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古典の花園20 第三章2

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 うつそみの人にある我や、
 明日よりは二上山(ふたかみやま)をいろせと吾が見む。 (「万葉集」大来皇女)

 「うつそみ」は「うつせみ」と同じで、「現実、現世」の意味ですが、同時に「空蝉」つまり蝉の抜け殻のようなはかないイメージを持った言葉です。愛する弟を失った私は、今日からは、弟が処刑されたあの二上山を弟と思って眺めよう、という意味の裏に、自分がもはや蝉の抜け殻のような存在である、という思いがあるように思われます。「いろせ」は兄弟の意味で、弟の大津皇子のことです。

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古典の花園19 第三章1


第三章  大伯皇女と大津皇子(注:以下の文の大伯皇女=大来皇女)

 古来の歌の中で、死んだ人を悼んで詠む挽歌は大きなジャンルの一つとなっています。その中でも、大伯皇女(おほくのひめみこ)が、弟大津皇子のために詠んだ歌は、その痛切さにおいて、他の挽歌には無いものがあるように思われます。これらの挽歌における大伯皇女の感情は、はほとんど姉弟の垣根を越えた愛情のように私には読みとれるのですが、それは深読みなのでしょうか。大伯皇女は伊勢の斎宮であり、男と遇う(古文的な意味でです)ことは許されない身ですから、それだけにいっそう愛する弟の存在が、かけがえのないものだったように思われます。まず、弟、大津皇子が死の直前に詠んだ歌から。

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ももづたふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を、
 今日のみ見てや、雲隠りなむ。 (「万葉集」大津皇子)

 末尾の「なむ」は、完了(強意)の「ぬ」と推量の「む」です。「私は死んでしまうのだろう」という意味になります。磐余の池の実物は、私は見たことは無いのですが、いかにも死を思わせる語感を持った地名です。鴨は渡り鳥ですから、それ自体、別れを連想させるものですが、その別れがこの場合には永遠の別れであるわけです。「ももづたふ」は「い」という音にかかる枕詞です。歌意は単純で、「磐余の池に鳴く鴨を今日を限りと見て、私はきっと死ぬのだなあ」ということです。大津皇子は謀反の嫌疑で、24歳で処刑されました。

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「微細なものの巨匠」

     微細なものの巨匠

 「微細なものの巨匠」とはワグナーについての評言だが、ここで取り上げるのはワグナーではなく、俵万智である。
 彼女の「愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う」という短歌は、何となくわかる気がするが、その気分を説明するのは難しい。これを分析してみよう。
 この歌の鍵になるのは、「言ってくれるじゃないの」という言葉の持つ含みであろう。この「じゃないの」という蓮っ葉な言い方は何を意味しているのか。
「言ってくれた」とは「良くぞ言ってくれた」という肯定のはずだが、それを単純な肯定に終わらせず「じゃないの」と斜めに構えたところにこの歌の個性がある。
 もしもこの歌が最初の愛人云々をただ肯定するだけの歌だったら、おそらく誰の共感も呼ばない歌になっていただろう。俵万智という歌人の独自性は、彼女が世間の若い女性たちと共通する感覚を持ち、しかもその微細なニュアンスを見事に歌に表現する能力があったところである。この愛人でいいのとうたう歌手に対して「言ってくれるじゃないの」という反応を返すのは、若い女性のほとんど全体なのである。この、相手を高みから見下ろす意地の悪い物言いは、テレビを見ている人間に共通する姿勢なのだ。この「言ってくれるじゃないの」という言葉は、相手を見下す姿勢以外の何ものでもない。相手の発言を「良く言った」と認めながら、しかし、それを素直に肯定しないのは、言った相手が自分より下だと見ているからだ。これはテレビを見ているあらゆる大衆が、芸能人に対して抱いている気持ちなのである。我々は彼ら芸能人から娯楽を与えて貰いながら、彼ら全体にはけっして好意は持っていない。彼らの無軌道ぶりやスキャンダル、たいした才能もないくせに送っている贅沢な生活に嫉妬し、反感を持っているのである。しかも、言った相手が女性歌手で、それを見ているのが若い女性なら、意地悪な気持ちを持たないはずはない。女王様が、テレビの中の自分の下僕である芸能人に対し「あんた、なかなか面白い事言ったわねえ、ほめてあげるわよ」と言っているわけだ。そういう意地悪な気分が、俵万智のこの短い歌の中で見事に定着されているのである。私が彼女を微細なものの巨匠と呼んだ理由がこれでおわかりだろう。

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「記憶にございません」

    記憶にございません


ロッキード事件で、小佐野賢治被告が、自分にとって都合の悪い事実について、「記憶にございません」と言ったのは、当時の流行語にもなったのだが、この発言は彼の鋭い言語感覚を示していると私は思う。そして、多くの人はそのことに気づいていない。気づいてはいないが、何かを感じた。だから、流行語にもなったのである。では、この言葉のどこが秀逸なのか。
分析のため、対比的にとらえてみよう。こうした場合に通常出てくる言葉は、「覚えておりません」だ。これをAとし、「記憶にございません」をBとしよう。
AとBの相違は、Aは「覚える」という行為に関わる動詞を用い、Bは「ある」という存在に関わる動詞を用いている点だ。
「覚える」は自分の意志、及び能力に関わる言葉であり、「ある」はそれらと無関係に何かが存在することを表す言葉である。
従って、仮に小佐野被告が「覚えておりません」と言ったならば、彼はその事実について覚える能力もしくは意志を有しなかったことになり、自らの公敵に対して非難の余地を与えることになる。
しかし、Bの場合はその事実の存在そのものが不確かなものとなり、彼の責任を問うことはできなくなる。記憶に無いもの、つまり存在しないと考えられるものについて、責任を問うことはできないからである。
簡潔に言えば、Aは「事実はあったが覚えていない」であり、Bは「事実そのものがあったとも無かったとも断言できない」と言っているのと同様なのである。
これで、私が小佐野被告の言語感覚が凄いと言った理由がわかるだろう。これにくらべれば最近の政治家の言語感覚は幼児並である。
こうした言語感覚は、すべて責任逃れを必要とする立場、つまり、官僚、政治家、犯罪者(この三つを並べるのは失礼ではあるが)にとって是非とも必要なものであると思われる。そこで、これからそういう立場を目指そうとする人々は、私のこの一文を参考にしていただきたいと思うのである。

追記。故大平正芳総理は言語不明瞭なことで知られたが、その理由はまさしく、言質をとられないためであった。しかし、彼がなかなか総理になれなかった理由もまたそこにあったと思われるから、政治家として一番いいのは、これもある政治家について言われた言葉だが、「言語明瞭・意味不明」であろう。もっとも、最近では、ワンフレーズポリティクスという手法も登場し、これも便利であることが知られるようになった。政治の世界も詐欺の世界も進化するものではある。

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ブログ内容案内と名前の由来

名前の由来は、中国の詩人の中で白楽天が一番好きだから。

ブログ内容は、これまで出すあてもなく書き貯めた文章をランダムに出していくことになるかと思います。文学芸術関係の随想が多くなるかと……。様子を見て、完全な創作小説をアップすることもあるでしょう。もっとも、ブログという舞台が創作の発表に向いているかどうかという懸念はありますが、携帯小説でさえあるのですから、ブログでの創作なら、いわばかつての新聞小説のような感じで読んでもらえるのではないかと思います。内容は、健全な少年小説がほとんどです。

「メモ日記」は何年も前からのメモ的随想です。ですから、現在の日付とメモ日記の内容はほとんど関連性はありません。もともと、時流とは無関係に生きている人間なので。

そんな人間の書いた文章で良ければ、どうか読んでください。

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メモ日記5

#5   消えた本

本というものは買っておくべきものである。そして、できるだけ捨てないほうがいい。というのは、出版物には寿命があるからである。子供のころ読んで面白かった本をもう一度読んでみたいと思っても、既に書店の棚には無い、というのはよくある事である。
おそらく今の人々はドーデーなど読まないだろうし、彼の「タルタラン・ド・タラスコン」などというユーモア小説の存在も知らないだろう。べつにそれが名作だというわけではない。「最後の授業」などで一時期有名だった彼の人気に便乗して訳されただけの二流三流の作品だ。しかし、昔読んだ本には、その頃へのノスタルジーがまといついており、他のどんな本にも得られない「自分だけの」感情の記憶があるのである。そしてそれは、あるいはどんな莫大な金を使っても二度と手に入れられないものかもしれないのだ。プルーストのように、自分の後半生を自分の前半生の記憶を思い出し、(フィクションの形でだが)記録することに費やした人間もいる。
たとえ新しい翻訳が出ていても、昔の翻訳でなければいけないのである。「赤毛のアン」は多くの人が訳しているが、村岡花子の訳以外は考えられないという人は多いはずだ。「白鯨」は今では阿部知二訳しか書店には見あたらないが、私は、自分が子供の頃読んだ、名前の知れない翻訳者の訳のほうが優れていたと思っている。それが錯覚でも、私にとってはそうなのだ。だから、本はけっして捨ててはいけないのである。

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メモ日記4

#4   読み癖

人それぞれに本の読み癖というものはあって、たとえば推理小説を読むのでも、犯人が誰なのか考えながら読む人はけっこう多いようだ。いやそちらのほうがむしろ普通かもしれない。で、私がいやなのは、自分は推理小説の犯人がたいてい途中でわかってしまう、滅多にそれが外れることはないと自慢する人間が時々いることだ。
私は、自慢ではないが、推理小説を読んで犯人が当たったためしがないし、そもそも犯人を当てようとか、トリックを解明しようなどと考えながら読んだことはほとんど無い。自分の頭脳ではそんなことは不可能だと最初からあきらめているのである。だからこそ、先に書いたような人間の自慢話がしゃくにさわるのだが、それがしゃくにさわるのは、そういう人間の自慢話が本当か嘘か証明のしようがないことだ。証明のしようのない事を自慢されても、聞く方は「ああ、そうですか」と拝聴するしかないのだが、これは相当に不愉快なものである。まるで、推理小説の犯人がわかったためしの無いこちらが馬鹿か白痴のような気分になる。まあ、本当は、そういう人間の言葉など私は信じてはいないのだが。
そもそも、映画を見たり、小説を読んだりするのに、先の展開を考えながら見たり読んだりする人間の気持ちが私には分からない。それでは映画や本が、ただの当て物になってしまうではないか。私はむしろ、思いがけない意外な展開に驚きたい。そのためには、先の予測などしないにこしたことはないのである。

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プロフィール

HN:
酔生夢人
性別:
男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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