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仏教は宗教か哲学か

偉そうに上から目線で言えば、非常に皮相な仏教理解のように思える。
私は仏教書などほとんど読んだこともないが、「般若心経」を自分で納得できるまで考察すれば、仏教理解には十分だと思っている。
私の場合は、世界のすべてを仮に「空」と見ることで、逆にこの世界の価値、生きることの価値を認識するという思考実験(思考体験)が仏教の真髄だと考えている。(これが「色即是空空即是色」の意味だと理解している。)
要するに、仏教とは(シッダルタが説いた時点では)本来は宗教ではなく、実用主義的な哲学だった、という認識だ。まあ、これは99%の仏教徒(たいていは「葬式仏教」の信徒かと思う。ただ、宗教そのものの価値を私は否定はしない。その社会的な効用は絶大だろうし、だからこそ危険性も大きい。)には排斥される考えだろう。
もちろん、仏教にはいろいろな派があり、そのそれぞれで「仏教」の内容は違うのだと思う。だからこそ無数に宗派が分かれたのだ。でなければ、「統一教会」ならぬ「統一仏教」が生まれただろうwww


(以下「紙屋研究所」から引用)*本論ではなく、導入部のみの引用。


日野雄飛『理想と恋』


 ある仏教書を読んでいると、次のような章・節タイトルに出会った。


「生命を生かしているもの」


「だれに生かされているのか」


 仏教の本を読んでいて、このタイトル。


 誰がどう考えてもこの章には、「宗教」じみた、「説教」くさい話が書かれているのだろうと考える。


 ところがこの著者は、「神さまでしょうか、なにか外部の存在でしょうか」と問いかけながら、次のように書くので、笑ってしまう。


 


わたしたちを生かしているものは、「不満」なのです。不満が、わたしたちを生かしているのです。/不満が「ああしなさい、こうしなさい」と命令して、わたしたちの生きるパターンを形づくっているのです。不満は、エンジンのようなものです。ジェット機が動くためには、エンジンが必要でしょう。いくら大きな両翼がついていても、エンジンがなければ一ミリたりとも動きません。(A・スマナサーラ『わたしたち不満族国書刊行会p.44-45、強調は原文)


 


 さすが仏教書!


 無神論としての、そして精神コントロールの宗教としての、面目躍如である。


 

わたしたち不満族―満たされないのはなぜ?

わたしたち不満族―満たされないのはなぜ?

 

 


 その上、「スリランカ初期仏教長老」の肩書を持つこの著者は、「満足は『死』を意味する」として、


「生きることに満足した」なら、生きることができなくなり、生きることが終了します。人生に満足したということは、人生が終わったということです。やることもないし、がんばれなくなります。/これは冗談ではなく、ほんとうに停止するのです。つまり「死」なのです。すべての機能がストップするのです。(スマナサーラ同書p.38) 



「満足すること」と「生きること」は敵同士です。(同p.42)


と説く。


 


 ちなみに、最も原初的な欲望、例えば食べてもまた食べたくなる、セックスしてもまたセックスしたくなる、というのは、動物として生き残った人間(ホモ・サピエンス)というものの自然選択の結果であり、バグではなく仕様なのだ、というのはロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』(早川書房)で読んだ(以下の引用に出てくる「章」は同書の章)。


 


 人間は目標を達成することで、長続きする満足が得られると期待しすぎる傾向がある。この錯覚とそこから生じるあくなき欲望という心の傾向は、自然選択の産物と考えると納得がいくが(1章を参照)、かならずしも生涯にわたる幸せの秘訣ではない。(ライト同書p.329)



ドゥッカは、普通に生きていれば容赦なくくり返しやってくる人生の一部だ。ドゥッカを従来どおり純然たる「苦しみ」と訳すだけではそれを実感しにくいが、「不満足」という大きな要素を含めて訳すとよくわかる。人間をはじめ生物は、自然選択によって、ものごとが(自然選択の観点から)「よりよく」なるような方法で環境に反応するように設計されている。つまり、生物はほとんどいつも、楽しくないこと、快適でないこと、満足できないことを探して地平を見渡しているようなものだ。そして満たされないことは必然的に苦しみをともなうため、ドゥッカに不満足が含まれると考えることは、結局、苦しみという意味でのドゥッカが人生に浸透しているという思想の信憑性を高めることになる(1章、3章を参照)。(ライト同前)



四聖諦で明らかにされるドゥッカの原因――タンハー(「渇き」「渇愛」「欲望」などと訳される)――は、進化を背景にすると納得がいく。タンハーは、どんなものに対する満足も長くつづかないように自然選択が生物に植えつけたものといえる(1章を参照)。(ライト同前)


 


なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学









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菓子袋の中には賄賂

時代劇の世界である。菓子折りの底には小判がぎっしりで、それを受け取ったお奉行が「越後屋、お主もワルよのう」www
ただし、これは役人が業者に「利得の一部を謝礼金にした」もので、贈るのと贈られるのが逆だが、元は税金からの中抜きである。



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_人人人人人人人人人人人_
> 現金を入れた菓子袋 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

驚愕がとまらない:「元助役が関電役員ら6人の個人口座に送金したり、現金を入れた菓子袋を関電側に届けたりしていたことが判明」


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判じ絵の鑑賞




世相を風刺しているというより、単に「面白い状況」を描いただけではないか。
鼠が箱(枡)で抑えているのは猫だと思うが、普通なら猫にやられっぱなしの鼠が巨大化して猫に勝っている(枡はネズミ捕りに使われたらしい。つまり、これも逆転現象。)のが面白い、ということだろう。褌姿で扇を持っている男は立会人で「勝負あり」と判定したところだろう。相撲を取る方ではなく行司が褌姿であるのも逆転現象。扇に「当たり(當)」と書いてあるのは、この勝負で賭けが行われたのかもしれない。

「そのままに転げ落ちたる枡落とし」(芭蕉一門の連句の中の一句)


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歌川国芳の「狂画絵手本 一」より。世相を風刺した判じ絵と思われますが、意味がよく分かりません。もしかしたら、描いた国芳本人も、はっきりとした意味を考えていなかった可能性もあります。太田記念美術館で10/4より開催の「歌川国芳ー父の画業と娘たち」で展示します。





















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「セクシー」の意味はなぜ拡大されたのか

今時の若いもんは「セクシー」を「性的魅力」以外の意味で使うほどアメリカナイズされているのか。
私はむしろ「セクシー」の意味用法の拡大に驚く。なぜそこに「セックス」に由来する言葉を使う必要があるのか、理解できないからである。なぜ「make green sexy」となるのか。

もちろん、私の辞書にも「sexy:(話)性的な、性的魅力のある、(一般的に)魅力のある」と書いていて、「一般的に魅力のある」意味にも使うことは使うとされてはいるが、性的な魅力があることと一般的に魅力があることが同じ言葉で表現されることを理不尽に思うわけだ。それなら、下司な言い方だが、魅力のある女性や素晴らしい美術品に「マンコ的で素晴らしい」と言うのと何が違うのか。

まして、外来語としての「セクシー」には日本人のほとんどは「性的魅力」しか訳語は無いのではないか。無理に日本語を使うなら、感覚的な言葉だが「グッと来る」くらいだろうが、その方が死語かwww

私には「セクシー」の中国語訳であるという「性感」が、セクシーの意味合いを端的に示していると思われる。
そして、セクシーの意味用法の拡大の理由も想像はついている。それは要するに、「性の解放(一夫一婦制の破壊、貞操観念の破壊)は消費を押し上げる」からである。つまり、経済界や西側マスコミの資本主義的戦略によるものだと推定している。簡単に言えば、配偶者にはカネを使わない男女も愛人や愛人候補者にはカネを使う、ということである。




ただ今回のセクシーの件で、セクシーは中国語で「性感」と書くらしいことを知った。



  • 「スマート」は「細い」というだけの意味ではなく、「クール」は「冷たい」というだけの意味ではなく、「セクシー」は「性的魅力」というだけの意味ではない。そもそもこんな事がピックアップされる事自体に驚いた。



  • セクシー発言がやたら言われてて本当に意味がわかんなかったけど、普通にセクシーを「性的な魅力」に関する言葉と捉えて話題になってたのか・・・流石にその発想は古すぎてビビる・・・・・・・・・


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僕は(私は)大丈夫です

この「大丈夫です」の奇妙な使い方、最近よく聞くのだが、都会では昔からあるのだろうか。責任を取るべき人間が逆に「私は大丈夫です」と言って、責任を逃れるわけだが、いったい誰がその責任を免除しているのか不明、という用法だ。これを政治家が使い始めたらこの国はお終いだろう。まあ、政治家はそれを不言実行しているわけだがwww

下の漫画で使い方は分かるとは思うが、詳しく説明すると、たとえば会社同僚数人で飲み会などをやって勘定を支払う段になり、それぞれが割り勘分を出した時に、ひとりが「あ、私は大丈夫です」と言うわけだ。これは「私は大丈夫です→俺の心配はするな→俺に構う必要はない→俺はカネを払わないぞ」ということで、相手も「あ、この人はカネを払わないでいい理由があるのだろうな」と忖度して、彼以外の数人でカネを支払ったりすることになる。つまり、「相手の心配を謝絶する」という「恩着せ」をする形で、自分の責任逃れをするという高度な心理操作なのだが、もちろん詐欺行為である。大人社会は忖度社会だから、正体の知れない相手が意味不明なことを言っても聞くほうは勝手に脳内補完してそれを解釈してくれるわけだ。
だが、下の漫画だとそれを子供が使っているのが興味深い。本当に子供でもこれを使う社会があるのだろうか。



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小3の頃に初めて消費税3%が導入されたんだけど、「消費税の支払い、小学生は任意」みたいな噂が周囲で流れてて、スーパーでお菓子買うとき「あ、僕は消費税払わないです、いいです」みたいなこと言って店員から「はあ?」みたいな顔された。

そんな事を増税の度に思い出して微妙な気持ちになります。








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異種の目で世界を見ることの「異化効果」

今書いている途中の小説の話だが、これはヴォルテールの「カンディード」やモンテスキューの「ペルシャ人の手紙」に似た小説で、異星人の目で地球、特にこの日本の姿を描いてみようとしたものだが、まあ、変種の随想であって小説にはなりそうもない。だが、書くこと自体は面白いので、気が向けば少しずつ載せていきたい。できれば、漱石の「吾輩は猫である」が小説であるくらいには小説にしたいものである。
なお、「ペルシア人の手紙」は読んではいないが、下に紹介されただけでも読んだつもりにはなれる。「カンディード」との類似は、大げさに言えば「哲学小説」を目指すこと、つまり人生の疑問、世界への疑問の考察を小説形式でしたい、ということだ。

(以下引用)

ペルシアじんのてがみ【ペルシア人の手紙 Lettres persanes】



モンテスキューの書簡体小説。1721年刊。ペルシアの高官ユスベクは政治的亡命を余儀なくされ,友人リカと故国を離れ,ヨーロッパに来て,フランスに滞在する。2人が友人や召使と交換する手紙を通して,18世紀初頭,すなわちルイ14世の晩年から摂政時代のフランスとヨーロッパの社会状況が,慣習によって曇らされていない異文化圏からの来訪者という観点から批判・風刺される。その対象はパリのコーヒー店,市民の物見高さといった風俗から,ナントの王令廃止,ルイ14世の死,経済政策,奴隷制などの政治論議,さらには教皇権,宗教裁判,神学論争などの宗教問題と多岐にわたり,軽妙な筆致で論じられる。

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下種が作り馬鹿が見る

まあ、テレビに無関心な人間にはどうでもいい話だろうが、テレビ番組を作る側というのはこういう連中だ、というのは知っていてもいい。
彼らにしたら、「テレビに出してやるのは出演者にとっては自己宣伝になるから無報酬でもむしろ恩恵だ」という考えなのだろう。また、学者や専門家などに貴重な資料を借りて、それを無くしたり汚損したりすることも良くあるらしい。そういう無責任体質こそがテレビマンの本質だ、ということである。





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先日、日本テレビ「シューイチ」から依頼を受け、急遽2日間拘束の撮影で中丸雄一さんのコーナーに出たところ、撮影後に番組側からどさくさに紛れて無報酬及び番組内容演出に異議を唱えない承諾書を結ばされそうになりました。署名する前に気づいて抗議しましたが、手口、内容ともにどうなんでしょう?













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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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