「平方根を暗算できる上に英文の主語・述語・目的語の並び順がわかってる時点で底辺どころか明らかに平均より上です」
気の赴くままにつれづれと。
およそ「あきらめなければ夢は必ずかなう」ほど悪質な言説はないと思う。こういうコトバが幅をきかすと夢を途中であきらめる若者は「夢がかなわなかったのは私が途中であきらめたからだ」という自責の念をしょいこまなければならなくなる。
執念は大事だが、夢がかなうか否かはやはり才能の問題。すごい才能がいるわけじゃなくて、ほんのちょっと才能があればあとは確かに「あきらめないこと」とかそのあたりが大事になってくるんだろうけど、その「ほんのちょっとの才能」の有無は決定的な差です。
「漫画家の夢をあきらめた」若い人の話に、最近立て続けふれる機会がありました。あきらかに不必要な負い目を感じていて、見てられなかった。いいんだよ、向いてないと思ったらどんどん違う道さがして。そんなに時間ないんだから、人生は。
夢をかなえるのに大切なのは「自分がどんなことに向いてるか」、少なくとも「どんなことには向いてない(才能がない)か」を悟るカンです。どんなに好きでも向いてないことは向いてない。
いろんな道の成功者たちも、実はけっこういろんなことをあきらめてきてるものです。普通は。人生なんてあきらめることの連続なんだって。別にそれでいいんだよ。負い目もたなくていいから。あきらめた自分が悪いんじゃないから。
いい大人が「あきらめなければ夢は必ずかなう」なんて言わないでほしい。そんなことあるわけねえだろ。じゃあ、オリンピック出れなかった奴らはみんな途中であきらめたからかよ!? あきらめたそいつの根性のせいかよ!? 子供は真に受けるんだからヘンなこと言うのやめなさい。
オランダ語: De ekster op de galg 英語: The Magpie on the Gallows | |
作者 | ピーテル・ブリューゲル |
---|---|
製作年 | 1568年 |
種類 | 油彩、板 |
寸法 | 45.9 cm × 50.8 cm (18.1 in × 20.0 in) |
所蔵 | ヘッセン州立美術館、ダルムシュタット、ドイツ |
『絞首台の上のカササギ』(こうしゅだいのうえのカササギ、蘭: De ekster op de galg, 英: The Magpie on the Gallows)は、フランドルの画家ピーテル・ブリューゲルが1568年に描いた絵画[1]。『絞首台のカササギ』とも[2]。
晩年のブリューゲルは、より一層低い視点による身近なシーンを描いていた。しかしながら、本作では以前と同じように、16世紀前半にネーデルラントで描かれた「世界風景画」 (en:World landscape) の伝統に連なるパノラマ風景画に舞い戻っている[3]。
本作は、遺作とされており、画家は身近な暮らしの情景やその中に潜んでいる不安や恐怖を、広く大きい自然とともに描き出している。カレル・ヴァン・マンデルは、1604年発表の『北方画家列伝』の中で、「ブリューゲルは遺言によってこの絵を妻に遺し、カササギによって口煩い人々を表し、絞首台に送った」と述べている[3]。
ベルギーのシント=ゲルツルディス=ペーデ (en:Sint-Gertrudis-Pede) には、本作に描かれた水車が残っている[2][4][5]。
ネーデルラントの初秋の午後の風景が描かれている[6]。カササギが木製の絞首台の上に止まっている。中世以来、カササギは魔女や悪魔に奉仕する不吉な鳥とされている。しかし、本作ではカササギや絞首台の他に、画面右手前に描かれた牛の頭蓋骨などが、死の恐ろしさを鑑賞者に感じさせている[3]。
その一方で、画面の左側では、農民たちが踊っている他に、中景まで続いている市で賑わう村の道の様子など、晩年のブリューゲルが好んで扱った、農民たちが元気よく暮らす様子が描かれている[3]。
カササギは他人の陰口や悪口をいうおしゃべり好きな女性の象徴であり、そのような人は絞首台に連れて行かれても仕方がない、それはまたプロテスタントの教えを宣伝するための説教をする、おしゃべりの多い牧師たちを絞首台に連れて行ったスペインの支配者をも示唆するといい、不必要なおしゃべりや密告などは自粛するべきだ、というメッセージにもなっている[7]。
画面の最も左下の草の茂った場所で糞をしている人は「絞首台に糞をする」という、『ネーデルラントの諺』でも描かれている諺を、バグパイプ奏者が奏でる音楽に合わせ、絞首台の左側で踊っている2人組と3人組の人たちは「絞首台の下で踊る」という諺を描いている[7]。
絞首台は、『死の勝利』や『十字架を担うキリスト』、『牛群れの帰り』にも描かれているが、これらのいずれにも刑が執行された後の死体がぶら下がっている。一方で、本作の場合、絞首台に死体はつり下げられていない。もっぱら、絞首台という物体が奇妙な形で立っているだけであるかのように見えるように描かれている[7]。
中央に立っている絞首台の右側に、木でつくられた十字架が描かれている。この十字架が立てられている墓地は、かつてこの場所で絞首刑を受けた人の墓所であると考えるのが一般的であるが、十字架は、絞首刑によって死んでいった人々への鎮魂のための十字架であるようにも解釈できる[7]。
左右に描かれた大きな樹木に挟まれて中央に立っている奇妙な形の絞首台、その上に止まっているカササギ、その下の朽ちて立ちすくんでいるかのような十字架、さらにその下方に静かに横たわる風車小屋ののんびりとした風景、絞首台の左側で踊る農民たち、木々の向こう側に見えている比較的大きな規模と思われる町の家屋群、さらにその向こう側に見える大河、その水際に建っている城砦、遠景として描かれた薄紫色の山々とその上の水色の空、これらのすべての要素が、それぞれに独立しながらも同時に関係しあい連続して、ひとつの絵画の世界をつくり上げている。この構成によって、「これが世界というものである」という世界の「世界性」が表現されているのである[7]。
ヘッセン州立美術館が発行している本作の解説を書いたギゼラ・ベルクシュトレッサーは、本作に関して、「構図的にも、色彩的にも当時の最高度の技術を駆使しており、ルーベンスへの道を切り開いたばかりでなく、17世紀オランダ絵画の先駆となった作品である」と記している[8]。
これまで、厚労省がワクチン接種率向上をはかるため、世論形成のために大手PR会社と様々な策を打ってきた。あるNPOメディアがその活動内容の公開を求めたところ、厚労省の返答は、なんと、完全な黒塗りだった。
つまり、政府は国民に手の内を明かさないということだ。
一方、政府は、平時から「誤情報」を常時監視することを決定した。
ワクチンで多くの人が死亡することも恐ろしいが、情報統制も負けず劣らず恐ろしい。
さらに恐ろしいのは、このような政府の姿勢に対して、メディアがまったく危機感を持っていないことだ。
毎日新聞の社説が『ネットに広がる偽情報、社会全体で危機感共有を』と題して、ファクトチェックについて、肯定的に評価している。
メディアの役割というのは、権力が暴走しないように監視することだよ。
それなのに、メディアのみなさんが、権力の暴走を支持してどうするのよ?
恥ずかしいことに、日本のメディアは先進国のなかでもトップレベルに低くて、G7中で最下位、世界的には70位。
反権力としてまったく機能していないということです。
まず、政府が持って行きたい方向があって、マスコミがそこに「世論」を乗っける。本当はそんな世論、どこにも存在しない。でも事実は関係ない。「そんな空気」を作ればいい。誰も事実を検証することなんてできないだろう、と高をくくっている。
結局この国のメディアは、太平洋戦争の頃と何一つ変わっていないんだ。
地方自治法改正が、恐らく成立する。非常時に国が地方自治体に指示を出したとき、自治体はその指示に対して法的義務を持って対処しないといけない。違反すれば拘束される。たとえば、コロナのようなパンデミックが起こったとして、国が自治体(県とか市)に対して「ワクチンを打て」と言えば、自治体は接種の義務を負う。
これは、要するに、「第二の南出市長」を出さないための法律です。
ワクチンの危険性をすばやく見抜き、市民に送付する接種案内には『接種は任意です。よくよく考えて』というような市長メッセージを添付したり、小児に対してはコロナワクチンの通知自体を送らない。そんな不届きな市長が出ては困る。国は、この平時から次なるパンデミックに向けて、着々と手を打っているわけです。
ワクチンで健康を奪われ、バタバタと死んでゆき、未来の日本を担う子供は生まれず、危険性を訴える声は押しつぶされ、経済的に失墜し、国力が衰退してゆく。
ああ、国はこういうふうに滅んでいくのだな。
結局、これだった。
これまで、飼い太らされていた。今、収穫の時期。
用済みになった国は、地震兵器でぶっ壊して、あとは中国にでもくれてやるつもりだろう。
戦争に負けた時点で、日本の運命は決定していたのかもしれない。
もうすぐ、ものが自由に言えない社会が来るだろう。
このnoteはすでに検閲されていて、たとえば僕や荒川央先生の記事は、検索してもヒットしないようになっている。しかし、6月以降、偽情報の常時監視が行われるようになれば、僕のアカウント自体がぶっ飛ぶ可能性もある。
しかし、ものが言えるうちは、最後まで情報発信を続けたい。
女房子供のいる身だから、自分の安全の範囲内で、ということになるけれど。
「平方根を暗算できる上に英文の主語・述語・目的語の並び順がわかってる時点で底辺どころか明らかに平均より上です」
ここまで言ったので、補足するが、ポリコレの問題点は…
何の権限もない、カンケーない人々が他人に指図するところである。
これは、私的に警察権、裁判権を行使しているのと同じで憲法違反の行為。
つまり、ポリコレ団体は「強要の罪」を冒している疑いがあるのに、
マスコミがこれを応援している。
マスコミは、いまや犯罪の教唆・幇助を専門とする犯罪組織と化している。