忍者ブログ

ニーチェの思想の考察(1)ニーチェの思想の概要

前回のウィキペディアによるニーチェの思想の要約を私が加工して箇条書きにしておく。そして、それをひとつひとつ考察するが、当然、その思想の由来や論証などは書かれていないのだから、その一文一文が私にとって納得できるかどうか、私自身の「解釈」でしかないわけだが、それはニーチェ自身の哲学の方法でもあるだろう。つまり、ニーチェ自身の世界解釈を私が解釈して当否を判断するわけだが、その判断も私の主観でしかない。

(以下引用の箇条書き化)考察対象だけ数字を付ける。


ニーチェは、真理理性価値権力自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンスニヒリズムルサンチマン超人永劫回帰力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。

解釈の多様性[編集]


1:ニーチェは、唯一の真実なるものはなく、解釈があるのみだと考えた[12]
2:ニーチェにとって、解釈とは、価値、意味を創り出す行為である[12]
3:そして、解釈は多様である。
4:世界はどのようにも解釈される可能性があり、世界は無数の意味を持つ[12]

ニーチェがこのように考える背景には、従来的な認識・真理に対する懐疑があった[13]

永劫回帰[編集]


5:ニーチェは、キリスト教が目標とするような彼岸的な世界を否定し、ただこの世界のみを考え、そしてこの世界を生成の世界と捉えた[14]
6:永劫回帰(永遠回帰)とは、この世界は、全てのものにおいて、まったく同じことが永遠にくり返されるとする考え方である[14]




これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうキリスト教的世界観の悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。




彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学道徳科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。

超人[編集]

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、

7:人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。

ニーチェ思想において力の貴族主義思想を廃することはできない。さらには

8:絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。




9:すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。

10:そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。

11:だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。

12:その流転する世界の中、流転する真理を直視することは全て「力への意志」と言い換えられる。

いわばニーチェの思想は、

13:自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。

拍手

PR

ニーチェについて

ニーチェの思想を考察してみようか、と思っているのだが、手元にあるのが「善悪の彼岸」だけなので、先にニーチェの思想の全体像のようなものをウィキペディアから転載しておく。まあ、誤解や誤読、あるいは下手な要約かもしれない。
私は彼の著作を完読したことが一度も無いが、仄聞する情報だけで考えると、

1:キリスト教思想の全否定
2:キリスト教に基づく倫理の否定。
3:その後の実存主義哲学の起点のひとつ。

程度であり、その「超人思想」というのが、多くの娯楽メディアにおける「中二病」タイプキャラの原型ではないか、と思っている。ただし、その「超人」という言葉が独り歩きしたものだろう。ヒーローは多かれ少なかれ「超人的」キャラなのである。そして、過去の哲学や倫理学を否定した彼の思想が「善悪の彼岸」にあるとしたら、それはあらゆる強者の非倫理性を正当化する思想でもあり、現在の「新自由主義」の生みの親でもある、と思う。


(以下引用)

思想[編集]

ニーチェはソクラテス以前の哲学者も含むギリシア哲学アルトゥル・ショーペンハウアーなどから強く影響を受け、その幅広い読書に支えられた鋭い批評眼で西洋文明を革新的に解釈した。実存主義の先駆者、または生の哲学の哲学者とされる。先行の哲学者マックス・シュティルナーとの間に思想的類似点(ニーチェによる「超人」とシュティルナーによる「唯一者」との思想的類似点等々)を見出され、シュティルナーからの影響がしばしば指摘されるが、ニーチェによる明確な言及はない。そのことはフリードリヒ・ニーチェとマックス・シュティルナーとの関係性の記事に詳しい。


ニーチェは、真理理性価値権力自我などの既存の概念を逆説とも思える強靭な論理で解釈しなおし、悲劇的認識、デカダンスニヒリズムルサンチマン超人永劫回帰力への意志などの独自の概念によって新たな思想を生みだした。

解釈の多様性[編集]

ニーチェは、唯一の真実なるものはなく、解釈があるのみだと考えた[12]。ニーチェにとって、解釈とは、価値、意味を創り出す行為である[12]。そして、解釈は多様である。世界はどのようにも解釈される可能性があり、世界は無数の意味を持つ[12]。 ニーチェがこのように考える背景には、従来的な認識・真理に対する懐疑があった[13]

永劫回帰[編集]

ニーチェは、キリスト教が目標とするような彼岸的な世界を否定し、ただこの世界のみを考え、そしてこの世界を生成の世界と捉えた[14]永劫回帰(永遠回帰)とは、この世界は、全てのものにおいて、まったく同じことが永遠にくり返されるとする考え方である[14]


これは、生存することの不快や苦悩を来世の解決に委ねてしまうキリスト教的世界観の悪癖を否定し、無限に繰り返し、意味のない、どのような人生であっても無限に繰り返し生き抜くという超人思想につながる概念である。


彼は、ソクラテス以前のギリシャに終生憧れ、『ツァラトゥストラ』などの著作の中で「神は死んだ」と宣言し、西洋文明が始まって以来、特にソクラテス以降の哲学道徳科学を背後で支え続けた思想の死を告げた。

超人[編集]

それまで世界や理性を探求するだけであった哲学を改革し、現にここで生きている人間それ自身の探求に切り替えた。自己との社会・世界・超越者との関係について考察し、人間は理性的生物でなく、キリスト教的弱者にあっては恨みという負の感情(ルサンチマン)によって突き動かされていること、そのルサンチマンこそが苦悩の原因であり、それを超越した人間が強者であるとした。ニーチェ思想において力の貴族主義思想を廃することはできない。さらには絶対的原理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それに戯れ遊ぶ人間を超人とした。


すなわちニーチェは、クリスチャニズム、ルサンチマンに満たされた人間の持つ価値、及び長らく西洋思想を支配してきた形而上学的価値といったものは、現にここにある生から人間を遠ざけるものであるとする。そして人間は、合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることができない、流転する価値、生存の前提となる価値を、承認し続けなければならない悲劇的な存在(喜劇的な存在でもある)であるとするのである。だが一方で、そういった悲劇的認識に達することは、既存の価値から離れ自由なる精神を獲得したことであるとする。その流転する世界の中、流転する真理を直視することは全て「力への意志」と言い換えられる。いわばニーチェの思想は、自身の中に(その瞬間では全世界の中に)自身の生存の前提となる価値を持ち、その世界の意志によるすべての結果を受け入れ続けることによって、現にここにある生を肯定し続けていくことを目指したものであり、そういった生の理想的なあり方として提示されたものが「超人」であると言える。

古代インド思想[編集]

ニーチェは『ヴェーダ』『ウパニシャッド』『マヌ法典』『スッタニパータ』などの古代インド思想に傾倒、ゴータマ・シッダールタを尊敬していた。度々、忌み嫌う西洋キリスト教文明と対比する形で仏教等の古代インド思想を礼賛し、「ヨーロッパはまだ仏教を受け入れるまでに成熟していない」と語っている[15]

拍手

「俯瞰中毒」……「俯瞰症」ではダメ?

トゥゲッターのタイトルで、「俯瞰中毒」という言葉と「ネット民の過半数が陥る」という言葉に興味を惹かれて読んでみたが、内容は単に「モテない男女がモテる男女への嫉妬から、『自分の方が内面的に優れているのに』と思うことの醜さ」を批判したもので、「ネット民の過半数が陥る」は誇大広告である。ただ、ネット民の多くが「俯瞰中毒」に陥ることは事実であるだろうし、私などもその代表だろう。何しろ、世界の政治家や資本家をすべて偉そうに批評し、学者も専門家も下種だ卑怯者だ、と批判しているのだから、お前は地球の王様か、と言われそうであるwww
しかし、日本人に批判精神と「事実を正しく捉える」能力が無いことが日本という国の劣化の最大の原因である以上、ネットという土俵があるのを利用して悪への批判をするのはむしろ日本人全体の(は大袈裟だが、批判能力がある人間としての)義務だろう。
こうした「俯瞰中毒」云々という批判はそれこそ社会からまともな批判を抑圧し、世の悪をのさばらせる、電通的な仕込みなのではないか。
批判とは、必然的に全体を俯瞰する作業を伴うもので、その俯瞰性を欠いた批判は「重箱の隅をほじくる」批判にしかならないだろう。(ちなみにウクライナ戦争についての今のマスコミ報道は、ロシア側の言い分を頭から完全に否定するか無視するという「俯瞰性ゼロ」の報道だのに、それに疑問を持たないとしたら、よほどのアホである。これは新コロ報道も同じ。)誰でも「自分が地球の支配者になったつもりで」世界の政治や社会を批判していいのである。その発言が愚劣なものであれば誰も耳を傾けないだけの話だ。
なお、「俯瞰症」云々というタイトルだが、私は女性の「不感症」がまるで病気扱いされているのも不思議である。まあ、病気の数を増やせば医者は儲かるだろうが。



(以下引用)タイトルのみ。記事筆者はかなり頭が良さそうではある。まあ、記事内容だけで言えば「マウンティング」という言葉に代えて「俯瞰中毒」という言葉を作っただけ、とも言える。つまり、外面的美点や長所を持たない無能な人間のマウンティングが「俯瞰中毒」だ、という論旨だ。

ネット民の過半数が陥る”俯瞰中毒”の症状とは?

拍手

卯月八日は何の日か

今日は4月8日で、旧暦で言えば灌仏会、つまりお釈迦様の誕生日だ。
で、前にも書いたが、この日は与謝蕪村の洒落俳句の「卯月八日」である。

卯月八日 死んで生まるる子は仏

釈迦は苦行や思索の果てに悟りを開いて仏となったが、死んで生まれた子供は最初から「仏」である、というふざけた俳句だ。だが、これを洒落だともふざけた句だとも思っていない真面目な国学者がほとんどであるようだ。

拍手

ドイツ議会「ワクチン義務化」を否決

さすがに、新コロワクチンのいかがわしさを「情報に疎い」政治家たちも分かってきたようだ。

(以下引用)

ドイツ議会、ワクチン義務化否決 ショルツ首相に痛手


配信

コメント20件
  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
時事通信


拍手

近現代哲学は「何を問題としているのか」

近現代哲学は何を問題としているのか、と言えば、「人間の生の意味は何か」「人間は自由な存在でありうるか」という2点で、これはどちらもキリスト教への信頼・信仰の崩壊(それはニーチェの「神は死んだ」という言葉で端的に表されるだろう。)と共に出てきたものだろう。つまり、もともとキリスト教と無縁の日本の哲学者が西洋哲学を有難がることはまったく無いわけだ。
ということは、私が近現代哲学にまったく興味を持てなかったのは当然であり、今さら考察する意味もあまりなさそうだが、キリスト教と切り離して「人間の生の意味は何か」「人間は自由な存在か」という考察をすることには少しは意味があるかもしれない。
だが、これにしても「人間の生の意味など無い(生の意味は個々人が主観的に作るものだ)」というのが自然な考えで、これは西洋では実存主義に近いだろう。何を大袈裟に「実存主義」などと言うのか、という感じだ。創造主という仮定が先にあるから「人間の使命(生きる意味)は何か」などと事々しく考える(創造主に作られた以上は、何か使命があるはずだ、という思考になる)のであり、近代以前の日本人や東洋人はそんなことなどまったく考えなかったと思う。
「人間は自由な存在か」というのも、日本人は最初から社会の義理と人情の束縛の中で生きている自分を当然視していたのであり、最初からポスト構造主義であったわけである。やっと西洋が日本人の精神レベルに追いついたわけだwww ただ、日本人は哲学的理屈をこねる習慣が無かっただけである。
というわけで、近現代哲学の考察はやめることにする。なお、「現象学」にはまったく興味が無い。

拍手

現代哲学の流れ

高橋医院という哲学好きらしいお医者さんのブログから転載。
現代哲学の興隆や潮流が分かりやすく説明されている。もちろん、超簡単な説明だから抜け落ちや誤解もあるだろうが、概観するにはちょうどいい。


(以下引用)


その前に 現代哲学の誕生に大きな影響を及ぼした
あの超有名な哲学者について言及します

<ニーチェ>

ニーチェは
多面的なところがある
仮面を好む哲学者と言われています


神は死んだ

今までの生き方に
妥当性がなくなった世界を生きていくために

自分自身で価値を作っていかなければならない

と主張しました

神は死んだ というニーチェの主張が示されたポスター


このニーチェの考え方は パースペクティブ論と呼ばれ

あらゆる認識はどこから見るかで変化するという
相対主義の最たるものと言えます

どれが正しいなんてことは基本的にはない
絶対的な正しさはなく 
全ての知識は相対的なものである


ニーチェは
ポストモダニズムの相対主義を準備したのです

二ーチェの肖像画



ニーチェはまた

道徳的事実なんてない

絶対に正しい道徳などはなく
解釈の仕方により 何が正しいかは変わってしまう

正しさを決定するのは 人それぞれの感情だが
好きか嫌いかに留まり
正しいか正しくないかを決定するには至らない

とも述べていて
これは 分析哲学の基本的な立場につながる考え方と言えます

このように
ニーチェは現代哲学に大きな影響を及ぼしました


<実存主義>

19世紀のデンマークの哲学者のキルケゴールが始め
20世紀になりドイツで議論され


キルケゴールの肖像画

大戦後に 
フランスでサルトルらが中心になり発展しました


@サルトル

実存が本質に先立つ

まず実存し そこからさまざまな本質を作り上げていく

自分の在り方は 
あらかじめ決まっているわけではなく

自分自身でそれぞれ作り上げていくものである
(人間以外のものは 全て本質が先立つ)

実存は個別的 本質は普遍的


サルトルの写真

そう訴えて
世界に大きなムーブメントを巻き起こしたサルトルは

途中から実存主義的マルクス主義になり
自分が行為することで社会を変えることを
大きな方向性 目標にしました

1960年代は まさに実存主義の時代でしたが
書き手はまだ小学生だったので 流行に乗り遅れました(笑)

でも1970年代になり
実存主義の流れをくむカミュの小説とかは
夢中で読んでいましたが

カミュの写真


1970年以降 実存主義は下火になり
現代哲学の流れは
構造主義 ポスト構造主義へと引き継がれていきます

ポストモダン の時代です

ポストモダンについて説明する図


<構造主義>

1960年代から1970年代にかけて
構造主義が大きなムーブメントになりました

構造主義は まさに相対主義的な考え方で
やがて言語学に基づいた理論展開に発展していきます


人の生き方は
社会の中ですでに決まっているのではないか?

というのが 構造主義が投げかけた問いです


自分は自由に行動しているつもりでも
社会的なもの 構造的な様々な要因により
行動がある程度決められているのではないか?

個人の自由というより
個人を成り立たせている様々な関係の枠組み 
構造の分析こそ重要である


という考え方です

社会とは
歴史的にずっと続いている変化のないもので
理論的に 数学的に取り扱うことができる
ひとつの大きな枠組みである

構造主義について説明する図



書き手は中学生の頃
こうした考え方に 妙に魅かれていました(笑)


@レヴィ・ストロース

構造主義の雄のレヴィ・ストロースは
フィールドワークで
未開民族の親族構造 社会構造の分析を行い


人間の自由は幻想で 社会構造の中で決められている
と述べました

個人的な自由 決断が先立つのではなく
社会や言葉が行動を決定する

レヴィ・ストロースの写真



とても魅力的でした(笑)

彼の思想は
ソシュールの言語学や 記号論につながっていきます


<ポスト構造主義>

やがて 構造主義に疑問を投げかける動きが出てきます

個人の自由を規定する構造が 変わることはないのか?
構造を変えるにはどうすればいいのか?

@ジャック・デリタ

ポスト構造主義の雄のデリタは
レヴィ・ストロースの分析を 
裏返しの西洋中心主義と批判しました


未開民族をリスペクトして 
非常に優れているかのように描くことが

実は西洋中心主義の裏返しに他ならない
というのです

個人というものも 
ひとつのものとしてあるだけでなく

その中にいろいろな要素があって 色々な組み合わせ方がある

構造主義的ではあるものの
組み合わせの違いによって 個人の在り方が変わる

というのです

デリタの写真


ちょっと 混沌としてきました(笑)

 

拍手

カレンダー

02 2025/03 04
S M T W T F S
11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析