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先端的フェミニズムという「男と女、女と女を喧嘩させる」運動

フェミニズムと一括りにするから話が混乱するのであり、フェミニズムやフェミニストにもいろいろあり、いろいろな人間がいるはずだ。私など、女性に対して崇敬の気持ちを持っていて、ゲーテの「永遠に女性なるもの我らを牽きて往かしむ」は真理だと思っているくらいだが、これは、男こそ牽引車(あるいは馬車牽き馬)になれ、という一部の層(男も女も含む)からは批判されそうだwww
下の引用は「ネットゲリラ」からのものだが、野次馬(ネットゲリラ)氏は口調が揶揄的なのでフェミニストに悪口を言っているように見えるが、心底では女性を尊重するからこその先端的フェミニズムへの訓戒だと思う。
この先端的フェミニズムは女性の権利向上を旗印にしながら、「古いタイプの女性」(と彼女たちが思う存在)をも批判し、つまり、男性にも女性にも喧嘩を売るわけだから、では、誰から支持されるかというと、同じサークルの人間だけである。つまり、広がるはずのない運動だろう。しかし、その反面、「男性を敵視する女性」や「女性を敵視する男性」の数だけは着々と増やしている。こうして世界は男性と女性がお互いにお互いを不要とする世界になっていく。
それはともかく、榎美佐子氏の人生は「正義のための闘い」の悲惨な成り行きと思え、嘲笑するより同情すべきだと私には思える。女性のための闘いのはずが、女性からの賛同すら得られず、結果的に自分の人生に大きな負債を抱え込むことになったわけで、現在のフェミニストたちは、こうした先駆者をなぜ助けようとしないのか。榎氏の夫の冷酷さ(褒めて言えばクールさ)もなかなか凄い。

(以下引用)

ところで中ピ連のその後なんだが、やっていたのは榎美沙子という女性だったんだが、本職は薬剤師。中ピ連というのは、「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」というのが正式名称です。

同じく薬剤師であった夫は美沙子の一連の活動に一切口を挟まず黙って見ていたが、選挙惨敗・日本女性党解散時のインタビューで「これで目が覚めただろう。選挙に出たので妻には莫大な借金がある。しっかり働かせて全額返済させる」と語り、美沙子も「以後、夫に尽くします」と家庭に入る。以後美沙子は夫の指示の下、主婦と薬剤師業に専念することになった。美沙子はそれまでの主張とは全く正反対の立場に置かれるという皮肉な結末を迎えた。借金完済後は夫に家を追い出され、1983年に協議離婚[1]。美沙子は京都市内にアパートを借りて一人暮らしを始め、更に数年後司法試験を目指して法律の勉強をしているという情報が雑誌『週刊新潮』に取り上げられた。

フェミの末路です。

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マスクや手洗いだけで患者数が例年の1000分の1に減るか?

インフルエンザ患者は全部、新コロに勘定されているからだろうwww

(以下引用)

インフルエンザ感染者、例年の1000分の1wwwwwwww

1::2020/09/29(火) 10:59:09.53 ID:DJcTeEg60 BE:323057825-PLT(13000)

厚生労働省によりますと、38週(9月14日~20日)のインフルエンザ報告数は前年同時期に比べて極端に少なくなっています。
インフルエンザ報告数 極端に少なく
厚生労働省が9月28日発表した「インフルエンザの発生状況」によりますと、
38週(9月14日~20日)のインフルエンザ報告数は全国で「4」と前年同時期の総数「5,716」に比べて極端に少なくなっています。
感染症対策などの効果が考えられ、今回だけでなく、36週(8月31日~9月6日)と37週(9月7日~13日)もこのように極端に少ない状況となっています。

9月20日までのインフルエンザ報告数極端に少なく 11月以降は寒さ増す
https://tenki.jp/forecaster/t_yoshida/2020/09/28/9972.html

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紙の掛け声がうるさい!

まあ、今の新コロ時代の人心がいかに馬鹿げたものになっているかの一例だろう。
なお、手旗信号で「大声を出す」というのは、大昔にモンティ・パイソンでやったネタだが、「紙に書いて掛け声」はその現実化である。誰か、「紙による掛け声がうるさくて近所迷惑だ」と怒鳴り込むといいwww




【悲報】虚構新聞、記事が現実化して謝罪

2020/9/28 17:00 おんJなんJ コメント(55) 
ダウンロード - 2020-09-28T165713.047

1: 名無しさん 20/09/28(月)16:24:06 ID:2tj
「2mのロングバトンも コロナ禍で「新しい運動会」 マキャベリ小」についてお詫び

 2020年9月12日配信の「2mのロングバトンも コロナ禍で「新しい運動会」 マキャベリ小」記事につきまして、同月27日、神奈川県相模原市の小学校にて長さ2メートルのバトンを使った運動会が実際に開かれたことが分かりました。虚構世界の現実を伝えることを目的とする本紙におきまして、記事が一部現実化してしまったことを、関係者と読者のみなさまに深くおわびいたします。

 27日配信の毎日新聞(ウェブ版)の記事「長さ2mのバトン、掛け声は紙で、競技はテレビ中継…コロナ下の運動会」によると、相模原市の市立田名北小学校で27日に行われた運動会で「ウレタン製の棒にビニールを巻いた長さ2メートルの「ロングバトン」でソーシャルディスタンスを保って行うリレーや、かけ声を発さずに紙に書いて掲げながら踊るソーラン節など、工夫を凝らした12のプログラムが催された」ということです。

 当該記事を執筆した社主UKは、編集部の聞き取りに対し「『コロナ禍でもなお運動会を強行するなら、こんなことになるからあきらめなさい』ということを逆説的に報じたつもりだったが、こんな悪ふざけみたいな競技を実際にやる学校が出るとは予想できなかった。全部コロナが悪い」と説明し、反省の態度を示しませんでした。

 このことから編集部では執筆を担当した社主UKに対し、10月1日から本社ビル地下3階地下牢拘留2日間(おやつ抜き)の処分を言い渡しました。なお十分なバックアップ態勢が整っているため、処分中も記事執筆及びサイト運営に影響はありません。

https://kyoko-np.net/owabi_200928.html

↓毎日新聞の記事
https://mainichi.jp/articles/20200927/k00/00m/040/122000c

3: 名無しさん 20/09/28(月)16:29:45 ID:urm
これもうわかんねえな


2: 名無しさん 20/09/28(月)16:28:26 ID:ckV
という虚構の記事

4: 名無しさん 20/09/28(月)16:31:00 ID:3NN
コラ画像みたい

3: 名無しさん 20/09/28(月)13:36:43 ID:whj
許さん
不買運動や

4: 名無しさん 20/09/28(月)13:36:56 ID:P6g
見損なったわ

6: 名無しさん 20/09/28(月)13:37:04 ID:GNn
前も謝罪したやん
何も反省してないんやなこいつら

8: 名無しさん 20/09/28(月)13:37:46 ID:lom
まーたやらかしたんか

11: 名無しさん 20/09/28(月)13:39:08 ID:qS5
記者地下牢に入れられてて草

12: 名無しさん 20/09/28(月)13:39:39 ID:Vx6
>>11
しかもおやつ抜きや

17: 名無しさん 20/09/28(月)13:43:33 ID:jgg
学校側が虚構新聞の記事をネタと知らずに鵜呑みにしてワイの学校もやろう!て実践してしまったパターンやろ

20: 名無しさん 20/09/28(月)13:49:08 ID:Hku
全然バトンとして機能してなくて草
no title

22: 名無しさん 20/09/28(月)13:58:46 ID:epB
>>20
ふにゃふにゃやんけ

21: 名無しさん 20/09/28(月)13:57:12 ID:mxo
デマ報道でけんなら解散してしまえ!

24: 名無しさん 20/09/28(月)14:02:38 ID:u02
おやつ抜きか、残当

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欲望の幻想性

長年の考察の最終的回答につながるテーゼだと思うが、人類の不幸の根本原因は、「欲望の幻想性」あるいは、「欲望の幻想性に人間が気づかないこと」ではないか、というテーゼ(命題)を得たので、メモだけしておく。

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事件は目立つが、無事な日常は見えにくい

大隅和雄という人の「愚管抄を読む」という固い本を興味半分で借りて読んだのだが、論文めいた内容で、まったく面白くはないが、流し読みする中で少し興味を引いたのが、天皇制(という言い方が適切かどうか知らないが)について慈円(「愚管抄」の著者)が言っていることである。
同書のその部分を引用する。

(以下引用)カタカナと漢字の混じり書き部分が「愚管抄」の引用。その前後は大隅氏の文章。


公家社会を支える学問を修め、世俗の知識も身につけていた慈円にとって、中国の古典の世界は普遍的なものと考えられていた。その中国では一つの王朝が倒れた時、王位を望む者が数多くあらわれて互いに競い合い、最後に勝ち残った者が国王になる。したがって国王の姓がさまざまに移り変わるのが例であるのに、

ソレニ国王ニハ国王フルマイヨクセン人ノヨカルベキニ、日本国のナラヒハ、国王種姓ノ人ナラヌスヂヲ国王ニハスマジト、神ノ代ヨリサダメタル国ナリ。(巻第七、三二八頁)

というのである。そして、この原則は「神ノ代」に定められたことによって、「ナニ事ニモサダメナキ道理」(巻第三)つまり何事にも特定のきまりはないという道理が支配している歴史の世界を超えたものになっているわけである。天皇は皇室だけから立てられるという原則は、時の流れに沿って生成変化する歴史の世界に対して、唯一つ永遠に不変のものとされる。

(以上引用)

まあ、要するに、「万世一系」という皇統の特殊性を中国の政治との比較で論じているわけだが、そこから分かるのは「一つの王朝が倒れた時、王位を望む者が数多くあらわれて互いに競い合い、最後に勝ち残った者が国王になる。」という、中国に限らず、ほとんどの国で生じる政治闘争の激動と、日本の政治の安定性の対照である。もちろん、日本でも政治闘争が社会を混乱させた例として応仁の乱などもあるが、あれは皇室ではなく、足利幕府の滅茶苦茶な政治による国家的混乱だろう。そのころは皇室はまったく無力な状態だったわけだ。つまり、皇室が権力だけでなく権威も失った時に、政治がどうなったか、という事例だろう。
逆に、徳川幕府末期に日本が内戦状態になりかねなかった時、徳川幕府が大政奉還して流血の悲劇を最小限に抑えられたのは、皇室が「錦の御旗」になったからだ、というのは無理な説だろうか。そのような、「転換期における、ヤジロベエの重し」のような存在として私は皇室や天皇を見ている。
同じ書物に北畠親房の「神皇正統記」も引用されていて、その中に、「天皇がその地位にふさわしくない人物だった場合どうするか」という問題を扱っていて、これが「万世一系」とは、その言葉から想像されるほど硬直したものではないことを示していて興味深い。

(以下引用)*人王とは神話時代の天皇と区別しての呼び方。

例えば、第二十六代の武烈天皇は悪王の振舞いを尽くしたので、人王の身であるにもかかわらず歴史の世界を超出して神となった応神天皇の子孫でありながら、その系統を絶やしてしまった。その後を継いだ継体天皇は、皇位が絶えることを憂え嘆いた群臣によって立てられたが、それは

此天皇ノ立給シコトゾ思外ノ御運トミエ侍ル。但、皇胤タエヌベカリシ時、群臣択求奉キ。賢名ニヨリテ天位ヲ伝給ヘリ。天照太神ノ御本意ニコソトミエタリ。(継体)

とあるように、凡慮の及び難い天照大神のはからいであったという。また平安時代に入って、清和天皇のあとをついだ第五十七代の陽成天皇は、

此天皇性悪ニシテ人主ノ器ニタラズミエ給ケレバ、摂政ナゲキ廃立ノコトヲサダメラレニケリ。(陽成)

と述べられているとおり、藤原基経によって廃位されたが、その基経の行ないも、「ウタガヒナキ天命トコソミエ侍シ」(光孝)つまり天照大神の神慮によると記されている。さらにもう一つの例をあげれば、鎌倉時代に入ってから第八十六代四条天皇が早世した時、皇位が絶えそうになったが、北条泰時が後嵯峨天皇を擁立して皇位継承は滞ることがなかったと記す親房は、この場合も泰時は天照大神の神慮を代行したのだと述べている。

(以上引用)

以上のように引用してきたのは、「天皇制」というユニークな伝統が日本の歴史に果たしてきた役割というものの大きさは、「何事も起こらない」という、「見えない役割」ではなかったか、ということを言いたいからだ。「不思議の国のアリス」ではないが、誕生日という特殊な日を祝うのではなく、「何でもない日万歳」という視点も案外大事なのではないか、ということだ。






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「論語」考

「論語」というか、孔子の思想は、別に人民支配のテキストを作ろうというものではなく、道徳を政治の基礎に置きたいという願いから生まれたものだろう。論語が人民支配のテキストなら、孔子の生きている間に為政者が採用している。どの為政者も孔子の思想を迂遠であるとして採用しなかったわけだ。どこかの国が孔子を何かの役職に就けたが、それで国から泥棒がいなくなったというのは、弟子たちが作った神話だろう。
まあ、コメントにあるように、思想として面白いのは、現実政治思想として法家の源になった「荀子」か、絶対平和主義と博愛(兼愛非攻)を唱えた「墨子」だろう。しかし、アジア全体の道徳思想の根底になったのはやはり孔子であり「論語」である。つまり、我々の精神の骨格には儒教的道徳意識がある。白人種にはそれが無い(ニーチェの予言どおりキリスト教も精神的には死滅した。)から道徳よりも契約と「お互いの合意」の上で、自分の欲望を無制限に追及する社会になる、なったというのが私の考えだ。もっとも、今では儒教的道徳などまったく持たないアジア人(日本人)がほとんどかもしれない。
「論語」は、唯一神を前提としない道徳という珍しいもので、それがアジア全体に広く浸透したのは、確かに為政者に都合のいい「序列重視」思想(これは「秩序」を作るには「現秩序」を維持するのが手っ取り早いからだろう。ある意味では、日本の「天皇制秩序」もそれかと思う。)が基本にあるからだろうが、実際に、そうして作られ維持された秩序が社会の安定と平和を生んだ、という事実が大きいかと思う。もちろん、その反面では秩序の下部に置かれた層は半永久的にそこから上に上がれないわけである。

(以下「ネットゲリラ」から転載)


自分勝手な中国人に理想の規範が論語

| コメント(1)

世界最古の論語がKO大学で発見、というんだが、今の中国だったらオークションで何十億でも出すだろうし、間違いなく国宝に指定されるだろう。別にかっぱらってきたわけじゃないんで中国に返すいわれもないんだが、遣唐使が持ち帰ったのだろう。という事は、朝貢貿易で中国から「貰った」物だという事になる。貰った物を1000年間、大事に保存し、伝えて来たんだから、たいしたもんだ。

 古代中国の思想家、孔子(こうし)(前551ごろ~前479)と弟子との対話などをまとめた「論語(ろんご)」の注釈書の一つ「論語義疏(ぎそ)(論語疏)」について、6~7世紀初めに中国で書かれたとみられる写本が日本で確認された。調査した慶応義塾大学を中心とする研究チームによれば、日本に伝わり、国内の寺社や家々などで大切に保管されてきた伝世品(でんせいひん)では最古級の論語の写本の可能性が高いという。
 論語義疏は中国では12世紀ごろには失われており、仏典以外のまとまった紙の写本としては現存最古級とみられる。中国では論語は主に注釈書(解説書)を通じて伝わってきており、専門家は日中の思想史や交流史などの研究にとって貴重な史料と注目する。

おいらは四書五経には関心もないんでせいぜい漢詩か、聊斎志異が好みなんだが、孔子の作った儒教というのは「秩序」を大事にして人民を支配するツールだったので、その後も長く東アジア文明圏では支配者お墨付きの思想だった。今でも日本は儒教の呪縛の中にあり、秩序を壊そうとしない人間ばかりなので、アベシンゾー一匹、叩き出せずに終わっている。


最古級の「論語」写本を発見 中国でも消失、古書店からというわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。
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神保町の態度の悪い糞古本屋、全部潰れろ
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↑客見るからな
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↑無職ねらーさん?買わないのにいつまでも売り物触りまくる変な人
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↑古本屋に新刊本屋の対応を求めてはだめ
何を聞いても「その辺にあるかもしてない」とかしか返ってこないのが普通
何万もするようなものは即答してくれるかもしれないが
通常は自分で探すのが基本。
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やっぱ中国では焚書されちゃったのか?
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↑国名変わるたびに民族入れ替わってたからね
近代まで残ってても文化大革命で焚書されてただろうし
なんせ諸橋大漢和辞典を日本から買った国だから古書古文書は残ってない
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↑ネトウヨの聖典日本書紀も原本は行方不明やで
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億単位の価値?
福音書の古い写本とか凄い価値だろ
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子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。

学生の時に格闘してみたが、最初のこれで敗退したよ(笑)
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何でも捨てろ捨てろという女が権力握ってたら残ってなかったな
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↑ホンマそれ笑笑
断捨離?
何かの寿司に使われてる米か?笑笑
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論語が立派だから中国人が立派じゃない
自分勝手な中国人に理想の規範が論語だ
バカ高校の校則が厳しいと同じだ
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↑これ
戦前の本を読むと孔子が現れたのは中国社会が乱れきっていたからだと書いてある
わが国に孔子のような人物が出なかったのはその必要が無かったからだとも
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論語は詰まらんな
荀子や墨子の方が面白い
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↑論語の面白さがわからんうちはまだ小僧だな
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鑑真が持ってきた王羲之の真筆もどこかで眠ってるかも
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日本こそ漢文化の正当な継承国
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梁か・・・書物収集癖の最後の皇帝がやっちまったっけ
「国が滅ぶなら俺のコレクションも灰になーれ」
あれさえなければだいぶ原典級が残ってたかもな
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中央で喪失した文献が辺境で見つかることはよくある
中央から伝わったものだとありがたがって保管するから
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 今以有限之力當讀無涯書徒欲強記洽聞終恐唇腐歯落。
 現実とのすりあわせに失敗すると、もれなく不幸がついてくる。
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日本は中国で失われた本がよく見つかるね
陳舜臣は「日本は保存の天才」と語ってた
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孔子は人肉が好物だったって本当?
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↑本当、それまで食べていたけど食った肉が弟子である事を知り、それ以降食べなくなった。
当時として社会が混乱混迷していた世では人肉も流通していた商品、その材料も材料として人間が流通し、弟子になれるような階級もその材料として孔子の食事となって現れる世の中だった。
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↑荘子雜篇に
「大亂之本,必生於堯、舜之間,其末存乎千世之後。
千世之後,其必有人與人相食者也」
(堯舜以降に人の世は乱れ始めた。このまま行けば3万年後には人同士で食べあうようになる)
という記述があるので、当時は食人の習慣は一般的ではなかったと推測できますぜ。
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フランスの哲学者が論語を読んで、インディアンの酋長の説教みたいだなと言ってたけどな
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↑フランス語の哲学者じゃなくて、シュバイツァー(ドイツ国籍のアルザス人)です。
牧師の息子として生まれたシュバイツァーは神学者であり医師であり哲学者であり音楽家でもありましたが、その根底にあるのは典型的な「帝国主義時代の白人至上主義による植民地の伝道師」でしたから、キリスト教を絶対視する反面、キリスト教以外の世界各国の宗教に対しては蔑視に満ち溢れた論評を行っています。
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1500年前の写本か
遣隋使の船に積まれて来た巻物ってまだ残ってたのか
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おい中国、いくら出す?いくら出せる?
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オークションにかけたら中国人がとんでもない金額で競り落とすだろうな
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聖徳太子の時代より前か すげーな
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廃れた文化は辺境で保存されるってなことを某作家が言ってたな
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最古級でも論語の時代から1000年後なのか...
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↑論語の時代には紙がない
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↑用を足したあと途方に暮れたのを思い出すわ。懐かしい...
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↑最近は仙界もネットが通じてるのか
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し、のたまわく、とか、昔の子どもはポケモンキャラのように暗記してたんだよな。
音読されたものを暗記してから、はじめて書かれた文字を見た。
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流し読み程度でいいから
四書五経は読んでおいた方がいい
日本の倫理観の根底なのだから
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慶應から二点目の国宝か
これで国宝の点数で早稲田に並ぶな
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子のたうち回る!
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三国志の一番古いのも日本にあるときいたが
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↑横山光輝のか?
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今時支那の書物なぞ屁の役にも立たん
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↑支那人がお前の生涯賃金以上の額で買い取ってくれるやろ
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中国は文化大革命で儒教の残滓を徹底的に潰したから、今の発展がある。まぁ、どうせ落ち着きゃまた、論語を大事にする時代も来るんだろうがw

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学校や教師の「善意」が子供を苦しめる

良記事である。しかし、これを読むべき学校経営者や教師やクラブ顧問などはこういう記事を読んで反省することはおそらく無いと思う。人間は自己愛の動物であり保身の動物だからだ。
自分がやっている行為は正しいと思うことが自分の存在意義になるから、反省などするはずはないのである。彼らは、自分の行為が正しいと思っているのだから、それは「善意の行為」だとなる。しかし、その善意が子供たちを苦しめ、スポイルするのである。

(以下引用)

 
 
 



写真はイメージです Photo:PIXTA© ダイヤモンド・オンライン 提供 写真はイメージです Photo:PIXTA

週末の部活を外部に任せる、本当にそれで解決するのか?

「文部科学省が、休日の部活を地域や民間団体など外部指導員に任せる改革案を作った」とのニュースが9月1日に報じられたのを目にして、疑問ばかりが頭に浮かんだ。外部指導員に任せるならば、平日の部活動との連携はどうなるのか? 生徒は教員と外部指導員の間で板挟みにならないのか? 外部指導員の導入で、部活の勝利至上主義がいっそう加速しないのか?


 というのも、私の知る限りではあるが、外部指導員の多くは「勝つことに意味がある」と考えがちで、勝負にこだわるという印象がある。例えば野球の場合、打つこと、投げることはそれなりにうまくても、野球を通して子どもたちの人格形成をどう支援するか、具体的な方法論や発想を持っている人は少ない。また、教育的な学習機会もなく、自らの競技経験や思い込みを頼りに指導する人が大半だ。そんな彼らが、平日の部活を担当する教員と指導理念や方向性を共有し、生徒をサポートするのは簡単ではない。


 かくいう私も、外部指導員的な立場で部活の指導に携わった経験がある。正直なところ、数年前までは、「どうやって強くするか」「どうやって勝たせるか」ばかりを考えていた。

 そこで必ず起こるのが、教員や他のコーチとの綱引きだった。生徒が誰の指導を一番信じるのか。コーチを引き受ける以上、自分の指導こそ最高だと思いがちだ。そのため、生徒は板挟みに遭い、誰を信じたらいいか、悩む場合が多い。


 こうした数々の不安がすぐ想起される中で、なぜ文科省はこの方針を決めたのか。私は、2人の専門家に聞いてみようと考え、取材を依頼した。

教員を忙しさから救えるが子どもはもっと忙しくなる!?

「これは働き方改革のため取られた方向性です」


 そう教えてくれたのは、名古屋大学准教授の内田良さんだ。専門は教育社会学で、組体操の危険性や柔道事故の問題を提起し、ブラック部活の改善にも力を尽くしている。内田さんは「忙しすぎる教員を救うために、週末の部活動を外部指導員に任せる。でもこれは、子ども側からの視点が欠けています。子どもはかえって忙しくなる心配があります」と指摘する。


 平日は教員と部活を行い、週末は土日とも外部指導員と部活を行う。子どもは休む暇がなくなる。


「外部指導員は教員以上に長くたくさんやりたがる傾向があるため、子どもの疲弊が心配です」


『ブラック部活』という言葉が、一般的に知られるようになった。だが、同じ言葉で、まったく別の2つの事象を表していることも忘れてはならない。1つは、忙しすぎる教員の職場環境をさらに悪化させる要因という意味でのブラック部活。この被害者は教員だ。一方、勝利至上主義に支配され、体罰やパワハラも含んだ厳しすぎる指導が常態化するブラック部活。この被害者は生徒だ。


 この両面から部活を見直す必要があるのだが、今回の『外部指導員への移行』は、教員を守るための措置のようだ。単純に言えば、週末の外部指導員導入は、教員をブラック部活から守るけれど、生徒をさらなるブラック部活の犠牲者にする恐れがある、ということになる。

「学校の管理下」に長時間、子どもを置く弊害を知る必要がある

 そこで、内田さんは一つの方向性を提案している。


「子どもが忙しすぎる。それはより長い時間、子どもが学校の管理下に置かれるという意味です。そんなに長い時間、子どもを『学校の価値観の管理下』に置いていいのか。部活の外部化にひとつの救いがあるとすれば、月曜から金曜までは学校、土日は外部のクラブ、活動を別物にするという方向性です」


 学校は、基礎的な学問を学び、団体生活を経験する貴重な場だが、親が求める以上の価値観を植え付けてしまう恐れがある。その観点からも、平日と週末に、別の環境を持つことは重要かもしれない。そう考えれば、週末の部活指導を外部指導員に任せるのではなく、週末は地域のスポーツクラブで活動する方向性を拡充する方が健全ではないだろうか。


 地域のスポーツクラブは、部活より競技性や専門性が高くなる場合が多いだろう。生徒や親は、それを理解して選択する。そこまでの活動を望まない生徒は週末、スポーツ以外の時間を過ごせばいい。また、学校の部活動は、勝利を目指すより、その競技に親しむ、学校の友人たちや教員との交流を深めることを主な目的にする方向性こそふさわしいだろう。それならば、学校での部活動は週に1~3度程度に減らして、生徒にも教員にも余裕を与えたらいい。

週3回の部活で花園に出場、静岡聖光学院ラグビー部

 もう一人、話を聞いたのは、部活は週3回、それでいてラグビー部が全国大会(花園)にしばしば出場することで話題となっている静岡聖光学院の星野明宏校長だ。校長になる前、星野校長はラグビー部の監督を務め、初めての花園出場を果たした。週3回で十分に強化できることを証明した先駆けだ。ちなみに、高校日本代表テクニカルコーチ、U18日本代表監督なども歴任している。


「うちは昭和44年の開校以来、もう50年も前から、部活動は週3回でやっています。いまも火、木、土曜の3回。火、木は放課後4時から5時半の90分。土曜は2時間です。11月からは冬時間になり、部活は4時から5時の60分。日曜日は季節によって試合などがあれば活動します」


 週3回、しかも短時間の練習。それで静岡県大会を制し、花園(全国大会)でも既に4勝を挙げている。


「さらに強烈なのは」と、星野校長が苦笑しながら教えてくれた。強烈なのは、という表現は、高校の部活動の常識を念頭に置いての形容だ。


「3連休以上の休みの時は寮を閉鎖するため、部活は休みになります。つまり、春休み、夏休み、冬休みにはほとんど練習がありません。一部の部活、例えばラグビー部は春休みの最初に2泊の合宿を、夏休みは菅平で1週間の合宿をしますが、それ以外は休みです。そのため、教員もたっぷりと家族サービスができますし、休みが取れます」


 例えば高校の野球部の監督が、その条件で「甲子園を目指せ」と言われたら、どうだろう? 不可能だと考えるのではないか。それを静岡聖光学院はラグビーで実現可能にしているのだ。

大切なのは「生徒一人ひとりの成長」

「私も試合をする以上は勝ちたいです。でも、どうやって勝つか? この環境で強くすることに『教育の可能性が広がる』と考えました。お金をかけ、実績のある指導者を呼び、練習に時間をかけて勝つという方法ではなく、週3日で工夫して勝つ。この方針で花園に出場できただけでなく、部員の多くが志望大学に進学し、部員の中から生徒会長も出ています」


 全国的に、「東大も甲子園も」というキャッチフレーズで生徒募集をする高校が増えている。東大合格者も多く、野球部は甲子園に出場する。だが、実態はそれぞれ別の部隊である場合が大半で、進学コースは部活をほとんどせず勉強、野球部は進学より野球に注力する。


「私たちは、一人の生徒が勉強も部活もそれ以外の活動にも情熱を燃やせる、そういう環境を目指しています」(星野校長)


 全国大会出場や優勝を目指す多くの高校が勝利至上主義に走り、それでいて勝てない悪循環に陥る中、静岡聖光学院はなぜ常識を覆すことができているのか?


「ラグビー部の勝利を学校経営や生徒募集に利用しようと考えていないからでしょうか」と星野校長が笑った。多くの高校は、甲子園出場や東大合格者数を喧伝(けんでん)し、学校のイメージアップや生徒数確保の重要な柱に据えている。静岡聖光学院にはその考えがないという。


「ラグビーをやりたいと言って来る志願者には、『ラグビーがやりたいなら、ほかの高校に行った方がいいですよ。うちは週3回しかできないから』と断ります。それでも、と希望してくれれば受け入れます」


 部活最大の目的がチームの勝利でも高校の宣伝でもなく、「生徒一人ひとりの成長にある」ことが徹底されている。一人で3つ(勉強、部活、その他の活動)をすることでむしろ忙しくならないのか? その手がかりは、建学の模範となったイギリスのパブリックスクールにあった。


「イギリスのイートン校に研修に行った経験があります。イートン校では、毎週火曜と木曜の授業は午前中だけ。午後は生徒たちがそれぞれスポーツや芸術に打ち込みます」


 忙しすぎる授業の弊害にも、伝統的に配慮がなされているのだ。

本質を問いかける勇気が必要ではないか

 内田良さんは、静岡聖光学院ラグビー部の佐々木陽平監督と、ある番組で出会ったのをきっかけに同校を訪問している。その時、内田さんが感激したのは吹奏楽部の活動スタンスだった。なお、一般的に吹奏楽部は、スポーツの部活以上に体育会的で、いじめや体罰、パワハラに満ちていると言われるのだが、星野校長は次のように話した。


「うちの吹奏楽部は、コンクールに出ないのです。毎年、春のゴールデンウイークに開催される校内の演奏発表会が目標です。3年生はこの演奏会を終えると、受験中心の学校生活にシフトします。外部のコンクールには出ませんが、部員たちは十分に満足し、やりがいをもって取り組んでいます」(星野校長)


 さらに内田さんは、静岡聖光学院ラグビー部の静岡県決勝戦でのエピソードを教えてくれた。


「結果は優勝で、花園に出場しました。ただ私が感動したのは、その結果ではなく、佐々木監督から聞いた、監督の姿勢です」


 というのは、静岡聖光学院は前半、相手にリードを許してハーフタイムに入った。通常のチームなら、監督が厳しく叱咤し、何らかの助言を与える。ところが、佐々木監督は一切、選手に助言をしなかったという。選手たちは佐々木監督から少し距離を取り、監督に背中を向けて自分たちで後半の戦略を話し合った。そして後半、逆転して勝ったのだ。


「なぜ選手に任せることができるのか? 私は佐々木監督に聞きました。そうしたら『部活で人を育てる、考える子どもを育てる、それが私たちの部活の目的ですから』と、当然のように答えが返ってきました。あの場面でもそれが徹底できるのは素晴らしい。感動しました」(内田さん)


 部活で何を育むか、その目的が明確に共有されているのだ。

部活が教員の自己実現に使われる弊害も

「部活を担当したくない」と訴える教員が多くいる一方で、「部活の顧問になりたくて教師になった」という『部活命!』の教員も少なくない。彼らが外部指導員に週末の指導を奪われるのは忸怩(じくじ)たるものだろうし、週末は教員の立場でなく、外部指導員として地域のスポーツ指導に携わるという選択肢も用意される可能性がある。いずれにせよ、部活動に情熱を燃やす教員にも問題の火種がある。パワハラ指導をしがちなのは、こうした教員たちだ。


 星野校長は次のように指摘する。


「教員が部活動にのめり込むのは、教師が自分のできなかった夢を、生徒を使って実現しようとするからです。部活が『教師の自己実現』に使われる場合があるのです。このような教員が率いる部活は、チャンピオンシップに出るべきではないと思います」


 2人に話を聞き、日頃から感じていた学校の問題点の根幹が明確に見えた気がする。学校はいたずらに忙しすぎないか? カリキュラムのどれほどが本当に必要なのか? 円滑な学校運営のため、学校は自分たちの都合で生徒や制度を動かしていないか? そして、部活が本来の目的を大きく逸脱し、時間的にも、体力的、精神的にも負荷が大きすぎる活動になってはいないか。


 外部指導員への委託が是か非かを論じる前に、部活の意義、生徒も教師も忙しすぎる学校の改革など、本質的なところをもっと語り合い、共有する必要があると強く感じた。


(作家・スポーツライター 小林信也)





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