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古典の花園6


 山伏の腰につけたる法螺貝の、
 ちゃうと落ち、ていと割れ、
 砕けてものを思ふころかな。(「梁塵秘抄」)

「山伏の」から「割れ」までは、「砕けて」に掛かる序詞のようなもので、装飾文です。しかし、その割れる法螺貝のイメージや「ちゃう」「てい」という音のイメージが、この詩の生命でもあるのです。「意味」にしか価値を認めない現代の言語観が、我々の生活をどんなに貧困なものにしたことでしょう。ここでも、ただの比喩でしかない落ちて割れる法螺貝の幻想が、この謡を支えているのです。こうした重層性を持った言語表現が日本の詩歌の特徴であることは、多くの評論家が指摘しています。(それを最初に指摘したのが、先に書いた三島由紀夫だったと私は記憶しています。もっとも、これに近いことを谷崎潤一郎も言っていますが。)言語の一義性を重んじる論理的言語観に対し、言語の意味の揺れや重なりこそ言語の美につながるという、高度な言語観がここにはあります。



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古典の花園5 第一章4

4 
舞へ舞へかたつぶり。
 舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん。踏み破らせてん。
 まことに美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。(「梁塵秘抄」)

 これは日本のマザーグースと言っていいでしょう。美と残酷とナンセンスが融合した、不思議な感覚がここにはあります。蛇足的な説明をすれば、文末の{~てん。}は、完了の「つ」と意志の「む」の結びついたもので、「~してしまおう。」の意味。舞いを舞わせる対象として、かたつむりほど不適当なものは無いと思いますが、このかたつむりは、舞いを舞わないと馬の子や牛の子に蹴られ、踏み割られることになっています。彼の運命は決まったようなものですが、それでも、奇跡的に、美しく舞ったなら、華の園で遊ばせてくれるというのですから、おそらく彼は必死で舞うことでしょう。詩歌の不思議なところは、ただの仮定として言われたものも、そのイメージは生じるところで、三島由紀夫が「見渡せば花も紅葉もなかりけり。浦の苫屋の秋の夕暮れ」という藤原定家の歌について述べたように、定家のこの歌には、現実には存在しない花や紅葉のイメージが幻想の背景となっています。それと同様に、このかたつむりの謡は、美しく舞うかたつむりのイメージを、読む人、聞く人の心に描き出すでしょう。 

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古典の花園4 第一章3


 仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあはれなる。
 人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ。(「梁塵秘抄」)

 不幸な民衆の精神的な救いは仏への帰依でした。私は神も仏も信じない人間ですが、かつての庶民の信仰のいじらしさには胸が打たれる思いがします。仏がもし存在するなら、この謡のようなひそやかな存在の仕方なのかもしれません。「あはれ」とは、しみじみと心打たれる感じを言います。必ずしも「哀れ」という悲哀感だけではなく、「しみじみと喜ばしい」ことをも言います。

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古典の花園3 第一章2


人買い船は沖を漕ぐ。
とても売らるる身を、ただ静かに漕げよ船頭さん。(「閑吟集」)

「とても」とは、「どうせ」の意味。鴎外の『山椒大夫』の中の、主人公たちが人買いに攫われる場面で、この人買い船が出ます。私が子供の頃見た東映アニメの『安寿と厨子王』でも印象的な場面でした。自分の運命を受け入れるしかなかった庶民の悲しみとあきらめが、この短い一節から伝わってきます。

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古典の花園2 第一章


第一章 歌と謡


 遊びをせむとや生まれけむ。戯れせむとや生まれけむ。
 遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそゆるがるれ。  (「梁塵秘抄」)

「梁塵秘抄」は後白河法皇が編纂した歌謡集で、言ってみれば当時のポップスの歌詞を集めたようなものです。和歌のように高級なものとはされていない俗謡を集めたものですが、その中には、一度聞くといつまでも忘れがたい作品がいくつかあります。この「遊びをせむとや」はその代表でしょう。取りあえず、和歌以外の俗謡を「謡」と呼ぶことにします。この「遊びをせむとや」の謡がなぜ人々の心を打つのか、という分析をするのも野暮ですが、おそらく作者は遊ぶ子供の中に、過去の自分の、生きることを純粋に楽しんでいた至福の時間を見出したのでしょう。確かに、様々な大人の仕事にも意義はありますが、そのほとんどは食うための仕事であって、生きる目的ではありません。おそらく大人にとっても、遊ぶことだけが、生きることの唯一の意義なのです。それが、子供を見ているとわかるのです。「子供は大人の親である」、という有名な言葉もありますが、子供の中には大人のすべてがあると言えるでしょう。
訳は不要かも知れませんが、一応書いておきましょう。もとの古文には句読点はありませんが、現代人には句読点が無いと読みにくいので、私が句読点を補足しました。訳では二つの「けむ」の後の読点の部分も句点に変えてあります。文法的説明を加えるなら、「けむ」は過去推量(~タノダロウ)の助動詞、末尾の「るれ」は自発(感情などが自然と湧き起こること)を表す助動詞「る」が係助詞「こそ」のために已然形になったものです。ただし、文法的説明がうるさく思うなら、今後は読み飛ばしてください。

(訳)遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。戯れをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。無心に遊んでいる子供の声を聞くと我が身までも自然と動き出してくるようだ。

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古典の花園1

古典の花園

最初に

 古文の世界というと古臭くて、自分にはまったく興味が持てない世界だと思っている人が多いでしょう。目の前には新鮮な現実の世界や、新しい文学や芸術があるのに、なぜ黴臭い古典などを読む必要があるのか、と。いやいや、必要はまったくありません。ただ、古典を敬遠するのは、たとえば明治時代の人間がチーズを「こんな石鹸のようなものを人間が食えるか」と思っていたことや、高級なワインだろうがブランデーだろうが、酒の飲めない人には無価値に思えるのと同じだというだけの話です。絵でも音楽でも、自分の苦手なジャンルというのが誰でもあるでしょう。クラシック音楽を聞くと眠くなる、とか。しかし、それが理解でき味わえるようになると、それまでそのジャンルを毛嫌いしていた過去の時間を後悔するものです。古典の世界は、芳醇なワインのようなものだと言えるでしょう。それを味わえることは、人生の喜びを増やすのです。
 しかし、学校で習った古典は、少しも面白くなかった、と言う人もいるでしょう。学校が古典嫌いを作っているとすれば、不幸なことです。そういう人々のために、私は「古典文学ずれしていない人のための古典入門」としてこの文章を書いてみようと思いました。多くの古典入門は、ハイレベルすぎるのです。またお酒の比喩になりますが、それは子供にビールを飲ませて、「どうだ、美味いだろう」と言うようなものです。ビールの味は子供にはわかりません。しかし、赤玉ポートワインなら、子供でも飲めるでしょう。それでお酒好きの子供を作ろう、というわけではありませんが、古典に酔えるという幸福を多くの人が知ることはいいことでしょう。人々の心に潤いが出てくれば、この効率至上主義でぎすぎすした合理主義の世の中も、少しは住み良くなるかもしれません。
 そこで、この文章は、古典詩歌の中でもあまり古典臭くないものから私の好きな作品を選び出してみました。その中の狂歌や川柳が詩歌かと言われれば、迷うところもありますが、古典の中にはこういう取っ付き易く親しみやすい作品もあるのか、と初めて知る人もいるでしょう。何よりも、狂歌や川柳には、人間への愛情に満ちた作品が多いのです。それに、古典の和歌や俳句の中には、世間的にはあまり知られていない素晴らしい作品が沢山あります。そういう作品に触れた人の中から、古典への興味を深める人が少しでも出てくれれば、幸いです。
 実は、この文章中に引用する作品のほとんどは、旺文社の古語辞典に載っている作品です。評釈や解説は私のものですが、訳の一部は同辞典によっています。別に旺文社の辞典に限らず、どの古語辞典にも古典詩歌は沢山載っています。辞典の中から作品を探して味わうという、古語辞典にはそういう楽しみもあるのです。
               
  2006年10月17日 作者記

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超訳「老子」8

8 上善は水のごとし。
  水は万物に利益を与えながら、争わない。
  衆人の憎み嫌う低地に居る。
  だから道に近い。
  居るならば地が良いし、心は淵のように深いのが良い。
  他人と共に居るなら仁であるのが良いし、言葉は信であるのが良い。
  正しさは治まるのが良いし、事はできるのが良い。
  動くには適切な時が良い。
  そもそも、ただ争わなければ、咎めもない。

[解説]
 最初の一文は有名である。いい言葉だから有名になったのである。しかし、どういう意味で上善が水に近いのかを理解している人は多くはない。要するに、「周囲に利益を与える」「他人と争わない」「謙虚である」という三点が水にたとえた理由だ。
 この三つの美徳は、人生の方針としても大事だろう。「周囲に利益を与える」というのは、その人の客観的存在意義である。「他人と争わない」と「謙虚である」というのは、生きていくための賢明な戦略である。たしかにこの三つの方針を実行できれば、良い生き方だろう。だが、問題は、それで本人が満足できるのか、というところだ。我々は自分の欲望の達成のために生きている。そのためには他人とも争うだろうし、自己主張もしなければならないだろう。他人に害を与えることもあるだろう。老子的な生き方は、西欧的な考えからすれば、退嬰的、消極的な生き方であり、生きるという名に値しないと考えられるのではないだろうか。とりあえず、人々の目標としてこうした生き方を勧めることは、現代の欲望過多の社会では意義があるかもしれないと言っておこう。
 後半は、はっきり言って、平凡である。居るならば地がいいとは、少し前の「低地」つまり、低い地位、目立たないポジションのことだろう。「仁」も「信」も結局は肯定しているようだ。とすれば、老子が嫌った(彼は儒教の徳目を「大道すたれて仁義あり」と否定している。)儒教と何も変わらないのであり、『老子』とは、ただ儒教の隆盛に焼餅を焼いた偏屈な哲学者のぼやき以外のものではない、と言えそうだ。老子好きな連中にしても、老子の思想がどれだけわかっているのか、怪しいものである。

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HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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