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古典の花園9

2 
「一生のお願ひ」を母は聞き飽きる。 (「柳多留」作者不詳)

これは1の川柳と対をなす川柳です。息子は「一生のお願いだ」と頭を下げますが、母親にしてみれば、それは何度も聞いた言葉なのです。しかし、それをまた許してしまうのも母親ならではです。そして、1の川柳へと無限のサイクルが続くわけです。こうした甘い母親も現代では珍しくなった気がします。母親が子供を甘やかさなくなると、子供には逃げ場が無くなるでしょう。もちろん、甘やかすとは言っても、それは「世間様に済まないことをしてはいけない」という歯止めがあっての甘やかしです。とかく他人に対して厳しい現代社会の中で、せめて家庭だけでも安心して甘えられる場であってほしいものです。


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古典の花園7 第二章1


第二章 家族愛

1 
母親はもったいないが騙しよい。 (「柳多留」作者不詳)

 私がもっとも好きな川柳です。「もったいないが」という中七にこめられた愛情が、この川柳の笑いを温かなものにしています。かつての笑いには、どこかこのような温かさがあったのですが、現代の笑いはとげとげしく、他者を傷つける笑いがほとんどです。たとえば、教室で、先生が一人の子供のちょっとした癖や欠点を槍玉にあげて冗談を言う。するとクラス全体がどっと笑い、ネタにされた子供も笑う。こうした風景は良く見ます。だが、その時、笑われた人間の心がどれだけ血を流していることでしょうか。いや、こうした現代批判はやめましょう。ただ昔ののどかな笑いの中に溢れる人間愛を感じれば良いのです。
 この川柳には意味の解説は不要でしょう。ドラ息子が金に困って母親を騙し、金を手に入れることは、よくあるものです。しかし、騙しながらも「もったいないが」と思う、その部分に、なんとも言えない愛情と優しさがあるのです。

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古典の花園6


 山伏の腰につけたる法螺貝の、
 ちゃうと落ち、ていと割れ、
 砕けてものを思ふころかな。(「梁塵秘抄」)

「山伏の」から「割れ」までは、「砕けて」に掛かる序詞のようなもので、装飾文です。しかし、その割れる法螺貝のイメージや「ちゃう」「てい」という音のイメージが、この詩の生命でもあるのです。「意味」にしか価値を認めない現代の言語観が、我々の生活をどんなに貧困なものにしたことでしょう。ここでも、ただの比喩でしかない落ちて割れる法螺貝の幻想が、この謡を支えているのです。こうした重層性を持った言語表現が日本の詩歌の特徴であることは、多くの評論家が指摘しています。(それを最初に指摘したのが、先に書いた三島由紀夫だったと私は記憶しています。もっとも、これに近いことを谷崎潤一郎も言っていますが。)言語の一義性を重んじる論理的言語観に対し、言語の意味の揺れや重なりこそ言語の美につながるという、高度な言語観がここにはあります。



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古典の花園5 第一章4

4 
舞へ舞へかたつぶり。
 舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん。踏み破らせてん。
 まことに美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。(「梁塵秘抄」)

 これは日本のマザーグースと言っていいでしょう。美と残酷とナンセンスが融合した、不思議な感覚がここにはあります。蛇足的な説明をすれば、文末の{~てん。}は、完了の「つ」と意志の「む」の結びついたもので、「~してしまおう。」の意味。舞いを舞わせる対象として、かたつむりほど不適当なものは無いと思いますが、このかたつむりは、舞いを舞わないと馬の子や牛の子に蹴られ、踏み割られることになっています。彼の運命は決まったようなものですが、それでも、奇跡的に、美しく舞ったなら、華の園で遊ばせてくれるというのですから、おそらく彼は必死で舞うことでしょう。詩歌の不思議なところは、ただの仮定として言われたものも、そのイメージは生じるところで、三島由紀夫が「見渡せば花も紅葉もなかりけり。浦の苫屋の秋の夕暮れ」という藤原定家の歌について述べたように、定家のこの歌には、現実には存在しない花や紅葉のイメージが幻想の背景となっています。それと同様に、このかたつむりの謡は、美しく舞うかたつむりのイメージを、読む人、聞く人の心に描き出すでしょう。 

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古典の花園4 第一章3


 仏は常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあはれなる。
 人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ。(「梁塵秘抄」)

 不幸な民衆の精神的な救いは仏への帰依でした。私は神も仏も信じない人間ですが、かつての庶民の信仰のいじらしさには胸が打たれる思いがします。仏がもし存在するなら、この謡のようなひそやかな存在の仕方なのかもしれません。「あはれ」とは、しみじみと心打たれる感じを言います。必ずしも「哀れ」という悲哀感だけではなく、「しみじみと喜ばしい」ことをも言います。

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古典の花園3 第一章2


人買い船は沖を漕ぐ。
とても売らるる身を、ただ静かに漕げよ船頭さん。(「閑吟集」)

「とても」とは、「どうせ」の意味。鴎外の『山椒大夫』の中の、主人公たちが人買いに攫われる場面で、この人買い船が出ます。私が子供の頃見た東映アニメの『安寿と厨子王』でも印象的な場面でした。自分の運命を受け入れるしかなかった庶民の悲しみとあきらめが、この短い一節から伝わってきます。

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古典の花園2 第一章


第一章 歌と謡


 遊びをせむとや生まれけむ。戯れせむとや生まれけむ。
 遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそゆるがるれ。  (「梁塵秘抄」)

「梁塵秘抄」は後白河法皇が編纂した歌謡集で、言ってみれば当時のポップスの歌詞を集めたようなものです。和歌のように高級なものとはされていない俗謡を集めたものですが、その中には、一度聞くといつまでも忘れがたい作品がいくつかあります。この「遊びをせむとや」はその代表でしょう。取りあえず、和歌以外の俗謡を「謡」と呼ぶことにします。この「遊びをせむとや」の謡がなぜ人々の心を打つのか、という分析をするのも野暮ですが、おそらく作者は遊ぶ子供の中に、過去の自分の、生きることを純粋に楽しんでいた至福の時間を見出したのでしょう。確かに、様々な大人の仕事にも意義はありますが、そのほとんどは食うための仕事であって、生きる目的ではありません。おそらく大人にとっても、遊ぶことだけが、生きることの唯一の意義なのです。それが、子供を見ているとわかるのです。「子供は大人の親である」、という有名な言葉もありますが、子供の中には大人のすべてがあると言えるでしょう。
訳は不要かも知れませんが、一応書いておきましょう。もとの古文には句読点はありませんが、現代人には句読点が無いと読みにくいので、私が句読点を補足しました。訳では二つの「けむ」の後の読点の部分も句点に変えてあります。文法的説明を加えるなら、「けむ」は過去推量(~タノダロウ)の助動詞、末尾の「るれ」は自発(感情などが自然と湧き起こること)を表す助動詞「る」が係助詞「こそ」のために已然形になったものです。ただし、文法的説明がうるさく思うなら、今後は読み飛ばしてください。

(訳)遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。戯れをしようとしてこの世に生まれてきたのだろうか。無心に遊んでいる子供の声を聞くと我が身までも自然と動き出してくるようだ。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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