[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
気の赴くままにつれづれと。
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
私はよく恋愛をパフェに例えます。
私は恋愛をパフェのようなものだと思っていて、上の方の、キラキラして華やかで果物がきれいに乗っている、おいしいところだけを食べているのが一番良いと思っている。パフェは下の方もまあおいしいが、だんだん色んなものが混じってしまってコーンフレークでごまかされた気もしてしまう。(略)これはもうどうしようもないことだ。パフェの上の方だけ食べて生きていくことはできない。
花束みたいな恋をした/私のような貴方との恋 | 映画感想 * FRAGILE
サマーは私と同じで、恋愛のキラキラした美味しいところだけ食べていたいんだと思います。関係に名前がつき、第三者から恋人同士と認識され、次第に将来のことを考えたりしていくうち、それが破綻してしまうのを嫌がっているのではないのかなと。そうだとしたら、彼女が思わせぶりな態度ばかりとって、キスやセックスやちょっとした「好き」という言葉でトムを束縛していくことに不思議はないんです。深入りせず、美味しいところだけ楽しむ。享楽的と思えますが、そうすることで自分を守っているんだとも思うんですよね。
最後のほう、「サマーが他の人と結婚したことをわざわざ改めて報告する理由がわからない」と言われたことがあります。これは私はよく分かる話で、この場合の私の立場はトム側なんですよね。
一時期、男性の友人が結婚する直前に私に会いたがって、食事をしたひとが2〜3人いました。そういうふうに会った人の中で、今も良好な友人関係を続けていられている人はいません。このことについて「RPGをやっているとき、ラスボス戦直前に『そういえば、最初の村にあった宝箱には何が入っていたんだろう』って思って開けに行くようなものですよ」と言われ、爆笑しながら納得したことがあります。私が男性の気持ちを慮ることがなかったように、一部の男性は私の気持ちを慮ることがなかった。お互い様だと思いますね。
(夢人追記:今回のブログタイトルはもちろんfragileにかけたものだが、その元ネタはランボーの「最高の塔の歌」である。下の壺斎氏の訳は今ひとつだが、借用しておく。)
至高の塔の歌:ランボーの恍惚 |
俺は爛堕な小僧 何にでも夢中になり 余りにナイーブだったせいで 人生を無駄に使い果たした おお!時よ来い 恍惚の時よ来い あるがままであろう 誰にも見られずにいよう 約束などせずに きままに行動しよう 何者にも邪魔されず 堂々と振舞おう 辛抱ばかりしたために 何もかも忘れてしまった 恐れも痛みも 空の彼方に吹き飛んだ 得体の知れぬ渇きが 血の流れを鈍くする かくて草原は 忘却に引き渡され かの地で花開く 乳香やエンドウの花を おびただしいハエたちが 群がって飛び回る 千の死別も 貧乏人たちには 聖母の像のほかには 見守るものもない 処女マリアのために 人は祈りうるだろうか 俺は爛堕な小僧 何にでも夢中になり 余りにナイーブだったせいで 人生を無駄に使い果たした おお!時よ来い 恍惚の時よ来い |
人間は人それぞれで、見えているもの、見えていないものが違っている。ある人には見えているものが、別の人には見えていない。ある人には見えていないものが、別の人には見えている。厄介といえば大変に厄介だけれども、そのせいで面白いことも生じる。
男女関係などというものは、私にはさっぱり見えない。多分、"男の子"には男女関係などという概念が存在していない。まあ、少なくとも私の場合はそうだった。
例えば、高校1年生の時の英語の副読本が「シェーン」(Shane:1953年のアメリカ合衆国の西部劇映画)だった。その時の英語の先生が津田塾を出てそれほどたっていない若い女の先生で、とても熱心に「シェーン」を解説してくれた。映画も見ていて、それをもとに情景描写をいろいろしてくれた。女の人だから、男女関係の機微などは若くても分かっている。
しばらくたって私も「シェーン」を映画館で見たけれども、これがまあ、今思い出しても笑ってしまうくらい意味を理解できなかった。見てはいても、一つ一つのシーンに意味を見いだせないんだよねえ。「ずいぶんつまらない地味な西部劇」というのがその時の感想の全て。まあ、知的障害レベルだったと思う。
そんな私も、結婚して、子供もできて、そんな経過の中で鍛えられるというか、指導されるというか、いじめられるというか。知的障害なりに男女関係が見えてくる。30歳も過ぎてからテレビで放映されたシェーンを見てぶったまげた。「え〜っ、これってよろめきドラマなの??」
何年か前にチラ見したところ、その他にも、開拓、農民、男同士、権力、武力、戦い、そんなものもいろいろ描かれていることが見えたような気がする。
私は夏目漱石が好きなのだけれど、夏目漱石に関しても同じだった。高校生の頃からずいぶん熱心に読んでいたのだけれど、全く意味が理解できていなかった。ここが夏目漱石の素晴らしいところで、全く意味の理解できない高校生が読んでも、何かしら引かれるところがあって読みふけったのだから。
おそらく夏目漱石も元来は何も分かっていない男の子であって、その男の子が"男の子言葉"で男女関係を表現するとどうなるのか、そんなチャレンジをしていたのではないかと思う。未知のものを意識化できるように言葉に置き換えるというのは、題材が男女関係であっても純文学になる。
まあ、そのようなことは、ごく平和な小市民的な生活を送っていた、ごく平凡な男である私に訪れて何の不思議もないことだけれども、3年半ほど前からの新型コロナ騒動では、ずいぶん物騒な形で「見える、見えない」が問題となっているように思う。
どうも私は日本人の中で、新型コロナに関しては相当に見える方らしい。これは生まれ育って、仕事や子育てをする中で、偶然にそれが見えるような訓練をされる環境に置かれたためらしい。私にすれば、「そんなこと見れば分かるだろうに」ということが、ほとんどの日本人には見えないようだから。
私は医学関係の専門家ではないので、その方面での訓練は受けていない。つまり、新型コロナやワクチンが見えるか見えないかは、医学とは直接関係がないことのようだ。実際問題として、政府やテレビなどで影響力を及ぼしているような専門家の中でも、見えているけれども嘘をついている人と、見えていない人の両方がいるように思う(その区別をつけるのは難しいけれど、おそらくその多くは尾身会長をはじめ見えていない)。
見えているけれども嘘をついている人は放置しておけばいい。分かっているのだから、あとはその人の人間性の問題になる。問題は見えない人、見ていない人になる。そのような人をどうするかは大変に難しい。多分、教えてやったから理解できるようになるというものでもない。
それはちょうど「シェーン」の映画で、アラン・ラッドにポーッとなっている奥さんについて、高校1年生の私にどうやって理解させるかと同じ問題になる。第1に関心がない、第2に理屈で分かったところで感情的に意味を持たない。
分かるためには人間的な成長、人格的な成長が必用になるわけで、要するに分かるようになるまで分かるようにはならない。
まあ、おそらく為す術のないことなのだろう。500年前のアメリカに行って、「白人は凶悪な人種だ。あなた方を騙して滅ぼそうとしている。」とアメリカインディアンに説得して回ったところで、歴史を変えることはできないだろう。
30年後、50年後、100年後、日本人はアメリカインディアンと同様の末路をたどっている可能性がかなり高い。少なくとも、現在の政府・自民党から見えてくる景色はそのようなものになる。あなたにはそれが見えるだろうか。
1 病気・ などの または について、医学的に すること。→ →
2 病気の治癒後の 。「―を大切にする」
よごふりょう【予後不良】
病気の経過や結末の予測がよくないこと。回復する見通しの少ないこと。
この 2年くらいは免役のことについて書くことが比較的多かったですが、昨日今日あたりは、昼からベランダでお酒を飲みながら(あーあ昼から)、自分自身の幼少期のことなどを思い出していました。
ちっちゃな頃から悪ガキで、三つで予後不良と呼ばれたよ♪ というような体調不良のまま生まれ、ぜんそくなどを含めたその治療薬が関係していたのかどうかは不明ですけれど、その後、典型的な「免役弱体小児」であった自分を思いますと、
「結局、今、社会で起きていることはあの頃の自分の状態と同じなんだろうなあ」
と思います。
09 | 2025/10 | 11 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |