲が三匹、皿の上にある文字で、この皿の上の蟲はしまいには必ず同類相喰む状態となるのは当然のことです。

そういう意味で蠱の字は「そこなう」」と訓読みし「みだれる」と
解します。

さらに「まどわす」「ふるし」「やぶる」です。

予、隨、蠱と配されるのも「喜びを以て人に隨うものは必ず事あり」ということです。

平和に馴れ、楽しみに泥み、向上進取の気力を失ったため、更新されない空気の中に色々な弊毒が生じたのが蠱弊なのです。

ですから、このまま放任しておかず何とか正していかなくてはなりません。

「大川を渉に利ろし」とはそのことで、重大な覚悟をもって改新の策を施さなくてはならないことを教えているのです。

そして各爻も、旧弊是正の意味を見ています。

「蠱は元いに亨る」とありますが、蠱は蠱のままで亨るわけではありません。

蠱の状態にあるものは、その弊毒を更新し大いに打開の道を建てることが先ず主題とならなくてはなりません。

その方法が「大川を渉る」「甲に先だつこと三日。甲に後るること三日」なの です。

「大川を渉る」ほどの一大決心が無ければ蠱弊は是正できません。

また「甲に先だつこと三日。甲に後るること三日」とは、これを改めなくてはならないと分かっていても、いきなり実行に移すのではなく、まずは蠱の生じた由縁を調べ、そして悪しきを削り取り、再び蠱を生み出さない用意を充分にしていくべきである……そして、事を起こす三日前に用意を整え、事を起こしたら、その三日後には功を挙げるくらい速やかに、徹底的に行うべきということです。

(加藤大岳述 易学大講座 現代語要訳)

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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