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死者は忘れられた時に本当にこの世から消える

「この世界の(さらに幾つもの)片隅で」が公開されているので、特に若者にこの映画をお勧めするため、前の版が公開された時に書いた文章の一部を再掲載する。「自分自身の精神を拡張する」というのは、我ながらいい表現だと思う。他人にはそう言いながら、それが自分ではなかなかできないところが私のダメなところだが。


(以下自己引用)下の「火垂るの墓」は、アニメ版(高畑勲監督)のこと。


死者を忘れること、思い続けること


私のように、自分の生理に合わない対象は最初から敬遠する、という態度では、戦争文学など読めないから、物の見方や精神が浅薄になるのは避けられない。「火垂るの墓」を見たのも、あの作品が公開されて10年以上も経ってからだったと思う。それも、娘が読んでいた「恋愛ラボ」という女子中学生学園ものコミックを読んで私もファンになり、その中で主人公たちが「火垂るの墓」のDVDを見て大泣きする描写が面白かったから、やっと観る気になったのである。名作であった。だが、二度と見たくない名作であった。
こういう「心をえぐる作品」を観たり読んだりするには「精神的な体力」が要る。戦争をアクション物としてではなく、人間のドラマとして描いたものを観るには、要するに「目の前に描かれる悲惨」に耐える精神力や気力が必要なのである。それを「他人事」「どうせ作り事」として平然として見ている、という神経もまた正常な(何が正常かはさておき)人間のそれではない。

多くの若者が「この世界の片隅に」について、興味は惹かれながら、戦時下の庶民を描いたものだと聞いて「火垂るの墓」のようなものだろう、と想像して二の足を踏む、というのはある意味健全な心理だと思う。だが、あの戦争で起こったことが何だったのかを知るために、その踏み出し難い一歩を踏み出すのは、自分自身の精神の拡張のために非常に有益なことであり、そして、あの映画を見て、原作を読むという経験は、それ自体、「楽しい」経験でもある。その「楽しさ」は、けっしてあの戦争の死者を冒涜するものではない。むしろ、その経験を通じて、あの戦争の多くの死者たちは現代によみがえり、そして未来につながっていく。永遠に死なない存在になるのである。



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百聞(ネトウヨデマ、マスコミデマ)は一見に如かず

カマヤン氏のツィッターからの引用だが、動画のコピーができていなかったら、ぜひ元記事を見てほしい。何十万人ものデモである。ネトウヨがよく言う、「文政権は韓国国民から支持されていない」が大嘘であり、韓国国民はむしろ検察側を批判し、文政権を支持していることが良く分かる。

  1. さんがリツイート

    「検察改革」を叫ぶソウル市民。
    日本のメディアは報じない。
    これでも日本のメディアは「反韓」報道を止めないのか?
    5


    />
    1:57
    206,541回再生済み

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「私作る人、あなた食べる人」感覚はまだまだ健在か

まあ、基本的におせちというのは保存食だよな。正月三が日くらいは主婦が料理を作ることから解放されるためのものであるわけだ。お雑煮なんて、汁を大量に作れば、3日どころか5、6日は餅を入れるだけでいいわけだ。ただし、おせちを前以て準備する大変さは想像できる。
下のツィートでは「祖父が食べていた」と、祖父が主体になっているが、なぜ作り手(祖母か?)ではなく、食う方が主体なのだろうか。食う人間のほうが偉いのかwww その辺りに昭和臭(封建時代臭)を感じるのは私だけか。まあ、祖父が作って祖父が食っていたのだ、というなら話も分かる。



さんがリツイート

うちのおせちは祖父が食べてたままのメニューなので、たぶん明治時代のそのままです。












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いろは歌の「思想」の考察

筒井康隆の「不良老人の文学論」の中に芥川龍之介の「侏儒の言葉」について書かれた小文があって、その最後に「侏儒の言葉」の中にある次の言葉が引用されている。

「我々の生活に欠くべからざる思想は、或(あるい)は「いろは」短歌に尽きているのかもしれない」

もちろん、私は中学生くらいに「侏儒の言葉」は読んでいて、この言葉も記憶にあったが、それを真面目に考えたことはなかった。そもそも龍之介は「人生は一箱のマッチ箱に似ている。真面目に扱うのは馬鹿馬鹿しい。真面目に扱わないと危険である」とも書いた人であり、人生というものを「真面目に扱うのは馬鹿馬鹿しい」と考える人間が、人生に必要な思想は「いろは歌」だけで十分だ、とするなら、それはさほど深遠な思想ではないだろうと私は無意識のうちに考えたのだと思う。
だが、これは芥川流の韜晦で、あるいはこの「いろは短歌」云々は真面目な発言であった可能性もある。とすれば、いろは歌の思想とは何なのか、考える価値もあるだろうが、実は私はいろは歌を真面目に考察したこともなかったのだ。もちろん、語調が良く、見事に歌になっているのも凄いと思うから、さほど苦労もせずに覚えたのだが、その「思想」については、「どうせ、ひらがな四十七文字だか四十八文字だかをすべて一度だけ使って歌にするというアクロバチックな『縛り』で作った歌にロクな思想など入れられるはずはない」と心の底で軽く見ていたと思う。
中には「有為の奥山今日越えて」のように、解釈の難しい部分もあるが、ここで考察してみる。先に、いろは歌を漢字まじり、現代かなづかいで書いておく。


「色は匂えど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ。有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ、酔いもせず」

念のためにひらがな、歴史的仮名遣いで書くと(句読点はつけておく)

「いろはにほへとちりぬるを、わかよたれそつねならむ。うゐのおくやまけふこえて、あさきゆめみしゑひもせす」(先に書いた時に「こへて」と書いたが、「越ゆ」はヤ行語尾なので「こえて」に訂正する。そうでないと、「へ」が二度出るし。いや、下ネタではない。)

である。
さて、現代語訳してみる。
「匂う」は古文では主に色鮮やかな様であり、嗅覚の「匂う」の意味で使う方が少ないと思う。本居宣長の「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂う山桜花」の「匂う」も視覚表現だ。桜の花には嗅覚的な意味での匂いはほとんど無いと思う。しかも「朝日に(照らされて)」に続くのだから、視覚表現に決まっている。
そこで、いろは歌の「匂う」の主体を補って訳すと

「花は美しく咲き誇っていたが散ってしまった。それと同じく、私が生きるこの世で永遠のものが何があり、不死の人が誰があろうか。生きて何かを為せる、その最期の時を今日踏み越えていくその先では、私は浅い夢も見るまい(見ないだろう)。酔うこともなく」

とまあ、訳してみたが、「有為の奥山」を今日越える、ということを死出の旅路と見たわけだ。そうすると、我々の祖先は手習いや学問の初めに「人生は無常であり、生は永遠ではない」ということを子供に教えたことになる。
まあ、「浅き夢見じ」を「夢見し」と解釈することも可能だろうが、「し」は過去の助動詞「き」の連体形であり、そこで終止するのは不自然なので、やはり「夢見じ」が正しいだろう。「じ」は打ち消し意志か打ち消し推量の助動詞「じ」の終止形か連用形だろう。
そうすると、この無常であり有限である人生をいかに生きるべきかの解答として「浅い夢も見ることなく、酔うこともせずに生きなさい」という、真面目そのものの生き方を推奨していることになるのだろうか。とすれば、これは「人生哲学」としては文部省推薦の思想だろうが、問題はこの部分は「有為の奥山を今日越える」その先の話だ、ということで、実はこれは人生哲学ではなく、死についての哲学ではないだろうか。つまり、死んだら、夢を見ることも無く、酔うことも無いのだよ、と教えていることになり、「生きているうちが花なのだから、せいぜい、浅い夢でも見て、酒でも飲んで楽しく生きなさい」という解釈も可能かもしれない。などと言うのは、言うまでもなく私は夢を見るのも酔うのも好きであり、それが無ければ生きる意味も無いのではないか、と思うからであるwww






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「ボレロ」的な目覚まし時計

これは商売ネタになるのではないか。ラヴェルの「ボレロ」に限らず、最初は小さい音で、少しずつ音が大きくなっていく目覚まし時計を作るわけである。
私などのように、セットした時刻の数秒前に必ず目が醒める体質の人間(まあ、神経質なのだろう。)には無縁の話だが、普通の目覚ましではなかなか起きられない人もいるだろう。最初から大きい音だと周囲(家人など)に迷惑だし。


(以下引用)


目覚ましの音を風の音にしてるんだけど、最初は良かったんだけども最近はそこそこデカい音でピューピューなるからイライラしてきた。そこでふと「ボレロなら最初音小さいしイラつかないのでは」と昔から死ぬ程聴いてるカラヤンのラヴェルのボレロを買ってDLしてみた。早速アラーム音に適応して寝る。










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Gone has Gone with the wind

新年大喜利。座布団一枚。
ただし、文章で書くなら「~と説く」ではなく、「~と解く」だろう。
などと言いながら、タイトルの英語は滅茶苦茶である。そもそも、ゴーンという名前の綴りも知らない。途中の単語を名詞でもないのに大文字で書き始めているし。本当は、大リーグ野球中継でホームランが出た瞬間のアナウンサーの「イッツ ゴーン!」をタイトルにしたかったが、パソコンの一部が反応しない(記号部分など)ので書けない。



さんがリツイート

苦情で除夜の鐘中止とかけまして
保釈中の被告が国外逃亡と説く
その心は
街からゴーンが消えました








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背後にダッソーがいるから脱走はお手の物www

ゴーン逃亡に関する「ネットゲリラ」記事のコメントのひとつだが、こういうフランス事情(政財界裏事情)は知らなかった。勉強になる。

(以下引用)


■ちなみにルノーというのは、単なる自動車会社と思ってるかもしれませんが、ヨーロッパ最大の軍需産業ダッソー・ブレゲ社の自動車部門です。
ダッソー・ブレゲと言えば戦闘機のミラージュが有名です。 
ダッソー・ブレゲ社は、ダッソー財閥のマルセル・ダッソーとブレゲー家のブレゲーが合併してできた軍需企業です。
その昔、フランスのミッテラン大統領がこのブレゲー家の親戚でしたね。
フランスという国は、ロスチャイルド財閥とダッソー財閥の2大財閥の国なのです。
フランスの政治家もほとんどこの2大財閥の手下です。
で、こないだフランスのマクロン大統領は米、中、ロシアから身を守るために、ヨーロッパ独自の欧州軍を作ろうなどと言ってましたね。
マクロンさんもロスチャイルドとダッソーの手下ということです。



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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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