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「銃後の妻」ははたして貞淑だったか

なるほど、面白い視点の反戦論だ。実は取り締まる側のお偉いさんが、銃後の妻に手を出す事例もかなり多かったと私は推測している。そりゃあ、若い男が払底していて、町が若い女だらけなのだから、女好きの「戦争に行かなくていい連中」には大チャンスだろう。で、前線に出た夫たちは「特攻しろ」である。銃後の社会の現実(自分の妻の浮気)を知ったら死んでも死にきれないだろう。戦争ほどアホなものはない。

(以下引用)

2023-09-02

「銃後の妻」の浮気について

占領米軍の性暴力に触れた増田に影響されて「帝国日本戦時暴力京都大学,2013)」という論文斜め読みし始めたんだけど、第1章のテーマが、いわゆる「銃後の妻」の浮気についての話でそっちが面白くなってしまった。そもそも、出征した兵士自分奥さん浮気してんじゃねーかと気になって仕方なかったみたいで、前線から実家近辺の警察かに問い合わせる奴が相次いだらしくてまあ悲喜劇なんだけど、「このままじゃ兵士士気ヤバい!」てことで、全国で警察が極秘に、予防のための講習会を開いて妻らを組織化したり、名簿作って「浮気してないか監視をしたり周辺に聞き込みしたり、妊娠したら本当に旦那の子調査したり……と、隣近所、地元、妻同士、警察と何重にも監視の目を行き届かせたらしい。その上、いざ実際に浮気が起きたら兵士本人には知らせず、かといって姦通罪は親告罪であるため、間男を「住居不法侵入」という名目処罰していた(たとえ妻が了承しても「戸長」たる夫の許可がない住居の立ち入りは不法侵入にあたるという理屈らしい)とか、いろいろ苦労して浮気を防ごうとしたらしい。ああ、「銃後の妻の貞操」つーのは、こうやって国家必死こいて作り出した神話だったのかー……という奇妙な納得と言うか感心というかが得られて、なかなか有益だった。


いや、なんか当時を扱った小説とかでも、戦時中の出征兵士奥さんてなんか妙に貞淑に描かれてるイメージあるじゃん? で、それが「戦前道徳教育」のおかげ(逆に言えば”戦後風俗の乱れ”)みたいなこっちの勝手思い込みがあったんだけど、そんなの思いこみだよ、と頭を小突かれた気分で、やっぱそういう”美しい”話というのは大体神話に過ぎないということを再確認させられたのだった。


なお、実際のところは、そうやって警察取締りしてさえも、結構な数のかーちゃん浮気したらしい。まあ、生命危険のある状況に若い男女がおかれたらそらそうなるやろ、って感じで浮世の道理である。下は内務省資料引用上記論文から


適当訳(引用者による))


浮気する奥さんへの対応について


出征兵士奥さん浮気する奴がいていろいろヤバいので、こっそり呼び出して注意したり間男を転勤させたりとかヤバい処置したけど、その件数が全国でもうヤバい


(原文)


不義の悪評ある留守宅に対する措置


応召者妻にして留守中素行不良にして風評に上る者ありて一般家族への影響及出征者の士気等も顧慮し適切なる方策を講ずる要あるもの時に発生する状況にあり、因つて之に対し隠密の間に説諭を加へ、或は姦夫の雇傭主と懇談を為し之を他に転ぜしむる等の方法を講じて遺家族及び出征者の名誉保持に善処したる事例は瀧川警察署管下其の他に於て相当数に上り居れり。(内務省警保局,1939)


まあ、実にグロテスクな話である。とーちゃん兵士に送り出して浮気するかーちゃんグロテスクなんではない。間男でも、それを取り締まる警察でもない。ただ、それらを含んだ戦時風景が全体としてグロテスクしか言いようがないんである戦争を美しいというのは、よほど頭のネジがぶっ飛んでいるか、それともメディアに手もなく踊らされている奴だけだ。


戦争という巨大な暴力人間世界に生み出す風景は、常にグロテスクなのだから僕は戦争が嫌いだ。


anond:20230731030542


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人生の外部委託

「隠居爺の世迷言」過去記事のひとつで、文学関係記事だが、現代文明論として面白い。
私がこれを読んで思ったのが「外部委託」の問題、ビジネス用語では「アウトソーシング」とかいう奴だ。現代の人間は自分の能力をかなりアウトソーシングしている。分かりやすく言えば「他人任せ」にしているということだ。
私が今書いているこの文章も、言葉の漢字変換をパソコンに任せている。昔なら、自分の脳の中にある語彙で文章を書いたが、今の人間の語彙や知識はネットから適当に探すのである。だから無惨な言葉間違いがネットには溢れている。
歩くことは自動車や電車任せだから、足が弱くなる。歩かない代わりに、ジムに通って高いカネを払って運動したりするが、それはまあ外部委託ではないだけマシか。
メシはコンビニ弁当かハンバーガーで済ます。自分で料理したら台所が汚れ、片づけや掃除か面倒だから、食事は自分では作らないわけだ。
外部委託の最たるものは実は教育だろう。これはほとんどの人が昔から外部委託していた。まあ、家庭教育というのもあったが、それは家事や道徳だけだろう。

で、結論は無い。我々は、自分の人生の重要部分を外部委託しているのではないか、と問いかけるだけである。幸い、物事を考えることだけは本質的には外部委託できない。やっているのはただ「判断を他人任せにする」だけである。


(以下引用)

夢十夜(第六夜) 夏目漱石



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前回夏目漱石のことを取り上げたので、その勢いで「夢十夜」の第六夜について考えてみたい。この第六夜は地味な話であるが、難解なことについては他と同様である。以下あらすじをご紹介するが、短いので「青空文庫」ですぐに読める。

なお、これまで当ブログでは第一夜と第十夜を取り上げて書いたことがある(夢十夜(第一夜) 夏目漱石)(夢十夜(第十夜) 夏目漱石)
 
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第六夜

運慶(平安末~鎌倉初期に活躍した仏師。名匠。)が仁王を彫っているという評判なので行ってみると、鎌倉時代と思われる護国寺の山門で、明治の見物人が大勢集まっている。

運慶は見物人を気にすることなく、ノミと槌で一生懸命に彫っている。自分が「よくあんなに無造作にノミを使って、眉や鼻ができるものだな」と独り言のように言うと、一人の若い男が、「あれはノミで作るんじゃない。木の中に埋まっている眉や鼻を掘り出しているんだ。土の中から石を掘り出すようなものだ。」と言った。

自分は、彫刻とはそんなものかと思い、それならば誰にでもできるはずだと考えた。そして、自分も仁王を彫りたくなり、見物をやめて家に帰った。

道具箱から金槌とノミをとり出し、裏庭にあった薪にするつもりで置いてあった手ごろな大きさの樫の木を選んで、勢いよく彫り始めた。しかし、不幸にして仁王は見当たらなかった。その次のにも、3番目のにも仁王はいなかった。次々と彫ってみたが、どれにも仁王はいなかった。

結局、明治の木には仁王が埋まっていないと理解した。それで、運慶が今日まで生きている理由もほぼ分かった。

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これだけの話であるが、意味を汲み取ろうとすると難しい。おそらく、標準的な解釈などはないように思う。そこで、上の要約を私なりにさらに短くして箇条書きにしてみる。

① 昔の名人が一生懸命彫刻をしていたが、見ている限りにおいては簡単に見える。
② 自分にもできそうだったのでやってみたが、うまく行かなかった。
③ 今の時代でうまくやるのは無理で、それゆえ昔の名人が生き残っているのだろうと思った。

上記①と②であれば、誰しも思い当たることがあるはずだ。 彫刻に限らず、絵でも、スポーツでも、料理でも、ピアノでも、ゲームでも、上手な人がやっているのを見ると、大体は簡単に見える。あんな程度なら、自分もいつでもできるのではないかと思える。

しかし、実際にとりかかってみると、全く歯が立たないということがほとんどである。子供ですらバカにできないことが多く、ある程度熟練した子供というのは恐ろしく上手だったりする。

ところで、第六夜の運慶が彫刻を「掘り出している」という表現を見ると、運慶の作業がかなり定型化されているような印象を受ける。つまり、彫るに当たって一々構図を考えたり、彫りの深さや曲線を吟味したりすることなく、あらかじめ定型化、定式化された方法に従っているように思える。

これは、武道だと分かりやすい。柔道でも空手でも、繰り出す技は決まっている。戦うに当たって、一回一回自分で考え、編み出した技を使っているのではなく、すでに身に付けた型の中から選択してとっさに繰り出している。

型だから柔軟性や融通性に乏しいということでもない。私たちは普通は何の苦労もなく歩いているが、歩く動作も型というか、技というか、術というか、そんなものである。無意識で決まり切った体の動かし方をするが、石があればよけ、溝があればまたぐなど自由自在である。

おそらく、第六夜の運慶は、私たちが歩くがごとく仁王を彫っていたに違いない。加えて、歩く際に石をよけ、溝をまたぐがごとく、木の性質に合わせてノミを当てるのだろう。そのせいで面白いようにスムーズに木が削れ、まるで木の中に隠れていた仁王が出てきたように見えるのではないか。

ということで、①と②は名人の素晴らしさを書いたものということでひとまず納得しておく。残りの③はどのようなことになるだろうか。第六夜に則して言えば、「鎌倉時代の運慶が、生まれ変わって今の時代に再登場することはない」と理解していいかもしれない。

私などは、特に意識はしないものの、昔よりも今の時代は進歩していると漠然と思ってしまう。たしかに、科学技術の進歩により、様々なことができるようになった。遠くに行けるようになった、おいしいものも食べれるようになった、快適な家に住めるようになった、情報もたくさん手に入るようになった。

しかし、疑わなくてはならないことは、いろいろなことができるようになった分、できなくなったこともあるのではないかということである。例えば、江戸時代には車がなかった。人々は、東京から京都に行こうとしたときには歩くしかなかった。そして、江戸時代の人々は、東京から京都に歩いていくのに必要なものを身に付けていた。

歩く旅はつらく危険なこともあっただろうが、今とは違った旅の楽しみもあったに違いない。現在の私たちは簡単に短時間で長距離の旅をすることができるようになった一方で、東京から京都まで歩いて旅をする能力も、体力も、楽しみも失っているのである。

ここまで書いてふと思いついたのは、医者の能力低下である。今の医者は検査で病状を判断する。しかし、昔は検査などなかった。あったのは体温計、血圧計、聴診器、触診くらいのものである。まずはそれで判断を下した。今の検査漬けの医療と較べて精度は低かったはずだが、医者の直感力は何倍も鋭かったはずである。

それで、今回の新型コロナウイルス騒動も理解できる。さして役にも立たないあんなPCR検査をなぜ必要と騒ぐのか全く理解できなかったが、今の医者は検査がなければ何も分からないのである。また、新型コロナウイルスのように未知の病となると、データがないせいで何もできないのである。

私など、専門家でも何でもない者が、なぜ医者よりも新型コロナウイルスのことをよく分かるのか不思議でならなかったが、あるいは、医者はなぜ素人よりも能力が低いのか不思議でならなかったが、検査が発達した分、医者の能力が低くなったと考えていいのではないだろうか。昔の医者なら、新型コロナウイルスに感染した人を見て、その様子を観察して、どうすべきか判断できたが、今の医者はそれができなくなった。

能力が低くなったのは、医者ばかりではなく、政治家も、官僚も、マスコミも、国民もである。おそらく、50年前なら今回の新型コロナウイルスは何の騒ぎにもならなかったはずだ。なぜなら、被害が生じていないからである。50年前の日本人なら、被害のゼロのことで騒ぐことはなかったように思う。


 


ところが、現在は被害がなくても騒ぐ。私は昔の人間なので、その気持ちがちっとも分からないのだが、昔に較べて、ある面では日本人全体の能力が低くなったのではないかと思う。

私たちは、進歩した社会に暮らせば暮らすほど、また、便利で豊かな生活ができればできるほど、自分自身の人間としての能力を失い、理解や判断のできる範囲が狭くなっていると考えた方がいいのかもしれない。

時代を遡れば遡るほど、人間は生きていくのが大変だったはずである。しかし、その分、人々は神経を研ぎ澄まし、感覚を磨いて、できるだけ自分自身の能力を高めようとした。それゆえ、昔の方が今の人間よりも能力が高かったとしても不思議はない。

愚かになった現在の人間をもっと賢くするために、何かうまい解決法はないものだろうか。


 


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悪魔は美しい顔をしている

「櫻井ジャーナル」記事で、前半は面白い視点である。
後半は近現代世界史の本質を簡潔にまとめていて、高校生あたりの常識とするべき必読文章として読ませたい文章だ。まあ、要するに欧米は悪魔国家だということだ。ただし、世界から収奪した富で華麗な近代文明を作り、その影響が世界に及んでいるので痛し痒しである。

(以下引用)

2023.09.03

 
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アコーディオン弾き

壺斎散人氏の翻訳によるエディット・ピアフの「アコーディオン弾き」だが、この歌には丸山明宏(漢字は不確か)の名訳があり、その彼自身による歌も絶唱である。ユーチューブにあるかと思うので一聴をお勧めする。私の知人の無名歌手のこの歌(丸山版の歌詞での歌)も、それに比肩するが、無名歌手なので、視聴は不可能だろう。


(以下引用)


アコーデオン弾き L'accordéoniste


エディット・ピアフのシャンソン曲「アコーデオン弾き」L'accordéoniste(壺齋散人による歌詞の日本語訳)

  場末の女にだって
  可愛い子がいる
  その子にはとても
  好きな男がいた
  仕事が終わると
  町に出かけていって
  人ごみの中に
  夢を探した
  男は大道芸人
  風采の上がらない
  アコーデオン弾き
  ジャヴァの曲が得意

  その子は聞く
  でも踊らない
  ただうっとりと聞きほれる
  目を輝かせ
  リズムを取りながら
  男の指の動きを追う
  心が弾み
  気分は高まり
  セクシーな歌を歌い
  出したくなる
  心もそぞろ
  息は乱れ
  音楽に溶け合ってしまいそう

  場末の女にだって
  悲しい子はいる
  大事な人が
  兵隊に行く
  戦争から戻ったら
  家を借りて
  そこで一緒に
  暮らしてみたい
  どんなにかすてきな
  ことでしょう
  あの人が毎晩
  ジャヴァを弾いてくれたら

  ジャヴァの曲を
  口ずさみながら
  男を見つめ続ける
  目を輝かせ
  リズムを取りながら
  男の指の動きを追う
  心が弾み
  気分は高まり
  セクシーな歌を歌い
  出したくなる
  心もそぞろ
  息は乱れ
  音楽に溶け合ってしまいそう

  場末の女にだって
  さびしい子はいる
  愛想をつかされ
  男に捨てられ
  悲しいことに
  二度と会えない
  夢よさようなら
  終わってしまったのよ
  悲しい思いで
  キャバレーに行けば
  ほかの男にめぐり
  会えるかもしれないけど

  ジャヴァの曲を
  聞きながら
  目を閉じれば
  思い浮かぶ
  あの人のぬくもりが
  体を駆け抜けて
  セクシーな気分に
  なってしまう
  なにもかも
  忘れて踊ろう
  あの歌にあわせて


1940年、前線へ赴くミシェル・エメがピアフに捧げた曲で、彼女の比較的初期のヒット曲になった。

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隠居爺氏の吸血鬼(英米)考察

「隠居爺の世迷言」から記事の後半を転載。前半は吸血鬼そのものについての考察なので割愛する。まあ、このブログは娯楽性が高いから、お勧めする。いくら知的でも、毎度毎度シリアスな内容だと、私には耐えられない。そもそも、そういうのが読める知的水準ではない。
なお、「世迷言」は「よまいごと」と読む。まあ、常識か。
イギリスという国(その中心のイングランド)やその国民は、隣国であり同じ英語圏の国であるアイルランドに対し苛酷な収奪政策を行なってきた、まさに吸血鬼国家である。これは、他国侵略をしても、比較的人道的な扱いをしてきた日本人とは「体質が違う」というか、国民の倫理水準が違うと言えるのではないか。ただ、日本国民の倫理水準は「新自由主義」の浸透でかなり怪しくなっているとは思う。それを英米化と言ってもいい。
キリスト教が道徳の土台になっていた文化圏で、キリスト教信仰が消えたら、無道徳国家群になるのは当然だろう。ただ、上級国民は昔からキリスト教など信じていなかったか、一般国民や異民族や異国民には何をしてもいいという、都合の良い考え方をしていたのだろう。つまり、もともと欧米社会の上級者は吸血鬼だったわけだ。

(以下引用)


 ところでアメリカは、いや、吸血鬼はなぜ血を吸うのだろうか。百科事典レベルでそこを説明しているものはない。そこで「吸血鬼 なぜ血を吸うのか」でググってみたが、どうも答えというか、通説はないらしい。

 私のイメージとしては、欧米は合理的な思考をするように感じるけれど、実は違うのかもしれないな。だって、吸血鬼がなぜ血を吸うのか知らないままで、ドラマを成立させるのだから、かなりの曖昧な思考回路しか持っていないことになる。

 まあ、欧米人というのはそういうものだということかな。なにしろ、魔女狩りなどという、摩訶不思議な残虐行為をしていたのが欧米だからね。あるいは、人を襲って大切なものを奪うという行為は、欧米人にとってあまりにも当たり前すぎて、わざわざその動機を説明する必用がないのかもしれない。

 ずいぶん話が遠回りしてしまったけれど、書きたいことは「アメリカは吸血鬼のような国」というだけのこと。そのために、なぜアメリカは人の血を吸うのか、つまり、なぜ他国を侵略して殺し、犯し、奪い、騙すなどの十戒に背いたことをするのかと考えているのだけれども、どうも吸血鬼のお話からは導き出すことができないようだ。

 そこで視点を変えてみよう。世界の中でも特に残酷な民族が英米人になる。イギリスとアメリカが悪の根源になる。残酷なだけでなく、悪知恵が働くのも特徴。狡いというのか卑怯というのか、多くの民族が後ろめたさを感じるようなことでも、英米人は罪悪感を感じないどころか、逆に嬉々として行おうとする。"鬼畜米英"というのは今もって正しい。優生学を信奉し、劣等民族を根絶やしにするというのであれば、まず滅ぼさなければならないのは英米人になるはずだ。彼らは特に道徳において世界一劣っている。

 英米人がなぜ残酷で卑怯かといえば、それは彼らの住む土地が痩せていて、あるいは気候が悪すぎて、いつも飢えと隣り合わせであったためではないかと私は想像する。生きていくためには、他人を殺し奪うしかないというのが、厳しい土地を与えられた英米人の宿命になる。

 アメリカ自体は豊かな国で、他国を侵略する必用などどこにもない。しかし、アメリカに流れ込んで実権を握っているのはイギリス人の末裔になる。そのイギリスが世界の覇者となったのはもっぱら他国を侵略したからであり、それはイギリスという国があまりにも貧しい国であったためだ。

 どうも、文化・文明が発展するためには、適度の困難が必用になるようだ。ある程度の環境の厳しさと、ある程度の豊かさ。これは一人一人の個人にも当てはまることで、甘やかされすぎてもだめだし、厳しくされすぎてもだめ。適度な愛情と、適度な厳しい訓練が必用になる。

 イギリスが花開いたとき、このバランスがちょうど良かったのだろうねえ。ただし、花開いたのは、殺しと略奪を中心に据えた文明になってしまったけれどね。イギリスは最初から呪われた土地だったのだろう。イギリス人が手本としたのは、おそらく、ヴァイキングかな。現在グローバリストなどと呼ばれている、存在の曖昧な連中もヴァイキングの末裔に違いない。海賊なら当然のこととしてグローバリズムを目指すはずだ。土着の土地を持たない人たちだから。

 いずれにしても、彼らが生き延びるためには、他国の侵略と、殺人と、略奪と、騙しが一番効率的だったわけで、現在のアメリカにまでその伝統が脈々と引き継がれている。それが鬼畜米英の正体と思っていいだろう。

 同じヨーロッパの白人で、ロシアも気候風土が厳しいように思われるけれど、おそらく、ロシアはモンゴル人の血が混じっているために、英米ほど残酷にはならないのではないかと思う。人間は黒人が一番温かい地域に住み、白人が一番寒い地域に住む。そして一番残酷なのが白人で、一番穏やかなのが黒人なのだろう。日本人や中国人のような黄人はその中間になる。

 面白いことに、残酷さで中位の黄人であるモンゴル人には、血液型B型が多い。よって、モンゴル帝国の影響下にあった国々もB型が多くなっている。日本もその一つだが中国やインドはB型の割合が日本よりももっと多くなる。

 SF作家で私の一番好きなのがアイザック・アシモフで、ロシア出身のユダヤ人だけれども、血液型はB型だったはず。あの何ともいえない愛嬌は、血液型B型の影響かもしれない。頭が切れるのはユダヤ人の血だろうか。

 日本人は中国を嫌うが、黄色人種の残酷さというのは、白人の残酷さとはレベルが違う。なにしろ、アメリカの白人と来たら、日本に原爆を2発落として大喜びをするくらいなのだから。そんなことをした凶悪な人類というのはアメリカだけだからね。そこをすっかり忘れて、あるいは、アメリカのプロパガンダに騙されて、日本人には中国を嫌う人が多い。コロナ怖い、ワクチンで助かる、ロシアが悪い、ウクライナかわいそうなどと全く同じで、日本人の愚かさがそのまま表れている。

 極悪非道のアメリカも、最近は分が悪い。英米にやられっ放しだったBRICSをはじめとする世界中の国々が、立ち上がり始めたからだ。極めて自然というか当然というか、当たり前すぎるくらい当たり前のことになる。なにしろ、英米に手当たり次第殺され、奪われてきたのだから、それを防ぐのは正当防衛以外の何ものでもない。

 そこにおいて、日本というのは大変に奇妙な国になる。日本も他の国と同様に英米に侵略され、殺され、奪われてきた国の一つであることは説明するまでもない。しかし、日本には特殊事情があって、自民党という大変に優秀なアメリカの番頭が、アメリカの傀儡であることを国民にさほど悟られずに日本を治めてきた。日本国民を上手に騙しながら、大東亜戦争敗戦後、現在に至るまで、アメリカに日本の富を横流ししてきた。日本の政治体制は、野党も含めてアメリカの植民地政策の一試行形態であり、それがゆえにアメリカに支えられた自民党政権が続いてきた。

 ところがここに来て、自民党が劣化したのか、アメリカ政府が劣化したのか、あるいは、日本という国、アメリカという国が全体として劣化したのか、自民党もアメリカも、日本に対する露骨な植民地政策を隠そうとしなくなってきた。

 大人しい上に愚かである日本人は、アメリカの日本に対する植民地支配が限度を超えるようになっても、それほどの不満を表明しない。しかし、問題は日米関係だけではなく、世界中がアメリカを見限り始めていることで、日本だけが知らんふりをしていれば治まるという問題ではなくなってきている。

 その上、戦況が不利になってきたアメリカは、日本も武器をとって世界と戦え、植民地に選択の自由はないと日本に命令してきた。アメリカの番頭である自民党は、目を白黒させながらも、アメリカの意向に沿おうとして動き始めている。そんな世界の情勢、日本の情勢の中にあって、あなたには吸血鬼の子分となって血を吸い始める覚悟ができているだろうか。私はお断りする。



P.S.


今思いついて、ChatGPTに吸血鬼が血を吸う理由を聞いてみた。


回答は、


1 不老不死を求める欲望


2 生存のためのエネルギー源


3 弱体化の防止


4 儀式や呪術の一環


ということだった。

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咳と日本人

私は軽い喘息の気味(正確には喘息ではなく、咳だが)があって、軽いとは言っても就眠時や体を横にした時(つまり、眠ろうとした時)に出やすいので、非常に厄介なのである。それで、咳止め薬は多目に買っておく習慣だが、買おうとしても薬局で品切れになっていることがよくある。まあ、幸い現在は咳があまり出なくなっているが、いつ再発するか分からない。(咳止め薬を恒常的に使っていると、かえって咳自体も恒常化するように思われる。つまり、咳止め薬は一時的な対症療法でしかなく、体質改善にはならないし、むしろ体質悪化傾向があると思われる。もちろん、個人的経験からの判断にすぎない。)まあ、重篤な症状でない限りは「龍角散」で咳止めをするのが一番安全なのではないか。その龍角散も最近はかなり値上がりしているから、咳は国民病になっているのかもしれない。

(以下引用)

新型コロナ感染増で「学級閉鎖」相次ぐ 薬局では「せき止め薬」の在庫が…注文しても欠品

ライブドアニュースより
https://news.livedoor.com/article/detail/24910408/
子供たちも枠撃っているんでしょうね。
<転載開始>



日テレNEWS

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学校では新学期が始まりましたが、新型コロナウイルスの影響で、各地で学級閉鎖が相次いでいます。都内のクリニックでは、お盆明け以降、子どもが陽性になるケースが急増しているといいます。また、薬局では、せき止めの薬などの在庫がほとんどない状況だといいます。


   ◇◇◇


1日、東京・足立区の綾瀬小学校では、夏休み明けの最初の登校日を迎えました。こちらの学校では、新型コロナへの感染対策を変わらず続けています。



足立区立綾瀬小学校 小坂裕紀校長
「自分がうつさない行動。コロナを経て得た教訓かなと思うので、それを子どもたちにも引き続き教えていきたいなと」


新型コロナが今年5月に「5類」に移行したあとから、感染者数は全国的に増加傾向にあります。新学期に入ったばかりの小中学校などで、子どもたちの感染が増えていて、日本学校保健会によると、全国25の自治体・140クラスで学級閉鎖となっています。(1日午後3時時点)


北海道登別市の小学校もその1つです。


登別市立富岸小学校 小野島晶校長
「いま、閉鎖している学級が2つ」


登別市立富岸小学校では8月18日が始業式でしたが、10日後の8月28日になると、感染する児童が急に増えたといいます。感染対策は続けていましたが、難しさもあるということです。


登別市立富岸小学校 小野島晶校長
「(夏休み明け)北海道では例をみないくらいの猛暑、酷暑。熱中症対策を並行して行わなければならない難しさ」


   ◇◇◇


1日、東京・港区にあるクリニックに、発熱したという3歳の女の子が診察に訪れていました。


クリニックばんびぃに 時田章史院長
「コロナの陽性が判明しまして、まずは5日間のお休みってことで」


お盆明け以降、子どもが陽性になるケースが急増しているといいます。


クリニックばんびぃに 時田章史院長
「発熱したお子さんの3割は、コロナの陽性」


子どもの感染が急増している状況について、医師は“子どものワクチン接種が進んでいないことなどが原因”と指摘します。


クリニックばんびぃに 時田章史院長
「これから新学期が始まって、コロナとか、あるいはインフルエンザも『学級閉鎖』っていうことが例年よりも多く出てくるんじゃないかなと心配」


   ◇◇◇


東京・調布の薬局では、20代くらいの若い世代が処方箋の薬をとりにくる割合が増えているといいます。


くすりのケンコ薬局 加藤健一店長
「いま若い方、学生さんだとか就職して間もない方が多い」


しかし、せき止めの薬や、のどの炎症を抑える薬などの在庫がほとんどないといいます。


くすりのケンコ薬局 加藤健一店長
「1番足りないのが『せき止め』。この1箱しか残ってない」


1日朝も、せき止め薬などを発注しましたが、届いた書類には注文した薬すべてについて「欠品」と書かれていて、1つも入荷しませんでした。薬局は別の薬で対応していくということです。

<転載終了> 

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「ライ麦畑でつかまえて」読後感想

「読後感想」とは言っても、べつに論文を書く気はないので、単に随筆である。「筆に随って」書くだけだ。つまり、文責は筆にあって私には無いwww
まあ、低レベルの冗談はともかく、何十年ぶりの「ライ麦~」再読は面白かった。ただ、主人公への共感が初読の時ほどだったのかどうか、そういう部分は明確に記憶していないので判断は難しい。たぶん、当時は「よく理解できない」ので判断保留にしていたと思う。今でも、判断は困難だ。と言うのは、外界に対する主人公の嫌悪は、感覚的には分かるが、論理的には分からないのである。主人公のホールデンは、「インチキな存在」が大嫌いで、彼から見れば世界はインチキだらけのものだから、世界そのものが嫌いなのだと思える。だが、その「インチキ」とは何か。
本の最後に翻訳者野崎孝の解説があるので、引用してみる。
2か所ほど引用するつもりだが、面白いことに、私が先日「理解できない部分」として無理に解釈した箇所を野崎氏が「解説」文の中でまさに解説しているのである。

しかし「幸運を祈るよ」と歴史のスペンサー先生に言われて、反射的に嫌悪を感じ、自分ならば絶対にそんなことは言わないだろうと思うホールデンの感覚は、たとえば葉書などに「ご多幸を祈る」と書くことに抵抗を感じたことのある日本人ならば、容易に理解することができるはずだ。(夢人注:私はそれが「容易に」理解できなくて悩んだのだがww)祈りもしないのに「祈る」と言い、祈る対象すら持たぬ人間が祈ると書くーーーその無神経、そのインチキさ。更には「幸運を祈る」とは具体的にどういうことか。それを考えもしないで安易に口にする無責任さ。これがもし、相手を罵倒するなり、揶揄するなり、相手にマイナスを与えるような、従って自分もそのため不利になるような場合なら、あるいは許容されるかもしれない。(夢人注:「インチキ」ではないとして許容されるということだろう。)しかし、相手にプラスを与える性質の言葉を、自分の真意以上の効果を孕ませて口にするのはいやらしい。ホールデンの反発の基本的なものはここにある。だから、この感覚、この反発が理解できれば、この小説は一挙に理解できるはずだ。

なるほど、私の「ライ麦~」理解の底の浅さが歴然としている。小説を読む、あるいは理解するのは才能と修練が要るようだ。まあ、野崎氏がホールデンの言う「インチキ」の解説として、私が偶然に取り上げた箇所を選んだだけでも良しとしよう。
もう一か所はこういう文章だ。

ホールデン少年が最も敏感に嗅ぎわけて、最も烈しい嫌悪と侮蔑を示すのは、彼のいわゆる「インチキ」なもの、「いやらしい」ものであることは前に述べたが、既成の価値にしばられず、かといってみずからの価値観も確立されていない彼にとって、これが法律上の罪や倫理的な悪などであろうはずはなく、単なる嘘やごまかしでさえなくて、精神の下劣さ低俗さ、根性のきたなさ、そこから来る糊塗、欺瞞、追従といった性質のものである。
(下線は夢人による)

いや実に見事なものである。下線部は、ホールデンの言う「インチキ」なものを余蘊なく示している。

なお、いい加減な読み方しかできない凡人読者としては、ホールデンは他者に厳しすぎ、自分に甘すぎると思う。客観性というのは、その性質上、自分にも外界にも等しく向けられると思うのだが、ホールデンの「異常な」主観性が、実は外界観察の見事な正確さによって読者には気が付かない仕掛け(ホールデンの目が「客観的」に見える仕掛け)になっている。それは作者サリンジャーによる「インチキ」であるような気が私にはするwww まあ、小説というのはもともとフィクションなのであり、つまりは「砂上の楼閣」であり、悪口を言えば「インチキ」なのである。ただ、インチキの中にも許容できるものと許容できないものがそれぞれにあるだけだ。世上の小説や漫画やアニメや映画の中で不誠実に作られた、不潔な「インチキ」でないものがどれだけあるだろうか。一見真面目そうな作品にこそそういう「インチキ」が多いのではないか。

なお、野崎氏が「インチキ」と訳した原語が何かは分からないが、「phoney(phony)」(偽物、まがい物の意)ではないかと思う。




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それだけで人生は生きるに値します。

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