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マルキシズムという悪質な宗教

「紙屋研究所」から転載。一部省略。私は「風たちぬ」も「君たちはどう生きるか」も見ていない。要するに、「理想主義」と「現実主義」の相克という永遠の問題が宮崎駿の強迫観念なのだな、という感じであるが、紙屋氏のようなマルキストがマルキシズムを理想主義としているのか現実主義としているのかよく分からない。私は、理想主義ですらなく、人類のかなりな割合(特に、善良で誠実な人間たち)に不幸な人生を送らせた悪質な御伽噺であり、一種の宗教だと見ている。
資本主義は単なる現実主義で、思想ですらない。だが、現実だから強い。その悪質さ、悪への傾斜にも関わらず、強いのである。まあ、無数の人々を足元に踏みにじる怪物である。

(以下引用)冒頭の「これ」は「風たちぬ」のこと。


 これに比べて、「君たちはどう生きるか」はある意味、シンプルな作品である。


 戦火——空襲の炎で死んだ母親。*1


 少年はまだそのような母親の死を社会や歴史の文脈に乗せてとらえることさえしていない。しかし作品全体には「戦争によって母親を失った」ことが主人公の少年に重くのしかかり続ける。そのような戦争がない社会…という直接的な比喩は一切用いていないが、そのことが念頭にあるに違いない。もちろん、そこをもっと緩く捉えて、気候危機による人類の破滅などといった人類の存続に関わる様々な問題だと感じてもいいだろう。


 大叔父は、石を積んで危ういこの世界の均衡をどうにか成り立たせてきた。


 しかし、その努力ももはや限界である。


 大叔父は、この世界をどう構築するかを、少年に託そうとした。


 しかし、大叔父が少年に託そうとした石は「悪意に染められていない石」であった。「石」は「意思」のようにも思えてくる。


 「悪意に染められていない石」を積んで世界を再構築しようとする試みを、少年は断固拒否して、「奪い合い、殺しあう世界」、争いや矛盾、悪意に満ちた世界と格闘することで、世界の再構築をする決意をし、現実の世界=歴史へと戻っていく。


 ぼくには「悪意に染められていない石」というのは、徹底した理想論を想起させる。


 例えば武力に一切頼らない日本国憲法の前文、および第9条のように思える。


日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(日本国憲法前文


 あるいは、勢力均衡の世界が戦争を招いた反省から、集団安全保障の理想を掲げた国際連盟国際連合の比喩のようにも見える。


 


 戦火のない世界を「悪意に染められていない石」によって構築しようとする試みは、失敗したかに見える。「悪意に染められていない石」を粗雑に積み上げて、それをぶち壊してしまうインコ大王の振る舞いは、「憲法9条など空論だ」「国連など無力だ」と理想主義を嗤い、悪しき「現実主義」に身を委ねた人々のようにも見える。


 インコ大王は、理想の中に侵入してくる現実である。現実は理想に侵食し、理想に妥協を迫る。理想は「時間が欲しい」といってその侵食と折り合いをつけるのである。


 大叔父は、もはや老境に達した宮崎自身のようにも見えるし、宮崎だけでなく、戦争の中で積み重ねられてきた理想の知恵、例えば日本国憲法であるとか、戦後民主主義の姿のようにも見える。


 吉野源三郎が『君たちはどう生きるか』で主人公のコペル君を導いた「叔父さん」をも重ねているかのようだ。「叔父さん」という知恵は、日中戦争が勃発し、戦争の暗い時代が始まるさなかに、自分だけ・自国だけの視点ではなく、世界の中の自分、社会の中の自分という視点を持つように訴えた。


kamiyakenkyujo.hatenablog.com


 


 宮崎駿はかつて、マンガ版『風の谷のナウシカ』で、浄化された理想論としての共産主義マルクス主義を批判した。


kamiyakenkyujo.hatenablog.com


 


 当時の宮崎の雑誌インタビューだ。同様の表明を当時ぼくは読売新聞などでも読んだ。


いちばん大きな衝撃的だったのは、ユーゴスラビアの内戦でした。もうやらないだろうと思っていたからです。あれだけひどいことをやってきた場所だから、もうあきてるだろうと思ったら、飽きてないんですね。人間というのは飽きないものだということがわかって、自分の考えの甘さを教えられました。(「よむ」1994年6月号、岩波書店



ナウシカ』を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向とみえるのじゃないかというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたから。捨てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものをみてはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のままの方が楽だって、今でもときどき思います。……労働者だから正しいなんて嘘だ、大衆はいくらでも馬鹿なことをやる、世論調査なんて信用できない。(同前)


 


 下図は、漫画版『ナウシカ』のラストで、ナウシカ墓所の主と対決するシーンである。墓所の主が、理性に基づく清潔な理想を語り、ナウシカは大ゴマでその理想を力強く否定する。この拒絶に、今回の主人公・真人の拒絶と同じ力強さを感じないだろうか?




宮崎駿風の谷のナウシカ』7、徳間書店、p.196

 


 漫画版『ナウシカ』で宮崎はユーゴスラビア内戦に直接のきっかけを得て、マルクス主義放棄を宣言した。それを聞いたときぼくは、まあマルクスを救い出すためにムキになって反論したという側面はあるのだが、宮崎が言いたかったことは、絶望するほどの現実と泥まみれで格闘することなしに、主義や理想だけで世界が変わるなどということは金輪際ありえないというその覚悟を問うことだったのだろう。今となってみれば、宮崎の言いたい気持ちは痛いほどわかる。


 基本的にはこのような理想主義批判と現実主義を、宮崎は本作でも繰り返した。


 しかし、かつてのマルクス主義の放棄とは違って、宮崎にとって、この1、2年の世界情勢の推移はより切迫し切実したものになったに違いない。*2


 「『風立ちぬ』を批判する」でも紹介したが、宮崎自身は、名うての反改憲論者であり、日本国憲法が掲げる理想の規範を高く評価する人物である。


 だが、ウクライナ戦争をはじめとする国際情勢は、そうした理想主義が果たして次の時代も通用するかどうかを激しく問うている。主人公から母親を奪った、そのような戦火をどうしたらなくせるかという問いをたてたとき、「悪意に染まっていない石」を積んで理想世界を実現させるたくなるのが、戦後民主主義世代だろう。


 ただそこをあえて、「殺し合い、奪い合う」現実世界と格闘することで、新たな世代は作り出せと言おうとしているのではないか。他方で「悪意ある石」を主人公(真人)は拒否しており、それは現実への屈服や虚無主義のようなものだと言える。


 宮崎自身は「大叔父」に重ねられているのだから、今さらその立ち位置は変えられまい。彼らの世代の努力で石=世界の均衡はどうにか保たれてきた。しかし、それを引き継ぐ世代は、もはやその「悪意に染まっていない石」を積み上げた理想主義だけでは対処できず、現実そのものと格闘しなければならないのだと言いたいように思われる。


 ぼくも宮崎の後の世代にはなるのだが、ではこれまでの理想主義は全く無駄かといえば、そうは思わない。アメリカに従属してその戦争に動員される危険を抑止する強力な武器として憲法9条は引き続き機能するであろうから、リアルな現実と格闘する武器として理想主義を活用すべきだというのが、ぼく流の「どう生きるか」である。


 


 下図で、墓所の主が語る理路整然とした美しい理想主義に対して、ナウシカが「清浄と汚濁こそ生命」だと切り返しているのは、他方で薄っぺらな現実主義には拝跪せず、しかしあくまで「清浄」=理想は捨てないというその難しい均衡を示している。


 理想主義への徹底した批判を加えつつも、その理想そのものは決して捨てないところに、戦後の進歩的知識人であった宮崎の面目躍如がある。今回はそれを一層現実主義にスライドさせたが、それでも理想は捨てていないのが宮崎であろう。




宮崎前掲書p.200

 このテーマ性こそ、宮崎の「最後の作品」にふさわしい。彼が生涯問いかけたものであり、引き続き後続世代に考えてほしいと願ったテーマだろう。もちろん、この後ひょっとしてまた作るかもしれないし、もっといいものができるかもしれないが、この時点で宮崎が放つべき作品のように思える。

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生活の技術(8)




4 心術の2「ユーモア」


 


 ユーモアには、①「自分自身がユーモアをもって外部世界を眺めること」と、②「他人を笑わせる能力」の二つの面がある。


 前者はある意味では後者より大事だが、社会生活で重視されるのは後者である。前者は内面的ユーモア、後者は外部化されたユーモアである。前者は精神的な生きる支えだし、後者は社会生活を容易にする。


 


まず、ユーモアとは何かというと、物事の不調和を機嫌よく、好意的に眺め、それを楽しむ姿勢だと言っていいだろう。これが厳しい批判の目で眺めた笑いだと、サタイアなどの冷笑となる。


いずれにせよ、物事の不調和が、ユーモアの対象、つまり「笑われる存在」である。失敗、失策、破綻、異常などがそれだが、簡単な例を挙げると、我々は人が転ぶのを見ると、思わず笑う。それはなぜか。それは、転ぶことによって人間が社会生活で維持している威厳を喪失するからである。こうした何らかの「地位低下」が笑いの対象となる。もちろん、何の地位低下とも無関係に、赤ちゃんが笑うのを見ると、我々も嬉しくなって微笑むが、その笑いはユーモアとは別である。これはただの笑いの伝染だ。だが、「笑いの伝染」は、後の「他人を笑わせる技術」と大きく関係するので、覚えておこう。


相手の地位が低下したのを見て我々は自分が心理的に上位に立ったことを知り、機嫌が良くなる。それが笑いである。つまり、笑いとは、優越感と劣等感の力関係から生じてくる。自分が相手に優越していることを確認して気分がよくなるのだから、笑いとはもともとはあまり上等な心理ではないのである。たとえば、知恵遅れや精神病者を笑い物にするのは、昔は当たり前のことであったようだ。また、ピエロや宮廷道化師の奇妙な化粧や扮装は、周囲の人間より自分が下であることを示すためのものだったはずだ。


ただ、笑いの対象が、社会的な上位者である場合もある。つまり、金力や権力では上位だが、人間としては劣った存在であるなら、それは笑いの対象になるのである。この種の笑いは社会的な武器にもなる。いわゆる風刺文学などがそれだ。


 


さて、論文的な記述が続いたが、こうした笑いの本質の考察から何が生まれてくるか。それは、まず、笑いは相手の弱点や欠点の観察から生まれるということである。だから、すべてを好意的に見る、善良な性格の人間は笑いのための発見はできない。むしろ性格の悪い人間のほうが笑いの造り手には向いているのだ。ただし、また、笑いの作り手は、自分自身を笑いの対象にするということもある。むしろ、職業的なコメディアンは、そのほうが普通だ。ただし、この場合でも、やはり自分を笑うべき存在とするためには鋭利な考察が不可欠だろう。それもなく、ただ奇妙な扮装や顔面の変形、意味不明の奇声で笑いを取ろうとする低レベルの芸人もいるが、そうした幼児レベルの笑いも確かに一定の需要はあるので、無価値だとは言えない。昔のジェリー・ルイスや一時期の桂枝雀などの笑いにもそういうところがあった。それらは幼児的な笑いではあるが、しかし、「笑いの本質は不調和にある」という本質から外れてはいないのである。チャップリンだって、あのルンペン紳士の服装やペンギン歩きという分かりやすい笑いから出発したのだ。


では、笑いの対象としたい相手に欠点や不調和が見つからない場合、どうするか。ここで登場するのが「誇張」である。相手の些細な特徴を大袈裟に表現して笑い物にするのである。子供の世界でも、相手の言葉や仕草や表情をわざと歪めた形で真似して笑い物にするということがよく行われる。


そういうふうに笑い物にされるということは、自分の価値を下げられたことだから、笑い物にされた人間は屈辱と不快感を覚えるわけで、それがもちろん相手の狙いである。柳田国男が「笑いはもともと武器であった」というのは、こうした心理攻撃のことを言っているのである。


さて、社会に出て人と交わる際に必要な能力が、他人を笑わせる能力である。特に、人前で話す商売の人間にはジョークを言う能力は大事だ。しかし、笑いを生む能力は、必ずしも優れたジョークを案出したり、話したりする能力だけから生まれるものではない。


ここで、ずっと前に書いた「笑いの伝染」について書こう。これはNHKのある番組で放送されていたことだが、人間は無意識に自分が対面している相手の表情を真似ているという。真似ているというよりは、自然と同じ表情になる性質があるらしい。これは、長い間夫婦をやっていると表情が似ることや、親子や兄弟同士は表情も仕草も似てくることなどからも事実であることが分かる。私も、自分が何かの仕草や表情をした時に、相手が少し後で同じ表情や仕草をするのを目撃した体験が何度かある。


ということは、相手を笑わせたい場合は、まず自分が笑顔になればいいということである。あまりにも単純な話であるが、実はこれが人間関係の一番の知恵なのである。


加えて言うなら、我々は笑顔であると愉快な気分になり、苦虫を潰した顔をしていると不愉快な気分になってくる。笑顔を作りながら怒るという器用なふるまいはできないのである。人間とはそのように単純な機械的存在なのである。誰かと一緒にいるときに気分が良ければ、我々はその相手に好意をもつものである。だから、笑いのある人間関係は、当然ながら円満な人間関係である。そしてそういう関係を作る大前提は、「こちらから笑顔を作る」ことなのである。いや、何も面白いことを言わなくても、常に笑顔であるというだけでも、良好な人間関係は作れると極論してもいい。あまりにも単純な理論なので、信じて貰えないかもしれないが。


確かに、一流の芸人の中には、バスター・キートンのように、悲しげな顔で他人を笑わせるという人間もいるし、一流の落語家は、自分から笑うということはしない。とぼけた顔で面白いことを言うものである。しかし、それは、我々がそれを「あらかじめ承知している」から笑えるのである。


初対面の、あるいはお互いに深く知らない間柄の人間同士の対面で、相手がむっつりと不愉快そうな顔をしていれば「こいつは俺に(私に)敵意を持っている」という判断をするのが当然なのである。だから、アメリカ人は、初対面の相手にはまずジョークを言うという。借り物のユーモアだろうが何だろうが、笑いは大事だと彼らは思っているということだ。だが、笑顔にまさる武器は無い。私は、普段の顔そのものが笑顔である人間を数名知っているが、彼らを嫌う人間はほとんどいなかった。その反対に、笑顔の少ない人間(私もその一人であるのだが)は、たいていが嫌われていたものである。


笑顔だけで十分だ、ということが信じられないなら、ジョーク集でも暗記して「面白い奴」になるのを目指せばいい。しかし、そういう作り物の笑いというのは、案外と長持ちしないものである。


もしも、ジョークの使い手を目指すなら、笑いの基本は「誇張」「ナンセンス」「卑小化」にあると覚えておけばいい。


「卑小化」とは、要するに、自分より下の存在を見ることで、人間は安心して笑うということだ。我々が自分の飼っている犬や猫を可愛く思うのも、結局は彼らの幼児並みの知能を愛するからではないか。相手への畏敬の念からは、けっして笑いは生じない。我々が傲慢な人間を嫌い、謙遜な人間を愛するのも、自分との相対的な位置関係の上下によるものである。つまり、わざと自分を低く見せることで、自分を笑いの対象とすることができるのだ。自分を格好よく見せたい気持ちが捨てられなければ、笑いは作れない。「誇張」にしても、何を誇張するのかと言えば、対象の欠点の誇張なのである。つまり、対象を強引に「低める」のである。どんな美男美女でもオナラもすれば排便もする。価値低下が不可能な存在など無いのである。フランス革命の際には、マリー・アントワネットの情事を題材とした猥褻図画が出回り、王家の威信低下の材料となったのだが、これも「卑小化」による心理的攻撃なのである。


笑いの対極にあるのが、儀式や贅沢品による「荘厳化」である。王家や貴族の威厳のためには、庶民には絶対に不可能な豪華な服装が必要だったのである。そうした飾りを取り除けば、社会の上層部にいるのは、庶民と同じ人間たちにすぎない。(こうした「普通の人間である王族」を見事に描いたのがスタンダールの『パルムの僧院』である。)


笑いの中で「ナンセンス」とは、「意味」への攻撃である。ここでは笑いの対象となるのは、個人ではなく、人間世界の意味の体系なのだ。我々は理性的に生きる限り、常に意味の体系に支配されている。そして、そのことに無意識の圧迫を感じているのだが、ナンセンスはそうした意味の体系を破壊することで、我々に精神の自由の快感を与えてくれるのである。したがって、ナンセンスの笑いは、笑いの中でも高級なものであると同時に、世の中にはナンセンスの面白さが理解できない人間も多数存在しているのである。


「誇張」は、いわば「火の無いところに煙を立てる」類の笑いである。勘の鈍い人間でも理解できるように大袈裟に表現するのが誇張なのだから、笑いの手法としては低レベルではあるが、また、小児でも分かる、つまり伝達対象範囲が広いという利点もある。

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努力と才能

これは、米山隆一が正しいだろう。世のブラック企業経営者や教育ママは武井派がほとんどだと思う。そして多くの人、多くの子供を不幸にする。
米山の言うことは非常に大切で、努力するにしても才能のある方向に努力することが大事で、才能の無い方向に努力すると一生をフイにする。だから、多くの事に触れて、自分は何が好きか、何に向いているかを知ることが一番大切なので、私のように怠ける(ボケッとしている)ことが好きという人間でも何かを考察したり文章を書いたりすることはまったく苦にならない。もちろん、それが娯楽だから苦にならないのである。
もっとも、たとえばパチンコが好きだから、それを一生やろうというのは間違いで、娯楽でも、あるいは純粋な娯楽だからこそ仕事にはならないことがある。女が好きだから、ホストを一生の仕事にしようというのも大間違いで、60歳70歳のホストにあまり需要は無いだろう。女を食い物にする覚悟と冷酷さ、下劣さがあってこそ成り立つ商売でもある。
ただ、武井の言うのは、スポーツだけに関して言えば、「正しい努力をせずに我武者羅にやってもダメだ」というのが彼の主張の本質で、多くの人は単に走るだけでも「正しい走り方をしていないから成績が伸びない」のだ、ということだ。これは正しいと思う。世の9割の子供は正しい走り方を知らない。教えられもしていない。もっとも、それで記録を数秒伸ばしても、才能のある人間には太刀打ちできない、というのが米山の言い分で、それも正しい。

(以下引用)

米山隆一さん、武井壮にレスバトルを申し込む。「才能によって努力に要するエネルギーは段違いです」

 

引用元: https://nova.5ch.net/test/read.cgi/livegalileo/

1: それでも動く名無し 2023/07/19(水) 18:46:09.53 ID:qwT/S/sbM
うおおお
no title

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2: それでも動く名無し 2023/07/19(水) 18:47:24.81 ID:PkICYVFQM
たまにまともになるよなこいつ

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ミラ・ジョコビッチ・サイクル(訂正:ミランコビッチサイクル)

地球の大きなサイクルでの気象変化(短期的にはこれが異常気象扱いされる)は地球の地軸の傾きの変化のためだ、と私は何の説も参照せずに直感で言い続けていたが、これに関する学説もあったようだ。牛のゲップや人類の屁のせいで二酸化炭素が増加し、そのせいで地球が温暖化し異常気象が起こるという馬鹿学説(動物は普通に呼吸していても二酸化炭素を出すのである。しかもそれは植物にとって有益、いやそれどころか不可欠なのだ。つまり動物と植物の互恵関係があって地球上の生命は維持されるのである。仮に地球が少し温暖化したとして、それがどうだというのか。)よりはるかにまともである。しかも、二酸化炭素悪玉説などのような「経済(あるいは文明)への悪影響」も無い。ミランコビッチサイクルによれば、確かに地球は現在温暖化、あるいは全地球的平準化(南極と北極の気温は上がり、赤道地帯との差が小さくなる。)に向かっているのであるが、4万年周期の話であり、人類の短期的歴史に関係する問題ではない。人類があと1万年後に生存しているかどうか分かったものではない。現在の人類は滅び、新人類が生まれているのではないか。

(以下引用)


地球の軌道の変化については「ミランコビッチ・サイクル」と呼ばれる周期的な変化があります。


 


■ミランコビッチ・サイクル


地球の公転軌道の離心率の周期的変化、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動という3つの要因により、日射量が変動する周期。


 


1920 - 1930年代に、セルビアの地球物理学者ミルティン・ミランコビッチ(Milutin Milanković)は、


地球の離心率の周期的変化、


現在の氷期サイクルの周期は約10万年であり、離心率の変動周期と一致している。しかし、それらを関係づけるメカニズムについては完全に理解されていない(10万年問題)。


 


地軸の傾きの周期的変化、


地球の地軸の傾きは約21.5度から24.5度の間の間を定期的に変化しており、その周期は4.1万年である。現在は極大となった約8,700年前から小さくなっている時期にあたる。現在は23.4度であり、約11,800年後に極小となる。地球の地軸の傾きは季節差に影響を与え(地軸の傾きが大きいほど季節差が大きい)、結果として地球の気候にも影響を与える。


 


自転軸の歳差運動


地球の自転軸の向きは、公転しながら周期的に変化しており、これを歳差と呼ぶが、この周期は1.8万から2.3万年である。


 


の三つの要素が地球の気候に影響を与えると仮説をたて、実際に地球に入射する日射量の緯度分布と季節変化について当時得られる最高精度の公転軌道変化の理論を用いて非常に正確な日射量長周期変化を計算し、間もなくして放射性同位体を用いた海水温の調査で、その仮説を裏付けた。


ミランコビッチ・サイクル - Wikipedia

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自然発生する「子供の芸術」

別ブログに書いたものだが、くだらなくて案外面白いのでこちらにも載せる。

(以下自己引用)

わらべ歌のレトリック



実にくだらない話なので、他人が読む価値は無いが、私にとってはひとつの「エウレーカ!」なので、書いておく。

私が子供のころは、軍歌が歌詞だけ変えて学校の運動会の応援歌の曲によく使われたが、子供の遊びの中の「はやし歌」「遊び歌」としても軍歌の替え歌が使われたものである。
そのひとつに、「軍艦マーチ」の替え歌があったのだが、途中までしか覚えていない。それを書いておく。

シゲルとパゲルが喧嘩して
シゲルはしくしく泣き出した
(以下不明)

で、今朝突然気がついたのは、これは「シゲル」という人物をからかうために作られた歌ではないか、ということだ。つまり「パゲル」という人物は本来は不要なのである。当たり前の話で、「パゲル」という名前を持つ人物など存在するはずがない。では、なぜ「パゲル」なのかと言えば、(ここからがエウレカ!なのだが)「シゲル」とは「茂る、繁る」であり、髪がふさふさしているからである。その対義語だから「禿げる」であり、それが「パゲル」と変化したわけだ。
いや、「パゲル」から「禿げる」を連想したのは昔からそうだったのだが、それが「シゲル」と対応関係にあると気付いたのは、半世紀以上も後の今になってからだ、というのが面白い。
ある意味、プルースト的な話ではないか。思い出が突然新たな姿で甦る。
ついでだが、「シゲル」と「しくしく」も押韻している。子供でも自然にレトリックを使うのだ。

(夢人追記)「シゲル」に対して「はげる」ではなく「パゲル」としたのも素晴らしい音感だと思う。「はげる」より「パゲル」のほうが力強いし、「はげる」ではどうしても動詞であって名前には聞こえないが「パゲル」なら、名詞に聞こえる。「シゲル」と「パゲル」の下2字が同音であるのも、押韻になって実に素晴らしい。
なお、「パ」の音が力強いのは、モーツァルトの「魔笛」の「パパゲーノとパパゲーナの二重唱」を聞けば納得するだろう。これが「ハハゲーノ」だと禿げで歯抜けの老人だ。



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生活の技術(7)



3 心術の1「主体性」


 


 我々の人生が不幸であるのは、その人生が不如意であるからである。つまり、意志や意欲が存在しながら、その意志や意欲が満たされない場合に、我々は自分を不幸に感じるわけだ。つまり、不幸とは不満足な状態のことであり、幸福とは、欲求や意志が満たされた状態のことである。したがって、幸福を得る手段は二つ。一つは意志や欲求の求めるものを得ることである。もう一つは、欲求や意志そのものを捨てることである。後者が仏教的な行き方だ。いつでもどこでも欲求の対象を獲得するということは不可能だから、後者の生き方が確実な幸福への道に見えるが、欲求が無く、何も得ないならば、それは幸福とも言えない。もちろん、金銭や地位や女色などを捨てて、知識欲だけを残すという生き方もある。これがエピクロス一派の「快楽主義」だ。エピキュリアンの快楽主義は、世間で誤解されているような世俗的欲望の肯定ではない。


 仏教でも禅宗などは、特に欲望を否定する思想ではない。禅宗においては、要するに、自分を迷わすものを捨てて、心が自由であればいいのである。そして、心が自由だという実感、心が解放されているという実感は生の喜びの土台である。


「随所に主となる」


 これが、心術の目標である。つまり、どこにいても周囲に惑わされず、心が自由で何の恐怖も不安も無い状態、日常を平安な落ち着いた心で生きていくことが最高の心境だ。


 我々は自分の仕事、家族、友人関係、将来の不安など、様々な問題を抱えて生きている。だが、それらはすべて「外物」である。つまり、外物によって心が囚われた状態が悩みの状態だ。悩んでいるとき、我々は自分の人生の主ではない。外物に支配された奴隷だ。


 屁理屈を好む文化人なら、喜びの状態でも、外物に支配されているではないか、と言うだろう。むしろ逆である。奴隷であっても、現在の状態から喜びを得ているならば、彼はその場の主なのである。この説明は難しいが、喜びとは最善の幸福の状態であると仮定するなら、喜びの状態においては、主も客も無意味になるとでも言っておこう。


 では、いかにして外物の支配から心を解放するか。それは


「汝の手に堪ゆることは力を尽くして是を為せ」


という聖書の中の言葉が教えてくれる。


つまり、我々が不幸、不自由であるのは、だいたいの場合、自分の手に及ばないことを制御しようとしているからである。たとえば、愛する人に愛されないという悩みなどがその代表だ。他人に愛されることは、自分の力でどうにかなることではない。相手に好かれるために、一般的には大抵の人に愛されるキャラクターを作ったところで、相手がそのキャラクターを愛するかどうかは分からない。


昔、コン・タロウという人の漫画で読んだ、私の好きなジョークがある。高嶺の花にあこがれて悩んでいる男に向かって、その友人が慰めて、「君はあきらめる必要はないよ。だって、その人は趣味が悪いかもしれないじゃないか!」と言うのだが、実際、世の中には、何でこんな素晴らしい女性(男性)が、こんな最低の男(女)とくっつくんだ、という例は多いのである。


だが、そもそも、人を愛することはこちら側の問題だが、相手が自分を愛するかどうかは、相手任せにしかならない。こちらの努力ではどうにもならないものがある。


ならば、できる努力はするが、努力してもどうにもならないことはあきらめる、というのが賢い生き方なのである。そして、実は人生の悩みの多くは、自分の努力ではどうにもならないことを悩んでいるのである。たとえば、仕事でベストを尽くすことは努力の範囲だ。だが、その仕事がどう評価されるかは、自分の努力でどうなるものでもない。


勝海舟がうまいことを言っている。江戸幕府と明治政府の二君に仕える生き方を福沢諭吉に批判され、彼からその批判の文章を世間に公表していいかと言われた時に、「行蔵は我にあり。褒貶は他人のこと。」と言って、どうぞ勝手に批判しなさい、と答えたのである。つまり、ある行為を「やるかやらないか」は私のすることであり、それについて他人がほめようがけなそうが、俺には関係ないよ、ということだ。彼のこの言葉こそ、人生の達人の言葉だろう。


基本的に、不自由とは、自分の手ではどうにもならないことを言うのだから、それはあきらめるしかない。実に当然の話なのだが、これが分からない(分かっていても納得できない)から、たいていの人は不自由がそのまま不幸につながるのである。つまり、不自由とは運命的に我々の生の半分であり、完全な自由などどこにも存在はしないのだが、その事実が受け入れきれずに自分で自分を苦しめているのが世の大半の人間なのである。


我々が問題とするべきことは、その自由と不自由の範囲が納得できる範囲かどうかだけである。


そもそも、我々が求める自由とは、まるで夢想的なもので、子供などは物理法則に反する自由をすら欲しがるものだ。漫画やアニメの超人は、我々が持ちたいという自由の実現者であり、我々の代わりにその自由を行使してくれる存在なのである。


それほど、我々は自分を取り巻く不自由に、息がつまるような束縛感を感じているということである。


そのような自由へのあこがれが、芸術創作の原動力でもあるが、しかし、我々の日常生活は、この不自由とのつきあいでもある。


我々はまず物理法則に縛られ、社会の倫理道徳に縛られ、法律で行動を制限され、仕事で求められる規範に縛られる。家庭においては、家庭秩序を維持するための決まり事に縛られ、友人との交際では、「真の自分」を知られずに、そう思われたい自分として見てもらうための努力に苦労する。他人と交わす言葉の一言一言に、自分がこういう発言をしたらどう思われるか、と悩み、そう悩む自分に苛立つ。


つまり、我々の生活とは、雁字搦めの不自由なのである。普段はそれを意識しないから、平気でいられるが、それが気になりだすと、精神がおかしくなりかねない。


つまりこれが「随所に主となる」の正反対の状態なのである。ここまで言えば、なぜ「随所に主となる」ことが心術の目的地であるかも理解されるだろう。


では、いかにすれば「随所に主となる」ことができるか。修行によって、である。私はもちろん、そうなれてなどいない。しかし、その目標を持つことで、自分を苦しめる物事はすべて自分にとっては本質的ではないという「見切り」をつけることが早くなった。そして、悩むことも少なくなった。


ここで、最初のあたりで述べたことに戻る。


すべては意識することから始まるのである。問題を見つけだせば、その問題は半分解決したも同然なのだ。一番の問題は、問題の所在に気が付かないことなのである。精神医療でも、患者自身が問題の所在に気が付けば、その病気はほとんど解決するのである。

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寒冷の国でなぜ幸福でいられるのか

「大摩邇」所載の「地球の記録」記事の一部だが、私が面白く感じたのは記事の主内容ではなく、「世界で最も幸福な国」のランキングであるので、そこだけ先に載せる。

1位フィンランド
2位デンマーク
3位アイスランド

この3つの国に共通するのは何か。三つとも北欧の国であるのは誰でも分かる。だが、北欧の国であることが幸福につながるだろうか。特にアイスランドなど、名前からしても「氷の国」である。網走番外地か。いや、それより緯度が高いからもっと寒いだろう。
まあ、北欧の国であることは別として、私が思ったのは、この三つとも

特に著名な産業がなく(アイスランドは金融で有名らしいが、金融は「何も生産しない」。つまり、本来の意味での「産業」ではない。)
特に著名な企業がなく
特に著名な文化がなく
特に著名な偉人が(フィンランドのシベリウスを除いて)なく
特に世界の話題になる出来事や歴史がない

ということだ。映画や演劇では有名人も過去に数人出ているが、数は非常に少ない。で、「人生との戦い」を描いた哲学的で深刻な、あまり幸福とは思えない作風のようだ。
いや、無名こそ幸福の源という考えも可能だろうが、しかし、この三つの国は「どのようにして(食物や生活用品を手に入れて)生きているのだ?」という疑問を私は持つのである。デンマークは畜産業では少しは有名だった気がするが、畜産をしているから幸福、とはならないだろう。国民全員が畜産業者であるわけもない。
とすると、この三つの国は「なぜ幸福なのか?」
まあ、考えられるのは「寒いので基本的に何もやらない」だから無事平穏であり、何もない現状に満足する哲学がある、くらいか。時々キチガイが銃の乱射で大量殺害をしたりするが、それも「何もない」ことへの突発的な反動だろう。


(以下引用)

世界で最も幸せな国のひとつであるデンマークの生涯での精神科受診率が「82%」であり、精神薬の処方経験が「70%の人たちにある」ことを知る

地球の記録 - アース・カタストロフ・レビューさんのサイトより
https://earthreview.net/rate-of-mental-health-disorders-in-denmark/
<転載開始>


ベンゾジアゼピン等によりもたらされている幸福…

最近、米エポックタイムズ経由で、デンマークの「国民のメンタルヘルス」に関する研究の存在を知りました。それは、以下のような調査で、150万人を対象にした大調査でした。


「一生涯で、デンマーク人のどの程度が、精神科医からの治療を受けたことがあるか、あるいは精神薬を処方されたことがあるか」


 


デンマークで初めてとなるこの調査の結果、


「デンマーク人の 82.6%が、生涯で、精神科医からの治療を受けたことがある」


ということがわかったのでした。


驚異的な数値だと思います。



コペンハーゲン感情障害研究センターやコペンハーゲン大学の研究者たちによる調査の結果は、こちらにあり、その冒頭は、以下のように書かれていました。


デンマークの研究より


調査結果 このコホート研究では、精神的健康障害および/または向精神薬の処方の生涯累積発生率は以前の報告よりも高く、人口の約 80%が病院内または一般開業医または民間の精神科医から精神的健康障害の治療を受けていた。


精神的健康障害と向精神薬の処方は、収入の低下、失業、一人暮らしや未婚の可能性の増加など、その後の社会経済的困難の増大と関連していた。


JAMA


これを伝えていた米エポックタイムズの記事をご紹介させていただきます。なお、 2023年度版 世界幸福度ランキングの上位3カ国は以下です。


世界幸福度ランキング 2020-2022


1位 フィンランド
2位 デンマーク
3位 アイスランド


yamatogokoro.jp

世界で2番目に幸福な国デンマークは、精神的健康障害の罹患率が驚くほど高いことが研究で判明した

The World’s 2nd Happiest Country Has a Surprisingly High Rate of Mental Health Disorders: Study
Epoch Times 2023/07/17


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