山岸凉子先生の描く「怖い話」はほんとうに怖い。類を見ないほど怖い。どうしてこんなに怖い話を描けるのだろうか。
私の仮説は、山岸先生はご自身の心の奥底にわだかまっている恐怖の「種」をマンガにすることで「祓っている」というものである。
「お祓い」なのだから、手抜きはできない。うっかり一番怖いところを「祓い残し」たら、そこから恐怖が再び鎌首をもたげてくるかも知れない。膿は出し切らなければいけない。だから、徹底的に怖い話、これ以上怖い話はこの世にないという話を語ることを山岸先生はみずからに使命として課しているのである。
そして、世には無数の恐怖譚があるけれど、どういう物語が最も根源的に、最も救いなく人を恐怖させるのか、それを考え抜いた結果、山岸先生がたどりついた結論は、「自分自身が自分を恐怖させる当のものである」という恐怖譚が最も救いがないというものであった。
外から鬼神の類が訪れてくるのであれば、仲間を集めたり、あるいは霊能力の高い人にすがって、それと「戦う」という積極的な対策も立てられる。結界を引いてその中に「閉じこもる」という防御策も講じられる。だが、自分自身が自分を恐怖させている当のものである場合、「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」が同一である場合、いわば恐怖に釘付けにされていること自体がその人のアイデンティティーを形成している場合、その恐怖からは逃れる手立てがない。そういう話が一番怖い。「汐の声」は「私の人形はよい人形」とともに私が「山岸ホラーの金字塔」とみなす傑作だけれど、まさに「そういう話」だった。
それ以外でも山岸先生の「怖い話」はどれも「他の人は感じないのに、私だけが恐怖を感じてしまう」という「恐怖させるもの」と「恐怖するもの」がひとつに縫い付けられていることの絶望が基調音を創り出している。ああ、書いているだけで怖くなってきた。
(『ダ・ヴィンチ』9月号)
最初に言っておけば、ランドの「オブジェクティビズム」という言葉は、言葉自体が不適切である。「物体主義」や「対象主義」が意味不明なのはもちろん、「目的主義」でも意味不明で、下の文章を読むと「自己目的主義」とでもいうニュアンスのようだ。「自分自身(の幸福)が人生の最大の目標である」というのなら、それに反対する人はほとんどいないだろう。だが、そうすると他人の利害との衝突が当然出て来るわけで、結局は「利己主義」は正しいか、という問題に帰着する。
もちろん、利己主義の衝突は無限の闘争と暴力による支配・服従関係にしかならないわけである。では、「利他主義」はどうかと言えば、それも「自分の利益」を無視した利他主義など、聖人君子にしか不可能な話である。となると、結局は自分の利益と社会全体の利益を案配するという「社会主義」しか正解は無いのである。しかしまた、「社会全体の利益」が「独裁政党や独裁政府の利益」とすり替えられることもしばしば起こってきたことだ。それに、経済面では計画経済(社会主義)は自由主義経済(資本主義)に敗北してきたのがこれまでの歴史である。
まあ、毎度言うが、社会主義精神によって抑制された資本主義が一番の正解だろう。究極の自由主義とは、いかに紳士の服装をしていても、野獣の世界なのである。
(以下引用)
ほとんどのプロの哲学者は、ランドのオブジェクティビズム理論を笑っています、なぜならそれは美徳の合理的で客観的な理論を生み出すと主張しているが、誤謬、不特定の用語、および非セクチュアに満ちているからです。ランドの話し方はこうだ。
人間、すべての人は自分自身の目的であり、他人の目的への手段ではありません。彼は自分のために生きなければならず、他人に自分を犠牲にしたり、他人を自分自身に犠牲にしたりすることはありません。彼は自分の人生の最高の道徳的目的として彼自身の幸福の達成とともに、彼の合理的な自己利益のために働かなければなりません。
ランドは、彼女が「利己主義」について話すとき(彼女の著書「利己主義の美徳」のように)、これが彼女の意味であり、「人間が好きなようにする」ためのライセンスを与えていないと言います。彼女は、「自分の利益のために取られる行動は悪であり、自分の利益のために取られる行動は悪である」という考えを単に拒否していると言います。彼女は、人々が自分の意味を「利己主義」とは考えていないが、「私が『利己主義』で意味していることが慣習的に意味されているものではないことが本当なら、これは利他主義の最悪の告発の1つです。利他主義は自尊心のある自立した人の概念を許しません。」何が起こるかというと、ランドは「利己主義とは自尊心を意味するだけです」と言いますが、実際にこれが何を意味するのかを実際に定義するときはいつでも、それは次のように聞こえてしまいます...ただの利己主義。彼女は他人の苦しみを気にしていないようで、言葉の従来の意味で「利己的」に見える多くの行為(あなた自身が贅沢に暮らしているにもかかわらず、労働者にまともな生活を送る余裕がないほど少ない賃金など)に問題はありません。