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September Song

「うざね博士のブログ」というブログから転載。孫引きか曾孫引きになると思う。映画の原題は「september song」ではなく「 september affair」のようだ。私は「september」の単語を読んだだけで短絡的に頭の中で「song」と続けたようである。

oh,the days dwindle down, to a precious few

は、一年の終わりの気分を、老年を迎える気分と重ね合わせた名フレーズだ。


(以下引用)


 下段の説明はWEB上でひろったもの、貼り付けてみたのでご参考までにどうぞ。ちなみに、歌詞は字幕以外にはいい日本語訳が見当たらない。映画から面倒をいとわず採録してみた。ほかにあればどなたか、ご教授願いたいものと思う。

「セプテンバー・ソング」は、ジョーン・フォンテーンとジョセフ・コットン主演、ウィリアム・ディターレ監督の映画『旅愁(September Affair)1952』のテーマ曲として有名です。映画はイタリアを舞台にしたAffair(不倫の恋)、恋愛劇で、これも九月の人恋しさを感じされる物語でした。この映画はアカデミー主演女優賞を獲ったジョーン・フォンテーンの成熟した演技が印象的でした。
 もともと、「セプテンバー・ソング(September Song)」は:クルト・ワイル(Kurt Weill)作曲、マックスウェル・アンダーソン(Maxwell Anderson)作詞のブロードウェイ・ミュージカル『ニッカボッカ・ホリディ(Knickerbocker Holiday)』の挿入歌。ウォルター・ヒューストン(Walter Huston)はカナダ生まれの俳優で歌手ではありません。そのため声域も広くない彼のために書かれたのが「セプテンバー・ソング」(September Song)なのですが、かえってこれが誰でもが口ずさめる親しみやすいメロディをこの歌に与えました。また、歌詞の内容も良く、「九月の歌」ではありますが、日が短くなるこの時期を愛の感情に重ねて秀逸です。明るい夏が終る九月という月の持つ季節の変わり目に対して、人が無意識に感じる感傷を表現しています。あるいは人生の秋、無駄にする時間は無くなり、残り少ない時間をあなたと共に過したいという意味も感じられます。この含みが歌詞に豊かな余韻を与えています。
「セプテンバー・ソング」はブロードウェイ・ミュージカルの発表当時から人々に親しまれており、スタンダードな歌となっていました。それを再びヒットさせたのがフランク・シナトラのバージョンです。この歌唱が今でもこの歌の変らぬスタンダードともなっています。曲と歌詞がシンプルで美しいため、これ以上のアレンジは難しい歌でもあります。一例を挙げれば、ルー・リードのカバー・バージョンもスタンダードに対するひとつの挑戦であるものの、原曲、シナトラを超えるものではありませんでした。

 “September Song”
When I was a young man courting the girls
I played me a waiting game
If a maid refused me with tossing curls
I’d let the old Earth make a couple of whirls
While I plied her with tears in lieu of pearls
And as time came around she came my way
As time came around, she came

[When you meet with the young girls early in the Spring
You court them in song and rhyme
They answer with words and a clover ring
But if you could examine the goods they bring
They have little to offer but the songs they sing
And the plentiful waste of time of day
A plentiful waste of time]

Oh, it’s a long, long while from May to December
But the days grow short when you reach September
When the autumn weather turns the leaves to flame
One hasn’t got time for the waiting game

Oh, the days dwindle down to a precious few
September, November
And these few precious days I’ll spend with you
These precious days I’ll spend with you


・映画挿入歌・ Song:Walter Huston
女を口説いていた若い頃は
 待つのも楽しみだった
 そっぽを向かれフラれても
 時を過ぎるに任せていた
 真珠の代わりに涙を捧げていた
 時がたち想いはかなった
 時がたち彼女は僕のものに

5月から12月までは長い月日だけれど
 9月になると日々は短くなる
 秋の気配が木の葉を赤く燃え立たせる頃
 もう待つことを楽しむ時間はない
 残りの日々は少なく貴重なものになってゆく

[9月から11月へと
 この大切な日々を君と共に過ごそう
 大切な日々を君と共に
 月日が流れワインは熟成してゆく]

9月から11月へと
 この実り多き歳月を君と分かち合おう
 実り多き歳月を君と共に

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年を取ったからこそ理解できる映画

ネットフリックスの映画(かテレビドラマか知らないが)「トロツキー」(私は「トロッキー」だとこれまで思っていた。)は、おそらくロシアで制作されたもので、全編ロシア語だが、日本語字幕付きだ。ネットフリックスは日本製アニメにも字幕を付けてくれるので、私のように軽い難聴の人間にはとても助かる。これまでの生活でも、他人の話すことの半分くらいは聞き取れなかったのである。自分が難聴であると自覚したのは最近のことだが、よく考えると若いころから耳は悪かったのだ。
それはともかく、その「トロツキー」は大傑作であり、普通の劇場公開映画と並べても歴代最高の「政治ドラマ」だろう。私のようにロシア革命をあまり知らない人間(これまでは興味も無かった。)でも、全話を見ればその概要が分かり、なるほど、レーニンとトロツキーとスターリンの関係はこうだったのか、とおおよそ理解できる。素晴らしいのは、各人物がまったく美化も神格化もされず、それにも関わらず、それぞれが「政治的怪物」であることが見事に描写されていることだ。特に、スターリンを演じた俳優は、「怪物の中の怪物」という印象である。(若いころと中年では、その怪物としての熟成度が違うのを見事に演じ分けている。)
なお、時々セックスシーンが入るのが私の好みではないが、まあ、私はCM代わりの「目の休憩時間」にしているwww 要するに、どんな人間にも私生活はあり、セックスもそのひとつであるというだけだ。興味の無い人間はわざわざトロツキーの性生活を見るまでもない。ただし、やたらとそういうシーンがあるわけではない。ご家族で見るにはやや不向きかな、と思う。
なお、これもネットフリックスだったと思うが、キューブリックの「ロリータ」の放映期限が3月14日までだったので、中学生か高校生のころのテレビ放映を途中から少し見ただけで駄作だと思い込んでいたが、念のために見直すと、これがかなりの傑作で、「キューブリックに駄作なし」の私の考えは、以前は「ただし『ロリータ』を除く」だったのだが、その補足も不要になった。ただし、この映画は40歳前の人間には理解できないと思う。いわゆる「ロリコン」の語源になったナボコフの小説の映画化だが、セックスシーンは実はひとつもない。在るのは、未成年の少女を心の底から愛してしまった中年男の転落劇であり、それは悲劇的であり喜劇的でもあるのだ。キューブリックが明確なセックスシーンを作品の中から除去したのは、映画の主題はそこには無いからである。
これもついでに書いておくが、どのネットテレビだったか忘れたが、たぶんアマゾンプライムで見た、古い映画「赤い風車」は、ロートレックの生涯を描いた作品だが、この映画の美術は凄い。各シーンの人物やセットが、背景的人物も含め、まさにロートレックの絵の世界なのである。こういう作品も、おそらく若いころには私にはその価値が分からなかったと思う。そのほかにも、昔の白黒映画などで、「今だからこそ理解できる」作品に数点出会い、年を取るというのはこういうメリットもあるのだな、と思っている。

ちなみに、これもネットテレビで見た「旅愁」(似た名前の「旅情」とは別)も、いい作品だった。私は恋愛ドラマ、特に不倫ものは大嫌いなのだが、この作品は、そういう嫌悪感を観客に起こさせない「清潔感のある恋愛・不倫ドラマ」である。私の大好きな「セプテンバーソング」がこの映画の主題曲であり、映画の原題でもあるのは、見始めて初めて知った。昔の映画監督は、特に有名監督でなくても、映画作りが丁寧で誠実であり、特に「観客に不快感を抱かせない」ことには注意深かったと思う。これもちなみに、「赤い風車」の主題曲「ムーランルージュの歌」も名曲である。

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「日本の人作りとは奴隷作り」を絵に描いたような写真

体育館の床というのは、私にとっては地面と同じ(靴を履いて跳んだり走ったりする場)であり、野外との違いは、単に屋根があるだけのことだ。つまり、ここでの生徒たちの姿は「土下座」である。生徒たちは囚人、教師たちが牢獄の看守たちに見える。






商業高校に通う生徒から画像付きDM

「私の学校では集会が行われる時に先生が前に立つと必ず正座をして礼をしなければなりません。先生達は外部から来た人が褒めていたと自信満々に言います。」

商業高校は人作りの学校だから正座をさせるのらしい…




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若い女性のための男性鑑別法

まあ、結婚前の女性が読んでいるはずもないブログだが、下の忠告はなかなかいいと思うので、載せておく。拡散する価値がある。
若い女性というのは、本当に「男を鑑別する能力」が無い人が多いと思う。もっとも、人間鑑別眼が無いのはたいていの人がそうなのだが。(私は、顔でだいたい鑑別しているが、あまり間違ったことは無いと思う。知力は顔では分からないが、人格はだいたい分かる)
ただし、下のツィートにあるような「目下」に横柄な男(政治家で言えば麻生太郎とか)は案外出世する可能性は高いと思う。世のなかの人間の多くは高圧的なタイプに弱いので、こういう「押しの強い人間」に対しては譲ることが多い。その結果、図々しい奴、厚顔な奴ほどだんだんと地位が上昇していくわけだ。ただし、どこかで大失敗をする可能性もかなり大きいだろう。そして、高圧的な人間は家庭内では暴君になるのが当然予測されるから、そういう男を結婚相手にしたら、自分は「家庭内奴隷」になるわけだ。
ついでに言えば、道に平気でゴミを捨てる男もやめたほうがいい。これは「モラルの観念が無い」ことの表れであり、こういう小さな悪事を平気でやる人間は、バレない自信があれば大きな犯罪もやるものだ。「一事が万事」ということである。ただし、こちらも、出世する可能性が大であるwww 悪事をやる人間は度胸があり、誤魔化し方も上手いのである。ただ、同じ家の中で暮らす相手に向いているとは思えない。女性の側もモラルが欠如していればいいコンビだろうが、そういうコンビは地上から消滅したほうが社会の幸福だ。







さんがリツイート
返信先: さん

こんにちは、結婚前に見抜くヒントというか、
店員に横柄な態度を取る人

も頭の片隅に入れていただけるといいかなぁっと
「店員」さんとか、自分が優位にいる相手に偉そうな人は、嫁とかになって「優位」と確認されたら、店員さんにとってた態度が貴方にくるものだと思っていいと…




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「福祉」という言葉の意味

「神戸大好き」ブログ記事の一節である。
私は「神戸大好き」さんの文章から感じられる人柄は少々苦手だが、その記事の中で社会への鋭く面白い指摘をすることがよくあるので、一定の尊敬はしている。社会批評家として評価しているわけだ。
で、下のように「言葉の意味や定義」から考えを進めていく、という姿勢も私の好みである。議論の中で一番くだらないのが、「お互いに言葉の定義も無しに議論して、話がまったく噛み合わない」議論である。
私も、「福祉」という言葉の意味や定義は何なのか、疑問に思ったことがあるが、まあ、「祉」という字は「しめすヘン」に「止まる」で、しめすヘンは神関係の字に使うから、「神が(その場所に)止まること」くらいの意味かな、と簡単に考えていた。(もちろん、ここでの「止」は、意味ではなく「シ」という音を表わすのだ、ということは承知しているが、「形声文字」の「音」の部分も語義にまったく無関係なものだけでもない。)つまり、下の記事の考察を援用すれば、「その集団の中の弱者の幸福を増すような行為を皆がすれば、神がその集団にとどまり、集団全体に幸いを下す」というのが、かなりこじつけだが、「福祉」を漢字面から見た私の考察である。
その反対に、自分の利益しか考えない存在が集団の中にいると、集団全体から神は離れる、ということだ。日本全体がもはや神に見捨てられているのは、安倍、いや小泉以来の福祉予算削減が始まったころから決まっていた、というわけ。


(以下引用)




次世代の高齢者福祉ゴールデンプランとか、福祉事業が、どうちゃら、こうちゃらと、言われだしたとき
「福祉」っていったいなんだろうと考えた。


皆、わかって使っているのだろうか。

福祉施設・・・といえば、児童福祉施設、障害者福祉施設、高齢者福祉施設など、さまざまな入所施設をさす。


そういう「見えるもの」になれば、わかった気もするけど。

「福」はわかっても「祉」という漢字は、ここ以外で使ったことが無く、意味がよくわからない。


あれこれ考えて、結局、
思ったことは。


幸福とは、自分が、幸せになることで
福祉とは、社会や、公共が、人々を幸せにするために行うことー他を幸せにすること、だと思うに至った。


つまり地域福祉センターは、この近所の人の幸福感を増強するために存在する施設というわけ。



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「知らない」は学習のスタート

これは全国の教育者(学校関係者)の方に、ぜひ読んでほしいものである。

「『知らない』は学習のスタート」

は名言。大科学者も、「(研究の結果を)知らないから」研究をしているのである。で、自分が「知っている」と思ったら、進歩はそこで終わり。当たり前の話だ。ところが、学校の先生は「知っているふり」をしないと教師が務まらないから、いつも知っているふりをする。そうするうちに、「知らない」ことを罪悪視するようになる。
夏目漱石も、「猫」の中で、知らなくても知っているふりをするのが教師の得意技であることを書いている。中学教師の苦沙彌先生は、生徒から「番茶は英語で何と言うのですか」と質問されて、苦し紛れに「サベジチーだ」と答えたが、つまり、「savage tea(野蛮茶→番茶)」であるwww






さんがリツイート

小学校で「間違えるな」「間違えたら恥ずかしい目にあわす」「間違えたら罰が課せられる」。こんなことばかり教えてるからか、必死で知ってるフリする、知らないこと隠す子ども続出。「知らない」は学習のスタートなのに、そこからできるだけ離れようとしてしまう。




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戦争が日常である世界

「ガンダムORIGIN」が面白かったので、「アムロ・レイ」のガンダム、つまり、一番最初のテレビアニメ版である「機動戦士ガンダム」もネットテレビで見てみたが、まあ、小児対象のロボットの玩具を売るために作られたような部分(ロボット戦闘部分は基本的にそれ)が多いとは言え、話の骨子は実は非常に深刻なもので、小児向けアニメでこれほど人が死ぬのも珍しいのではないか。(あえて「小児向けアニメ」を強調するのは、当時は、アニメは子供の見るもの、というのが普通の考えだったからだ。今のように大人までアニメを見るようになったのは、その当時の子供が大人になり、作り手にも視聴者にもなったからである。)で、その「深刻さ」とは、「戦争が日常である世界」で生きる少年たちの話であることだ。
簡単に言えば、パレスチナで常にイスラエルに脅かされながら生きている少年グループが、最新鋭の武器を手に入れ、一人が1戦隊に匹敵する力を身に付けたらどうなるか、という話である。しかも、その力を手に入れたのが子供だから、それを制御する能力は不完全であり、また「大人たち」にその力を利用され、翻弄されることになる。「いい人ほど先に死んでいく」というのも戦争が日常である世界の常である。
アニメの中では、ジオン公国がまるでヒトラー政権下のドイツ帝国のような描かれ方をされているので勘違いされやすいが、ZIONとはシオニズムの語源であるシオン山、つまりユダヤ民族の故郷のことである。すなわち、ジオン公国とはイスラエルのことなのだ。
ガンダムが西洋世界(上級国民の多くがユダヤ人)でなかなか受け入れられない(と思われる)のは、そのためだろう。
ガンダムファンでありながら、この「イスラエル対パレスチナ」という構図に気づかない、あるいはあえて無視している人が多いかと思うので、「隠された常識」だろうとは思うが、あえてここに書いたのである。

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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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