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藤木孝の死

特に藤木孝に関心があったわけではないが、コロナによる経済的窮乏は興行界、つまりスポーツ界や芸能界が甚だしいと思われ、その事例として記録しておく。つまり、コロナによる病死ではなく、コロナ自殺であり、経済死だ。80歳なら、毎日毎日が死を見つめながら生きているようなものだろう。そこに、仕事がなくなり収入が途絶したら自死を考えても当たり前だと思う。

(追記)今知ったばかりのニュースである。芸能界での自殺が続いている。

竹内結子さん死去 40歳 ドラマ「ストロベリーナイト」、朝ドラ「あすか」 映画、舞台でも活躍


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スポニチアネックス

竹内結子さん


 女優の竹内結子さんが死去したことが27日、分かった。40歳。都内の自宅で遺体で見つかった。自殺の可能性もあることから、警視庁が慎重に調べている。  竹内さんは2005年に歌舞伎俳優の中村獅童(48)と結婚。同年に長男を出産するも08年に離婚した。その後、昨年2月に俳優の中林大樹(35)と再婚。今年1月下旬に都内の病院で第2子男児を出産した。  1980年(昭和55年)4月1日、埼玉県生まれ。中学卒業後に東京・原宿でスカウトされ芸能界へ。96年、フジテレビ系「新・木曜の怪談Cyborg」での女子高生役でドラマデビューした。99年にはNHK連続テレビ小説「あすか」でヒロインに抜てきされ、01年のTBS系「白い影」の看護師役でも人気を博した。  02年にフジテレビ系「ランチの女王」では「月9」に初主演。03年に映画「黄泉がえり」、05年には映画「いま、会いにゆきます」に出演。ともに日本アカデミー賞で優秀主演女優賞を受賞した。10年にはスペシャルドラマ「ストロベリーナイト」初の刑事役に挑戦。CMなどでも人気で、食品や医薬品、化粧品の分野で数多く出演した。




(以下引用)

藤木孝さん無謀とも思われた俳優転身、努力で実結ぶ

藤木孝さん(11年1月撮影)
藤木孝さん(11年1月撮影)

舞台やドラマ、映画など幅広く活躍していたベテラン俳優の藤木孝さんが9月20日、都内の自宅で亡くなっているのが発見された。80歳だった。自殺とみられるという。


所属事務所によると、コロナ禍で仕事が少なくなり、外出も控え、自宅で過ごすことが多かったという。80歳の高齢だったけれど、俳優としては円熟期で、来年1月にミュージカル「パレード」に初演に続いて出演予定だったし、今年1月にも舞台「メアリー・スチュアート」で藤木さんの姿を見ていた。エリザベス女王の寵臣(ちょうしん)のタルボット役で、せりふは誰よりも明瞭、品格ある貴族を巧みに演じていた。


もともとは歌手として59年にデビューした。「24000回のキス」「踊れツイスト」などのヒットを飛ばし、「ツイスト男」とも呼ばれていた。62年に歌手から俳優に転向したけれど、その理由はミュージカル映画「ウエストサイド・ストーリー」を見て、ミュージカルをやりたいと思ったからだったという。人気絶頂の歌手からの転身は無謀な賭けとも思われたけれど、63年に大役を手にした。


日本で最初の本格的ミュージカル「マイ・フェア・レディ」にイライザに恋する若き紳士フレディ役で抜てきされた。それまで、日本では「モルガンお雪」「マダム貞奴」など帝劇ミュージカル(最初はコミック・オペラと名付けた)が上演されたが、それは本格的なミュージカルには程遠かった。「マイ・フェア・レディ」は日本人で初めて上演したブロードウェーミュージカルで、イライザに江利チエミさん、ヒギンス教授に高島忠夫さん(高嶋政宏、高嶋政伸兄弟の父)、益田喜頓さんが出演した。


そこで藤木さんは俳優としての未熟さを痛感し、文学座の研究所で演技の勉強を始め、劇作家でもあった福田恆存さんの「劇団欅」の座員となり、薫陶を受けた。その後、蜷川幸雄演出をはじめ、野田秀樹さんや三谷幸喜さんの舞台にも出演するなど、舞台には欠かせない存在になっていた。


特に藤木さんは、16年に亡くなった名優の平幹二朗さんに心酔し、平さんが主宰する「幹の会」でギリシャ悲劇とシェークスピア劇で、がっぷり四つに組んだ舞台に取り組んだ。稽古熱心で、せりふがほぼ入った頃から初日までの間に1人で100回もせりふを繰り返す自主稽古をしたという。その演技力は高く評価され、86年に菊田一夫演劇賞、03年には紀伊国屋演劇賞を受賞した。人気歌手から俳優への転身という賭けは見事な実を結んでいた。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)


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「教育信仰」への警鐘

私はヴォルテールが大好きなのだが、下のファインマンの発言は、彼がヴォルテールを至高の知性として評価していることを示していて興味深い。科学者のようなのはいわば「専門家としての知性」であり、その分野においてのみ有効だと知っているからだろう。棋士の知性なども同様だ。将棋や碁においては天才だと言っても、政治や経済にその知性が有効だとは限らないのは当然である。ヴォルテールの知性というのは、何かの分野での知識を与えられたら、その分野で必ず最高峰になるという、汎用性と柔軟性のある知性、というイメージだ。デカルトにも似ている。ファインマン自身にも似ている。
善悪の問題と教育との関連も興味深いが、「悪の教育」はどのようにして行われるのだろうかww

(以下引用)

ファインマンbot
@feynmannnn
人の能力がフルに発揮されないのはその殆どが無知だからだと考えられていました。では教育が普及した今、人は一人残らずヴォルテールになることができたでしょうか?悪もまた少なくとも善と同じくらい容易に教えることができます。教育は並々ならぬ力を持つものですがそれは善悪両方に働く力なのです。

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李下に冠を正さず 堂々とハゲるべし

まあ、隠蔽・改竄の自民党政権の象徴ではあるwww






コメント
chakuriku_airplane (11)


1: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:48:01.95 ID:GIQQPZsoa
菅首相に増毛疑惑 名誉総裁務めるハゲ議連は除名検討するのか

https://news.yahoo.co.jp/articles/7626ebbb486b3f6544edf443870ac00bdacb362b

2: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:48:09.17 ID:GIQQPZsoa
あーあ

3: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:48:15.53 ID:GIQQPZsoa
やっちゃったねえ

4: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:48:16.31 ID:yZuly6Cc0
許せんわ

5: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:48:24.27 ID:a+WLRKWg0
不信任案不可避

6: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:48:33.42 ID:GIQQPZsoa
ハゲの国民を裏切ったな

7: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:48:43.09 ID:65WJxxeNd
あーあ

8: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:49:06.21 ID:GIQQPZsoa
これはとんでもないことやと思うよ

9: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:49:10.86 ID:vyVOFkuL0
増毛してアレなのか・・・

74: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 18:01:28.73 ID:fQ3tj/Fhd
>>9
やw

10: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:49:13.07 ID:NOBuvfIK0
ええんか?

11: 風吹けば名無し 2020/09/23(水) 17:49:16.40 ID:GIQQPZsoa
生え際改竄とか許せんわ




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冨永仲基の「真の道」

冨永仲基の「翁の文」の一節で、「神なき時代の倫理」は、これに尽きるのではないか、と思うので、私自身の別ブログから自己引用する。もちろん、江戸時代と今では事情も変わっているから、すべてそのままで通用するとは思わないが、人生における基本的な心得として実に中庸を得た、健全な「道徳律」だと思う。まあ、仏教でも言う「諸善奉行、諸悪莫作」を具体的に、かつ行いやすい道徳律として言っているわけだが、悪事を行って巨万のカネを積むよりも、この「真(まこと)の道」を守って生きれば、自分だけでなく世の人すべてが幸福になる、ということである。真理は平凡なものだ。

(以下自己引用)面倒なら、私が青字にした部分だけ読めばいい。

翁の文(第六節)

それでは、その真の道の、今の世の日本で行われるべき道はどうかと言うのなら、ただ物事の当たり前のことを務め、今の仕事を本として、心をまっすぐにし、身持ちを正しくし、物の言い方を丁重にし、ふるまいを慎み、親がいる者はよくこれに仕え、(翁の自注に言う、六向拝教を見るべし、もっぱら五倫のことを説いている、また儒者もこれを重んじている、また神令にもこの五種を載せておられる、これは真の道は三教の道にも欠かせないものである印である、と。)主君がある者は、よくこれに心を尽くし、子がある者はよくこれを教え、臣下がある者はよくこれを治め、夫がある者はよくこれに従い、妻がある者はよくこれを率い、兄がある者はよくこれを敬い、弟がある者はよくこれを憐れみ、年寄りに対してはよくこれを大切にし、幼い者に対してはよくこれを慈しみ、先祖のことを忘れず、一家の親しみを疎かにせず、人と交わってはまごころからの誠意を尽くし、悪い遊び(注:遊蕩のことだろう。)をせず、優れたものを尊び、愚かな者をあなどらず、おおよそ我が身に当てはめて(考え)、悪いことを人に為さず、鋭く角々しいことをせず、僻んで頑なにならず、せかせかと余裕の無い態度をせず、怒ってもその際限を誤らず、喜んでもその守りを失わず、楽しんでもそれに淫せず(溺れず)、悲しんでも迷いに至らず、十分なことも不十分なことも、みな自分の幸福だと心を満足させ、受けてはならないことは塵ほどのものも受け取らず、与えるべき場合には国や天下でも惜しまず、衣食の良い悪いも、自分の身の程に従い、贅沢をせず、吝嗇でなく、盗まず、偽らず、色を好んでも理性を失わず、酒を飲んでも乱れず、人に害の無いものを殺さず、食物を慎み、悪いものを食わず、多くは食べず、(翁の自注に言う、云々:この段の論拠が古典や経などにあることを述べているだけなので省略する。)暇な時には自分の身に利益のある芸を学び、賢くなることを務め、(翁の自注に言う、云々:同様に省略)今の文字を書き、今の言葉を使い、今の食物を食い、今の衣服を着、今の調度を用い、今の家に住み、今の風俗習慣に従い、今の掟を守り、今の人と交際し、さまざまな悪いことをせず、さまざまな良いことを行うのを真の道と言い、また今の世の日本で行われるべき道とも言うべきである。

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学校は何のためにあるか

学校教育の現場が今どうなっているのかのひとつの事例としてメモ。
教育よりも統制と支配が目的になっている印象を受ける。つまり、「教育する側」の利益と利便が最優先され、「教育される側(子供)」にとってのメリットは無視されているのではないか。
まあ、そもそも、学習にテストも宿題も不要だと私は思っている。子供が教科書を読んで、理解できないところを教師に質問し、教師がそれに誠実に真剣に答えればいいだけだ。つまり、一斉授業は学習の本質に合わないと思っている。教師が教壇で何か喋っているのを真面目に聞いている生徒は教室の何割いるだろうか。そして、聞いて理解できている生徒は何割いるだろうか。
とは言っても、学校が不要だとは思わない。大人になるまで、学校という場で同年代の子供たちと一緒に過ごすこと自体、貴重な経験だろう。
最近批判されることの多い部活なども、ブラック部活などではなくまともにやるなら楽しく素晴らしい思い出になると思う。

(以下引用)

砂____の____女
@vecchio_ciao
ほんとこれで、私が中学生だった大昔は、そこまで酷くはなかった(愛知県)が、うちの長男なんてテストでほぼ毎回満点に近い点数を取っているのに「提出物ガー」「ノートガー」で評定「3」だった教科がある。
引用ツイート
加藤公一(はむかず)
@hamukazu
·
みんな内申書内申書って騒ぐけど定期テストでいい点とればちゃんといい成績つくんでしょ?くらいに思ってたんだけど、それは僕の子供のころの感覚で、実際に自分の子供の受験を経験してみると、最近の評点の基準がほんと不可解。制度としてのゴミ度が増してると思った。
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レギオンに満ちた世界

別ブログに書いたものを自己引用しておく。
「神が存在しなければ作る必要がある」と言ったのはヴォルテールだと思うが、無信仰の時代とは無道徳の時代でもあるということを予見した優れた言葉だと思う。
ただし、私は「神無き時代の道徳」を、きちんとした根拠のもとに倫理学者や哲学者が作り上げる必要があると思っている。

(以下自己引用)

「in deep」の一節で「レギオン」という言葉が聖書のマルコによる福音書の中に出てくるということに関する記述である。

(以下引用)


先ほどの「マルコによる福音書」は、この映画の中に出てきて、当時聖書など知らない私は、この下りをこの映画ではじめて知ります。映画での場面の説明的に書きますと、以下のように出てきます。


エクソシスト3の場面より説明


老刑事が、悪魔的な殺人事件の現場で、「部分的に焼かれている聖書」を見つける。刑事は「聖書の焼かれている部分」に着目し、その部分を家にある聖書で読み直す。


刑事 「イエスは悪霊の取りついた男の名を聞かれた。その者は答えて言った。レギオン・・・大勢だから・・・」


刑事 「・・・大勢・・・・・」


このように、刑事は、


「大勢」


という言葉を呟くのですけれど、これが意味するところは、


「悪魔の代行者がこの世にはたくさんいる」


という意味でもあるはずで、つまり、


「この世は、悪魔の手先のような存在で満ちている」


と。


では、


「どのような存在が悪魔の手先なのか」


ということについて、エクソシスト3では明確に書かれているのです。それは、


「一般の人間」


なのです。


どんな人間なのかといいますと、その内容が、今のような時代には大っぴらには表現しにくいかと思いますが、


「心の弱い人間たち」


なのです。


エクソシスト3では、途中から精神病院が舞台になりますが、


・精神を病んでいる
・意志が弱い
・良心が弱い


というような人たちは容易に悪魔にコントロールされるというような雰囲気の描写が続きます。



(以上引用)

英和辞書でregionは「地方、範囲、領域」だが、regを語頭に持つ語の中でregiment「連隊、大勢」、あるいはregnant「統治する、優勢の、流行の」などが、「大勢の」のニュアンスを持つ言葉だろうか。
で、レギオンは悪魔そのものではなく、「悪魔に憑(と)りつかれた者」の意味があるかと思うが、ドストエフスキーの「悪霊」も、悪霊そのものを主題とするものではなく、悪霊に憑りつかれた者、つまりレギオンとしてのスタヴローギンを描いたものではないか。そのスタヴローギンは、能力的には何でも為しうる人間でありながら、「精神を病んでいる」「意思が弱い」「良心が弱い」ために、何事もなせず、ただ無力な幼女を犯すという最低の行為しかできなかった人間として描かれる。
神という存在が完全に否定された現代では、無数のレギオンが地上を埋めているかもしれない。

ただし、上で書いた「精神を病んでいる」は、現代科学の定義の上での精神病ではおそらくない、ということを一言しておく。これは理性的に、あるいは道徳的に健全さを失っている意味だろう。現代科学の「精神病」は単に社会的不適合を病気扱いする傾向が強い。これは金儲け至上主義の資本主義の帰結だろう。つまり、コミュ力が第一義である社会から「病気」として排除されるわけだ。昔なら「職人気質」だったものすら今では病気扱いである。

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風景と情景

辞書的に「風景」と「情景」に違いがあるかどうかは知らないが、あえて違いがあるとして考察してみよう、というわけである。

私は、あまり有名でもない「Re.Life」というアニメ(実写化もされている)が大好きで、三回ほど見ているが、そのオープニングに流れる歌の中に「放課後にしかない茜の空」という歌詞の一節がある。
茜の空は、晴れた日なら毎日でも夕方に(あるいは朝にでも)あるもので、それが「放課後にしかない」はずはないわけだが、それは理屈での話で、高校の部活帰りなどに見た茜の空は、青春のその一時期にしか存在しないものだ、というのが私の言う「情景」の意味だ。
そして、その青春の一時期の貴重さを見事に描いているから、私はこのアニメが好きなのだが、それは私には青春というものが存在しなかったからだろう。私は自分の存在そのものに絶望していて、周囲を眺める余裕などまったく無かったのである。まあ、単に「理想の自分でない自分」に絶望していただけの話で、愚劣な絶望だったのだが。
それはともかく、私が、「青春の時期というのは青春時代にしか存在しない」という、当たり前の事実をちゃんと認識していたら、きちんと努力してまともな青春時代を送っていたかもしれない、という思いもある。まあ、別に自分の人生を後悔しているわけでもないが、そういう「まともな青春」への憧れが心の底に残っているのだろう。老人になったのは外見だけだ。
最初の話に戻って、「風景」と「情景」の違いだが、風景とは単に「見えるもの」である。単なる「外界」である。それに対して「情景」とは、「自分の心情で染められた景色」である。
つまり、感受性の強い若いころに見た風景はだいたい情景であり、中年以降に見る風景は風景のままだろう、というのがとりあえずの結論だ。



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プロフィール

HN:
酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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