忍者ブログ

立原道造の詩について

これも昔書いて、わりと気に入って紙にプリントして保存していたものだが、当時のワープロではアンダーラインや四角で単語を囲むなどの作業ができず、ワープロ印刷したものに鉛筆で書き込みをした不細工な原稿である。この機会に、それをパソコン記事にして公開するが、パソコンでも表現できない部分は適当に直すか省略する。こういう感じで詩の分析を続けるつもりだったが、これ以上の分析をすることもその後無かったので、「詩の分析Ⅰ」だけで終わっている。

(以下自己引用)色字化などは現在追加した部分であるが、文章は基本的に当時(30年以上前)のまま。

「立原道造の詩」(詩の分析Ⅰ-構造の面から)

 日本のすべての詩人の中で、立原道造ほど独特な詩情を持った詩人はないと思うが、その理由を明確に分析した人はいないようなので、私がそれを試みてみたいと思う。勿論、しごく粗雑な分析であるが、詩というものへの一つのアプローチにでもなれば幸いだ。
 彼の詩を読んで誰でも感ずるのは、その著しい音楽性だろう。彼の詩はまさに言葉による音楽なのである。そしてそれがまさに彼のめざしたところでもあるのだ。
 詩人として、言葉による音楽を造り上げようという望みを持たぬ者はいない。しかし、それに成功したのは彼だけである。(ここで言う音楽とは、単なる声調ではなく、本来の意味での音楽、つまりメロディとリズムを持った、一連の進行する音の流れのことである。)
 では、それはいかにして成功したのか。つまり、立原道造の詩のメソッドとは何かが、ここで私が考えようとしている問題である。

 言葉による音楽の創造という彼の意図は、それぞれの詩や詩集の題名からも明瞭である。
 たとえば、詩集の題名はこうだ。

「萱草に寄す」  *夢人注:「萱草」は「忘れ草」と読む。
「暁と夕の詩」
「優しき歌」

 それぞれの詩の題名もまたドイツ歌曲の題名のようである。
「はじめての夜に」
「またある夜に」
「晩き日の夕べに」
「わかれる昼に」
「のちのおもひに」
「夏花の歌」
etc,etc,……

 これらの題名を読んだだけで読者はまず音楽的な気分に誘われるだろう。つまり、タイトルによって心の準備がなされるのである。そして、詩の内容もその予想を裏切らない。
 
 次に、詩の内容を見てみよう。
 
 詩の主題として彼が選んだのは、何よりもまず、甘やかな「悲哀」である。たまに満ち足りた幸福感を歌うこともあるが、(「草に寝て……」など。)それは例外であり、彼の詩はおおむね喪失と悲哀とを歌っている。(喪失は悲哀の原因である。悲哀とは、何かを失ったことへの、または求めて得られぬことへの穏やかな悲しみの情である。)
 すべての感情の中で、美しい音楽を聞いたときの感情にもっとも似ているのは、あこがれと悲哀だろう。怒りも喜びも音楽的な感情ではない。だから、立原道造は喜びや怒りを詩の主題とすることはなかった。おそらく、彼の詩の九割以上は、あこがれか悲哀を主題としているはずである。


 彼の詩をもっとも特徴づけているのは、彼の用語である。音楽が、何よりもまず楽音と騒音とを区別するところから始まるように、彼は自分の詩の用語を選びぬいた。すなわち楽音しか用いなかった。そこが、彼の詩が少女趣味だと思われやすい原因にもなっている。
 彼が好んで使った言葉は、たとえばこんな言葉だ。
 
 月、光、夢、霧、道、花、空、夕闇、小鳥、物語、静かさ、風、追憶、星くず、せせらぎ、悔い、ほほえみ、愛、かなしみ、さびしさ、etc,etc,……

 これらが彼が楽音として選んだ言葉だ。しかし、それだけではもちろん音楽にはなりはしない。それらを用いてメロディを作らねばならないのだ。メロディは、ここでは文体ということになる。前にあげた、「きれいな」言葉のほかに、立原道造らしさを作り上げているのは、茫漠とした感じを与える言葉を多用していることである。具体的には、疑問と否定、婉曲な言いまわしの多用だ。(その結果は、ドビュッシー風のメロディになる、と言えるだろう。)

 「--であらう」「--かのやうに」「いかな」「何か」「--だらうか」「--もなく」「--もなしに」「--なくなった」「--ばかり」「どこに」「ひとよ」「どうして」等々。

 「--していた」という、静謐を感じさせる言葉も多く使われている。

 これらの用語が注意深く組み立てられたとき、そこに立原道造の世界が出現するのである。


   またある夜に

私らはたたずむであらう のなかに
は山の沖にながれ のおもを
投箭のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帳のやうに

私らは別れるあらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会った
やうに 私らは忘れるあらう
水脈やうに

そのは銀の 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりひとり
夕ぐれになぜ待つことをおぼえた

私らは二たび逢はであらう 昔おもふ
かがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

*色字は一般的な感傷性を帯びた語であり、下線部が立原道造独自の個性をかもし出している語である。
*この詩は各連の構成が「AABA」となっており、それ自体が音楽的である。


   晩き日の夕べに

大きな大きなめぐりが用意されてゐるが
だれにもそれとは気づかれない
にもにもうつろふ花らにも
もうひかれ誘はれなくなった

夕やみ淡い色に身を沈めても
それがこころよさとはもう言はない
鳴いてすぎる小鳥の一日も
とほい物語とを教へるばかり

しるべもなくて来た
道のほとりに なにをならって
私らは立ちつくすのであらう

私らのどこにめぐるのであらう
ひそかに しかしいたいたしく
その日も あの日も賢いしづかさに?



 言葉ばかりではなく、詩全体の構成もまた音楽的な組み立てを持っている。たいていはいくつかの(二つか、多くても三つの)メロディ、およびその変奏からなっているのだ。

(夢人注:この部分はかなり複雑な書き込みで、それを再現するのは相当の手間がかかるので、残念ながら省略する。詩は「またある夜に」と「わかれる昼に」を分析素材にしている。)

 ここには確かに、細心に考えぬかれた、効果の計算がある。つまり、彼は極度に意識的な、または方法を重視するタイプの作家(詩人)であった。彼の模倣者たちが成功しなかったのは、要するに方法への自覚が足りなかったためである。単なる感受性の相違だけではない。

 立原道造をナイーブな作家と見ることは誤りである。彼の作品の中に彼自身を探すこともまた誤りである。彼ほど私小説的な作家からほど遠い作家はいない。彼の詩はすべて注意深い効果の計算の上に成り立っている人工的なConstruction(建築物、構造物)なのである。(夢人注:彼の本職は建築家であった。)
 彼の恋愛が彼の詩のための材料集めにすぎなかったとすら考えることも不可能ではない。











 



拍手

PR

「死についての詩」

年末にふさわしく、昔書いた「死についての詩」という文章を載せておく。
まあ、「正月は冥途の旅の一里塚」ということで、正月を安らかに迎えてもらおうというわけだww 訳は私自身によるもので、誤訳は当然あるだろう。

(以下自己引用)



「死についての詩」

ポオがその詩論の中で言っているように、詩の主題として悲哀に勝るものはない。悲哀の中では死の悲哀が最大のものだろう。もっとも肉体の死だけが死ではない。


  愛について語るなお前の愛を  


愛について語るなお前の愛を
語られなかった愛もある
優しい風が
静かに 目にも見えず
動くかのように……

私は語った
私の愛を 私は語った
彼の人に
私のすべての思いのたけを
ふるえつつ 凍えつつ
恐れつつ……
おお、彼の人は去った

彼の人と別れた後
旅人一人私のもとを訪れ
音もなく 目にも見えず
溜息とともに
彼の人を連れ去った


(ウィリアム・ブレイク)



この詩は魂の死、すなわち忘却をうたったものだろうと思う。(本人に聞いたわけではないが)
一人の旅人とは「時」であり、時が彼の人の思い出を連れ去った、というのが第三連の意味だろう。溜息をもらすのは誰か。思い出自身か、私の気づかれざる心だろうか。

肉体の死をうたった優しい詩もある。


 歌


もしも私が死んだらあなた
悲しい歌を歌わないで
お願い、楽しい歌を……
私の枕元にバラや
陰深い糸杉を植えないで
雑草の生い茂るままにして
通り雨や露の濡らすにまかせ
そして
あなたが望むなら思い出して
そして、あなたが望むなら忘れて

私は影を見ることはないでしょう
雨を感じることもないでしょう
苦しむように鳴く夜鶯の声を聞くこともないでしょう
永遠の夕暮れの薄明かりの中で夢見て
幸せに私は思い出すでしょう
そして、幸せに忘れることでしょう

(クリスチナ・ロセッティ)*夢人注:実は、最後の連の中の「幸せに」は「haply」をhappilyと同義の古語だろうと勘違いした誤訳だが、この誤訳が気に入っているので、そのままにしておく。「haply」は「ことによると」の意味の古語である。

こううたえば死も優しいが、死は本来グロテスクで、こっけいなものである。イギリスの作者不詳の古い詩に、こういうものがある。

  二羽の烏

一人で歩いているとき
二羽の烏がささやき合うのを聞いた
一方が他方に言う
(どこへ行って今日は飯にありつこう)
(お前の後ろの古壁の向こうに
騎士の新仏があるのを俺は知っている
俺以外には誰も知らない
彼の鷹も彼の犬も彼の愛した女も)

(彼の犬は狩りをしている
彼の鷹は野のフクロウを追っている
彼の女は新しい愛人を作っている
俺たちはたっぷり御馳走をいただこう)

(お前は首の骨にとまるがいい
俺は青い美しい眼をつつきだそう
石で頭蓋を割った後
中身を巣に持っていってやろう)
(多くの人が彼の不在をささやくだろう
だが彼の行方は誰も知らない
すっかり白骨になったその上には
風がいつまでも吹くだろう)


我々が死を儀式化するのは、もしかしたらこういう真実に目をおおっていたいからかもしれない。我々の生とは、そして死とはしょせんこんなものであるという真実に。この詩は死を描きながら、生の姿をも描いているのである。












拍手

基地外の外食禁止

いやまあ、「キチガイの外食禁止」「キチガイの外出禁止」というのが面白いから載せただけであるwww 
関東平野は米軍の立ち入り禁止区域指定か。近いうちに現在の居住地を離れる予定なので、その前に旧友に会いに東京に行こうかと思っていたが、まあ、やめておく。PCR検査で陽性になるとその後の行動がまったくできなくなる。新コロ騒動は社会全体を閉鎖病棟にしている。


(以下「ネットゲリラ」から転載)


在日米軍が、関東平野150km圏内での外食禁止、というんだが、そりゃ軍隊だから、自分の組織を守るのが一番大事で、実質的な外出禁止令です。日本政府の間抜けさがひときわ際立つというもので、GoTo日本人絶滅政策なんぞに惑わされず、いい子は家でヒキコモリw
在日米陸軍司令部は12月3日から、同司令部から150キロ圏内の関東平野における基地外のレストランや食堂、飲食店での外食を禁止することを発令した。また、東京、神奈川、千葉の人口密集地を「立入禁止」に定めている。
また、在日米陸軍のフェイスブックに投稿された発令では、東京、神奈川、千葉の人口密集地中心に「立入禁止」に指定した地図が添付されている。
米軍は沖縄の基地や空母内で大量にクラスターを発生させ、むしろ「加害者」だったんだけどねw 

拍手

知の悲しみ、無知の幸福www






ディービィー
@AsmodeusDB
フィリピンハブの女性に入れ込んで仲良くなりたいためにタガログ語を勉強した結果、店員同士で話してるのが自分の悪口であることを知ってしまった昔の同僚の話は現代の寓話として心に残ってる。


拍手

「中孚、小過、既済、未済」の占断

61:中孚(風沢中孚)【○○× ×○○】「中なるまこと」*「孚」は「ふ」と読む。

中孚(の卦)は吉である。大きな企てによい。貞固であると利がある。

*卦辞の中に「中孚 豚魚吉」という謎の言葉がある。豚魚は河豚(ふぐ)ではなく、「豚と魚」のことのようだが、この卦に何の関係があるのか。先達の解説は屁理屈じみている。「孚」とは「誠」「誠実さ」の意味らしい。中孚とは心中に誠がある意味のようだが、なぜ、「孚」という奇妙な漢字を使ったのだろうか。風とか沢という、軽薄そうな象に「誠」を結びつけるのも無理がありそうで、「孚」を「誠」と解釈したこと自体が間違いではないか、と思うが、まあ、強弁はしない。「豚魚吉」について、彖伝では「信豚魚に及べばなり」とある。人間だけでなく、豚や魚までがその人を信頼する、ということだろうか。象伝で「君子もって獄を議し、刑を緩くす」とあるのは、その信頼があってこそ、獄を議し、刑を決められるのだ、ということか。(漢和辞典で確認すると、「孚」は鳥が卵をかえす、たまご、はぐくむ、まこと、とりこ、などの意味がある。鳥が卵を孵すような、無心の行為を「真心」と見るなら、それは豚でも魚でも同じような真心はある、と言える。親が子を育てるのも、別に将来の利得を考えての行為ではない。そういう無私無欲の愛他的行為を「孚」と言ったのではないか。)

62:小過(雷山小過)【××○ ○××】「小事における行き過ぎ」

小過(の卦)は通る。貞固であると利がある。小事にはいいが、大事には不可である。上にのぼるような行為には良くないが、下るような行為には良い。(その場合)大いに吉。

*山や坂道を登るにしても、上りは苦しいが下りは楽である。まして、山頂で雷が鳴っているなら、さっさと下りるべきだろう。人生で言えば、会社の中枢から閑職への移動など、楽であるwww それで不平不満を持つのは欲が深い。山頂や上り坂は険難の連続だ。世間の目も上級国民には厳しい。金持ちは羨望されるが、その転落は大喜びされる。彖伝では「上ることは逆で、下ることは順である」としている。川も下流から上流に流れはしない。上から下に行くのが自然の常だ。

63:既済(水火既済)【×○× ○×○】「完成」

既済(の卦)は少し通る。貞固であると利がある。初めは吉だが、終わりには乱れる。

*完成を示す卦だが、卦辞は景気が良くない。というのは、易は変化を宇宙の真理と見ているので、完成したら、後は衰退に向かうと見るからである。ここから衰退に向かうのだから、その乱れを覚悟しつつ、長所や美点を固守するのがよい、ということかと思う。火の上に水がある象がなぜ既済なのか、それは調理を意味するからだ、というのが先達の屁理屈だが、まあ、最初に易を作った人がどんな気持ちでこの卦を「既済」としたのか、分かるはずはない。象伝に言う、「君子以て患を思って予めこれを防ぐ」が、この卦の大事なところだろう。一見、すべてが完成したような時こそ、将来の災いに備えよ、ということだ。


64:未済(火水未済)【○×○ ×○×】「未完成」

未済(の卦)は通る。しかし、子狐が川を渡ろうとして最後で水に落ちるようなうっかりぶりでは、ほとんど利は無いだろう。

*象伝に言う、「君子、以て慎んで物を弁じ、方に居(お)く」と。この卦を得たら、慎んで、物事をよく思慮し、正しく処理せよ、ということかと思う。




以上で「易経」の解釈は終わりである。まあ、ほとんど直感で解釈したものばかりだが、素人でも占いとして使用可能なレベルではあると思う。何なら、自分で文庫本の「易経」を買って占って、自分で解釈するといい。多くの人生訓が入っている書物だから、読み物として面白いし、有益だと思う。

これで、私の宿題の主なところは終わったので、後は死ぬまで生きるだけのことである。まあ、文芸関係、特に詩歌に関して少し書きたいところはあるが、書かなくても書いてもいいという程度のものである。



拍手

「巽、兌、渙、節」の占断

57:巽(巽為風)【○○× ○○×】「入る、謙遜」*「巽」は「そん」と読む。

巽(の卦)は少し通る。積極的に何かを企ててよい。信頼できる人に相談するとよい。

*私は「行く所あるに利あり(よろし)」を「積極的に何かを企ててよい」と解釈したが、文字どおり、どこかに行くと利がある、と解してももちろんいい。「巽」は上卦も風、下卦も風であり、風はどこへでも行き、どこへでも入り込む。そのように気軽に行動して良い時なのではないか。ただ、風は根無し草的な存在なので、重厚な企てにはこの卦は向かない。「大人」に従うか、その意見を聞くのがよい。

58:兌(兌為沢)【×○○ ×○○】「悦ぶ、悦ばす」*「兌」は「だ」と読む。

兌(の卦)は通る。貞固であると利がある。

*兌(沢)は喜びの象であるから、悪い卦ではないのはもちろんだが、その喜びは幼い少女が喜ぶようなものだと思っていい。つまり、幼稚さや浮薄さを免れない喜びである。だから、「貞固であるのがよい」と忠告しているのだろう。象伝では「連なる沢があるのは兌(の卦)である。君子以て朋友講習す」とある。まあ、易経は倫理性を重んじるわけだ。占いとしては「(願望は)通る」だけで十分だろう。それで喜びがあれば、いいに決まっている。

59:渙(風水渙)【○○× ×○×】「離散、離散(したもの)を合わす」*「渙」は「かん」と読む。

渙(の卦)は通る。大きな企てに利がある。貞固であると利がある。

*渙は、上卦が風(巽)、下卦が水(坎)で、まさに水が風に吹き散る感じである。「渙」という漢字もまさにそのイメージで、私の好きな漢字だ。卦辞の中に「王有廟に仮(いた)る」という、解釈の難しい言葉があるが、無理に解釈しない。廟は祖霊を祭った建築で、まあ、墓の一種とも言えるか。埋葬用の墓ではなく、儀式専用の斎場と言うべきか。それがなぜこの卦の託宣として出てくるのか。彖伝でも象伝でも「王有廟に仮る」の言葉は繰り返されている。まあ、祖霊を重視するのは儒教の伝統だが、現代人にはピンと来ないだろうから、無視する。

60:節(水沢節)【×○× ×○○】「止まる、節約」

節(の卦)は通る。だが、節度にこだわって、頑固すぎてはいけない。

*「苦節貞にすべからず」という卦辞が珍しい。易経ではほとんど「貞」を推奨しているのだが、「節」という、まさに「貞節」そのものと関係する卦では、その「貞」は、この場合はよくない、と言っているわけで、まあ、節度というのは、行き過ぎると人々をうんざりさせるものだ。よく批判される校則の類である。学校側はそれを節度だと思っているが、生徒たちはそれを、自分たちの「拘束具(校則だけにww)」だと感じるわけである。彖伝で「苦節貞にすべからざるは、その道(節の道が)窮まればなり」というのはそういうことだろう。一般論として、同じく彖伝に「節するに制度をもってすれば、財を傷(やぶ)らず、民を損なわず」とある。まあ、健康保険制度のようなもので、民が自由に使っていたカネの一部を召し上げて、保険制度を作れば、民は財産(収入)の無駄遣いをせず、自分自身(の健康や生命)を損なわない。







拍手

「漸、帰妹、豊、旅」の占断

53:漸(風山漸)【○○× ○××】「すすむ」

漸(の卦)は女性が嫁ぐのに吉である。貞固であると利がある。

*「漸」は数学の「漸近線」で分かるように、「物事が次第に進んでいく」意味である。卦辞は恋愛や結婚以外には縁の無さそうな内容で、「貞に利あり」が、貞潔であれば利益がある、という意味なら、結婚生活で貞潔であるのがお互いにいいのは当然だし、「利がある」だと打算で貞潔を守るようで感じが良くない。性的な貞潔さだけでなく、浮薄な妄想や一時の感情で行動するな、という忠告だと解するのがいいかと思う。「利」を「利(よろ)し」と読む読み方は、わざわざ「利」という字を使った意味がないので私は採用しない。彖伝には「進むに正を以てす。以て邦を正すべきなり」とあり、必ずしも結婚のことだけではなく、「貞固に正しい方針を守り、ゆっくり進むのはすべてにおいて妥当な道だ」という趣旨の卦だろう。象伝には「君子以て賢徳に居り、俗を正す」とある。

54:帰妹(雷沢帰妹)【××○ ×○○】「結婚」

帰妹(の卦)は、このまま進むと凶。利であるところが無い。

*「帰」の漢字には「嫁ぐ」意味があるらしい。妹(未熟な女性)が、誤った結婚をしようとしている象か。「沢」の卦は若い女性を意味する。結婚に限らず、軽挙妄動して動くことを戒めた卦であるようだ。

55:豊(雷火豊)【××○ ○×○】「盛大の時」

豊(の卦)は通る。心配は要らない。

*雷(エネルギーを示す卦)の下に離(太陽の卦)が輝く、あるいは稲妻を火の一種と見れば、雷と電(稲妻)が同時に起こる象で、まさに活発そのもので、盛大の極みである。だが、栄えるものは必ず衰えるのが自然の理であるので、日中はいいが、これから夕暮れになり、夜に向かうことを考えておくのがよい。彖伝に「日は中天すれば傾き、月は満つれば欠けていく。天下の盈虚は時と共に変わる。人間ならなおさらだ」とある。「盈」は「満」と同じ。象伝には「為政者は、(強大な力のあるこのチャンスに)訴訟をさばき、刑罰を行うといい。」とある。組織論的に言えば、事業が上手く行っている時にこそ組織内の根本的欠陥を直すべきだ、ということか。


56:旅(火山旅)【○×○ ○××】「旅に出る時」

旅(の卦)は、小さな願望は通る。常識的な「旅の備え」をすれば吉である。

*旅というのは象徴的な言葉だから、必ずしも旅行の話だけに限定しなくていい。「旅貞吉」という三字は、(旅のような)「非常の時」にこそ、平常心を維持するのが良い、ということだろう。この卦の象は、山の上に火があるのを山焼きと見て、その火が一刻も止まらない有様を旅に見立てたものらしい。山自体は停止の卦であり、火は常に「付いては離れる」ものだから、動かないものと動くものが共存するわけである。基本は停止だから、物事は動いても、大きな動きにはならない。だから、願望は小さなものだけ通るということだろう。まあ、旅に出るのも、一時の慰安であり、大きな願望の話ではない。そして、旅には不測の事態がつきものだから、「旅の備え」をしての旅と、無計画な旅では、苦労も違うことになる。日常の問題に関してこの卦が出たら、「明らかに慎んで」つまり、離(明察)と艮(停止・慎重)の二つの姿勢を持つべきだ、というのが象伝から推測できる。




拍手

カレンダー

02 2025/03 04
S M T W T F S
18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析