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「真・善・美」は一致するという思想

下の引用は、「はてな匿名ダイアリー」での「悪役(の悪行描写)は物語創作に必要か」的な物語創作論(つまり、「トンネルを抜けた時の明るさへの感動のためにトンネルの暗い道を歩くことの不快に耐えられない人もいる」、ということ。)に対するコメントだが、現実人生や現実社会の話としてもなかなか面白い指摘だと思う。

「悪の凡庸さ(悪人は特殊な人間ではなく普通人でも悪に陥る)」という思想が、悪への同情となり、悪への腰の引けた対処になり、あるいは悪に報いるに善を以てする、という宗教的な姿勢になり、その結果、悪が世界に拡大していく、ということもありそうだし、現実にそうなっている感じもある。だからと言って、「厳罰主義」でこの問題が根本的に解決できるかどうか。

この問題への対処は、「悪は美しくない」ということを倫理問題の基点にすることではないかと、ふと思った。つまり、倫理感覚とは「行動の美」への感受性である、ということだ。
我々は、たとえば統一教会問題での政治家たちの「行動」を醜悪だと思っているのではないか? その「醜悪」という言葉は「悪は(審美的に)醜いものでもある」という思想を包含するように感じる。それは、この「醜悪」という言葉が外面的な(外観の)美醜だけでなく、行動の美醜にも使われることからも言えるのではないか。
これは、昔から言われている「真・善・美は一致する」という思想に近い。言うまでもなく、ここでの「美」は外面の美ではない。美男美女の悪党は無数にいる。しかし、美男美女ではまったくないが、善人の善性がそのまま顔に現れている人も多いのである。で、内面が下品・下種であるような美男美女は、やはりそれが顔に現れているのである。俳優やタレントや有名人の誰それをここでは指摘しない。



(以下引用)


あー。一方で、「絵にかいたような悪役でも実は事情があってそれなりにはいい人でした」展開も、作者のリアリティ観の薄っぺらさがほの見えて萎える(「正義は人の数だけある」と言っておけばいいんでしょ、的な)。


なんというか、その辺にあふれてる自分正義言い訳にした低劣な人間の底の浅さみたいなのをリアルに描いた悪役像が、読んでいて一番好ましい。

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岸田総理よ、「霜を履みて堅氷至る」だよ

今、一番大きな問題は、岸田政権が安倍・統一教会問題を無視して逃げ切ろうとしていることだが、そこで「岸田政権の今後」を易に問うたところ、「坤為地初爻」という卦を得た。「坤為地」は全部の爻が陰という珍しい卦で、大地を象徴する。易では天に従属する性質だが、物を載せ、育み育てるのが大地である。つまり、脇役の卦で、地味で陰性な岸田にぴったりであるww
その初爻は、易をやる者の間では有名な「霜を踏みて堅氷至る」というもので、下の「高島易断」の解説にあるように、「小さい悪事を見逃せば、初霜が堅氷に至るように、やがて大きな悪事に至る」というものだ。岸田の改造内閣の性質を表す、これ以上の卦は無いだろう。
だが、これは私に言わせれば「積小成大」という、人生訓にも通じるものである。つまり、いい方向に行動するなら、「塵も積もれば山となる」大きな成果を得られるわけだ。
解釈するのも面倒なので、「高島易断」を解説した某サイトの解説をそのまま載せておく。

(以下引用)十円とか百円というのは、硬貨を使って易占する方法を示している。赤字部分は夢人による強調。岸田に関する占いとしては、赤字部分だけを読んだほうが分かりやすいと思う。


坤為地 ■■■■■■


十円の表 十円の裏  百円の表 百円の裏


○坤は、元(おお)いに亨(とお)る。牝馬(ひんば)の貞に利(よろ)し。君子往(ゆ)く攸(ところ)有り。先んずれば迷い、後(おく)るれば主を得(う)。西南に朋(とも)を得(え)、東北に朋を喪(うしな)うに利(よろ)し。貞に安んずれば吉。


坤(こん)の時は大いに成就する。メス馬のように、主(あるじ)に順うがよい。脇役の君子には、進むべき道がある。


先頭に立てば道に迷い、主(あるじ)に仕えれば、生涯の仕事に巡り逢える。西南(故郷)に居る時は家族や友達を大切にする。東北の地に赴けば(故郷を出れば)家族や友達と別れるが、それが進むべき道である。迷うことなく、脇役に徹すれば、幸を得る


○地勢(ちせい)は坤(こん)なり。君子以(もっ)て德を厚くし物を載(の)す。


大地に大地が重なるように、万物を、その上に載せている。これが坤の形。脇役の君子は、陰德を厚く積み上げて、あらゆるものを包容(ほうよう)する。


(占)人に当て嵌めれば、身体を養う衣食住だけ考え、心の德性に目を向けない。このような人は、貪るように人から奪い取っても、汚らわしいとは思わず、卑しくケチ臭い性格で、恥知らずである。この卦は本来「凶」ではなく、その人が無知蒙昧だから、物事に迷って凶運に至るのである。それゆえ、何事も調和することを心がけ、柔順に剛毅で明朗かつ見識のある人に随い、その教えを守れば、何事も成就するようになる。


○坤は「動静」の「静」の時。「静」であることが何よりも大切。


○人から命令を受ける。 ○人に使われる。 ○大勢の人と共同して利益を追求する。


○器量に欠ける時は凶。 ○急速に事を計ってはならない。


○人に先んずることなく、遅れて行なうことは、柔順にして吉。


○万事、命じられて行なうがよく、自ら進んで行なうことはよくない。志を守ることができない人は凶。 ○自分の職分を守って、妄りに動き求めなければ吉。


○散々苦労して、ようやく成功する。 ○大衆。 ○倹約。 ○卑賤で愚鈍。


○農家は田園を守って(本業を守って)、他の仕事をうらやましく思ってはならない。


○物価は安くなるので、買うと利益を得られる。 ○吝嗇。 ○偏執。


○柔和・温厚・安静・順直・謙譲・恭敬・貞節・丁寧など全て吉。


 


初六 ■■■■■●


○初六(しょりく)、霜(しも)を履(ふ)みて堅氷(けんぴょう)至る。


初霜(はつしも)を履む季節が来れば、やがて堅い氷が張る厳寒の季節が到来する。


小さな悪事を見逃せば、初霜が堅氷に至るように、やがて大きな悪事に至る。


(占)善悪の分かれ道に立つ時。善に進めば慶びと幸せを得るが、悪に進めば大きな災いを招く。小さな事が大きな事に発展する時。よくよく戒めなければならない。


 




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仮説と定説と真実

孔徳秋水氏のブログ記事だが、氏が元教師であることは初めて知った。
なかなか面白いことも言っているが、「自分が信じられないことはデマ!」という姿勢も見られる。科学自体が無数のデマの中から非合理的なものや事実に合わないものを削ぎ落すことで発展してきたのであり、デマはいわば「仮説」なのである。意図的に詐欺を目論むデマももちろんある。
科学論文のほとんどはただの仮説である、ということはもっと知られていい。で、現在主流となっている論(定説)も、単に「現在の主流である」に過ぎない。ただ、その説を用いると現実世界との整合性が高く便利だから主流となっているだけだ。
たとえば秋水氏は「地球温暖化説」や「二酸化炭素温暖化犯人説」などをデマ、詐欺だと認識しているだろうか。それとも世界(欧州世界)の多くの学者が天動説を支持しているから、地動説はデマ! とした中世の科学者のような反応をするだろうか。(ただし、中世には純粋な科学者は存在せず、神学者と混在していたようだが。)
私は「定説」を疑う姿勢こそ、真実探求の重要な姿勢だと思う。つまり仮説やデマを頭から否定する姿勢は、単に思想的怠慢であると思う。これは科学者だけに求められるものではない。山上の一発で、安倍の真の姿が白日の下にさらされたが、それまでは安倍信者や自民党信者は無数にいたのである。

(以下引用)
2022-08-13 12:36:13
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「通知表」といえば、通常、五段階の相対評価であるが…


 


具体的に、1~5 までを、どのように配分しているかご存じだろうか?


 


 


「1」と「5」が、上位と下位の、それぞれ5%ずつ…


 


つまり、クラスの10%が、「1」か「5」を配分されている。


 


 


そして、次の上位と下位の15%ずつに、「2」と「4」が配分される。


 


5%+15%=20%……であるから…


 


上位の20%が、「4」と「5」を、下位のやはり20%が、「1」と「2」を配分されるのである。


 


 


すると、残りは?


 


100%-20%-20%=60%


 


過半数の60%に、「3」が配分されるのである。


 


 


つまり…「ふつう」であり、「過半数」であり、「マジョリティ」なのである。


 


 


んで…、「人間の能力や知性」というのは、そうそう単純なものではないとはいえ…


 


偏差値で「輪切り」にされ、集団になると、無視できない「特徴」が明らかになる。


 


 


それで、この「3」を取っている生徒って、どんな生徒かというと…


 


ざっくり言ってだが…高校生になるわけだが…


 


英語の成績が、卒業時よりも入学時の方がよかったりするのである。


 


「生徒指導」をやらないと、だらけてしまったり、想定外のことをやって業務に支障が出るのである。


 


実験なんてやると、マッチがいつのまにかなくなっていたりする。


 


宿題をやってこないので、「外を走ってこい!」って言ったら、喜んで出て行った…ったりするのである。


 


 


「教育困難校」とまでいかなくとも、「ふつう」で、この調子なのである。


 


そして、これが「日本人」の「ふつう」なのである。


 


 


あの…これってさ…「かしこい」?…それとも「バカ」?…どっち?


 


いや…「バカ」でも全然いいんだけどさ…「お勉強が苦手」ってだけなんだからさ…


 


 


要するに、「ふつう」でも、すでに「落ちこぼれ」なわけである。


 


わたしが思うのは…なぜ、自分が頑張れないことを、無理に頑張ろうとするの?


 


それで、がんばっちゃって、みごとそれなりの結果が出せるのならともかくも、結局、ダメでしょ?


 


 


要は、自分たちが「バカ」を差別しており、「バカになりたくない。みられたくない」と虚勢を張る…


 


そして、やはり、できないから、「オレってダメだ」ってなり、劣等感でいっぱいになり、投げやりになる。


 


 


「バカを差別」⇒「自己差別・自己卑下」⇒「負け癖・負け犬根性」…


 


自分の得意なもの、自分が頑張れるものを探して、それをやればいいのに?


 


 


もちろん、大人や政治が、そういう仕組みを用意していないというのもあるのだけれども、


 


たとえ用意しても、


 


国民自身がバカを差別しているから、「平等教育」=「画一教育」の仕組みしか残らない。


 


そして、もちろん、そうなれば「落ちこぼれ」が増えて卒業させられなくなるので…


 


…「選択」ということになる。


 


 


まんべんなく一般教養を、きちんとひととおり習得させるということを初めから放棄している。


 


だから、多くの国民の学力が「中二レベル」で止まってしまうのである。


 


 


この10年間で、ネットもマスコミも、格段にレベルダウンしてきている。


 


 


たぶん、「世代交代」しているせいもあるのだろうが…


 


昨今のネットやマスコミの雰囲気が、


 


教師時代の教室の雰囲気に、やたらと似てきている感じがするのだ。


 


 


マジメにやっているように見えても、


 


テストをしてみると、まるで理解できていない…


 


そもそも「話を聞いていない」…


 


 


自分がわかっていようがわかっていまいが、まるでカンケーナイ。


 


つけっぱなしのテレビを、ぼーっと眺めている、その調子で教室で座っているのだ。


 


 


そして、テストだけは合格したいので、「暗記」と「宿題」で格好をつけて卒業する。


 


実質には、「教育を受ける権利」などと言いつつ、生徒自身がそれを放棄しているのである。


 


 


…にも拘らず「権利が~」と…


 


日弁連の存在によって日本の教育が崩壊したと言ってもよい。


 


日弁連以外にも、マスコミなどが、テロリスト並みに日本を破壊してきたのだ。


 


 


その当時の教室の雰囲気がそのまんまネットに出てきているということは…


 


「落ちこぼれのクソガキ」のまま、大多数が「おとな」になってしまったわけである。


 


 


「社会に出たら、わかる」、「一人前になる」と信じてインチキで彼らを卒業させてきた…


 


それを「生徒を救う」ことだと多くの教師は考えていたみたいだが…


 


それは、前回述べたように詐欺である。


 


もっと言えば、公文書改竄である。


 


な~んも「成長」させていないで給料だけはもらっている…


 


まあ、教師とは、「刑務官のようなもの」と割り切ってしまえば、詐欺でもないのだろうが…


 


 


教師時代、ふと、こうしたことの「居心地の悪さ」を感じていたのだが、


 


むずかしい話になるので会話も弾まない…


 


…で、まあ固い話はともかく、まあ飲めや、それで、あの件はどうなったの、こうなったの…


 


 


いまはもう、とっくに教師ではないので、ある意味、すがすがしいが、それでも…


 


あ~、結局、この問題は、ここまできちゃったのか……という、失望感?というのかを感じるのだ。


 


 


「落ちこぼれ」のまま、「低学力」のまま、


 


それを誤魔化しつつ、大人になってしまったいまの日本人…


 


もうちょっと、なんとかならなかったのかねぇ~


 


 


だから、「永久機関」でググれば、ネットにも「永久機関は存在しない」という解説動画はあるというのに…


 


ずっといつまでも「フリーエネルギー」なんてものを信じている…


 


まるで、統一教会信者のごとき人々…


 


 


直近は、「反ワクチン」デマである。


 


「ワクチンを打つほど感染しやすくなる」というデマである。


 


小学校6年生でも、ちゃんと解説すれば、理解できる生徒は、5%程度はいるというのに…


 


大の大人が、ま~、いっしょうけんめい「ワクチン危険」、「マスク危険」というデマを流している。


 


まあ一説に、コロナワクチンのリスクは、インフルエンザワクチンの100倍というのはあって、


 


それは当ブログでも否定はしていないが、それは「とてもよく効く」ことの裏返しでもある。


 


 


そういうことをネットの連中は、自分がわからないからだろうが、熱心に拡散する。


 


アメブロのスタッフも、これを野放しにしているが、「デマってわからない」んだよね?


 


基礎学力&一般教養がないから!!


 


 


また直近のデマに「広島原爆地上起爆説」がある。


 


米国の研究者が原爆の威力を調査するために現地に入り、爆風や熱線の当たり方を調べ上げ、


 


それらから逆に、地上何メートルの、北緯、緯度何度当たりで爆発したと計算しているのに…だ。


 


 


ひとつでも、デマを流しているブロガーは、何度でもデマを流している。


 


そして、削除されると、それこそ「陰謀だ」、「情報封鎖だ」とわめきたてるのだ。


 


 


こういう種類の「バカ」は、単に「勉強が苦手」というバカとは別次元の差別されるべきバカである。


 


 


教育と学問を嘗め腐ってきた「戦後民主主義」下の日本人…


 


まあ、「なるように」しかならんわな~


 


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新聞と新聞紙

批判的な意味での転載である。
最初は真面目な「マスコミとしての反省」などを書き並べながら、途中のウクライナ戦争のあたりから、「欧米主要マスコミやニュース配信社」発の情報を頭から信じ込んだ内容になっている。つまり、この社説の書き手自体が完全に洗脳された状態であるわけだ。事件の最初の最初から真面目なネット内の政治報道サイトやブログなどを読んでいた人は、ウクライナ戦争の発端が、アメリカの背後操作によるウクライナ政権の交代(クーデター)であり、その後のウクライナ政権が同国東部や南部への弾圧と暴力を繰り返していたことは明白である。そして、NATOの東方拡大によってロシアが挑発を受け続け、我慢の限界に達していたことも明白である。
この社説のどこにもそういう経緯が書かれていない。単に「戦争を始めた者が悪い」くらいの考えだろう。
まあ、マスコミ自身の無知さ愚昧さはもうあきるほどバレているから、おそらくほとんどの新聞は販売力を失っているのではないか。実際、このような愚論を平気で社説として載せている新聞(他の新聞も似たりよったりだろう)をカネを出して購読する理由など無い。これも毎度言うが、ただの紙として掃除などに利用するだけである。あの大きさで吸水力のある紙というのは、なかなか便利なのである。昔は、弁当を包むのに必須アイテムだった。
昔の新聞紙条例の「新聞紙」は、今の新聞と同じ意味だが、「紙」が強調されているためやがて「新聞がみ」などと呼ばれて情報主体の意味の「新聞」と区別されたのだろう。今の新聞に情報源としての価値が無いなら、ただの新聞紙(がみ)だ。
せめて、娯楽読み物でも載っていたらマシなのだが、娯楽性もほとんどゼロの新聞が多いと思う。編集する側が本質的に頭が悪いので、優れた娯楽性のある作家を発掘できないのである。

(以下引用)



 
 
 
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 炎天下、聞き取れないほどの音量で叫ぶ街宣車と、大勢の警察官の警備を抜け会場に入った。打って変わり、白を基調にした穏やかな空間が広がる。先日、京都市で開かれた「表現の不自由展」だ。


 時間ごとの入場で人数を制限しているとあって、約20点の作品をゆっくり鑑賞できた。絵画や写真、オブジェ、空間アートが語りかける作者の思いは、外の喧噪(けんそう)と比して拍子抜けするほど静かで、通奏低音のように響く。テーマは天皇制や従軍慰安婦、福島第1原発事故、原爆などさまざま。受け止め方も人それぞれだろう。


 痛恨の歴史を忘れず


 政治的な理由で過去に出展が中止された作品などを集めたという。3年前、愛知県の展示では集中的な抗議で一時中止になった。今回も会場を伏せ、事前予約者にだけ伝える形式にした。騒ぎがなければ、誰もが気軽に多様な表現に触れ、考える場になったろう。


 私は正しい。異論は許さない。国の愛し方は一つだ。主張を受け入れないのなら攻撃し続ける。


 こんな一方的な「正義」を振りかざした強硬な言動が、じわじわと広がってはいないだろうか。その道を突っ走った先に何があるか。歴史を振り返った時、見えてくるのは悲惨な光景である。


 アジア・太平洋地域の国と人々に甚大な犠牲を生み、310万人の日本人が亡くなった戦争に敗れ、きょうで77年。あまたの死を無駄にせぬよう、不戦と自由を守り続けてきた日本だ。未来へ引き継ぐ責任を、今を生きる私たちは背負う。痛恨の過去を胸に刻み、変化にも冷静に、互いの知恵と言葉を交じり合わせ、このかけがえのない平和を守り続けたい。


 インターネット空間では他者への誹謗(ひぼう)中傷、差別や犯罪を助長する言葉があふれ、歴史や科学からかけ離れた思い込みや陰謀論も目に飛び込んでくる。


 メディアの表裏認識を


 情報過多の一方、正しく読み解く力がないと危うい環境だ。検索履歴などから自動的に類似の情報や意見が集まり、泡のような心地よさに包まれる「フィルターバブル」効果。好みのグループ内で賛同だけが反響し増幅する「エコーチェンバー」効果。そんなネットの仕組みが、偏った考えに凝り固まる風潮に拍車をかける。


 深まった社会の亀裂には不安が入り込みやすく、時に強い力を求める声が高まる。歴史学者の貴志俊彦京都大教授の近著「帝国日本のプロパガンダ」は、戦前の日本が他国の横暴さと自国の強さを流布し、アジアの解放など身勝手な正義を肥大化させた経緯を伝える。やがて他国の正義とぶつかり、無謀な戦争に突入する。


 プロパガンダ(世論誘導への政治宣伝)の主軸は新聞だった。国家総動員法や新聞紙法などで統制されたとはいえ、「国家の宣伝機関」と化して虚偽の戦勝報道を重ねた歴史は、本紙も含め報道機関が忘れてはならない過ちだ。


 今また権力者がメディアを操作し、蛮行を重ねている。今年2月、ウクライナへの侵略を始めたロシアのプーチン大統領である。


 「ロシア系住民の保護」「自衛のための軍事作戦」と強弁し、民間人の大量虐殺や原発への攻撃など戦争犯罪を繰り返し、核兵器の使用まで示唆する。国内では高い支持があるとされるが、密告や盗聴による監視、ネット規制による海外報道の遮断など情報操作の影響と専門家は指摘する。一方で独自に正確な情報を得た知識層や若者の国外流出も伝えられる。


 メディアはプーチン氏の虚偽を暴き出してもいる。SNS(交流サイト)や衛星画像を駆使し、専門家や調査報道機関などが主張の矛盾を突き、ウクライナ側は虐殺現場を発信して国際世論を結束させている。社会の分断も統合も、人がメディアをどう使うかで左右される時代である。


 力だけで守れぬ平和


 問われるのは多様な情報と、それを支える表現や言論の自由、異なる考えを抑え込まない寛容と自制にほかなるまい。


 専制主義を強めるのはロシアだけではない。香港の民主主義を力でつぶし、台湾統一を掲げる中国は先日も大規模な軍事演習を展開し、日本を含む東シナ海周辺での圧力を強めた。


 こうした中、日本世論調査会の全国郵送調査で、日本が今後戦争をする可能性があるとした人と、ないとした人はほぼ半々だった。一昨年は「ある」が3割。ウクライナ危機の影響とみられる。


 岸田文雄首相は先の参院選で憲法改正を主張し、防衛費の倍増や、ミサイル発射前に敵基地などをたたく「反撃能力」の保有も視野に入れる。だが、それが本当に日本の平和を守る道なのか。周辺国との軍拡競争や、偶発的な衝突の恐れが高まるだけではないか。


 先の世論調査で、戦争回避に最も重要と思う手段は「平和に向けた外交」が32%と最多で、「戦争放棄を掲げた憲法の順守」が24%と続いた。浮足立つ政治より、多くの国民は地に足をつけて考えているようだ。


 戦争を起こすも止めるも人間。敗戦から平和を築いた歴史を鑑(かがみ)にメディアや情報と向き合いたい。







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偏屈者は性格か障害か

「内田樹の研究室」ブログでの永井陽右という青年との対談の一部だが、内田は女子大の教師をしているだけに、若い女性の内面を良く見抜いているようだ。で、この「共感強制」の空気というのは女性の間だけではないと思う。と言うか、それが「陽キャラ集団」の空気なのだろう。昔のように「変人でいる自由」がかなり失われた気がする。昔は偏屈者でも、「あの人はああいう性格だから」で許されたはずだ。それが、現代では「発達障害(コミュ障)」という病人(障害者)扱いだwww これは、現代の人間が明治時代くらいの小説や落語を読んだり聞いたりしなくなったためではないか。

(以下引用)

内田:共感を強制するせいで、むしろ個人が原子化していっているように見えます。前に大学で学生にレポートを書いてもらったら、二三人が「私、コミュ障なんです」と書いてきました。「コミュ障」というのは若い世代でよく使われる言葉みたいですけれど、要するに他の学生にあまり高度な共感を感じることができないということらしい。
学生たちって、すぐに「キャー! そうそう!」って、激しく頷いて、ジャンプしてハイタッチしたりしますよね。服がかわいいとか、どこかのケーキが美味しいとかいう程度のことで。過剰に共感しているふりをする。どうも、この自称「コミュ障」学生たちは、それができないことを自分の社会的能力の欠如だと思っているらしい。あんな高度な共感は自分にはできない。あの共感の輪に入っていけない。つまり、あのキャーとぴょんぴょんを「共感している状態」だと思っているわけです。でも、あの作為的な共感の輪の中にいる学生たちも、一人ひとりはかなり孤独なんじゃないかと思いますよ。ああいう演技をしていないと仲間として受け入れられないのだとしたら。
僕の友人が大学で「誰にも言えない私の秘密」というテーマで学生に匿名でアンケートを取ったところ、100人中15人くらいが、「今付き合っている友達が嫌いだ」と回答したそうです。なんだか、わかる気がします。小さな集団のなかで「演技的な共感」を強制されて、どんな話題でも「そうそう」と頷いて、100%の共感と理解を示さなければ仲間ではいられないとしたら、それは心理的にはきわめてストレスフルだと思う。
 そういうことは別に女子学生には限られない。おじさんたちだって、おばさんたちだってやっていることは同じじゃないかな。内心は軽蔑したり、嫌っていながら、表面的には過剰な共感を演じてみせないと、仲間でいられないという状況はかなり危険なことだと思います。それよりは、時々は「すいません、何言ってるかわかんないんですけど......」とか「もうちょっと具体的な例を挙げていただけますか?」とか言っても許されるという方がコミュニケーションとしては健全じゃないですか。別にすべてについて同意しなくてもいいじゃないですか。重要な点がだいたい一致するなら、それで十分に一緒に仕事はできるんだから。
理解も共感もできないけれど、この人は約束は守るし、決めたルールには従うというなら、一緒にチームを作れるし、結構大きな仕事だってできる。100%共感できないと何もできないというより、さっぱり共感できないけれど、一緒に安心して仕事ができるという方が僕はいいと思う。「こういうルールでやりましょう」というコントラクト(契約)を取り決めたら、それをきちんと守るという社会性の方が、べたついた共感よりも、集団で生きてゆく上ではずっと大切だと思います。共感や理解は他者と協動するための絶対条件じゃないありませんよ。
 結婚だってそうですよ。結婚が100%の共感と理解の上に築かれるべきだということになったら大変ですよ。一度ささいなゆき違いがあって、「あ、オレたち気持ちが通じていない」と思ったら、すぐに離婚しなければいけないんですから。そんなことできるはずがないじゃないですか! 僕は、夫婦間で取り決めた約束を守ることは配偶者に求めますが、妻に「全面的な共感」なんて求めてませんよ。僕みたいな変な男のことを「理解してくれ」なんて言ったら申し訳ないもの(笑)。

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「日本人」とは何か

私は古代日本に関する本や文献などあまり読んでいないので、これから書くことはすべてうろ覚えの知識を元にした妄想である。

1:古代の日本には最初、縄文人だけが住んでいた。しかし、朝鮮半島との往来は少しはあり、朝鮮半島の文化や物品が日本に伝えられた。ただし、その文化は、朝鮮半島自体が古代中国との距離が近く陸続きであったために生まれた、中国文化の模倣やアレンジである。
2:朝鮮半島では国家が日本より早く成立したが、幾つかの国に分裂し、争闘を繰り広げていた。その争闘に敗れた国の上級国民は難を逃れて日本にやってきた。それに伴って、古代朝鮮の文化や物品が日本にたくさん流入した。
3:日本に来た朝鮮人たちは「戦争の技術」に優れ、長年の戦争体験で闘争的性質を持っていたため、古代日本の縄文人たちとの闘争に勝ち続け、東征して奈良に大和朝廷を作った。その朝廷に帰服した土着豪族のナンバーワンが蘇我氏である。(これで仏教受容に起因する蘇我氏と物部氏の争いや、「大化の改新」の意味が分かるだろう。)
4:すなわち、日本の上級国民は基本的に「他所から来て日本を征服した」人々であり、当然、その血脈は現代でも続いている。ただし、その征服の事実は「記紀」で巧みに装飾されて隠され、日韓併合以後は下級国民まで朝鮮人への軽蔑の習慣がついたため、日本の上級国民が朝鮮人の子孫であることに一般人は気づいていなかったわけだ。もちろん、長い間に上級国民と平民(主に女性)の間の子供が生まれ、朝鮮の血はどんどん薄く広くなっていった。
5:こうした「古代朝鮮人」と、日韓併合以降に日本に来た朝鮮人は区別され、日本で長い歴史を持つ「古代朝鮮人の子孫」は既に自分たちを「日本人」と考えているので、新しく日本に来た朝鮮人に特に共感や同情心は持っていないと思う。それが「在日」という言葉や在日朝鮮人への差別が横行している所以だろう。つまり、「葉はあまた茂れど根はひとつ」であるわけだ。


*縄文人の時代にはほとんど戦争の形跡が無いらしい。狩猟漁労採集生活が基本の縄文人の世界では、同じ人間同士が争う意味や他者に嘘をつく理由が無かっただろう。その温和で正直な性質が、縄文人が弥生人(渡来人)との戦争に負け続けた原因だと思う。「古事記」の中の朝廷側の勝利はほとんどが「騙し打ち」なのである。これが「戦上手」なのであり、正直な集団が戦争に勝てるはずはない。で、日本人の基本的な性質である温和さも、根底には縄文人の血があると思う。
*仏教伝来当時の仏教は「呪術」であり、当時の縄文人の目からは、まさにカルトだっただろう。蘇我氏が仏教受け入れに反対したのを「愚か」だったとは言えないわけだ。土着民族代表としては、「国家仏教」によって朝廷の力が強まり、土着豪族の力が弱まるのを座視できなかったのだろう。



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荀子の「正名論」(名前・言葉を正せ、という主張)

「阿修羅」某記事のふたつのコメントで、言っている内容に連続性はないが、上の方は私の思想に近いことを簡潔に言っており、下の方には貴重な情報が含まれているので転載。
フランスの「反セクト法」は、その名前が気になっている。セクトとカルトは別物だろう。セクトという言葉は本来は「部分・部署(部門)」の意味のセクション(section)から来ていると思う。それが学生運動で「分派」の意味で使われ、政治的ニュアンスを持ったものだろう。つまり「反セクト法」は、カルトだけではなく、機に応じて学生運動(政治運動)の弾圧にも転用する意図がある気がする。
一般的なカルトは本来は宗教集団で反政府運動ではないが、政府や法律に禁じられた行為をするので「反社会的集団」になるわけだ。もちろん、統一教会は最初から「反共産主義」の政治組織である勝共連合と強く結びついているから、セクトでもありカルトでもある。そして「集金組織」であるから、資本主義企業でもある。それが自民政権と結びついているのだから、自民政権自体がカルト、あるいは「反社会的集団」である。(ここでの「社会」は一般国民の集合を指す)まあ、公明党という存在の問題(「政教分離」原則の無視という問題)もこのついでに議論するべきだろう。
要するに、「名前が実体と一致しない」ということが、あらゆる社会的不正義の根幹にあるから、もっと言葉を大事にし、荀子の言う「正名論」に帰れ、ということだ。ちなみに、官僚や電通やマスコミ文化人の愛用するカタカナ外国語も、詐欺の手法だろう。

言葉は論理の土台である。いい加減な土台の上に建物(論理)を建てるのは不可能だ。

(以下引用)



33. 2022年8月15日 01:00:49 : s6kLityr4c R1BLVU9FTGlySkE=[119]  報告
日本軍がいなければ広島長崎はなかった。
日本軍がいなければ沖縄の殺戮は無かった。
軍備は国も国民も護らない。

では何を護っているのか?
政権だよ。


簡単に言うと政権とはその地域国民に課税する利権の事を指すが、軍備が護ろうとしているのはその利権だ。
国でも、国民でもない。


34. 2022年8月15日 01:43:03 : QbIZZUlm2k aE81WHFNakRmUnM=[76]  報告
フランスの反セクト(カルト)法
は、統一教会の事件で作られた
統一と創価は布教禁止

韓国では統一は社団法人
創価は布教禁止


韓国ルノーと九州日産は同じ車を作っていて
Xtrail
日本の工員 400万円 派遣
韓国の工員 850万円 派遣はダメみたい
日本では半値で売れば良いのに
200万以下

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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