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大魔神目覚める

漫画家だけあって、イメージが素晴らしい。ラストシーンもいい。



暴徒の喧騒が渋谷駅前にあふれ、その蛮行が限界を超えた時、伝説の魔犬、渋谷の守護神ハチ公が目覚める。銅の薄皮が剥がれ落ち、中から現れた躰は忽ち数倍に膨れ、毛は怒りに逆立ち、燃える双眸には慈悲の欠片も無い。 
……死体に埋め尽くされた駅前で、あらためてハチ公は静かに主人を待ち始める。





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暴力的な性向は家庭環境から生まれる

外国の論文だから評価するのではなく、複数の国での調査を元にした論文だから意義が高いと思う。まあ、調査方法の詳細が分からないから「聞き置く」程度でいいが、参考にはなるだろう。

下の記事は単に暴力的傾向についてのものだが、女性への暴力について書いてみる。

私自身はまったく非暴力的な家庭環境で育ったので、「男が女を殴る」ということが世間に多いことは成長して後に知って驚いた。しかも、話によれば、女性の側もそれを許容している例が多いということで、成る程、これが「亭主関白」社会の日本か、と思ったのだが、現在はどうなのだろう。
私の父親は体重が85キロくらいある偉丈夫で、ホテルを営業していた時には酔って暴れる黒人の大男を柔道で投げ飛ばすくらいの男だったが、何かのことで(たぶん、浮気をしたか何かだと思うwww どうせ、友人たちと飲んだ紛れにでもそうなったのだろうが。)妻、つまり私の母親が激高して蝙蝠傘か何かで何度も叩いても、じっと耐え、彼女にまったく手を出さなかったらしい。まあ、夫婦喧嘩らしいのもその一度きりだったのではないかと思う。そういう場合に父親がもしも手を上げたら、そのパワーから言って、母親は家の外まで吹っ飛んでいただろう。
とにかく、そういう非暴力的な家に育ち、幼いころは家で本ばかり読んでいて家の外にほとんど出なかったので、他の子供との交渉も少なく、私自身、肉体的な喧嘩をしたことは中学に入るまで一度も無かったのである。(「これでは男として恥ずかしいのでは?」と悩んで、中一の時に喧嘩の体験をしたが、不発に終わったことは以前にも書いたように思う。)
長々と書いたが、要するに、「暴力に対し許容的な成長環境」であるかないかは、その人間の暴力に対する性向をかなり決定的に決めるのだろう、ということだ。
父親が母親を殴る家庭で育った男は結婚したら妻を殴るようになる、ということである。

まあ、暴力的な男は「男らしさ」の匂いをぷんぷん振りまいて生きているので、女性にはモテるかと思う。ただし、そういう男と結婚したりつき合ったりしたら、毎日のように殴られる覚悟はしておくことである。


(以下引用)


メモ

「体罰」を禁じることで若者の暴力性が劇的に減少することが88カ国40万人を調査した研究で示される




By David Dav

「しつけ」と称して相手を叩くなどの罰を与える体罰に対する見方は厳しさを増しており、「体罰は単なる暴力である」という見方が強まっています。一方では「必要悪」という考え方も根強く残っている面もある体罰ですが、88カ国・40万人を対象にした調査からは、「体罰を禁じることで若者の暴力性が減少する」という結果が明らかにされています。

National bans on slapping children linked to less youth violence | BMJ Open
https://blogs.bmj.com/bmjopen/2018/10/15/national-bans-on-slapping-children-linked-to-less-youth-violence/

Countries that ban spanking have kids who are less violent
https://www.usatoday.com/story/life/allthemoms/2018/10/29/countries-ban-spanking-have-kids-who-less-violent/1809639002/

この調査は、イギリスの医学会雑誌「BMJ Open」において発表されたもの。全世界の88カ国を3つのパターン「学校や家庭を含む体罰の全面禁止」「学校における体罰の禁止」「体罰の禁止なし」に分類し、それぞれの国における若者の暴力性と照らし合わせることで、体罰と暴力性の関係が調査されました。

その結果、ドイツやスペイン、ブラジルなど体罰を全面的に禁止した国では、肉体的に争いごとを起こす確率が「禁止なし」の国に比べて男性で69%、女性で42%少なかったことが明らかになっているとのこと。また、学校においてのみ体罰が禁じられている国では、男性は顕著な変化がない一方で、女性は56%低い値を示しているとのこと。この「部分禁止」の国にはアメリカ、イギリス、カナダなどが含まれます。

その結果をまとめたのが以下の表。上から「禁止なし」「学校内で禁止」「完全禁止」の3つに分類されており、黒い点が男性、白い点が女性。国の並びは男性の値でソートされています。全体的な傾向を見ると、「禁止なし」のグループでは黒い点が広く分布しているのに対し、「学校内で禁止」「完全禁止」のグループでは黒い点が左側に寄り集まっている傾向、すなわち暴力事件を起こす青年の割合が低いという傾向が浮き彫りになっています。




この結果について、主任研究者でモントリオールのマギル大学のフランク・エルガー准教授は「現時点で言えるのは、体罰を禁止している国で成長した若者は、そうでない国の若者に比べて暴力性が低い、ということです」と述べています。

またこの傾向は、国ごとの裕福さや殺人率の違いには関係ないことが確認されているとのこと。つまり、成長期にある子どもに体罰が加えられる環境があるかどうかによって、その国の若者の暴力性は一定の影響を受けるということになります。体罰を受ける子どもは「自分は望まれない人間なんだ」と考えることや、体罰を受けた子は大人をまねて自分も体罰で「しつけ」をする連鎖が生じることも明らかになっているとのことです。




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「長州ファイブ」の謎

歴史書などすべて「勝者が書かせた歴史」にすぎないのであり、本当の歴史など、誰も断言できるはずがない。そういう意味では、最初から、筆者の主観が入っている、として読むのが大前提である小説のほうが案外歴史の真相を穿っている場合が多いと思う。確か、「源氏物語」でも、光源氏が、世の中の真実は小説の中にこそあり、歴史書などたいしたものではない、と言っている。
ただ、問題は、その小説に書かれたことを史実だと頭から信じる人間もいることで、作者が最初からフィクション(小説)だ、と言っているのに、小説などから得た知識が歴史知識のすべてになる人もいるわけである。

政治思想的には私の対極にいる作家だが、井沢元彦の「逆説の日本史」はそういう意味では非常に有益な「歴史解説書」だが、作者の政治思想が熱く語られている部分は眉に唾を付けて読むのがいいかと思う。現代政治について書いてある部分は糞だが、明治以前の歴史に関しては卓見も多く、何より、読み物として面白い。
ちなみに、学者の言うことは、時の政権に不利なことは書けないのだから、信じるのは愚かだ、という趣旨のことも書いていて、それにはまったく同感する。そして、その学者が書いたものが次の時代の「正史」とされていくわけである。
権力の座に上り詰めた人間はそこに至るまで様々な悪行をしてきたのは当然であり、権力を握ったら、その過去の悪事をすべて隠し、嘘を広めるのは当然の話である。だから、同時代人の発言も本当に信頼できるものではない。という趣旨のことを井沢は言っているが、それに私も同感する。

私が現在興味を持っているのは、「長州ファイブ(伊藤博文、井上馨など5人)」という連中が、なぜ維新後の日本でほとんど権力の最高の座、あるいはそれに近い座に上り詰めたのか、ということである。
彼らは鎖国中の日本から「密航」という形でマシソン商会の船で英国へ渡り、そこでおそらく英国政府の援助でいろいろと「勉強」して日本に戻ってきたわけだが、要するに彼らは英国政府の「スパイ」になったのではないか、というのが私の推測だ。そして、英国の意志に従う人間しか日本政府の枢要の地位に就けないシステムを、明治政府の中で作り上げたのではないだろうか。(ちなみに、「長州ファイブ」は長州藩主の命で英国「留学」をしたようだ。つまり、江戸幕府を倒した後、英国をバックに長州が政治実権を握る意図だったかもしれない。そうすると、下関戦争というのは長州藩主にとって本気の攘夷ではなく、芝居かアクシデントにすぎなかったのではないか。まあ、幕末史に詳しくないのでこれは思想的メモにすぎない)
第二次大戦後は、日本の宗主国が(実態はまだ英国のままかもしれないし、英国と言うよりユダ金勢力と言うべきかもしれないが)英国から米国に変わっただけで、実は明治時代から日本は英米の属国だったのではないだろうか。


(以下「ネットゲリラ」から転載)



で、信長は全国統一を目指してなかったとか、秀吉の朝鮮出兵は、アジアに進出して来たスペイン・ポルトガル勢を追い払うためだったとか、天草四郎は架空の人物とか、まぁ、色々あるんだが、何といっても最近話題なのが、坂本龍馬だなw イギリスのスパイだった、とか、グラバーの抱えていた情報屋だとか、まぁ、コテンパンですw 吉田松陰も、最近の評価ではもっぱら「テロリスト」だな。ちなみに吉田松陰が下田で密航しようとして捕まり、江戸に送られる時に、江川太郎左衛門がニアミスしているんだが、もしかして囚われの吉田松陰に江川太郎左衛門が深夜、会いに行っていたのではないか? という人もいて、そこら辺を膨らませると、歴史小説が一本、書けるかも知れないw 新選組は江川太郎左衛門が作ろうとしていた近代的な軍隊組織がベースになっていて、だから、武士ではなく、農民、町人が参加している。近藤勇は、江川太郎左衛門の孫弟子にあたる人物です。江川太郎左衛門は開明的な人物で、ペリー提督との交渉にも立ち会っているんだが、アメリカの「民主主義」を現地で学んで、日本もそうした新しい体制を作ろうという主旨の文章を残している。韮山の江川邸には、未公開の貴重な文書がたくさん残されています。多分、薩長政府より、徳川体制のまま変革した方が、日本はマシだったと思う。

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復讐は本当に何も生まないか

大昔の物語や記録を読むと、「復讐」の話が膨大にあるわけだが、なぜ人間は復讐をするのか、つまり、復讐のメリットは何か、そして「復讐は何も生まない」という決め台詞は正しいのか、をだらだらと考えてみたい。

まず、復讐がまったく無かった場合を考えてみよう。
当然、復讐されるのが当然の行為(悪事)をした人間は復讐される心配が無いから安穏に生きられるわけで、そうなると、悪事をした者勝ち、ということになる。
もちろん、法治主義が原則である現代社会では個人個人の復讐を認めるわけにはいかないわけで、国家がその代行をすることになっているが、それが被害者側には常に不満の残るものであるのは想像できる。それは、たとえば殺人事件などで、人を殺した人間が、死刑になることが滅多にない、ということへの不満などだ。
しかし、個人的な復讐を認めたら、復讐された側の遺族は、今度は逆に自分たちが復讐をすることになり、とめどない復讐の連鎖が続くことになる。
まあ、それも面白い社会ではないか、と言うと無責任だと非難されそうだが、「殺人は基本的に禁止だが、正当な理由のある復讐の場合は許可する」という江戸時代の武家社会は案外正しかったのではないだろうか。
それは、復讐が無かった場合の事をもう一度考えてみれば分かる。
復讐のできない社会とは、要するに被害者が泣き寝入りをする社会なのである。それが犯罪者を付け上らせ、悪人こそが大手を振って往来を歩き、弱者(あるいは道徳的な人間)がどんどん生きづらくなる社会なのである。
要するに、現代日本とはそういう社会なのだwww

復讐にメリットがあるとすれば、そういう社会を今現在より悪化することから少しずつでも救うことだろう。



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世の中の出来事の9割は金目当て

まあ、私はジャーナリスト全体に不信感を持っているし、ジャーナリスト自身がネタになるような事件(特に、無名ジャーナリスト、昔なら「トップ屋」の場合)はだいたい自作自演だろうと思っているので、性善説の皆さんのように「冒険者」を頭から信じることはできないわけである。
安田氏が「拘束」されていた期間があまりに長すぎて、これは全員が仲間だろう、と思うのは当然の推理ではないか。私が本物のテロリストなら、面倒くさい捕虜など、最初に殺してしまう。つまり、ビジネステロリストであり、政治的集団ではない。それなら、カネになるなら「捕虜」と手を組むのも当たり前である。そして、実はあの写真はテロリストですらない可能性もあると思う。黒服の、覆面の男(実は仲間である野良白人か)にライフルを持たせた写真など簡単に撮影できる。後は「捕虜」役はどこかに隠れて髭を伸ばしていればいい。
日本政府はカネを出さない、と言っていたが、では、どこの誰がカネを出したのか。結局、誰かがカネを出したから安田氏は表に出てきたのである。上手いビジネスではないか。
もちろん、以上は単なる推測にすぎない。善意の「冒険的」ジャーナリストもたくさんいるだろう、と譲歩はしておく。ただし、マスコミ全体が利益共同体であり、こういう「お騒がせ事件」はそれだけでマスコミの利益になるので、大歓迎なのである。つまり、マスコミからの疑念の表明は、事件を誰もが忘れるまで行わないわけだ。





reihuy @reihuy97

安田純平の盟友常岡浩介
「安田さんと同じくヌスラ戦線に拘束された人によると、ヌスラの幹部から『お前の国から身代金を獲って山分けしようぜ』と誘われたことがある。同意すると、待遇が良くなり幹部と食事もできるようになった」

全ての辻褄が合っちゃうんですけど、友人の策略バラしてません?



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エゴイズムの文明と和の文明

別ブログに書いたものだが、案外重要な思考素かもしれないのでこちらにも転載しておく。



エゴイズムの文明と和の文明



メモだが、近代の西洋文明というのは、一言で言えばエゴイズム(個人主義)の肯定である。
それがなぜ、和の文明である日本よりはるかに高度な文明に達し、江戸末期に日本は危うく滅びかかったのか、という問題を考えてみたい。
その答えは、おそらく、「現状への不満の表明」つまり、現状への批判が許される(あるいは自然に表に出る)社会かどうかということではないかと思う。
和の文明では、不満の表明は不和の元として各自が腹の中に飲み込むことになる。したがって、社会の改善すべき点が表に出ることもなく、ずっと変わらないことになる。つまり、永遠の停滞だ。
これは日本のみならず、「尚古主義」である儒教思想が覆っていたアジア全体の特徴ではないか。
停滞のアジア、である。
政治的に言えば、悪政の根本原因を変えることなく、部分的な糊塗策だけでその場逃れをする政治が永遠に続くことになる。これが官僚主義の本質であることも言うまでもない。

もちろん、西洋文明でも不平不満の表明は軋轢を産み、弾圧され、場合によってはその不平不満の表明者は処刑される。しかし、個人主義が根本にある限り、恵まれない人々の不平不満の表明は抑えることはできなくなり、上と下の「政治的妥協」が行われることになる。それが社会福祉の増進などになるわけである。





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霜を踏みて堅氷至る

非常に面白い問題提起だが、しかし庶民感覚では昔からこんなものだったと私は思う。おそらく私が19歳20歳だったら、杉田水脈みたいな考え方だったのではないか。
要するに、我々は20歳になるまでにすでに誤った世界像や社会観や歴史観を、教育やマスコミや近隣の大人や先輩によって叩き込まれていて、立派な(アホな)心情右翼として大人になるわけである。
タイトルは、前にも書いたが、「物事は長い布石があって、それが成長して事件として表れるものだ」、ということである。「易経」の中の言葉で、私が大好きな言葉だ。


  1. 小田嶋隆‏ @tako_ashi 10月26日
  1. 念のために言っておくけど「長谷川豊ならびに杉田水脈の主張に共感する層はもはや現代日本人の多数派かも」というオレのtwは、「多数派なのだから尊重されるべきだ」という主張ではない。「いつの間にやら日本はこんな国になっちまったんだろうか」という慨嘆だぞ。あたりまえじゃないか
  1. うーん。「長谷川豊や杉田水脈の言説を支持する人間が現代の日本にはたくさんいる」という内容の私のツイートを読んで、 「オダジマは長谷川豊と杉田水脈の発言に共感している」  というふうに受け止める人たちがけっこういるみたいでですね。
  1. 長谷川豊や杉田水脈の発言について「言葉の選び方が無神経だったけど、言ってることそのものは正しい」とか思っている人間は、たくさんいる。 たくさんいるどころか、「弱者が滅びることは、社会の前進のためにはむしろ良いことだ」くらいに考えるのが、もはや多数派だったりするのだと思うです。
  1. もう少し詳しく述べると「自堕落な人間が自らの愚かさゆえに社会から排除されるのは当然のなりゆきだし、そうやって劣悪な遺伝子が淘汰されることで、結果として社会全体の強度が上がることは、むしろ望ましい展開だ」くらいに考えるのが、現代日本人の典型的な態度なのであろう、ということです。

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酔生夢人
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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