忍者ブログ

野菜食は不健康

日本人の過去と現在の食生活と死因、病因、体位の推移を少し考えれば、ベジタリアンの食生活は健康にとって危険であることは誰でも分かるはずだが、ベジタリアン信仰の人間は意外と多い。少なくとも、ヴィーガンが健康にいいという誤った信念を持っている人は多いようだ。


カネが無いから肉が買えない、という生活の人が多くなると、一番の問題は認知症と脳溢血だろう。それは下の記述から分かる。


菜食生活と脳卒中の関係でいえば、「コリン」という栄養素も見逃せない。コリンは脳の発達や記憶力、機能そのものを活性化させる成分。野菜ばかりを食べていると、このコリンがまったく摂取されず、脳の血管機能も衰える。その結果、脳出血が起きてしまう。


ついでに言えば、現代において店で売られている野菜のほとんどは見かけだけきれいで栄養に欠けているはずだ。そもそも、放射能を使った遺伝子改変作物がほとんどであり、しかも防虫成分が野菜自身に含まれているという。それが体に悪影響を及ぼさないはずがない。まあ、肉にしてもホルモン漬け、薬品漬けだが、まあ、認知症が一番厄介(家族にとって厄介)だから、私は肉食を推奨する。


(以下引用)

オックスフォード大の衝撃研究「ベジタリアンは不健康になる」可能性

血管がボロボロになっていく
週刊現代 プロフィール

実際、厚生労働省が発表している「人口動態統計」を紐解くと、脳卒中は'51年から'80年まで日本人の死因1位になっている(それ以降はがんが首位)。その原因は、まさに日本人が野菜中心の生活を送っていたから。動物性タンパク質と脂肪分が決定的に不足していたのだ。

イライラや疲労感も増す

予防医学に詳しい薬剤師・加藤雅俊氏もこう断言する。


「長生きのために野菜中心生活を送るなんて、論外です。戦前や戦後すぐの日本人の食生活を考えてみてください。


当時は玄米と菜食が中心で、日本人の多くがいまで言うヴィーガン(乳製品や卵も摂らない菜食者)に近い暮らしを送っていました。そのせいで平均身長は成人男性でも150cm台半ばで、寿命も50代止まり。戦後、肉食が広まって栄養状態が良くなり、寿命も体格も劇的に向上したんです。


いまの時代に無理やり菜食生活を送るのは、体を強制的に戦前に戻すようなもの。そんな食生活は、体にとって良いことなどありません」


菜食生活と脳卒中の関係でいえば、「コリン」という栄養素も見逃せない。コリンは脳の発達や記憶力、機能そのものを活性化させる成分。野菜ばかりを食べていると、このコリンがまったく摂取されず、脳の血管機能も衰える。その結果、脳出血が起きてしまう。


拍手

PR

素人政治評論の危うさ(自戒も含む)

「隠居爺の世迷言」記事の一部だが、隠居爺氏の最近の記事には私の目からはまさに「世迷言」と思えるような言葉が多い。氏は日本が属国であることを何度も言及しながら、その属国の総理であることがいかに危険なことなのかの想像力が無く、無責任な放言を繰り返している。安部元総理のようにいくらでも暗殺されろ、と言っているようなものだ。「総理ってのはそういう仕事なんだからいいじゃーん」と、まるで中学生のような発言である。
政治家にも官僚にも、高度な知識と知性を持った人間はたくさんいるに決まっている。そうでなければ国家は成り立たないだろう。隠居爺氏は、「(責任を要求される)毎日の仕事をするだけで偉い」という観点は無さそうである。日本が属国であることは、今の政治家や官僚の責任ではない。仕事の一部は、無理やりに米国に強制され、脅迫されたことを彼らは仕方なくやっているのである。で、隠居爺氏の記事は、脅迫された人間が悪い、と言わんばかりである。その無責任さに、私はむしろ義憤を感じる。
確か孔子も、「その立場でないなら、他人の仕事を批評するべきではない」という意味のことを言っていたはずだが、これはまあ、いつも無責任な記事を書いている私自身に跳ね返ってくる言葉のようだwww しかし、まあ、一応は公正であろうと自戒してはいるのである。
ついでに言えば、石破の総裁選勝利が選挙前から決まっていた、という隠居爺氏の推理は、石破総裁決定の時の麻生の呆然自失の表情を無視した推理だろう。あの顔は演技でできる顔ではない。

石破政権は、日米同盟を(中略)安全保障に貢献することを目指している。」という文章が含まれています。これがいささか腑に落ちません。

 なぜなら、この石破論文の日付けが総裁選前の9月25日になっているからです。つまり9月25日に石破総理は自分が総裁になることが分かっていたような書きぶりです。

というのは、引用文の赤字部分が「私、石破が総理になり政権を取ったなら」の意味として、普通に読めるだろう。



(以下引用)


 石破論文に関してはこの辺で終わりにしようと思いますが、最後に一つ。今回ご紹介した「米英同盟なみに日米同盟を強化する」の中に、「石破政権は、日米同盟を(中略)安全保障に貢献することを目指している。」という文章が含まれています。これがいささか腑に落ちません。

 なぜなら、この石破論文の日付けが総裁選前の9月25日になっているからです。つまり9月25日に石破総理は自分が総裁になることが分かっていたような書きぶりです。そうですよね、分かっていたんでしょう。そもそも総理にもならない政治家が、こんな大上段に振りかぶった外交政策、安全保障政策を打ち出すはずがありませんし・・。

 以前からの私の推理になりますが、今年の4月に麻生太郎がトランプに会いに行っており、石破総理が誕生するのはその時に決まったのだと思います。ですから、総裁選は完全な茶番になります。

 総裁選の目的は顔見世興行というか、揃い踏みをすることで、自民党を国民に注目させ、売り出すことでしょう。総選挙を有利に戦うためです。自民党総裁戦というのは部内の選挙です。仲間内の選挙です。そんなものは最初から根回しされているに決まっています。総裁選が終わるまで誰が総裁になるか分からないなどあり得ません。会社の次期社長が、取締役会が終わらなければ誰か分からないなどということは、余程の事情がない限り起きないのと同じことです。

 では、総理就任前になぜこのような石破論文を公表したかといえば、総裁になった後でこのような夢物語を公表しては責任を問われる、あるいは問題視されてしまうからでしょう。ただし、それと同時に石破政権の狙いはここにあるということをあらかじめ、国会議員を含めて知らせておく必要があるとの判断もあったのだと思います。それゆえ、煮え切らない形の寄稿になったのでしょう。

 それにしても、日本という大国(超大国ではない)の総理大臣が、この程度の軽薄な思考内容しか持っていないことを晒すのは、日本がさらに馬鹿にされることにつながります。日本の国際的地位の低下に拍車をかけることになります。

 石破総理の周りには、官僚を含めてもう少しものの分かった、質の高い人はいないのでしょうか。いないのでしょうねえ。それが日本の自民党政治の限界なのでしょう。

 

拍手

「闇の奥」のこと

「闇の奥」は、白人世界で高く評価されている作品(作者コンラッドはイギリスに帰化した外国人だったと思う。イギリスは、他国人のイギリス・欧米への批評に寛容であるというポーズを取るのが好きである。)で、私は青年の頃、興味を持って読んだが、「何が言いたいのかさっぱり分からない」退屈な小説で、翻訳者の中野好夫(名翻訳者である)も、この作品は理解できない、と言っていた記憶がある。
表面的には白人によるアフリカ植民地支配の「奇妙なエピソード」であり、主人公のクルツに関しては、何のために原住民を手下にして「闇の王」としてふるまっていたのか、その動機すら分からない。そして彼の臨終の言葉「恐怖、恐怖だ」という言葉も何を意味しているのか分からない。そこがかえって多くの人を「これは深遠な作品だ」と思わせる効果があったのではないか。つまり、「理解できない=深遠」という短絡的反応のような気がする。
要するに、一人称独白形式(私の記憶は不確かだが)でありながら、独白者の心理が描かれない、一種の「独白体のルポルタージュ」のような感じで、筆者が何を言いたいかは「読む人の想像に任せる」印象なのである。だから、たとえばアニメ「エバンゲリオン」が作品中に「謎」を(というか、マニアックな単語を説明抜きで)振り撒いて、オタク視聴者の好奇心や探求心を惹き、大ヒットしたのと同じ構造であると私は思う。
なお、ベルギー国王によるコンゴ統治の残虐さについては藤永茂博士のブログに詳しい。


(以下引用)



闇の奥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




"Heart of Darkness" in Youth:A Narrative, 1902

闇の奥』(やみのおく、Heart of Darkness1902年出版)は、イギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドの代表作。西洋植民地主義の暗い側面を描写したこの小説は、英国船員時代にコンゴ川で得た経験を元に書かれ、1899年に発表された。ランダム・ハウス、モダン・ライブラリーが選んだ「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に選出されている。闇の奥というタイトルはアフリカ奥地の闇でもあるが、人間の心の闇、西洋文明の闇をも含意していると考えられる。


この作品の舞台であるコンゴ川一帯にはベルギー国王レオポルド2世[1]の「私有地」であったコンゴ自由国(後にベルギー領コンゴ)が存在し、同地住民に対する苛烈な搾取政策をとったことで欧州各国から非難されていた。

あらすじ

[編集]

ある日の夕暮、船乗りのチャールズ・マーロウ英語版が、船上で仲間たちに若い頃の体験を語り始める。なお、マーロウは本作以外にも複数のコンラッド作品に狂言回しとして登場する。


マーロウは、各国を回った後、ロンドンに戻ってぶらぶらしていたが、いまだ訪れたことのないアフリカに行くことを思い立ち、親戚の伝手でベルギーの貿易会社に入社した。ちょうど船長の1人が現地人に殺され、欠員ができたためだった。マーロウは、船で出発し、30日以上かかってアフリカの出張所に着いた。そこでは、黒人が象牙を持ち込んで来ると、木綿屑やガラス玉などと交換していた。またマーロウは、鎖につながれた奴隷を見た。ここで10日ほど待つ間に、奥地にいるクルツ(Kurtz)[2]という代理人の噂を聞く。クルツは、奥地から大量の象牙を送ってくる優秀な人物で、将来は会社の幹部になるだろうということだった。マーロウは、到着した隊商とともに、200マイル先の中央出張所を目指して出発し、ジャングルや草原、岩山などを通って、15日目に目的地に着いた。


中央出張所の支配人から、上流にいるクルツが病気らしいと聞いた。蒸気船が故障しており、修理まで空しく日を送る間に、再びクルツの噂を聞く。クルツは、象牙を乗せて奥地から中央出張所へ向かってきたが、荷物を助手に任せ、途中から1人だけ船で奥地に戻ってしまったという。マーロウは、本部の指示に背いて1人で奥地へ向かう孤独な白人の姿が目に浮かび、興味を抱いた。


ようやく蒸気船が直り、マーロウは支配人、使用人4人(「巡礼」)、現地の船員とともに川(コンゴ川)を遡行していった。クルツの居場所に近づいたとき、突然矢が雨のように降り注いできた。銃で応戦していた舵手のもとへ長い槍が飛んできて、腹を刺された舵手はやがて死んだ。


奥地の出張所に着いてみると、25歳のロシア人青年がいた。青年は、クルツの崇拝者だった。青年から、クルツが現地人から神のように思われていたこと、手下を引き連れて象牙を略奪していたことなどを聞き出した。一行は、病気のクルツを担架で運び出し、船に乗せた。やがてクルツは、"The horror! The horror!"[3]という言葉を残して息絶えた。

影響

[編集]

T.S.エリオットは詩『荒地』の初稿で、エピグラフに『闇の奥』の一節 "The horror! The horror!" を引用していたが、エズラ・パウンドの助言により、別の文に差し替えた。詩『虚ろな人々』では "Mistah Kurtz--he dead." の一節を引用している。


村上春樹の『羊をめぐる冒険』『1Q84』などに『闇の奥』の影響が指摘されている[4]

映像化

[編集]

オーソン・ウェルズはラジオ・ドラマとして放送。また、映画初監督作として準備していたが、資金調達できなかった(ウェルズは『市民ケーン』を作ってハリウッドでは異端とみなされることになる)。


1979年に映画監督フランシス・フォード・コッポラによって「翻案」され、『地獄の黙示録』として映画化された。ただし、舞台背景はベトナム戦争に変更されている。この中にエリオットの『虚ろな人々』の引用がある。


1994年のテレビドラマ『真・地獄の黙示録』は原作に沿った映像化である。監督はニコラス・ローグで、マーロウをティム・ロス、クルツをジョン・マルコヴィッチが演じ、原住民女性役でイマンが出演した。


キングコング』の原案にも大きく影響を与えたと言われており、2005年リメイク版では登場人物の一人が本作を愛読している。また、2017年の『キングコング:髑髏島の巨神』にはコンラッドとマーロウに由来した登場人物が出てくる他、前述した『地獄の黙示録』の影響を大きく受けている。

拍手

初恋幻想という「巨大な廃墟」

老年の良い点は、若いころに読んでほれ込んだ小説を、「ゆっくりと深く味わって」読める時間があることだ。気になる箇所があればいくつかの翻訳を比較して考えることもできるし、原書の原文(英文)を辞書を引いて確認することもできる。若いころの知的探索が「世界を広げる」ことだったとしたら、老年のそれは「世界を深く」することだと言えるだろうか。
もちろん、知的巨人たちは若いころから「広く深い」知的探求をしてきたのである。だが、「生きるための仕事」に一日の8時間以上を犠牲にしている人間の読書は、限定された時間でのせっかちな食事になるしかない。
ということで、他の欲求がほとんど消えた老齢者には読書は「現実とは別の様相を見せる巨大な世界」の旅で、大きな娯楽になるものだが、私の場合は老齢で遠視がひどくなったため、ベッド(寝床)での読書が不可能に近い状態で、困ったものである。仕方なく、昼間にソファなどでやる読書が中心になり、そうなると、「単なる使い捨て娯楽」のような内容の小説ではなく、自分自身が思考する楽しみを与える作品が好ましい。
最近断続的に読んでいる「偉大なるギャッツビー」などがそれだ。若いころは、「気になる作品」だったが、映画を見た限りでは「面白さ」はあまり無い作品に思えた。しかし、それは「映画(映像芸術)では登場人物の心情を描くのはほとんど不可能である」という、単純な事実のためであった。「ギャッツビー」は、話の筋ではなく、描写の細部にこそ味(というより触発性)がある作品なのである。

で、昨日読んでいる時、気になった箇所を自分で調べた内容をここに少し書いておく。
(先に、その箇所を引用する。赤字はもちろん、夢人による強調。ギャッツビーが憧れのデイジーに再会した時の話だ。彼はその再会を期待してデイジーがその夫と住む家の対岸に豪邸を建て、週末ごとに無数の客を迎えてパーティを開いていたが、5年目に、やっとデイジーをその家に迎えることができたのである。)



この午後の時間にも、現実のデイジーが夢に追いつかない瞬間はあっただろう。もちろんデイジーが不足なのではない。ギャッツビーの幻想があまりに大きく息づいたということだ。デイジーをもーーーあらゆるものをもーーー越えてしまった。



赤字にした部分が何となく「気持ち悪い」印象だったので、英語原文を確認すると、次の文章だった。赤字部分の少し前を含めて転載する。

not through her own fault but because of the colossal vitality of his illusion

翻訳者は、vitalityという言葉の翻訳に迷って「息づく」という、おかしな訳をしたのだろう。しかし、これはその中心的意義どおり「活力、エネルギー」の主旨だろう。で、実は問題は、翻訳者が「colossalという言葉を作者が選んだ意味」に気づいていないことだ。英文に慣れない私が直観で言うのだが、この言葉は英語圏の人間もあまり頻繁には使わない単語だと思う。意味は「巨大な」であり、それに該当する平易な単語はほかにもあるだろう。なぜ作者はここでcolossalという言葉を選んだのか。
それは、この言葉が「コロッセウム(colosseum)」(古代ローマの円形大競技場)を想起させる効果を持っているからだ、というのが私の推理である。言うまでもないが、コロッセウムは「巨大な廃墟」である。まさに、ギャッツビーが構築した幻想が、現実には巨大な廃墟に等しい、「偉大」だが、無益な、儚いものであることを意味するわけである。
そういう意味では、このひとつの言葉は、作品全体を象徴する、重大な単語ではないだろうか。





拍手

「社会主義者」ジルーシャ・アボット



 それでね、おじ様、私も社会主義者になるつもりですの。よろしいでしょう?
無政府主義者なんかとは全然ちがいます。爆弾を投げて人を吹きとばしたりするようなやり方には賛成しないのです。たぶん私は生まれながらにして社会主義者の一員なんでしょうと思います。私は無産階級ですもの。でもまだ何主義者になるか、はっきりきめていません。日曜日によく研究した上で、次の手紙に私の主義を発表することにいたします。








親愛なる同志よ、
ばんざい! 私は右派社会主義者です! つまり気ながに機が熟するのを待つ社会主義者なのです。この一派は明日の朝社会主義革命を起こそうなどとは望んでいません。そんな急激なことをすれば社会に混乱を来します。世の中の人がみんな驚かないだけの心構えができるまで、遠い将来をめざして革命をじわじわと進めていくのです。
 目下のところは産業、教育、孤児院の改革に着手することによってその準備をしなければならないのです。
    
               同志愛をこめて
                      ジュディより


          (J・ウェブスター「あしながおじさん」松本恵子訳)



 *右派社会主義者とは、「保守的社会主義者」つまり、ファビアン協会的な漸進的社会主義者。原書では「Hooray! I'm  a Fabian.」とある。私はなぜか「フェビアン協会」と覚えていた。

拍手

「意思と思考と無意識」

古いフラッシュメモリーに保存されていた文章で、既にこのブログに転載済みかもしれないが、我ながら面白い思想なので、自己引用しておく。

(以下引用)やや読みづらいので、冒頭の二つの引用記事は最初は読み飛ばすといい。


意思と思考と無意識


 


 


「個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」


 (『国体の本義』より。佐藤優『国家の神髄』よりの引用)


 


「阿頼耶識は、生命の中枢であり、「我」よりもさらにその根底にある生命そのものに執着する。阿頼耶識の発見こそ、唯識論最大の発見であるとされている。


人間が行為(現行)をすればその痕跡が残る。これを種子という。種子は、阿頼耶識中に残って蓄積される。これは、すべての経験は無意識の中に残るというフロイトの考え方と同様で、『過去の経験は、意識の中に何も残らなくても、無意識の記憶となって、すべて蓄積されている』のだ。


この蓄積を『薫習』という。薫習とは、香りが衣服などに付くことをいい、過去の経験が、阿頼耶識に付着、蓄積されることをいう。これを、『現行の種子は阿頼耶識に薫習される』という。


たとえば、よい行為(現行)をすれば、よい種子が薫習される。


種子は、また現行を生む。例えば、よい種子からは、よい行為(現行)が生じる。


(中略)


この心の一部分は、常(不変)に近いから、これこそ『我』であるとしてしがみつく。その心(阿頼耶識)の一部分を、とくに末那識という。末那識は、実在しない『我』を実在すると錯覚して、あくまでもこれにしがみつくのだ。


現行から薫習され阿頼耶識の中に蓄積されている種子は、生まれてからの種子のすべてである。ここまではフロイトと同じだが、ここから先が違う。唯識論では、生まれる前、永遠の昔からの薫習による種子がすべて阿頼耶識に蓄積されていると考えている。すなわち、前世の種子も、前前世の種子も、前前前……世の種子もすべて蓄積されているのである。


 


遺伝子情報もまた種子の一種と唯識では捉えている。すなわち、阿頼耶識は厖大なデータバンクといえよう。なにしろ生まれる前、遥か昔のいわば天地開闢の頃からの記憶があるのだから。


(中略)


人間の意志、これも一種の譬えであって、意志以前の誰も自覚しない原意識のようなものが、転生する。」


   (小室直樹『日本人のための宗教原論』より)


 


 


以上の二つの引用は、これから自由意思を論じ、ひいては社会や国家を論じるための前提である。この二つの引用に共通するのは、個人はこの世界全体と歴史的につながっている存在だということだ。我々の頭脳が学校教育や読書、あるいはさまざまなメディアを通じて手に入れた情報を蓄積していることは自明であるが、その蓄積された情報は、実は遺伝子の中にまで含まれている可能性がある、という仮説をここでは「阿頼耶識仮説」としておく。つまり、記憶や知識の遺伝もある、という仮説だ。


ただし、この仮説は、自由意思の問題を論じる時にのみ用いる予定だ。あくまで予定であり、「予定は未定。決定にあらず」と中学生ジョーク的なお断りをしておこう。


 


先に国家と個人について論じよう。


『国体の本義』(あるいは『国家の神髄』)から引用した部分は、べつに記憶の遺伝までは前提とはしていない。ここで重要なのは、単なる孤立的個人が集合したのが国家なのではなく、「国家によって形成された個人」の集合体が国家なのだ、ということである。これが、佐藤優が『国家の神髄』の中で言おうとしたことだろう。その点に関しては、私は佐藤と意見を同じくする者だ。


この考え方からするならば、一つの国家の中に複数の民族文化が共存する国では、国家をまとめていくためには強引な紐帯が必要になる。アメリカなどはその代表であり、そこでは「自由競争こそ正義である」「自由競争の結果を受け入れることが正義である」という思想が常に国民の中に流し込まれている。そこでは、公正な自由競争がなされているか、という点検よりも、まず競争そのものが当然視されている。不正な「自由競争」はあくまで個々の条件による特例とされ、その不正は自由競争の正しさには無関係とされる。


では、日本の場合はどうか。日本の中にも異民族の割合が増えてきた現状では、佐藤優的な意味での愛国心(自らと国家との精神的血縁を前提とする愛国心)は土台が揺らいできたのではないだろうか。


思想面においても、日本固有の文化を知る若者の割合がここまで低下したのでは、もはや日本の固有性を前提とした思想は意味を失いつつあるのではないだろうか。つまり、思想としての右翼はもはや消滅する運命にあるのではないか。左翼に敵対して守るべき日本の固有性、日本固有の文化などもはやほとんど無い。ならば、その戦いの兵士も不要だろう。右翼思想は、せいぜいが、日本人であるだけで近隣諸国の人々よりも自分が上位であると錯覚し、インターネットに汚らしい他国侮辱の言説を書き込むネット右翼のような社会底辺の人間のガス抜きの役にしか立たないのではないか。


日本文化はもはや日本語という言葉、日本語を用いて書かれた古典的書物の中にしか無いのではないだろうか。おそらく、マスコミが戦後すぐから今まで積極的な日本語破壊を行ってきたのは、アメリカによる日本文化破壊プロジェクトの一つだろう。明らかに、日本文化は太平洋戦争を境にしてそれ以前とはっきり断絶しているのである。教育とマスコミの力によって。


一方、左翼思想はフランス革命に源流があり、社会や国家から独立して思考しうる近代的個人と、合理的理性のみを思想の根拠としている。


左翼は、佐藤の言うアトム(原子)的存在である。佐藤はそれを否定的に見ているが、思想が社会や国家に限定され(支配され)ないのだから、世界全体がその視野に入ってくるとも言える。社会を客観的に批判しうるのは、その社会の外部に立つ思念のみだろう。


グローバリズムは新自由主義による世界の捻じ曲げだが、その結果は個々の国家における土着的文化の破壊である。その点だけを見れば、左翼による世界同時革命に近い現象だ。現代社会を批判する論者がしばしば新自由主義者の政治家や新自由主義的政策を左翼呼ばわりするのは、それが従来の社会秩序を破壊するものだという点では正しいと言える。ただし、その社会秩序破壊はただ「金の獲得」だけを目的とするもので、底辺層の幸福や福祉を目的とした社会主義や共産主義とはまったく異なるものだ。その両者を同じ「左翼」の名で呼ぶことは誤解のもとだろう。


 


さて、国家と個人の関係について考えよう。


人はこの世に誕生して以来、あらゆる情報を吸収して成長する。その情報は、彼が生まれた国の文化に基づく情報である。たとえば、日本人なら日本語による情報になる。彼が得る視覚情報、聴覚情報、言語情報のすべては、日本という国によって枠組みが与えられているのである。つまり、彼は否応なしに日本人として成長するのである。当たり前のことを長々と述べるようだが、これはあまりにも当たり前すぎてその意味に気づかないものなのだ。


 


我々は自分の頭脳で考え、自分の自由意思で判断している、と思っている。


本当にそうか?


 


我々がある意思を持つのは、そのように意思するべくプログラムされていたのではないか、というのが自由意思を疑うということだ。


まあ、阿頼耶識までは仮定しなくてもいいが、無意識というものが存在することは、現在の科学でも公理と見ていいだろう。我々の思念のメカニズムは、「意識された問題について意識的思考が行われる一方で、無意識の中から意識の表面に浮かんでくる関連情報によって思念が広がりと複雑さを持ち、それによって生産的な思想的結実を生む」というものだ。我々は自分の思考内容について、すべての情報を思考前から把握することはできない。思考材料は我々の巨大な無意識の「データバンク」の中にあるのだ。


とすると、そのデータバンクに或る偏向があるならば、我々の思考自体がその偏向の影響を受けるのは自然なことではないか。


我々は、或る問題について自分の自由意思で或る判断を下したと思うものだ。しかし、そのように決定するべく、無意識の中で決められていたのではないか? そして、我々の無意識のデータバンクは、日本という国の文化と歴史にその材料の大半を負うている。ならば、我々が純粋に合理的に思考し、判断したと思っている場合も、ただ我々の中の原日本人が判断しているだけだ、という可能性はある。


しかし、これは結局は答えの出ない問題だ。論証不可能。ならば、「語りえないものに対しては沈黙するべきだ」となるか。まあ、語りえないなら沈黙するしかないのだから、このウィトゲンシュタインの言葉は、そう見えるほど深遠なものでもないのだが。


合理的理性には限界がある、というのは当然であり、そもそもその理性の母体となるデータバンクは、巨大な暗闇の中にあるのだ。たまたま我々がちょっとうまい思考をした時には、我々はそれを自分の手柄とし、自分の頭の良さに自惚れるのだが、なあに、それは「偶然の結果」にすぎない。我々の無意識が我々にどんな思考材料を提供するか、我々の意識的理性はまったく関与していないのだから、まぐれ当たりのヒットでしかないのである。


もちろん、意識的理性の運用のうまい人もいるし、芸術家などの中には無意識の思考素材調達に才能のある人もいる。画家のキリコなどは、一生のある時期にだけ、無意識の井戸の中から豊富な素材を汲み上げたのだ。また、音楽家などだと、その技術的修練によってその人の無意識が特異な偏りを生んで、天才的な作品を豊富に生み出すということもあるだろう。いずれにしても、我々の意識は無意識の暗い大海の上に漂う小島にすぎない。


 


国家と個人の関係に話を戻せば、我々の思考も意思(意志)も、その生まれ育ち今生活している国家によって規定されている。ならば、我々がどのような意思を持とうが、それは常に日本人としての意思になる。我々の自由意思は、その偶然的な現れにすぎない、ということだ。であるから国家が我々の無意識を支配するために教育を改変していこうというのは、確かに国民コントロールの手段としては当然だが、その内容が「日本神話を事実として受け入れよ」という『国家の神髄』の主張になると行き過ぎだろう。


 


だが、こんな議論は空論だ。我々は自分に自由意思があると信じて生きている。そう信じているからには、それが現実なのだ。たとえ自分の判断が我々の中の超自我によるものだろうが、我々は自分の自我がそれを判断したのだと信じている。


 


しかし、小室直樹の阿頼耶識についての簡明な説明にある、「種子(シュウジ)」と「現行(ゲンギョウ)」の関係は重要である。


我々は常に外界から情報を取り入れ、それが我々の無意識の中に蓄積される。その蓄積された「種子」が我々の判断を形成し、我々の行動を決定する。その行動、すなわち「現行」がまた新しい情報の一つとなり、「種子」となっていく。こうした無限のサイクルが我々の思考や意思決定を形成していくのである。しかも、そのほとんどは無意識のうちに行われている。


簡単な例を挙げよう。ある困難に直面して、「困難と戦う」か、「困難から逃げる」かの選択を迫られたとする。ここで「逃げる」を選択するとあなたの中には「一度逃げた自分」という情報がインプットされ、「種子」となるわけだ。すると、同じような場面ではまた「逃げる」を選択するという習性が作られる可能性は高い。


最初の選択で「困難と戦う」を選択して、良い結果が得られるとは限らない。しかし、「戦った自分」という情報や、「なぜ失敗したのか」という情報は手に入る。それは、次の選択にも影響を与えていく。逃げた場合には得られない情報である。これも「戦った自分」という「種子」である。


こうした無意識の機能を理解すれば、様々な「よく生きるための言葉」が、ただの美辞麗句ではなく、やはり人間知の結集であると分かるだろう。


 


さて、何のためにこんな埒もない議論をしてきたのかというと、一つには、書かないと、自分の思想は発見できないからである。文章化して私ははじめて自分の中にある思想の一端を知ることができる。言語化しないかぎり、私の思想は無意識の海を漂うクラゲにすぎないのである。で、そのようにして検出された思想に意味があろうがなかろうが、それを考え、書くこと自体が私には楽しい。それが一番の理由だ。


 


この文章を書くきっかけは、最初に引用した二つの文章である。あの二つの文章は、私の頭脳を刺激し、面白いヒントになりそうだと思われた。だから、まずその二つを思考素材として冒頭に置いたのである。


まあ、国家論と思考論、あるいは自由意志論が思うほどには交わらなかったが、それはそれでいい。断片的思考は断片的思考でまた役に立つこともある。

拍手

欧米目線の「人権尊重思想」と、その実際の行為への違和感

「混沌堂主人雑記」所載の論文だが、まあ、立派なことを言っているが、ご当人が依存している欧米国家での人権思想はどうなのか。言葉だけの「人権尊重」であり、ガザの大虐殺を推進しているのが欧米諸国なのではないか。そして、いまだに残る人種差別の根源は欧米人種による他人種差別ではないか。すべて「言葉、言葉、言葉」である。言葉ではどんなきれいごとも言える。
いや、中には、いい事もたくさん書いてある。特に日本政府の「非人権行動」の指摘は、「イギリスでは、欧米では」の出羽の守だからこそズバリと指摘している。だからこそ転載するのである。

(以下引用)

2024 - 10/08 [Tue] - 20:13

東洋経済エヂュケーション より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
「優しさ・思いやり」が強調される日本の人権教育、世界と大きくズレている深刻
政府の義務が自己責任にすり替えられる危険性
日本で人権教育というと「弱者に寄り添い、優しく思いやりを持って接する」といった優しさ・思いやりの側面が強い。しかし、これは大きな危険性をはらむ。本来であれば人権の保障は「政府の義務」だが、個人の「思いやり」の問題に帰すれば、自己責任論がまかり通ってしまう。英国エセックス大学人権センターフェローを務め、国際人権を専門とする藤田早苗氏が、日本の人権教育とその問題について考える。
国連と日本の人権教育の「ズレ」
私は普段は英国にいて、年に数カ月日本で講義や講演を行っている。専門は国際人権だが、まず「そもそも人権とは?」ということを話す。すると、多くの人がそれまでの人権へのイメージや理解との違いに驚く。それは、国連が提唱する「本来の人権教育」が日本では行われていないためだろう。
日本の教育では人権について「視覚障害者が道路を渡れず立ち往生していたら、手を引いて渡らせてあげよう」といった思いやりの側面が強調されているようだ。それも大切なことだが、これはあくまで個人によるアプローチだ。それでは親切な人がいない場合や、障害者を差別する法律がある場合には対応できない。つまり、個人のアプローチだけに頼り、構造的な問題に目を向けなければ、制度や法律が引き起こす人権問題を克服できないのだ。
一方、国連は人権について「生まれてきた人間すべてに対して、その人が能力・可能性(potential)を発揮できるように、政府はそれを助ける義務がある。その助けを要求する権利が人権。人権は誰にでもある」と説明している。つまり人権の実現には、政府が義務を遂行する必要がある。
政府の義務と自分が持つ権利を教える必要性
そして、その義務の内容を具体的に示しているのが、各種の国際人権条約だ。各条約には政府が保障すべき権利が規定されている。われわれは、それを学ぶ必要がある。例えば本来、学校では子どもの権利条約が保障する権利を生徒に教えなければならない。英国はじめ、多くの先進国ではそういう教育がされている。ところが日本の学校では教えられていない。
人権について理解していなければ、自分の人権が侵害されても「被害を受けた」と気づけず、声を上げることができない。ジャニーズ問題でも、被害を受けた人たちが「当時は性被害だと気づかなかった」「性被害だとわかっていたら逃げ出していた」などと発言していた。
一方、英国ではバイト先のマクドナルドでセクハラを受けた高校生が声を上げ、社会問題となった。「自分には人権がある」と認識し、その権利の内容を理解していることは重要なのだ。そして、それを教えることが本来の人権教育だ。
「思いやりアプローチ」の教育の危険性と本来の人権教育
国連も人権教育を重視してきた。1993年に採択された決議文では人権教育を「あらゆる発達段階の人々、あらゆる社会層の人々が、他の人々の尊厳について学び、またその尊厳を社会で確立するためのあらゆる方法と手段について学ぶ、生涯にわたる総合的な過程である」と定義している。
つまり本来の人権教育では、自らの権利を知り、自分たちが権利の主体として、人権の実現のために行動するための知識を学ぶ。そして、そのような知識が人権実現への活動につながり、人権侵害を引き起こしている社会構造などを変えてきた。
一方で、日本の「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」には、人権教育とは「人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動」であると定義されて、個人が優しさや思いやりをはぐくむことを目的としたいわゆる「優しさ・思いやりアプローチ」の教育が強調されている。そして多くの人が、人権とはそういうものだと理解している※。
人権について思いやりを強調するときに起こる第一の問題は、「政府の義務」の議論が抜け落ちることだ。そのため人権問題が起これば、それは「自己責任」だといわれる。「政府の義務」の議論から注意を逸らすには、優しさ・思いやりと自己責任論の強調は好都合だろう。
実際、以前新聞に掲載された政府広報に「子どもの貧困 あなたにできる支援があります」として子ども食堂などを例にあげるものがあった。本来、政府には「子どもの貧困」という重要な人権問題を改善する義務があるにもかかわらず、この政府広報は、人々の「優しさ」に貧困問題を丸投げし、自らの義務を放棄しているといえる。
菅義偉首相(当時)は2020年の就任会見で「自助・共助・公助」という、自助を重視したキャッチフレーズを掲げていた。人権について「思いやり」を強調することで、政府は義務を回避し、人々への自己責任論を強固にしているのではないか。
また、優しさ・思いやりアプローチは普遍的な人権概念から見ても問題がある。人は自分の仲間には思いやりを持つことはさほど難しくはないだろう。しかし自分と異質な人たち、好きになれない、偏見を持つ相手には違う態度で接したり、差別的な扱いをしたりする傾向があるのではないか。それが特定の民族集団への人種差別政策となった究極のものが、ナチスによるホロコーストだった。
当時の世界では、一国の人権問題は国内問題で内政不干渉だと解されていたため、あの大規模人権侵害を食い止められなかった。その反省に基づき第2次世界大戦後、国連を作るときに国際社会は「一国の人権問題は国際関心事項」と決めた。
そして、1948年に「すべての人」が誰にも侵されることのない人間としての権利を生まれながらに持っている、ということを表明した世界人権宣言が採択された。人権の主体は「すべての人」である。この「普遍的」な人権概念が社会に根付かなければ、差別などの人権問題の改善は困難だろう。仲間への「思いやり」だけでは不十分なのだ。
※ 例えば、大阪市立大学(現在は大阪公立大学所属)の阿久澤麻理子教授が1999年から2000年にかけて東京から福岡まで1736人の学校教員や社会教育の担当者を対象にアンケートしたところ、その多くが人権を思いやりなどの抽象的価値観と同一視していたという
118カ国で設立されている「国内人権機関」が日本にない
人権教育について大きな役割を担うのが「国内人権機関」だ。これは英語の National Human Rights Institutionのことで「国家人権機関」と訳されることもある。国際人権基準を国内で実施するために重要な役割を担うもので、人権機関の地位に関する原則(パリ原則)に従い、独立性を確保したものが求められる。2024年6月現在、すでに世界の118カ国で設立されているが、日本はいまだに設立への見通しが立っていない。
国内人権機関の役割の1つが人権教育で、例えばフィリピンではそのスタッフがジープで山村を訪問し、「自分たちの人権にはどういうものがあるのか」について授業をするという。そして、小学校でも子どもの権利条約の内容が掲示されている。
英国にも国内人権機関があり、そのウェブサイトにあった動画を見ると「人権とは?」「差別とは?」という質問に対し、6歳くらいの子どもたちが「ただ単に信条が理由で、違った扱いを受ける人もいるよね」「もし権利というものがなかったら、人々は世界中でいじめに遭っていたと思う」という具合にみんなしっかり答えていて、人権についてきちんと教えられていることがわかる。
自分の権利を理解し、ほかの人の権利行使も尊重する、そういう人権教育を受けた子どもたちが大人になり社会人となっていく。その中に、政治家、教師、ジャーナリスト、企業の重役など、影響力のある立場の人も多く含まれる。その政策決定過程や発信に人権意識が反映され、さらに社会に影響を与える可能性も大きい。教育の役割は重大だ。日本でも本来の人権教育の普及が望まれる。

拍手

カレンダー

11 2024/12 01
S M T W T F S
24 25 26 27 28
29 30 31

カテゴリー

最新CM

プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

ブログ内検索

アーカイブ

カウンター

アクセス解析