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利己主義と利他主義と社会主義

「徽宗皇帝のブログ」に載せたアイン・ランドについての記事の一部を検討してみる。まあ、趣味的考察である。
最初に言っておけば、ランドの「オブジェクティビズム」という言葉は、言葉自体が不適切である。「物体主義」や「対象主義」が意味不明なのはもちろん、「目的主義」でも意味不明で、下の文章を読むと「自己目的主義」とでもいうニュアンスのようだ。「自分自身(の幸福)が人生の最大の目標である」というのなら、それに反対する人はほとんどいないだろう。だが、そうすると他人の利害との衝突が当然出て来るわけで、結局は「利己主義」は正しいか、という問題に帰着する。
もちろん、利己主義の衝突は無限の闘争と暴力による支配・服従関係にしかならないわけである。では、「利他主義」はどうかと言えば、それも「自分の利益」を無視した利他主義など、聖人君子にしか不可能な話である。となると、結局は自分の利益と社会全体の利益を案配するという「社会主義」しか正解は無いのである。しかしまた、「社会全体の利益」が「独裁政党や独裁政府の利益」とすり替えられることもしばしば起こってきたことだ。それに、経済面では計画経済(社会主義)は自由主義経済(資本主義)に敗北してきたのがこれまでの歴史である。
まあ、毎度言うが、社会主義精神によって抑制された資本主義が一番の正解だろう。究極の自由主義とは、いかに紳士の服装をしていても、野獣の世界なのである。


(以下引用)


ほとんどのプロの哲学者は、ランドのオブジェクティビズム理論を笑っています、なぜならそれは美徳の合理的で客観的な理論を生み出すと主張しているが、誤謬、不特定の用語、および非セクチュアに満ちているからです。ランドの話し方はこうだ。



人間、すべての人は自分自身の目的であり、他人の目的への手段ではありません。彼は自分のために生きなければならず、他人に自分を犠牲にしたり、他人を自分自身に犠牲にしたりすることはありません。彼は自分の人生の最高の道徳的目的として彼自身の幸福の達成とともに、彼の合理的な自己利益のために働かなければなりません。


ランドは、彼女が「利己主義」について話すとき(彼女の著書「利己主義の美徳」のように)、これが彼女の意味であり、「人間が好きなようにする」ためのライセンスを与えていないと言います。彼女は、「自分の利益のために取られる行動は悪であり、自分の利益のために取られる行動は悪である」という考えを単に拒否していると言います。彼女は、人々が自分の意味を「利己主義」とは考えていないが、「私が『利己主義』で意味していることが慣習的に意味されているものではないことが本当なら、これは利他主義の最悪の告発の1つです。利他主義は自尊心のある自立した人の概念を許しません。」何が起こるかというと、ランドは「利己主義とは自尊心を意味するだけです」と言いますが、実際にこれが何を意味するのかを実際に定義するときはいつでも、それは次のように聞こえてしまいます...ただの利己主義。彼女は他人の苦しみを気にしていないようで、言葉の従来の意味で「利己的」に見える多くの行為(あなた自身が贅沢に暮らしているにもかかわらず、労働者にまともな生活を送る余裕がないほど少ない賃金など)に問題はありません。

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ムーンリバーで朝食を

村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を読んでいたら、主人公ホリー・ゴライトリーの男兄弟を「兄」と書いてあったが、映画では「弟」だったはずで、これが兄だとホリーの「保護者意識」が不自然になる気がする。まあ、ホリーを19歳としていたので、その弟が徴兵年齢であるのはおかしいわけだから、「兄」としたのだろうが、あるいは、映画の方が設定を改変したのかもしれない。私は映画は見たが、小説はほとんど読んだ記憶がないので、どちらかは分からない。つまり、ホリーの「保護者意識」自体が。映画の改変かもしれない。このほうがありそうではある。ホリーの「弟」への保護者意識は、ホリーの「この世界を自分につなぐ細い縄」としてリアリティを持っていたので、いい改変だと思う。
小説は小説として名作であり、映画は映画として名作、としていいのではないか。(この映画でオードリー・ヘップバーンが演じるホリーは「大都会の妖精」的ではあるが、実はフリーの娼婦なので、ヘップバーンのファン、特に若い人にはショックかもしれない。私がこの映画自体が好きになったのは、だいぶ年を取ってからである。)
なお、この作品の映画での改変として有名なのは、小説中でホリーが歌う歌の歌詞が「眠りたくない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」(村上春樹訳)という、素っ気ないものであるのに対し、映画では有名なヘンリー・マンシーニの曲のついた「ムーン・リバー」であることで、私はこのムーン・リバーの歌詞が大好きなので、記憶で書いてみる。

Moon River wider than a mile
I'm crossing you in stile someday
Old dream maker
you,heartbreaker
whereever you going,I'm going your way

Two drifters off to see the world
there's such a lot of world to see

We after the same rainbows end
waiting round the bend
My Huckleberry friend
Moon River and me

英語の綴りは自信が無いが、だいたいこんなものだったと思う。訳してみる。

月の河、1マイルより広いそれを
私はいつの日かお洒落な恰好をして渡るだろう
古い夢を紡ぐもの
人の心を砕くお前
お前が行くところ、どこへでも私も行こう

世界を見ようと岸を離れた二人の漂流者
そこにはたくさんの見るべき世界がある

私たちは同じ虹の両端を追っている
河の曲がり角で待っている
ハックルベリー・フィンのような私の友達
月の河と、私


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まず、自ら「不要老人処分」の範を示せwww

「阿修羅」コメント欄から転載。
ジャック・アタリは1945年生まれらしいから、現在78歳くらいだろう。

60〜65歳を超えるとすぐに、人間は生産するよりも長生きし、社会に多大なコストをかけます。


で、この爺さんは自分は殺処分される側ではなく、愚劣な本を何冊か書いただけで殺処分する側にいるつもりのようだwww つまり、年齢が問題ではなく、実は下級人類を殺処分するのだろうが、本気で人類の半分以上を殺す気だろうか。誰が労働をするのだ?

(以下引用)

ジャックアタリ:1981年自身の著書の中の声明文より
「将来的には、人口を減らす方法を見つけることが問題になるでしょう。60〜65歳を超えるとすぐに、人間は生産するよりも長生きし、社会に多大なコストをかけます。そして、社会のために何もしない弱者、そして役に立たない人々がますます増えるので、私たちは年寄りから特に愚かなものから始めます。
これらのグループを対象とした安楽死。安楽死は、すべての場合において、私たちの将来の社会の不可欠な手段でなければなりません。もちろん、人を処刑したり、収容キャンプを設置したりすることはできません。私たちは、それが彼ら自身の利益のためであると彼らに信じさせることによって彼らを取り除きます。
多すぎる人口、ほとんどが不要ですが、経済的に高すぎるものです。社会的には、人間機械が徐々に劣化するのではなく、突然停止する方がはるかに優れています。何百万人もの人々に対して知能テストを実行することができないことを、あなたは想像することができます。
特定の人々を標的とするパンデミック、本当の経済危機かそうではないか、老人や肥満な人に影響を与えるウイルス、それらは何でもいいが、私たちは何かを見つけ、それを引き起こします。弱者はそれに屈し、恐れ、愚かな者たちはそれを信じて治療を求めます。
私たちは、解決策として治療法を計画し、愚かな者たちは自ら選択し畜殺場に並びます。」

これでもワクチンを打ちますか?これは陰謀そのものですよ、皆さん。

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内田樹の「山岸凉子」論

「内田樹の研究室」は、滅多に読まないのだが、さきほど気まぐれで覗いてみると、山岸凉子の話を書いていて、その論旨が妥当かどうかはさておき、私自身が先ほど書いた「怪奇趣味」の話と偶然の一致があって面白いので、ここに転載しておく。
ただし、山岸凉子は怪奇趣味というより、本当に彼女自身に霊媒体質があるらしく、「あれ」が見えるらしい。それ自身が怪談であるwww
私自身は山岸凉子は「怖い話」だけでなく、あらゆるジャンルで稀な語り部の才能を持っていると思う。その絵柄が苦手だという人もいるかと思うが、あの絵でないと彼女の作品の味わいは出ないだろう。自分で話を作るだけでなく、「話に対する嗅覚」が優れていて、トルーマン・カポーティの作品の中でほとんど語られることのない、オールドミスの叔母と幼年時の作者の自伝的作品を漫画化したクリスマスの話(先ほど、少し前に古本屋で買った村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を開いたら、その中に入っていた。)など、名作中の名作である。あるいは、「白い部屋のふたり」など、音楽をつけて映像化したくなる作品だ。もちろん、そういう作品は彼女だけでなく、大島弓子などにも多い。萩尾望都も含め、24年組は天才揃いである。彼女らの初期短編でアニメのシリーズを作ったら、国宝級の素晴らしいものになるだろう。


(以下引用)

山岸凉子先生のマンガはどうしてこんなに怖いのか

2023-08-05 samedi




 山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
 私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
 そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
 外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
 それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)





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俳句の破調と怪奇趣味

最初に変なことを書くが、人生を気楽に生きるには、「プロにならないこと」だ、というのが先ほど思いついた思想なのだが、なぜかというと、プロになると職業的義務が生まれ、その義務に束縛される人生になるからである。プロというのは、その仕事でカネを稼ぐということで、つまり、生まれつきの資産家以外は、この資本主義の世の中では真の自由人にはなれないということである。そこで、ほとんどの人はプロとしての奴隷の時間と、自由人としての余暇の時間を使い分ける人生になる。もちろん、その、プロとしての仕事の時間そのものが楽しいなら、それは幸せな生き方になる。まあ、仕事が辛いとは言っても、昔は仕事に耐えられない年齢になったら仕事から引退して隠居したもので、隠居というのは素晴らしい「社会制度」だったな、と思う。今なら、年金生活か。しかし、その老齢年金は生活保護より低い金額で、それもどんどん減らされる傾向にありそうだ。
まあ、そういう世知辛い話はここまでとする。

ここからは、一種の芸術論になる。ただ、それが素人の論考だから、最初に「素人の良さ」を書いて無意識に煙幕を張ったのだろう。素人の論考だから、責任は持たないよ、ということだ。ただし、素人とプロの本質的な(絶対的な)違いは、その仕事や作業でカネを得るか得ないかというだけだ。

さて、西東三鬼の有名な俳句がある。

「算術の少年しのび泣けり夏」

というもので、全体の音数はちゃんと17字になっているが、意味で切った場合は「算術の」「少年しのび泣けり」「夏」という、「5,10,2」という、とんでもない破調である。(もちろん、「算術の少年」「しのび泣けり」「夏」という「9,6、2」でもいい。これも滅茶苦茶な破調だ。)これを「5,7,5」で読むと「算術の・少年しのび・泣けり夏」という、意味不明の文章になる。
だが、名句であることは確かだ。誰が読んでも、この形でしかこの俳句の良さは出なかっただろうと思うのではないか。
で、ここからが本題だが、実はこの型破りの句法にはモデル(先例)があり、それも、芭蕉の句だというのが、私がここで例証しようとしていることだ。
先ほど、寝床で東雅夫編「文豪怪談傑作選・芥川龍之介集」を読んでいると、龍之介の小論的随筆の中で引用された連句の付け合いで、こういうのがあった。

小夜嵐とぼそ落ちては堂の月  信徳
  古入道は失せにけり露   桃青

桃青はもちろん芭蕉の俳名のひとつだが、この「古入道は失せにけり露」は、まさしく三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」と同じ句法ではないか。どちらも、最後に2音の名詞を「無理やり」付ける形である。そして、どちらも「露」「夏」という、その名詞で世界が広がりながらも、俳句世界を確定している。寺の堂に出没していた古入道が消えた後、庭の草葉に乗っていた一滴の露をクローズアップしたことで、世界が広がり、秋という季節が読む人の感覚に刻まれるのだ。その露には、あるいは前句で書かれた「月」の光が宿っているだろう。


ここで終わってもいいのだが、芭蕉の怪奇趣味(「気違を月のさそへば忽(たちまち)に」など、面白い。狂気を「ルナティック」と言うように、月が狂気を誘うという観念は洋の東西に共通しているようだ。)を龍之介は論じていて、その最後に載せてある龍之介自身の短歌が面白いので、載せておく。面白いとは言っても、内容は残酷で、その美は哀切の美だ。
「河郎」はおそらく「河太郎」つまり、河童のことで、河童は龍之介偏愛の妖怪である。

人間の姿を恋ひしかばこの川の河郎の子は殺されにけり









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図書館をどんどん利用しよう

「シロクマの屑籠」から記事の一部を転載。
私がよく利用している図書館は蔵書数が少ないので、逆に、これまで自分と縁の無かった本を適当に借りだすことが多い。その中には、家で目を通して、「やっぱり自分には合わない」と思って、読まずに返す本もたくさんある。そもそも、自分が何となく敬遠していた著者の本などだから、それで当然だ。
だが、中には素晴らしい本と出会うこともある。特に児童書にそれが多い。前にも書いたが、「黒い兄弟」や「思い出のマーニー」などがそれである。ちなみに、私はそれらのアニメ化は見ていない。(「黒い兄弟」を原作とする「ロミオの青い空」は。主題歌が嫌いで見なかった。あの元気で陽気な主題歌と主題歌をバックにした明るい映像は、はっきり言って詐欺である。原作は、子供版「レ・ミゼラブル」だ。)

(以下引用)

なかには「買うほど重要じゃないかも、でも目は通しておきたいな」って本もある。『ヒトラーとドラッグ』などもそうした書籍のひとつだった。自宅に置いても腐ってしまう、でも念のため読んでおきたい書籍を借りる場として、図書館はありがたい。そうやって知識を耕す公共の引き出しとして図書館を用いはじめたら、やめられなくなってしまった。そして私は少しずつ読書のキャパシティを広げていって、10年前に比べてより多くの本が読めるようになった。それは図書館のおかげだ。
 
 


「おれが借りなきゃ、誰が借りるんだ」の精神でバシバシ借りる

 
私は、そうした図書館での書籍の貸し出しについて罪悪感をまったく覚えていない。ひとつには私が小さい頃から図書館で本を借り続け、その恩恵を受けてきたからだが、もうひとつには、私が借りることでその書籍の運命が変わるかもしれない……というものもある。
 
どういうことかというと、図書館の書籍って借りてあげないと処分されちゃうことがままあるよう、思われるからだ。
 

 
たとえば我が家にはこのE.エリクソン『洞察と責任』の旧版があるが、古本屋でこれを購入した時、そこには○○大学図書館 というはんこが押されていた。除籍されてしまった本が古本屋に回ったのだろう。図書館の本はボロボロになっても除籍されるが、まったく読まれなくなっても除籍される運命だ。
 
だとしたらだ。図書館の本にとって、借りられる、ということは結構大事なことではないかと私は思う。まるで書籍に魂が入っているような、除籍する時に供養が必要そうな物言いに聞こえるかもしれないが、実際私はアニミズムな日本人なのでそういう感性を持っている。そして図書館には誰にも借りられることのないまま年を取っていく書籍がたくさん眠っている。
 
さきに紹介した『<子供>の誕生』やプレミア本である『逸脱と医療化』も、図書館で会った時にはそうだった。それらは通常の本棚には置いてなく、奥の書架から取り出していただいたものだった。たくさんの人が予約し、たくさんの人に読まれていく人気書籍たちをよそに、図書館には、ありとあらゆる分野の素晴らしい、でもあまり読まれる機会のない学術書や専門書、しっかりとした解説書が無数に眠っている。それは貴重だし、それらも図書館を図書館たらしめているもの、自治体ひいては県民/市民全体の知識の源たらしめているものだと思う。
 
そうはいっても一人の人間が借りられる書籍の数なんてたかが知れている。また、除籍の判断にあたって読者が借りた実績がどれぐらい重視されるのかも私にはわからない。けれども図書館で眠り続けているありがたい書籍たちに私が(それとも私たちが、だろうか)できる最善のことは、そうした眠れる書籍たちをちゃんと借りて参考にして、利用者の一人として知識をつけること、そしてなにかに役立てること、得たものを社会に還流していくことだと思う。
 
私の場合、とにかく文章を書きたい人間だから、図書館で借りた書籍は第一に参考文献として用いる。それだけじゃない。ブログを書くでもいいし、誰かとのおしゃべりに役立てるでもいい。自分が本を買うかどうかの下見としても遠慮しないし、小説や絵本からインスピレーションや感動をもらい受けるかもしれない。とにかく、図書館とその蔵書にとって好ましいのは、借りられること・貸すことをとおして利用者に良い影響を与えていくことだから、借りて役立てるのが筋ってものではないかと思う。
 
特にプレミア本や学術書を自分で買うのを躊躇している人には、図書館の奥の書架で眠っている本を借りて、読んでみるのをオススメしたい。もちろん図書館の本はみんなのものだから丁寧に扱わなければならないし、ちゃんと期日に返さなければならない。もっとも、そういう本は2週間では到底読み切れず、レンタル延長を申し出ることもあろうけれども。いずれにせよ、公共物という意識のもと、節度と分別を弁え、感謝の気持ちを持ちながら貸していただくものだろう。そうして自分の血肉としたり参考にしたりすると同時に、その、書架に眠ったままになりがちな書籍には「この本を借りて必要としている県民/市民がいました」という履歴が残ることになる。
 
奥の書架から出していただく書籍のなかには、手垢のまったくついていない品もあったりする。たくさんの人に読まれる書籍を用意するのも図書館の役割だが、こんなに読まれない書籍まで取り揃えてあるのも図書館の役割だと私は思うので、その新品同様の書籍を喜び勇んで読みにかかる。そして自分が借りることをとおして、その書籍の命運が少しでも長くなればいいなと願ったりする。もちろん、一度借りられたぐらいでは何も変わらないに違いない。それでも一人の利用者として図書館の書籍にできること、ひいては図書館の役割や存在意義を浮き彫りにすることとは、自分が借りるべき本を借り、そこから何かを読み取って、得たものを世の中にそれを還流させていくことではないか、と思う。
 
図書館には、予約が殺到する書籍もあれば誰かに借りられるのを静かに待っている新品同様の書籍もある。そこにこそ、図書館にならできる、図書館にしかできない公共の知恵を提供する大事な機能があり、インターネットでは得ようのない知識の泉もあるように思う。だから図書館、もっと使ってもっと知識を汲み取ろうよ。そこで大事な書籍に出会ったら本屋さんで買っちゃおうよ、と言ってみる。
 

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可逆性脳血管攣縮症候群

「攣」の字は「けいれん」の字の「けい」だろうと思っていたら「れん」だった。まあ、「痙攣」という熟語など、漢字自体を覚えたこともないのだから、そうなる。我々の頭はそういうブラックボックスだらけである。「寿限無寿限無」は書けても、「ごこうのすりきれ」の「ごこう」は書けない。たしか、長い年月を表すものだったと思うが、たぶん仏教用語だろう。
スポーツは体に悪いというのは私の持論だが、体に無理をさせることが多い。沢村は若いころから筋トレの熱心な実践者で、たぶん、強い負荷をかけるごとに血圧が200以上に上がっていたと思う。それを長い間続ければ、脳血管だって音を上げる。

(以下引用)
ロッテ】沢村拓一が可逆性脳血管攣縮症候群と診断…8月末まで高強度の運動禁止
https://news.yahoo.co.jp/articles/8c45ae17546d9ee8c9406f263b3677cd0a2255dc
ロッテは10日、沢村拓一投手(35)が「可逆性脳血管攣(れん)縮症候群」と診断されたと発表した。
7月下旬から頭痛があり、8月1日に出場選手登録を抹消されていた。

都内の病院で検査入院後、7日に退院。すでにジョギングやキャッチボールは行っているが、8月末まで高強度の運動は禁止という。
その後、問題がなければ通常練習を再開する。

沢村は「脳の血管がけいれんを起こし、激しい頭痛を起こす症状ですが、完治すると説明を受けていますのでしっかり向き合いながら治療をしていきたいと思います。
この大事なタイミングでマウンドで投げることができないのはとても悔しいですが、ベストパフォーマンスを発揮するために今はまず治すことが大事だと思っています。
幸い、MRI画像上の所見では改善傾向にあるとのことですので、ファンの皆様と再会できる日を楽しみに治療に取り組んでいきます」とコメントした。

20: それでも動く名無し 2023/08/10(木) 16:56:17.54 ID:dBTiGMSq0
頭かよ
こわいな

22: それでも動く名無し 2023/08/10(木) 16:56:23.92 ID:0lOx3WMDH
今年で終わりかな、それとももう1年面倒見るか

25: それでも動く名無し 2023/08/10(木) 16:56:36.19 ID:wFczRoVm0
可逆性脳血管収縮症候群とは

急性に始まる激しい頭痛を主症状とする病気の一つです。
脳の血管が一過性に強い収縮を起こすために生じるものです。

入浴やシャワー、性行為、労作、息こらえ、感情的興奮などが引き金になります。
典型的には、1~数週間にわたって頭痛を繰り返します。
吐き気や嘔吐を伴うこともあります。

原因不明の突然の強い頭痛の主な原因の一つです。
発症から2週間の間にくも膜下出血、脳出血、脳梗塞を合併するケースもあります。
20~50歳代(平均年齢は40代)に見られ、女性に多い(男女比は1:2-3)とされます。

31: それでも動く名無し 2023/08/10(木) 16:57:23.17 ID:WmVCMGPN0
>>25
大丈夫かよこれで練習なんかして

32: それでも動く名無し 2023/08/10(木) 16:57:34.63 ID:wFczRoVm0
>>25
症状は

雷に打たれたような突然の激しい頭痛(雷鳴頭痛)を、数日あるいは数週に渡って繰り返します。
頭痛は、両側性のことが多く、頭部全体の重度の頭痛であることが多いです。3/4の症例では、急性の頭痛が唯一の症状であるとされています。

激しい痛みは1~3時間程度ですが、その後にも中等度の痛みが持続します。激しい頭痛は繰り返し起こることがあります。
すなわち、1~4週間の間に、2~18回(平均5回)程度の激しい頭痛を繰り返します。

頭痛の引きがねとして、性行為、排便、排尿、運動、咳、くしゃみ、入浴やシャワー、笑い、感情、いきみ、息ごらえなどがあります。
その他、産褥期、α交感神経刺激薬やセロトニン作動薬などの血管作動薬の使用後、違法薬物(覚せい剤、大麻、コカイン)の使用後、
高カルシウム血症や高血圧の状態の際に起こることがあります。

吐き気、嘔吐、光過敏、音過敏など片頭痛と同様の症状を伴うこともあります。
その他、時として脳血流障害に伴い視覚異常、感覚異常、失語症、片麻痺、けいれん発作などを生じることがあります。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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