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地球温暖化万歳

「地球温暖化」問題については、誰も肝心なことを言わない。それは「地球が温暖化して何がまずいの」ということだ。この前ロシアのプーチン大統領がそう言ったら、温暖化抑止論者の科学者がわけのわからない説明で猛反論をしたらしいが、確かに地球が温暖化したら、寒冷地の人々にとってはむしろ有益ではないか。
エネルギーは熱とほとんど同義である。熱によってほとんどのエネルギーは生まれると言ってよい。その熱は太陽からもたらされる。
我々の生命そのものを保証するのも熱である。
ならば、地球温暖化は人類にとって福音ではないか。
はっきり言って、どこかの小さな島が温暖化で何百年後に水没するとかしないとかいう問題より、今この地上で寒さのために凍死しそうになっている無数の人々を考えるべきである。
我々のあらゆる経済活動も、本当は熱エネルギーを生み出すことに費やされているのである。
もう一度言おう。地球温暖化は人類にとって福音である。

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自給自足農業のガイドブック

「がま仙人のブログ」より備忘のため転載

(以下引用)


2007年11月04日22:55 カテゴリ晴耕雨読(121-130)
[晴耕雨読-0121] 農家が教える自給農業のはじめ方―自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工農家が教える自給農業のはじめ方―自然卵・イネ・ムギ・野菜・果樹・農産加工
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中島 正
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すばらしい!

たった100ページなのに、自給農業に関するノウハウがてんこ盛りである。著者は農業60年の経験をもつ超ベテランであるが、なにがすばらしいかというと、自分が食べられる程度の自給農をするうえで機械も農薬も化学肥料も必要なしと断言している点である。そしてなるべく手をかけない農法を勧める。福岡正信の自然農法に近いものがあるが、さすがに熟練の農家であるだけにきめこまかい技術論がある。かといって、実現不可能なものではない。たとえば、虫の駆除などは自分の手を使い丁寧にとり、鶏の餌にするという、なんともスローな方法を提示する。これは利益主導型のプロの農家ではできないことだが、自給であればもちろんアリなわけで、循環型農業が可能なのである。基本的に耕すこともせず、手をかけず、小力栽培で自給農をすれば楽しく生きることができるという哲学がある。生き方そのものである。

しかも、米といえば水田で作る水穂が一般的であり、それ以外にないと思えるが、なんと著者は陸稲を勧めている。驚きである。陸稲なら水田のように手間はかからず放置に近い状態でもある程度収穫できる。陸稲なら急勾配の土手でも栽培可能である。彼は、陸稲と小麦の輪作によって主食を得るという提案をする。玄米とコムギをまぜて食べるわけだ。普通ならありえないことかもしれないが、著者の言い分を聞くと、とても納得できる。

この素朴な食生活は6000年の平和を続けた縄文の再現を味わい、やがてくるべき石油欠乏の一大事にも対処しうる唯一の生き残り方策となる。さらには後代の人々が、地球温暖化による海水上昇に追われて山間地へ避難しなければならないとき、辛うじて命をつなぐ方法の見本を示すことにもなるのである。

水田から米を得るためにはそれなりのコストがかかる。素人には無理と思ったほうがよい。それなら陸稲でという方法も十分アリだと思う。自給農に慣れてくれば水田で水穂をつくることに挑戦すればいいだろう。ともかくまずは自分で作って食べるということを楽しむということが大切ではないだろうか。

とりあえず、この本一冊あれば自給農業は始められるだろう。
自給自足の田舎ぐらしが夢という人には断然お勧めのガイドブックである
.

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自由貿易など不要。すべては自給自足できる。

「がま仙人のブログ」書評欄から、備忘のために転載。
日本が今後生き残り、幸せな国になるためのヒントがここにある。私は沖縄に住んでいるが、かつて宮古島をそういう自給自足の島にするプロジェクトを考えたことがある。現在でもそれは100%可能だと思っているが、問題はそれをやる為政者がいないということだ。



(以下引用)




2007年08月19日19:48 カテゴリ晴耕雨読(111-120)
[晴耕雨読-0116] 200万都市が有機野菜で自給できるわけ / 吉田太郎200万都市が有機野菜で自給できるわけ―都市農業大国キューバ・リポート
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吉田 太郎
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 いつこの本の紹介をしようかと思っていたが、今日マイミクさんのところでこの著者のページを紹介したのでよい機会だからこの本について書く。

 とにかく必読書。農業や代替エネルギーに興味があってもなくても一度は読んでいただきたい。カリブの小さな国キューバがとてつもなく示唆に富んだ国であるかを思い知る。自給自足農業先進国であり環境先進国であり代替エネルギーと代替医療を実社会に生かしている国である。

 ソ連崩壊が起こったときキューバは壊滅的なダメージを受ける。当時は食料の57%を輸入に頼っていたのだ。いまの日本とたいして変わらなかった。農業はサトウキビに集中していた。そのため野菜を育てるなどという習慣もなかった。穀物類などはほとんどが輸入。そして、機械化農業が主体だったので当然石油も多く使っていた。そんな国がソ連崩壊によって食料と石油の補給路が断たれてしまう。また、当然ながら近隣国はキューバに対して経済封鎖を強めていたため事実上キューバは孤立してしまう。かつて日本が経験したABCD包囲網よりきつかったはずである。
 放置すれば当然餓死者がでてしまう。当時のカストロはこの超絶対絶命状態を乗り切るため「食料確保」を最優先として政治を動かした。で、やったことは首都ハバナ全体を有機菜園にしたのだ。国有の空き地を人々に解放しコミュニティをつくり自主的に運営させた。アスファルトしかないようなビルの谷間では、「オルガノポニコ」と呼ばれる人工の畑を有機菜園にした。
 こうして都市=農園でとれた野菜は都市内部で消費される地産地消が実現する。野菜を遠くまで運ぶ必要はない。輸送のために膨大な石油は必要としないのである。都市と農業を一体化することで超効率化された生産=消費体制ができあがった。そして数年後200万都市は食料の自給自足を実現させるのである。

 この本にはそのプロセスがこと細かくまとめられている。本当に驚くばかりの事実がそこにある。
 
 関心するのはカストロが目指したのは食料の自給自足だけではなかった。エネルギーと医療も想定の内であった。石油から太陽光・風力・バイオマス・水力などの自然エナルギーに国策として切り替えている。山間部などでは太陽光や風力で電気を作り実際に学校などを運営しているということである。世界がもたもたしているうちにキューバではとっくにそれらを使いこなしているのである。

 それと、代替医療。経済封鎖によって薬の供給が絶たれたため、キューバでは急速に代替医療が必要になった。驚くことに彼らは東洋医学を取り入れたのである。鍼灸などの専門化を育て、薬による麻酔に変わって鍼麻酔を取り入れた。さらにそれだけではなくハーブやアロマセラピーも同時に取り入れたのである。これによってキューバの代替医療の技術がおそろしく向上した。皮肉なものである日本ではあまり重要視されない東洋医学がカリブの海の国で主要な医療技術の一つになったのである。

 ところで北朝鮮はキューバと同じくソ連崩壊のダメージと経済封鎖を経験した。だが北朝鮮は多くの餓死者を出した。この違いは天と地ほどの差がある。

 とりあえずこの本には、世界が今後経験する未曾有のエネルギー危機と食料危機と環境危機、それを乗り越える一つの道が浮き彫りにされている。

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断食と生命力の向上

飢餓状態は生命力を向上させるということも私の健康理論の一つだが、例の医学生のブログからそれに関する文章を転載しておく。ただし、朝食抜きによるストレスという悪影響も考慮する必要はある。我々が食事を摂るのは、実はそれによる快楽と満足が大きな要素だからである。逆に、過食の原因も食事の快感が克服しがたいからなのである。

(以下引用)


                    Home Medicine Method Essay Books 朝食の是非
 一日3食きちんと食べましょう。特に朝食は一日の活動源を得るためにしっかり摂りましょう。朝食を摂ることで体温を上昇させ、血糖値を上げ、脳の働きを高めます。また朝食は排便を促します。早めに起きて、十分な朝食の時間を取りましょう・・・

 学校教育でも一般家庭でもこういった朝食の重要性を謳った話をよく聞く。おそらく厚生労働省でもこうしたことを推奨しているのであろう。もちろん、これだけ推奨するぐらいだから、それを裏付けるデータも存在するのであろう。例えば、朝食を毎日きちんと食べている中学生と朝食を食べてこない中学生の勉強の成績に有意な差が出たとか、医科大学の学生に必ず朝食を摂ってくるように指導したら国家試験の合格率が上がったとか。すると、子供の教育に熱心な家庭では、なおさら朝食をきちんと取るように子供を指導するようになる。

 当たり前のことであるが、あるデータの正当性を評価するためには、その前提条件が揃えられているかを確認しなければならない。普通は、数学の問題を解くときのように変数が幾つもあったら、まずはひとつの変数だけに着目して、残りは固定して定数として扱う。この場合、朝食を毎日きちんと食べる、ときどき食べる、まったく食べないといった朝食摂取に関する変数に着目するならば、その他の条件はまったく同一にしなければ出てきた結果に対しての正当な評価はできない。ところが、上のような朝食の重要性を示唆しているはずのデータは、どうもこれを満たしていないような気がする。朝食をきちんと食べさせている家庭は、おそらくその他の事柄に関しても子供のためになりそうなことを行っているはずである。例えば、小学生の頃から子供の宿題を見てやったり、毎日勉強する習慣を付けさえていたり、早寝早起きを習慣とさせていたり、家族全員で朝食を摂りながら楽しい話題を持ち出して子供のやる気を引き出すような家庭であったりと。つまり、朝食摂取と子供の成績の間には相関はあるが、因果関係は不明なのである。

 とは言っても、理論的には、夕食から12時間近くも何も口に入れていなければ、血糖値が下がってしまい、いわゆる低血糖発作に近い症状となる場合もある。頭がぼんやりして力が出なくなり、午前中の勉強や仕事の能率は上がらない。だから、朝食は必ず摂りましょう、ということになる。普段、朝食を摂っている人が、たまたま朝食を摂り損ねると、その重要性を特に感じるであろう。頭はぼんやりして集中できないし、排便はできなかったし、昼食をその分たくさん食べてしまったら逆に午後は満腹感で眠くなって一日が散々だった、やはり自分は朝食を摂らなければ駄目だな、と。

 朝食を摂らないなんて全くの論外。議論するに値せず。朝食を毎日きちんと摂っている人にとっては、そういうことであろう。何しろ、自身の経験が全てを物語っているのだから。

 ところが、である。「朝食有害説」、「朝食抜きで健康回復」、「朝食は万病のもと」、「朝食抜きダイエット」などなどという、全く逆の主張がある一部の人たちの間でなされているのである。全くの嘘をでっち上げているなんてことはありえないであろう。すると、たとえ一部の人にでもそれが有効であったならば、その理論的背景を考えてみる必要があるように思える。

 まずは、余剰カロリー摂取の問題。朝食を抜くことで摂取カロリーが減る。そうすれば、多くの人にとっての病気の原因を取り除くことができる。昔から腹八分目が理想というように、食べ過ぎは、糖尿病や動脈硬化の原因だけでなく、さまざまな病気の原因となりうる。病気になったときの回復も、あまり食べないほうが良好であったという報告もある。動物では摂取制限をした方の寿命が明らかに長いという。野生動物が病気になれば、じっと蹲って何も口にせず(できず)、体力の回復を待っている。食べないことでエネルギーを病気の回復に集中させているのである。断食療法が効果を発揮する理由のひとつもこうしたことによるのであろう。少食が健康にとってプラスに働くということは、多くの人が納得するはずである。昔の栄養不良の時代とは明らかに異なるのである。

 しかし、余剰カロリー摂取の問題だけでは、朝食の是非についての議論はできない。3食のカロリー摂取をそれぞれ控えて、朝食も摂れば良いからである。朝という時間帯に、食べ物を口にすることが生体に与える影響というものを考える必要がある。

 朝食を摂ることに対して、朝食推進派は、血糖値を上げる、体温を上げる、排便を促すなどという利点を挙げる。これに対して朝食否定派は、消化器官に負担をかける、血液が消化器官に集中してしまい活動が鈍る、排泄作用を阻害するなどという欠点を挙げる。朝食を摂らないことに対して、朝食推進派は、血糖値が上がらない、体温が上がらない、排便ができないなどという欠点を挙げ、朝食否定派は、カロリー摂取を減少させる、消化管を休ませることができる、脳への血流を促す、排泄作用が促進されるなどという利点を挙げる。さてさて、どちらを選択すれば良いのだろうか。

 どちらも利点と欠点があるならば、なんらかの対策によって欠点を埋め合わすことによって、利点が欠点を上回ることができるならば、そちらを選択すれば良いことになるだろう。すると、朝食を摂ることに対しての朝食否定派の唱える欠点は朝食を抜くこと以外に回避不可能のようであるが、朝食を摂らないことに対しての朝食推進派の唱える欠点は比較的容易に回避できそうに思える。血糖値が上がらないことに対しては、肝臓でのグリコーゲンの分解が不十分であるからであり、これは習慣的に朝食を抜くことによって肝臓から補給できるように身体が順応していくはずである。たとえそれが不十分であったとしても、糖分を含んだ飲み物を補給することで血糖値はすぐに上昇するであろう。また、体温が上がらないということに対しては、散歩をするなど身体を動かすことによって補うことが可能である。排便ができないということに対しては、習慣的なものなのであまり問題にはならないはずだが、あえて対策を考えるとすれば、水分を補給することで腸管に刺激を与えてやれば良いだけのことであろう。すると、こうした対策を講じておけば、朝食を無理して食べる必要はないということになる。むしろ、朝食を食べることによる欠点が存在するのだから、食べないことに対する欠点が克服されているならば、食べないことでその利点を得、食べることによる欠点を避けることが望ましいように思われてくる。

 ダイエットに関心のある女性のなかには、朝食を抜くと、昼食で食べた物の吸収が良くなって、かえって体重が増えると考えている人もいるようである。吸収効率が上がるのだから、少ない食べ物で多くのエネルギーを得ることができ、これほど良いことはないのではないかと思うのだけれども、ダイエットを中心に考えるとどうも話は逆らしい。本当に吸収効率が上がるならば、消化管の活動が良いということであり、また食べかすが溜まらず腸内環境も良好で、健康的である。健康であることはダイエットの目的である美を手に入れることに直結しており、なんら問題はないはずなのだが、どうもそうではないらしい。つまり、おいしいものをたくさん食べて、それでも痩せるということが彼女たちのポイントなのである。しかし、そういう虫のいい話はないのだから、ここでは問題外か。

 ある友人が、朝食を食べないとハングリー精神で午前中の授業は集中できると言っていたが、確かに彼の授業態度はそれを裏付けている。血糖値を上げるためには、副腎皮質からのコルチゾルを分泌させ、また交感神経系を緊張させることで肝臓でのグリコーゲンを分解して血液中に糖分を送り出させる。まさしくハングリー精神が働くのである。午前中にこうした交感神経系の緊張がより高まることは、一日の活動リズムを作るうえで重要のように思える。逆に、朝食を摂ればそれで血糖値が上がってくれるので、生体は楽をしていても良く、緊張感はなくなる。午前中から極楽気分である。これが大部分の人類が朝食を摂ることになっている本当の原因であろう。朝食推進派の本音もここにあるように思われる。食べることで血糖値を上げておくことの安心感は、飢餓と直面してきた人類にとって何者にも変えがたいのである。食べられるときに食べておけ、という要求が身体から生まれてくるのである。これは肥満の原因と同じである。肥満が健康に良くないのと同様に、身体の要求に素直に従っていれば、現代において健康を保てるということは残念ながらあり得ない。問題は、朝食否定派が主張するように本当に朝食に欠点が存在するのか、ということであろう。

 個人的な経験によれば、朝食を食べないことによる欠点は十分に克服できるし、朝食を食べないことによる利点も確かに得ることができる。朝食抜きをプチ断食と言っている人もいるが、確かに断食の効果に近いものを得ることができるのかもしれない。朝食の是非を議論する場合、人間が本能的に持っている欲求が前面に出てしまい、その議論の方向性を誤らせている可能性は否定できない。朝食を抜けば、誰でも身体が順応するまではひもじい思いをするのである。そうしたひもじさが議論の方向性を誤らせるのである。

 どうか、初めの数週間のひもじさを乗り越えて、朝食抜きの効果を確認された方は御一報を。


 05/06/2004.

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健康と体温

例の医学生さんのブログから。体温と癌(あるいは病気)の間に関連性があるかもしれないというのは私も少し考えたことがあるので、備忘のためにコピーしておく。ストレス(とくに睡眠不足)から来る免疫不全というのも重要な指摘だ。


(以下引用)


                    Home Medicine Method Essay Books 体温と病気
 泌尿器科の病棟実習で早期の腎細胞癌の患者さんを担当させていただいた。画像で1.7cm大の腫瘍を左腎臓上極に認めたのだが、良性のものなのか悪性 (癌)のものなのかは画像からだけでは診断できなかった。一般的に、癌が疑われたときの腎臓の針生検は、腫瘍への血流が豊富なために播種を招く危険性があり、禁忌ということになっている。したがって、これ以上の診断材料がないため、まだ腫瘍が小さいので経過観察にするか、手術によって摘出するかの選択が問題になった。結局、患者さんの意向が優先され手術を行い、それによって癌であったことが判明した。腫瘍は完全に摘出できたために、結果的に手術をして良かったことになったわけある。

 患者さんは35歳の男性であり、肉体労働だという。35歳の若さでも癌になるのだなあ、と僕は初めてカルテを見させてもらったときに素朴に思った。しかも、身体を使う職業ということで見た目もガッチリしていて、病気とは縁がないような雰囲気を漂わせているのである。いくら小さな癌であったとしても、身体も強そうであり、まだ35歳という若い男性が癌になるということには、どうも釈然としなかったのである。

 しかしその後、ふと温度板(体温や血圧の変動などを記録しているシート)に目を移してみたとき、その疑問が解けたような気がしたのだ。というのも、この患者さんの体温の変動を見てみると、どの日でも35.5℃以上には上がっていないのである。既存の西洋医学ではおそらく、だからどうしたというのだ、という質問が返ってきそうであるが。

 体温と病気は、密接に関連していることは確かである。風邪をひけば熱が出るし、寒ければ風邪をひく。癌になれば熱が出ることもあるし、熱が出ることで癌が治ったという話もときに聞く。体温を上げるような食材を摂ることによって病気が治った、という本も本屋さんに行けばたくさん並んでいる。

 おそらく西洋医学では、35.5℃程度の体温では個人差の範疇として扱われるのであろう。癌のリスクファクターとしての低体温など、まったく聞いたことがないのである。喫煙やさまざまな汚染物質などは、癌のリスクファクターとして問題視されるが、体温の話に至っては、少なくとも僕は正規の授業では一度も聴いたことがない。

 だけど、感染症によって体温が上昇する機能的役割については、おそらく常識であろう。少なくとも現在では、むやみやたらに解熱剤を処方する医師はいないはずである。体温の上昇は、病原細菌の増殖を抑制し、免疫担当細胞の活性化を促すという役割を持っているからである。ということは、これは癌についても同様なのではないだろうか。体温を上げることによって、免疫細胞の活性化を促すことができれば、癌は縮小の方向に向かうはずである。もちろん、どれだけ癌の縮小に対して効力を発揮するのかは分からないが、少なくともそのような方向に働くことは確かなはずである。癌細胞というのは、一般的にも多くの人が知っているように、身体の中で毎日たくさんできているといわれる。しかし、免疫細胞(NK細胞が有名)によってこれが壊されるおかげで、そう簡単には癌になることはないのである。

 ところが、免疫細胞の活性化が弱いとしたら? 免疫細胞の数が少ないとしたら? 若くして癌になっても不思議ではない。平熱が低いということは、普段の免疫担当細胞の活性が弱いということを示唆しているのかもしれない。免疫細胞の活性を弱める原因としては体温以外にもさまざまなものがあるであろう。たとえば、ストレス。ストレスによって副腎皮質から分泌されるコルチゾルは、ヘルパーT細胞のバランスをTh1からTh2へシフトさせ結果的に細胞性免疫(傷害性T細胞やNK細胞など)の活性を弱め、また胸腺を萎縮させる作用を持つ。たとえば、睡眠不足。睡眠中はメラトニンが松果体から分泌されるが、これはヘルパーT細胞のバランスをTh2からTh1の方にシフトさせる。つまり、細胞性免疫が強まることになるのだが、メラトニンの分泌が悪いとやはり細胞性免疫は弱まることになるのである。たとえば、・・・。

 そうした免疫細胞の活性に影響を与えている因子のひとつとして体温があるのである。あるいは、このような因子は相互に複雑に作用を及ぼしあっており、たとえばストレスが強いと体温が下がったり、体温を下げるような生活が睡眠不足を招いたりと、おそらく単一の因子だけに着目していては、本当のところは見えてはこない。だけど、とりあえず今回は、体温に注目してみようということだけのことである。

 担当患者さんのところに話を伺いに行ったときに何気なく聞いてみた。お酒は好きなんですか? ビールは良く飲みますか? 仕事が終わってビールを一杯、という生活を毎日送っているのではないかと思ったのである。ビールでなくても冷たい飲み物は、身体を冷やす大きな要因であると思う。消化管は身体の中に埋まっているけれども、口と肛門の間にある外部とつながった管であり、皮膚と同様に外界と接触する場なのである。皮膚に冷たい水をかけられたら、飛び上がって身体を震わすのだけれども、幸か不幸か、消化管はほとんど冷たさを感じないで冷たい飲み物を受け入れてくれる。皮膚に冷たい水をかけられたら誰だって寒さを感じる。そして、そのままにしていれば風邪をひくであろう。これは特に水が蒸発するときに熱を奪うことで、より冷えをもたらすのだろう。消化管の場合は、中に入った冷たい飲み物は蒸発はしないにしても、最終的にはそれを吸収して体温まで温める必要がある。そのエネルギーの損失はいかほどか?

 人間は、それほど冷たい飲み物を消化管の中に入れることに適した身体にはなっていない。なにしろ冷蔵庫が出来上がってから、1世紀も経っていないのだから。それまでの何億年にもわたる進化の歴史を考えれば、それに適応することなど、とてもできるものではない。おそらく、仮に冷蔵庫というものが大昔からあったとすれば、我々は、冷たい飲み物を口にするたびに飛び上がってこれを避けようとし、ブルブル震えては一生懸命に熱産生をしているのではないだろうか。

 冷蔵庫の発明は、体温の低下をもたらす大きな要因であると思う。現代人の体温は低下傾向にあるという話も聞く。体温の低下は、免疫担当細胞の活性を低下させる。そしてそれは、癌などのリスクファクターになっている可能性があると僕は推測する。もちろん、体温低下の要因は、冷蔵庫で冷やされた冷たい飲み物だけにあるのではない。運動不足もあれば、精神的なストレスも関係しているだろうし、夏なのによく効いたクーラーの下で一日中過ごさなければならない仕事環境などもあるであろう。しかし、こう挙げてみるとどうもどれも現代的な利便性を追及した生活との関係が深そうである。なぜ病気になるのか、という視点でものを見るとき、どうしても進化的に獲得してきた我々の機構とそれに合わない現代的な生活環境に答えを求めたくなるのは、自然な思考の流れだと思うがいかがであろうか。

 と言いながら、よく冷やされたビールを片手にこれを書いている僕であるのだが・・・。まあ、こういう暑い日にはまだいいのかな~と言い訳をしつつ。


 06/05/2004.

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勉強は贅沢であり、娯楽でもある

今年は、毎日ひとつは有益なこと、言い換えれば、時間の浪費ではなく、後に残ることをしようと思う。インターネット探索でも、お気に入りブログばかり見るのではなく、もっと頻繁にネットサーフィンをして新たな賢人たちを見つけてみようと思っている。そうして自分の知的世界を広げることを今年の目標にしてみよう。

下記の記事はある医学生のブログからのもの。特に新奇な発言ではないが、学問や勉強についての考え方が私とよく似ているので、私の代弁者としてここに保存しておく。


(以下引用)

                    Home Medicine Method Essay Books 勉強は贅沢
 勉強することは贅沢な行為だと思う。しばしば、勉強が義務のようなものとして位置づけられることがあるが、これは、まったくの認識の誤りではないだろうか。「やらなければならない」ものとして勉強が捉えられるとき、それは苦痛の対象でしなくなるのであるが、「やらずにはおれない」ものとして勉強というものがあるとき、それは楽しみの対象であり、場合によっては贅沢な行為となり得る。

 よく言われるように、知る喜びというものは、誰でも持ち合わせている。そこには、人間としての本質が潜んでいるのだと思う。好奇心旺盛なわれわれの祖先がわれわれの祖先として生き延びてきたのである。

 そうは言っても、もちろん、人間は空間的にも時間的にも有限の存在なのだから、すべてを知ることには無理がある。そうだから、そうした無限に対しての有限の存在として、人それぞれに興味関心が異なってくる。それが、それぞれの専門分野になってくるのであるし、それぞれの興味関心に適度なばらつきがあるお陰で、世の中もある程度はうまく回っていく。自由でのびのびとした知性は、本来的に備えた旺盛な好奇心という人間としての本質に根ざし、かつ、その好奇心の向く方向が人それぞれに異なることで社会が動いていけるという保証によって、この世界で優位な立場に身をおさめることが可能になっている。

 そうした知性が思う存分に働くとき、それは人間としての本質をより顕在化させることによって、喜びの感情として心の中を駆け巡るのである。これがなければ、現在に至るまでの人類による膨大な知識の蓄えが存在することは、到底ありえない。

 勉強することは、とりあえずは、先人が蓄えてきた知識を自分のものにすることなのであるが、それが自らの興味関心とぴたりと一致するものであるならば、楽しいのは当然である。逆に、そうした楽しみが得られないとしたならば、その勉強にはどこかにズレがあると考えなくてはならないのであろう。

 勉強と試験とは多くの人にとって密接に結びついている。試験は勉強するための動機として、多くの人にとっては最も大きいものであるに違いない。だけど、そうした勉強には、本来ののびのびとした知性が発揮されることは、ほとんどない。そうだから、そうした勉強は苦痛となる。「やらなければならない」ものは、それが達成できたことによる勉強とは別次元の喜びを生むことにはなるが、自由でのびのびとした知性が発揮されることによる喜びを生むことはない。勉強そのものは、苦痛の対象となるのである。

 試験とは、ある対象領域においてある一定の知識レベルを得た人を選別するものである。当然、そうした試験のための勉強というものも存在する。試験のための勉強とは、その対象領域、対象レベルの知識に適合した知識を習得することである。それから外れた領域、レベルを勉強することは、試験のための勉強としては好ましくはない。自らの心の向く方向、深さを適切に調節しておくことが不可欠となる。

 多くの人にとって、勉強とは、興味関心が異なる領域の知識が要求される試験のためにある。理想的には、自由でのびのびとした知性が導く知識の獲得に、試験で要求される知識が包括されていることが望まれるのであろう。そうであるならば、学ぶことは楽しみの対象であるし、かつ試験に合格するための手段ともなる。しかし、これが逆転する場合もある。試験で必要とされる知識を得るために勉強していたら、途中で興味関心が向けられる分野に出くわす場合である。苦痛と思っていたものが、喜びに変わる瞬間である。そうして、その喜びをもとにして、興味関心の分野に突き進むことが自然な心の動きではあるのだが、試験のための勉強をしているときには、そのような心の動きはむしろマイナスに働く。そうして、やはりまた苦痛に引き戻されるのである。

 このように、試験は本来ののびのびとした心の動きを制約する働きを持っている。試験を中心に考えると心は萎縮していく。長期的な視点で考えると、試験のための勉強は、自らの心の質の向上に対してマイナスに働く可能性を持つ。心の質の評価を誰がどのようにするのかは分からないが、仮に自身で行うとしたならば、自らの興味関心に従った勉強によって得た知識ほど価値のあるものに違いない。自らの興味関心に従った勉強によって得た知識が試験領域の60%をカバーしているならば、普通は合格をもらえる。僕はこのような勉強がやはり理想的であると思う。

 高校時代、野球がうまくなるために、何冊かのスポーツ力学の本を読んだことがある。スポーツの技術は、力学によって支配されているわけだから、当然にそれを自分のものとしようと思ったのなら、力学の勉強が必要になってくるのである。そうした力学の知識を基にして野球の具体的な動作を導き出す。新聞や雑誌にある写真を丹念に観察し分析し、テレビのスローモーションは食い入るように見つめる。そうして得た情報と、力学的な原理とを照らし合わし、理想的な動作を追求していくのである。大学受験の物理では、バットとボールの衝突問題がよく出題されるが、それは自らの興味関心に沿った勉強によって得た知識の中に十分に包括されているものであった。

 勉強をしている子供は偉い子供、という図式がなんとなく存在するようだが、勉強というものの理想的な姿を考えたとき、むしろ、勉強ほど贅沢な行為はないと思う。それは、人間の本質に根ざした知性の躍動であり、だからこそ大きな喜びを得る原動力ともなる。勉強というものを小さな枠に閉じ込めることで、これを阻害してはならない。


 02/06/2004.

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年頭のご挨拶

あけましておめでとうございます。
この酔生夢人のブログは、自作小説などの発表をメインとしており、その作品もほとんど掲載したので、いつ閉鎖してもいいのですが、こうして残しておけばいつか誰かの目に触れることもあるだろう、ということで、当分はこのままにしておきます。
今後は月に数回程度、エッセイ程度の文章や、他のブログで載せにくい作品を書いた時に掲載することになると思います。
それでは、今年もよろしく。

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酔生夢人
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男性
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仙人
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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