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日本再生の道

「ネットゲリラ」記事のコメントだが、私と同じ意見である。
つまり、日本再生と安全保障の道は「第一次産業の育成」にある、ということだ。
前に書いたが、高校での偏差値が100以下の人間は大学に行く必要は無い。苦手な勉強に人生の貴重な時間を無駄に費やすことは当人にも不幸である。まあ、「4年間の休暇」が得られないのは可哀そうかもしれないが、偏差値100以下の人間が私大文系に行って何を学べるというのか。選ばれた人間が高度な授業を受けるからこそ大学の意味はあるのである。まあ、偏差値の高い学部でも文系で何か学べるとも思わないのだが。
まあ、「4年間の休暇」にも大きな意味はあるだろうが、それもパリピ(パーティーピープル、陽キャラ)にとってだけだろう。遊ぶにも能力は要るのである。陰キャラの人間で学ぶことが好きなら大学に行くより自宅で独学したほうがいい。司法試験などは学歴不問であることを知らない学生(高校生)がほとんどなのではないか。
で、本題の「第一次産業の振興」だが、要は今の「ベトナム実習生」とやらにさせている仕事を「学歴は無いが健康な人間で失業者」にやらせればいいだけだ。都会の失業者は全員農村へ強制移住させろ。肉体労働をやれば精神衛生にもいい。心療内科などに行くより農家で働けwww

真面目な話として言うのだが、大学受験に2度失敗した者は「職業訓練学校」への入学を義務づけるのがいいと思う。ただし、そこの教育課程は2年間とする。そこで自動車運転とか語学とか社会知識などの「社会人基礎技能と基礎知識」を教える。授業は午前中だけで、午後は自習と運動・芸術・芸能などのクラブ活動としたら、大学などに行くよりはるかに「平凡人」には有益だろう。
まあ、それも嫌なら「自衛隊に強制入隊」というのでもいい。そこでの授業内容も上に書いたものと同じで、ただ軍事訓練もするわけだ。「自衛隊幼年部」という名称でどうか。「幼年部」が嫌なら別の名前でもいい。ただし、私は将来的には自衛隊は「国土保全隊」にするべきであると思っている。自然災害や緊急災害への対応を主とし、戦争への対応は「超非常事態」のみである。ただ、誰でも銃が撃て、格闘技ができるようになるのは無駄ではないと思う。少なくとも身体能力の向上は一生の財産になるだろう。ついでに言えば、そこの生徒は毎月一回の献血を義務づける。性病持ちなどは当然退校であるwww これで医療用血液不足も解消だ。

(以下引用)

>過疎の山村にホームレス集めてホームレス農園でも作って働かせろ。公務員だw


それ、大賛成。ただ、公務員化は無理だろうな。
いつ世界大戦が起こっても不思議ではない現在、とにかく農業こそが一般市民の命をつなぐ最重要産業だと思う。食い物さえあれば、なんとかなる。餓死ほど惨めな死に方はない。


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ハイデッガーの「『彼ら』と『私』」論

ハイデッガーの認識論(いかにして世界を正しく認識するか)にはまったく興味が無いが、彼の「現代社会論」は面白い。つまり哲学者ではなく社会学者として面白い。

(以下引用)

共同存在[編集]

客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。

彼ら[編集]

「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では〜といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである[412]


現存在は他者たちによる乗っ取り要求に従属する。現存在は「私である」というあり方で存在すると同時に、「他者と共に私である」という形でも存在する。 「私である」という形だけで存在できることはめったになく、「我々である」と同時に「彼らと共に」存在しなければならないのである[413]。 ハイデガーの言葉によれば次のようになる。

現実の公共的環境において、輸送機関などの公共手段を使用したり新聞などの情報サービスを利用したりするとき、ある一人の他者は隣にいるもう一人の他者と何ら変わりがない。自己の現存在が『他者たち』のあり方に完全に溶け込むのである。

現存在は他者たちのなかに没入するが、それらは特定の誰でもなく『ダス・マン(Das Man)』としてあり、没個性的で顔の見えない集団である[414]

Landesarchiv Baden-Wuerttemberg Staatsarchiv Freiburg W 134 Nr. 001683 Bild 1 (5-95041-1).jpg

日常生活のなかでは現存在が他者たちに溶け込み、他者たちと化す。同時に、他者たちも溶解し現存在の一部となる。このようなものとしての『彼ら』を識別することは極めて難しく、ここに『彼ら』の力の源がある。

目立たず、確認し難い故に「彼ら」の真の独裁性が発揮される。「彼ら」が楽しむ通りに私たちは楽しむ。「彼ら」が見て評価する通りに私たちは鑑賞し、評価する。「彼ら」がこれは酷いと思うその同じものについて私たちもこれは酷いと思う。「彼ら」は私たち全てであり、その「彼ら」が日常性におけるあり方を規定する。[415]

大衆性[編集]

ハイデガーが提示したのは「大衆社会」理論に対する哲学者からの一風変わった答えだった。ハイデガーは当時、カール・ヤスパースの著作に親しんでおり、彼の主著『現代の精神的状況』は、機械時代に突入した現代文明における「精神の生」と「人を奴隷化する諸力」の闘争を描く。 「人を奴隷化する諸力」とは、現代と現代文化が持つ様々な力であり、工業力の飽くなき機械化、製品の標準化、大都市、新しい文化、商業化された娯楽、大規模なスポーツ競技会、映画ラジオ、通俗ジャーナリズム、「世論」の操作、等々[416]。 これらの力から生まれるのが「大衆効果」即ち、心を伴わない均一性と危険極まりない順応性を良しとする文化が「独自の判断」を行う可能性を圧し潰し「行動の自由」を雲散霧消させる。則ち現代社会は「個」の抹消という恐るべき現象を生み出すこととなる[417]


『大衆文化』についてのこれらの理論は、全てを商品化する資本主義と『ポップカルチャー』の攻勢に対する保守的なエリート知識人からの悲鳴にも似た反論と解釈することもできる。 ハイデガーのいう『彼ら』は単なる「大衆」とは異なり、現存在も「個人」と単純に同一視することはできない。唯一無二の現存在が「彼ら」に吸収され、無力な状況に置かれる。ハイデガーの哲学的に冷静な文章の端々にヒステリックな否定の声がみられる。

「それ」が私であるはずかない![418]

しかし「彼ら」のどこがそれ程までに恐ろしいのか。ハイデガーは次のように指摘する。 『公共性(Öffent lichkeit)』は顔の見えない「世間」と同一化するというのは、自分自身のあり方を手放すことになる。

かくして、この特定の現存在は、その日常性において『彼ら』に責任を免除される。

そして『平均性(durchschnittlichkeit)』をハイデガーは罵倒する。

『彼ら』は何を試みることができるか、試みてよいかを予め決め、例外的なあらゆることに監視の目を向ける。平均より「優れた」ことは全て、密やかに抑えつけられる。「独創的」なものは全て一夜のうちにならされて、とうによく知られたものに変えられる。「闘争」によって得られるものは全て単なる操作の対象になる。あらゆる「謎」が力を失う。この「平均性」は、現存在の基本的傾向の一つを露呈する。すなわち、存在のあらゆる可能性を「平坦化」する傾向である。

ハイデガーの語彙はニーチェを思わせる[419]

頽落[編集]

現存在は日常生活において『頽落(Verfallenheit)』した状況にある。すなわち「彼らと共に」世界・内・存在に没入している。手元にあるものに配慮することまでが「彼ら」の影響にさらされる。哲学用語として用いられても「頽落」はどこか神学の匂いがする。神のまえにある罪深い人間と同様に現存在も頽落する。では、ハイデガーのいう頽落はなにから構成されているのだろうか。 『頽落』は現存在にとって基本的なあり方の一つである。

(1)『世間話(Gerede)』

公共世界における日常会話。「平均的理解が可能」な話し方。「おしゃべり」といってもいい。


(2)『好奇心(Nengier)』

好奇心を持つのは良いことではないのか。ハイデガーによると、好奇心は新しい流行(『彼ら』は目下何をしているのか)と代理経験を欲することである。


(3)『誘惑(Versuchung)』

世界・内に没入、彼らに服従しようとする誘惑。


(4)『鎮静(Beruhigung)』

現存在の落ち着かない気分を日常生活における様々な満足によって洗い流される。現存在の複雑なあり方が我と我が手で世俗的御祓を受ける。


(5)『疎外(Endfremdung)』
存在論的に真である統一された自己から自らを切り離すことをいう。[420]

被投性と投企可能性[編集]

この日常世界を避けることは可能だろうか。現存在はそのなかに投げ込まれている。『被投(Geworfenheit)』は現存在にとってコントロールのきかない世界のなかにあるということで「絶望の淵に投げ込まれる」というにも等しい。この状態は『選択された』ものではない。この世界は現存在が責任を負えず、選んだ訳でもない事物に満ちている。にも拘らず、現存在は行動し、選択し、責任を負う余地が残されている。

投企(Entwurf)』とは、現存在が自らにとってあれこれの可能性に向かい、自らを投げかけることである。潜在的可能性は現存在の一部になっている。 現存在にとって、存在することの潜在的可能性が「ある」ことに他ならない。

しかし、被投性が可能性の足をひっぱる。現存在は単に何でも好きなものに投企できるわけではない。「投企」の周辺状況、現存在の技能や知能、等々が投企を制約する。したがって現存在は、被投性と可能性の曖昧な闘争に制約されて存在することになる。現存在は「底の底まで投げ込まれた可能性」である[421]

気遣い[編集]

内・存在と共存在、手元と目前にあるものに対処すること、「彼ら」の世界と頽落、被投性と投企可能性、ハイデガーはこれらは統一されたものとし、統一概念として『気遣い(Sorge)』を提示する。 現存在は「気遣い」を通じて次のものを統一する。

(1)『可能性』(現存在の投企)
(2)『被投性』(現存在の可能性を制約する)
(3)『頽落』(「彼ら」の世界に現存在を縛り付ける)

これら全てが「気遣い」という言葉の示す通り、現存在にとって重要である。「気遣い」を向ける事によって現存在は統一される。ハイデガーによれば、現存在は「関心(気遣い)」という構造のなかに存在する[422]

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キェルケゴールの哲学

特に考察する予定ではないが、キェルケゴールの思想についてのメモである。
まあ、一言で言うなら「主体(自分自身)」を思想の限界とする思想は、自分の死でその哲学は終わるわけであり、他者と共有されない。彼がキリスト教(神の存在)に「逃げた」のは当然だと思う。キェルケゴールという名前そのものが「教会の墓地」の意味だというのは暗示的である。

(以下引用)今後、この種の引用で特に断らない限りはウィキペディアからの引用である。

キェルケゴールの哲学[編集]

キェルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。


「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、また世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。

ヘーゲルに抗して[編集]

哲学史的には、キェルケゴールの哲学を特徴づけているのは、当時のデンマークにおいても絶大な影響力を誇っていたヘーゲル哲学との対立である。


ヘーゲルの学説においては、イマヌエル・カント以来の重要問題となっていた、純粋理性と実践理性、無限者と有限者、個々の人間と絶対真理の間の関係はどのようなものか、という問いが取り上げられる。ヘーゲルによれば、有限的存在は、まさにそれが有限であるがゆえに、現実の世界においてつねに自らの否定性の契機に直面するが、そのとき有限者はその否定性を弁証法的論理において止揚するという方法で、その否定性を克服し、より真理に近い存在として自らを高めていくことができるとされる。


これに対して、キェルケゴールにとっては、個々の有限的な人間存在が直面するさまざまな否定性、葛藤、矛盾は、ヘーゲル的な抽象論において解決されるものではない。そのような抽象的な議論は、歴史、現実における人間の活動の外側に立ってそれを記述するときにのみ有効なのであって、歴史の内部において自らの行く末を選択し決断しなければならない現実的な主体にとっては、それは意味をなさないものなのである。このような観点からキェルケゴールは、ヘーゲルの弁証法に対して、彼が逆説弁証法と呼ぶところのものを提示する。逆説弁証法とは、有限的主体が自らの否定性に直面したときに、それを抽象的観点から止揚するのではなく、その否定性、矛盾と向き合い、それを自らの実存的生において真摯に受け止め、対峙するための論理である。


キェルケゴールは自らの思想の特徴を具体的思考と呼び、これをヘーゲル的な抽象的思考に対置する。抽象的思考とは、そこにおいて個々の主体が消去されているような思考であるのに対し、具体的思考とは、主体が決定的であるような思考だとされる。


この延長において、キェルケゴールは「主体性は真理である」と定式化するが、逆説的なことに、彼は「主体性は非真理である」とも言う。ここにおいてキェルケゴールが意図しているのは、次のようなことである。すなわち、歴史的、現実的な選択の場面においては主体性以外に真理の源泉はありえない(主体性は真理である)が、このことは主体性がヘーゲル的な意味での絶対的真理の源泉であるということを意味しているのではなく、実際には、主体はつねに絶対的真理から隔てられている(主体性は非真理である)のである。


このように抗ヘーゲル性が強くあるにもかかわらず「キルケゴールはヘーゲルに服従している」とハイデッガーが『存在と時間』の第45節の注6で見ているのは なぜかと問うことで、ハイデガーと比べたキルケゴールの実存の固有性が露になる。

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「アリストテレス『形而上学』」批判

アリストテレスの「形而上学」を考察しようかと思っている。カント的に言えば「批判」である。批判は「批難」ではない。検討することだ。


(以下引用と考察)

形而上学(第一哲学)

原因について

アリストテレスの師プラトンは、感覚界を超越したイデアが個物から離れて実在するというイデア論を唱えたが、アリストテレスはイデア論を批判して、個物に内在するエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱した。


(考察)

まあ、イデアというのは曖昧な概念だと私も思うし、たとえば石ころのイデアとかウンコのイデアは何だ、と聞かれても答えようは無いだろう。石ころは石ころだしウンコはウンコだ。しかし、その一方で、人間の想念の中には或る種の「理想形」が存在するわけで、それが芸術として結実したりする。まあ、その「理想形」がプラトンの言うイデアと同じか別かは私には分からない。とにかく、「洞窟の比喩」で言われるように、我々が見ている世界は仮象であり、俗人には見えない(感覚から超越した)イデアが存在する、と言われても証明のしようは無い。
だが、アリストテレスの「現実主義」もまた「形相と質料」だけで世界を説明して本当にいいのか、という気はする。後で出て来る「最高善」なるものは、この思想とどうつながるのか、あるいはまったくつながりを無視したものだろうか。


また、アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。



(考察)
「質料」と「形相」の概念の説明が引用したウィキペディアの文章中に無いので、次の引用に出て来る「質料因」と「形相因」の説明で代用すると「事物が何でできているのかが質料因」「そのものの実体であり本質であるのが形相因」となっていて、これはそのまま「質料」と「形相」の説明なのではないか。それを「世界に生起する現象の原因」として分類したのが「質料因」と「形相因」だろう。つまり、何かの「質料」や「形相」そのものが現象の原因となるわけだ。しかしまた「形相因」が「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」に分類されると書かれており、「形相因」の中にまた「形相因」があるというおかしな分類になっている。これは分類狂のアリストテレスの手抜かりだろうか。ウィキ記述者の誤りだろうか。
しかし、「形相」を「そのものの実体であり本質である」とするのがおかしいのであり、これは文字通り「形や姿」としてなら、「動力」や「目的」や「質料」や「形相」を包括するすべてを「現象」とすることで分類が完全になるかと思う。まあ、仏教で言う「色」である。
まあ、「何かの本質は何か」という思考そのものが無益なのであり、「現象がそのまま本質だ」と見るべきだろう。単にその現象の中で重要性の高いものと低いものがあるだけだろう。要するに「本質を考える」とはほとんどの場合「現象を要約する」ことであり、その要約によって取りこぼされるものがあり、そうするとそれは現実そのものと乖離するわけである。胃袋やペニスが私の本質だとはならないわけだ。
言っておくが、私は「分類」は否定しない。それどころか、これはデカルトの「分析と総合」という基本的思考法の「分析」と同類の思考法なのである。



事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。



(考察)

「可能態」と「現実態」というこの分類は面白い。ほとんどの若者は自分の可能態を高く見積もり、その「現実態」に絶望するwww


万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「」(不動の動者)と呼ばれる

(考察)

「神」については、ほとんど考察に値しない、「証明抜きの主張」あるいはただの「個人的定義」である。

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衆愚政治化したデモクラシーとポリティア(舛添要一のブログより)

2018-03-01 11:20:04
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 アリストテレスは、貴族政(アリストクラティア)を国家の理想的な制度とし、それを担うのが「最善の人たち(アリストイ)」だとした。しかし、名望家や貴族のように裕福でなければ政治家になれないというのでは、現代民主主義においては通用しない。


 そこで、アリストテレスも、現実に可能な最善の制度として、中産階級の人々が中心として運営するポリティア(混合政体)をあげたのである。なぜ「混合」なのか。まず、王制や貴族政は、利己的な利益の追求に終始し、僭主政や寡頭政に堕落する危険性がある。逆に、貧しい「無頼の徒」(大衆)による政治は、下手をすると衆愚政治(デモクラティア)になってしまう。


 そこで、この双方の危険性を排除するために、多様な集団が自由に統治に参加することができるポリティアのほうが好ましいとしたのである。その統治形態が機能するためには、政治によって定期的に収入が保証される必要がある。


 そうしなければ、裕福な人たちしか政治家になれないからである。今の日本では、議員歳費の削減を唱える大衆迎合主義が広がっているが、それは「職業としての政治」の根幹を揺るがすものである。


 またひと握りの有徳者(アリストイ)が支配する貴族政や寡頭政の場合、全国民の利益になる政治が行われるとは限らない。広汎な国民が参加しない政治は永続できない。そこで、J.S.ミルが主張するような主権在民、民主主義という考え方が出てくる。


 ミルは、『代議政治論』の中で、「最善の統治形態は、主権(究極的な最高支配権力)が社会全体に付与されている統治形態である」とし、すべての市民が「主権に対して発言力を持っている」のみならず、「少なくともときどきは、地方的または一般的な若干の公的な機能を果たすことによって、統治に実際に参与する」ことが要請されるような統治形態であると言う。


 現代民主主義諸国においては、19世紀半ばのこのミルの主張は必ずしも実現されていないが、古代ギリシャのアリストテレスが言うポリティアは、近代ではミルの思想につながっている。一方で民主主義の、他方で貴族主義の要素を含んだポリティアは、民主主義が衆愚政治に陥らないための統治形態だと言ってもよい。


 古代から近代を経て、現代の政治においては、貴族主義的要素がますます希薄になっている。まさに大衆民主主義の時代であり、それは容易に衆愚政治に陥る危険性を孕んでいる。一昔前までは、高度な教育、専門的知識、幅広い教養が「統治する選良(ruling elite)」、つまり「現代の貴族」の資格であった。しかし、マスメディアが発達した今日、大衆の人気取りが選挙での最大の戦略となってしまい、その資格要件すらなくなってきている。


 フランスでは、ENA(国立行政学院)などのGrandes Ecoles 出身者が今なお官界、政界を牛耳っているが、日本では、官界はともかく、政界では東大閥が幅をきかせる状態ではもはやない。「貴族主義」は、ますます失われていっており、衆愚政治への歯止めがきかなくなりつつある。


 


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アリストテレスによる「述語」の分類

考察の対象が思いつかないので、アリストテレスの思想の一部をウィキペディアから転載しておく。その自然科学についての思想は現代では考察に値しないだろう。

哲学とは煎じ詰めれば「AはBである」という命題(真偽の判断が可能な文)になると思うが、その述語を分類したのが面白い。

すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」

まあ、この分類で妥当かどうか、他の要素もあるとは思うが、かなり思考のガイドラインにはなる分類だと思う。
つまり、何かを考えるとき、その対象の

1:実体は何か
2:性質は何か
3:量はどうか
4:他者との関係はどうか
5:能動的か
6:受動的か
7:時間とどう関係するか
8:姿勢はどうか

を考えるわけだ。まあ、これは私が下の記述から今適当に考えたものである。創造や創作や研究を試みる際のいい手引きになるのではないか。たとえば、小説でキャラを作る場合だと「量」とは体型や体格や体重になるだろうし、内面的な「器量」「包容力」でもあるわけだ。また、たとえばシャーロック・ホームズの「本質(実体)」とは何かと言えば「思考機械で、かつ冒険家」だろう。


(以下引用)

形而上学(第一哲学)

原因について

アリストテレスの師プラトンは、感覚界を超越したイデアが個物から離れて実在するというイデア論を唱えたが、アリストテレスはイデア論を批判して、個物に内在するエイドス(形相)とヒュレー(質料)の概念を提唱した。


また、アリストテレスは、世界に生起する現象の原因には「質料因」と「形相因」があるとし、後者をさらに「動力因(作用因)」、「形相因」、「目的因」の3つに分けて、都合4つの原因(アイティア aitia)があるとした(四原因説)(『形而上学』A巻『自然学』第2巻第3章等)。


事物が何でできているかが「質料因」、そのものの実体であり本質であるのが「形相因」、運動や変化を引き起こす始源(アルケー・キネーセオース)は「動力因」(ト・ディア・ティ)、そして、それが目指している終局(ト・テロス)が「目的因」(ト・フー・ヘネカ)である。存在者を動態的に見たとき、潜在的には可能であるものが、素材としての可能態(デュナミス)であり、それと、すでに生成したもので思考が具体化した現実態(エネルゲイア)とを区別した。


万物が可能態から現実態への生成のうちにあり、質料をもたない純粋形相として最高の現実性を備えたものは、「」(不動の動者)と呼ばれる。イブン・スィーナーら中世のイスラム哲学者・神学者や、トマス・アクィナス等の中世のキリスト教神学者は、この「神」概念に影響を受け、彼らの宗教(キリスト教イスラム教)の神(ヤハウェアッラーフ)と同一視した。

範疇論

アリストテレスは、述語(AはBであるというときのBにあたる)の種類を、範疇として下記のように区分する。すなわち「実体」「性質」「量」「関係」「能動」「受動」「場所」「時間」「姿勢」「所有」(『カテゴリー論』第4章)。ここでいう「実体」は普遍者であって、種や類をあらわし、述語としても用いられる(第二実体)。これに対して、述語としては用いられない基体としての第一実体があり、形相と質料の両者からなる個物がこれに対応する。

倫理学

アリストテレスは、倫理学を創始した[12]。 一定の住み処で人々が暮らすためには慣習や道徳、規範が生まれる[13]。古代ギリシャではそれぞれのポリスがその母体であったのだが、アリストテレスは、エートス(住み処)の基底となるものが何かを問い、人間存在にとって求めるに値するもの(善)が数ある中で、それらを統括する究極の善(最高善)を明らかにし、基礎付ける哲学を実践哲学として確立した[13]


アリストテレスによると、人間の営為にはすべて目的(善)があり、それらの目的の最上位には、それ自身が目的である「最高善」があるとした。人間にとって最高善とは、幸福、それも卓越性(アレテー)における活動のもたらす満足のことである。幸福とは、たんに快楽を得ることだけではなく、政治を実践し、または、人間の霊魂が、固有の形相である理性を発展させることが人間の幸福であると説いた(幸福主義)。


また、理性的に生きるためには、中庸を守ることが重要であるとも説いた。中庸に当たるのは、

  • 恐怖と平然に関しては勇敢、
  • 快楽と苦痛に関しては節制、
  • 財貨に関しては寛厚と豪華(豪気)、
  • 名誉に関しては矜持、
  • 怒りに関しては温和、
  • 交際に関しては親愛と真実と機知

である。ただし、羞恥は情念であっても徳ではなく、羞恥は仮言的にだけよきものであり、徳においては醜い行為そのものが許されないとした。


また、各々にふさわしい分け前を配分する配分的正義(幾何学的比例)と、損なわれた均衡を回復するための裁判官的な矯正的正義(算術的比例)、これに加えて〈等価〉交換的正義とを区別した。


アリストテレスの倫理学は、ダンテ・アリギエーリにも大きな影響を与えた。ダンテは『帝政論』において『ニコマコス倫理学』を継承しており、『神曲』地獄篇における地獄の階層構造も、この『倫理学』の分類に拠っている。 なお、彼の著作である『ニコマコス倫理学』の「ニコマコス」とは、アリストテレスの父の名前であり、子の名前でもあるニコマスから命名された。

政治学

アリストテレスは『政治学』を著したが、政治学を倫理学の延長線上に考えた。「人間は政治的生物である」とかれは定義する。自足して、共同の必要のないものは神であり、共同できないものは野獣である。両者とは異なって、人間はあくまでも社会的存在である。国家のあり方は王制、貴族制、ポリティア、その逸脱としての僭主制、寡頭制、民主制に区分される。王制は、父と息子、貴族制は夫と妻、ポリティアは兄と弟の関係にその原型をもつと言われる(ニコマコス倫理学)。


アリストテレス自身は、ひと目で見渡せる小規模のポリスを理想としたが、アレクサンドロス大王の登場と退場の舞台となったこの時代、情勢は世界国家の形成へ向かっており、古代ギリシアの伝統的都市国家体制は過去のものとなりつつあった。

*夢人注:「ポリティア」について舛添要一は「混合政体」としている。特に根拠は無いが、政治意識のある中産階級を「市民」として、「市民政治」と訳しても良さそうだ。それは「民主政治」とは違って、或る程度の知性と教養を政治参加の必要条件とするわけである。ポリス(都市)の運営が政治(ポリティクス)の起源だろう。奴隷には政治を考える心理的余地は無い。市民に政治参加の資格はある。現代では奴隷としての頭脳しかない人間に選挙権が与えられている。それが民主主義を崩壊させている。

2018/02/28 — そこで、アリストテレスも、現実に可能な最善の制度として、中産階級の人々が中心として運営するポリティア(混合政体)をあげたのである。

文学

アリストテレスによれば、芸術創作活動の基本的原理は模倣(ミメーシス)である。文学は言語を使用しての模倣であり、理想像の模倣が悲劇の成立には必要不可欠である。作品受容の目的は心情の浄化としてのカタルシスであり、悲劇の効果は急転(ペリペテイア)と、人物再認(アナグノーリシス)との巧拙によるという。古典的作劇術の三一致の法則は、かれの『詩学』にその根拠を求めている。

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アニメという「文化大使」

日本アニメは日本という国への親愛感を高めている「文化大使」である。
タイ版のラインスタンプが、使い勝手が良さそうだ。いろいろなシチュエーションがある。





タイの一休さん公式

らて @rate813rate

タイは今、深夜3時半、ふと起きたら一休さん始まったんだけど今何年かな…? そのまま日本語のオープニング始まったんだ… pic.twitter.com/mvDcwUdmzn


  2019-09-27 05:35:10

タイ版のLINEスタンプも発売されてる


らて @rate813rate

@max_OLDMEN 本編はタイ語でOPEDは日本のままという仕様…


  2019-09-27 07:08:03
冬乃@一時帰国中 @poohka_27

もしかしたら日本よりも見られているかもしれない一休さん。新右衛門さんを知らないタイの人を探すほうが難しいかもしれない 一休さんの声が藤田淑子さんということしか知らない日本人、日本のアニメの話題に全く混じれず。 pic.twitter.com/VWZeCr62vC


  2020-11-24 03:05:16
リンク LINE STOREIkkyu-san - LINE スタンプ | LINE STOREIkkyu-san, the clever little monk, comes here with his friends to solve all problems for everybody. Let's have fun with his witty words and poses.10

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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