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最低給与が標準給与の指標となっていくシステム

今日二回目の投稿だが、前回記事は短いものだったし、これから引用する記事は非常に面白いので、忘れないうちに投稿することにする。
「内田樹の研究室」からの転載である。
日本の労働者の貧困化と日本の労働運動の衰退は、前者は後者の結果だというのが私の考えだが、なぜ労働運動が衰退したかというと、「労働運動をする人間はアカだ」「労働運動をする人間はクズだ」という社会的教育が不断に行われてきたからだと私は考えている。
実にこの「アカ」という言葉ほど破壊力の強い言葉は史上でも珍しいのではないか。こういう「レッテル用語」のもたらした影響について日本共産党は自分で分析しなければならないだろうが、自分たちでとくとくと「赤旗」などという新聞を出しているようでは、むしろ「アカ」と呼ばれることを誇りに思っているのだろう。それではアカではなくただのバカであり、つまり、永遠の負け犬になるしかない。少しは社会心理学でも学んだらどうか。いや、素人の私でよければいつでもアドバイザーになる。
話が飛躍した。下の記事は、日本の労働者が自分を首つりにする絞首台の縄を自分たちで嬉々として編んできた、という内容である。自分たちが悲惨な状況であるために、自分たちより「少し上の」生活の人間を憎悪し、嫉妬し、そのマイナスのエネルギーをうまく利用する勢力によって「少し上の」人間を引きずり下ろしたはいいが、それで「全員が地獄の池の中」という状況になっただけであったという笑い話だ。


(以下引用)



私の経験則は「『変なできごと』が『変』に見えるのは、それを語る適切な言葉を私たちがまだ持っていない場合がある」ということを教えている。「変な現象」の「変さ」がそこにかかわる人たちの愚鈍さや邪悪さで説明できるケースは私たちが想像しているよりずっと少ないのである。
その上で、橋下徹と大阪維新の会のムーブメントは「前代未聞のものだ」という仮説を採択することにする。
別にしなくてもいいのだが、したことによって失われるのは私の時間だけである(私の話に付き合わされる読者の方々も時間を失うわけだが、それはご本人の神聖なる自由に属するので、私がとやかくいう筋のことではない)。
では、どういう点が「前代未聞」なのかというと、これが「経済のグローバル化を推進して、国民国家を解体しようとしている政治運動が外形的には愛国主義的な衣装をまとっている」という点である。
維新の会の政治綱領が、「手垢のついた新自由主義」であることは誰でもが認めている。
けれども、新自由主義はそれでも「選択と集中」によるトリクルダウンという「言い訳」を用意していた。
私たちに資源を集中せよ。私たちがそれによって国際競争力を増し、ワールドマーケットで大金を儲ければ、一時的に「割を食っていた」貧乏人諸君もその余沢に浴することができる、というあれである。
だが、維新の会のグローバリズムはもう「余沢」についてはほとんど語らない。「とりすぎのやつから剥ぎ取る」という話だけである。「剥ぎ取った分」がどこに行くのかということに、有権者たちはもはや興味を持っていない。
市長が着任して最初にやったことの一つは、大阪市営バスの運転手の賃金が高すぎるので、これを民間並に引き下げるということであった。
この政策に市民のほとんどは喝采を送った。
労働者たちが、同じ労働者の労働条件の引き下げに「ざまあみろ」という喝采を送るというのは、日本労働史上でおそらくはじめてのことである。
労働者というのは労働条件の向上のために「連帯する」ものだと思っていたが、それはもう違ってしまったのである。
現に市長の組合攻撃はすさまじい。組合員というのは「非組織労働者」には与えられていない特権を享受している「ワルモノ」であるという物語に有権者もメディアも同意署名を与えた。
それが自分たちの死刑執行書に署名したことかもしれないということに誰も気づいていない。
市営バスのケースは「同一労働では、最低賃金が標準賃金である」という文字通り「前代未聞のルール」に有権者たちが同意を与えたということを意味している。
このルールに大阪の有権者たちが同意した以上、これから後、彼らはすべての賃金交渉において、「同じ労働をもっと低い賃金で引き受けるものがいる」事例を雇用者側が示し得た場合には、最低賃金を呑む他ないのである。
だって、自分で「それがフェアネスというものだ」と言ったわけだから。
このルールの導入によって最も喜んでいるのはビジネスマンたちである。
すでに、「日本の労働者は人件費が高すぎる」という理由で生産拠点を海外に移し、国内の雇用を空洞化してきたグローバル企業のふるまいを日本人の過半は「それももっとも」と同意してきた(現に、大飯原発の再稼働を決断したとき、野田首相は「電力コストが高ければ、日本を捨てて国外に出て行くのは、企業家としては当然のふるまいである」として、グローバル企業の利益の擁護は原発の安全性に不安を抱く国民感情に優先するという「常識的な」決断を下した)。
それは、国内の雇用においても、「同一の能力であれば、いちばん人件費の安いものを雇う」というルールが一般則として適用されるということである。
ご存じの通り、現在、どの組織でも、非正規雇用労働者が溢れかえっている。正社員の他に、嘱託社員、派遣社員、アルバイトと雇用形態は識別しがたいほどに複雑に複線化した。
そのときに何が起きたか。
仕事ぶりを外から見ていると、それが正社員かアルバイトか区別できないということが起きてきたのである。
場合によっては、正社員よりアルバイトの方が業務内容を熟知しており、適切な判断を下すというようなことさえ起き始めた。
そのときに何が起きたか。
正社員と同じくらいに働くなら、「アルバイトの雇用条件を正社員並にせよ」という要求がなされたのではない。
逆である。
アルバイトと同じくらいの働きしかないなら「正社員なんか要らないじゃないか」という台詞が出てきたのである。
出てきて当然である。
雇用形態の複線化は論理の必然として、「同一労働の場合、それを最低の賃金で達成するものを標準とする」という「同一労働・最低賃金の法則」を導くということに私は導入時点では気づかなかった。
でも、今はわかる。
職場に業務内容が似ており、雇用条件の違う労働者を「ばらけた」かたちに配備しておくと、最終的に雇用条件は最低限まで引き下げることができる。
だから、経営者たちは非正規雇用の拡大に固執したのである。
彼らのロジックは「日本のような高い人件費では、コスト削減の国際競争に勝てない」というものである。
日本の労働者の絶対的な貧困化はグローバル企業にとって「好ましいこと」なのである。
もちろん、貧しい労働者は消費活動がきわめて消極的なので、日本国民のほとんどが下層に固定化された段階で内需は壊滅するが、とりあえずそれまでの間は人件費削減で浮いた分は企業の収益にカウントされる。
先のことは考えない、というのが資本主義の作法であり、国民国家の将来のことなど配慮しないというのがグローバル企業の常識であるから、それでよいのである。
前に国民戦略会議の「大学統廃合」について書いたときも述べたが、日本の財界人が国際競争に勝つために採用している最優先事項は「人件費を限りなく切り下げること」である。
低学歴低学力労働者を大量に作り出せば、場合によっては中国の労働者程度の時給まで国内の賃金を下げられるかもしれない。
人件費問題さえクリアーされるなら、国内で操業する方がずっと利益が大きい。
労働者のモラルは高いし、社会的インフラは整備されているし、怪しげな党官僚が賄賂をせびることもないし、テロや内乱の不安もないし、中国の労働者の賃金が上がって、「もっと賃金のやすい国」めざしてプラントごと引っ越しをする移動コストも考えなくてよい。
実際に、「焼き畑農業的」に生産拠点を移してみたが、このやり方が予測したほどに安定的な利益をもたらさず、むしろコストとリスクを増やすことに資本家たちも気づいてきたのである。
できることなら、日本にいたい。
そこで、日本の経営者たちは「こんなに人件費が高くては生産拠点を国外に移すしかない」という言葉をことあるごとにメディアを通じて「国内向けに」アナウンスすることにした。
これは別に「そのうち移転しますので、みなさん心の準備をしていてくださいね」と事前に親切に告知しているわけではない。
そうではなくて、「国内にいてほしければ、人件費を下げろ」と言っているのである。
政治家も官僚もビジネスマンも大学人も、みんなそれを聴いて「わかりました」と頷いて、「どうやったら人件費が安くなるか?」という問いへの最適解を求めて知恵を絞り始めた。
とりあえずやってみて効果があったのは:
(1)学力が低い若者を大量に作り出し、「自分のような能力の人間には高い賃金は要求できない」という自己評価を植え込む。
(2)同一労働に雇用条件の違う労働者を配備して、「こんな安い給料で同じ仕事をしている人間がいる」という既成事実を作り出し、「同一労働なら最低賃金」のルールを受け入れさせる
(3)製造コストや人件費コストが上がりそうになると、「では国内の製造拠点を海外に移します。それで雇用が失われ、地域が『シャッター商店街』化し、法人税収入が失われても、それはコスト負担を企業におしつけたあなたたち日本国民の責任です」というロジックで脅しにかかる
やってみたら、全部成功した。
大阪維新の会はまさにこのグローバル企業と政官が国策的に推し進めている「国内労働者の絶対的窮乏化」路線そのものを政治綱領の前面に掲げたという点で「前代未聞の政治運動」なのである。
「これから『反撃のできないセクター』から順番に、国民の既得権を奪い、そのつどの最低賃金で働いてもらいます」という彼らの政策に国民自身が拍手を送った。
たしかに、この制度改革は「グレート・リセット」というのに相応しいであろう。
なにしろ18世紀の市民革命から以後の労働運動の成果そのものを否定しているからである。
維新の会が権力を掌握すれば、体制が「変わる」という点については、間違いなく変わる。それは私が保証してあげる。
ただ、その「変化」は労働者の絶対的窮乏化と「グローバル企業」の収益の増大と彼らのいわゆる「国際競争力」の向上に資するものであることは告げておかなければならない。
この労働者の組織的連帯を破壊してゆく過程で、「愛国主義」が功利的に利用されているのだが、なんだか書いているうちにぐったり疲れちゃったので、今日はここまで。

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官僚政治は打破できるが……

「増田俊男の時事直言」から一部転載。
「徽宗皇帝のブログ」で予告した「主権在官」を変える手段がこれである。アメリカで実際にやっているのだから、日本で同じようにできないはずはない。ではそれでアメリカの政治はうまく行っているかと言えば、もちろん違う。なぜなら、資本は「二大政党」の両方に資金提供を行って政治家を支配するからだ。したがって、「官僚政治」を打破してもそれだけでは何の改善にもならない。資本による政治支配を無効にする方策が考えられねばならないのである。それは官僚政治打破と同時に新しい政治システムとして導入されねばならないだろう。


(以下引用)


我々は行動する前に、日本を機能する国家体制に変えなくては総ての努力も試みも効果を発揮することが出来ません。アメリカは永田町(日本の政治)と霞ヶ関(官僚)の関係はホワイトハウス・議会(政治)とExecutive(エクゼクティブ=官僚)の関係と正反対であることを知っています。アメリカでは政治家が国家の実権を握っていて官僚は政治家の使用人でしかないのです。エクゼクティブとは「仕事屋」の意味です。政策はシンクタンク等「頭脳集団」がアドバイスし、決まった政策を官僚に実行させます。官僚は常に監視され問題によっては民間より重い刑事罰が適用されます。大臣は使い勝手のいい官僚が必要ですから大臣が変わると数百人の幹部官僚と役人が代わります。日本には総合的頭脳判断無しに官僚機構が勝手に動くので国益無視、省益優先になってしまいます。
日本の急務は公務員法を改正して刑事罰制度の導入や徹底した官僚統制でしょう。

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我執と「神」

我執と「神」

私のキリスト教への考えの中心は、まず、「神は存在しない。特にユダヤ・キリスト教の創造神はモーゼらによる創作である」しかし「キリストによる教えは、千古不易の偉大な教えである。その偉大さは『汝の敵を愛せ』という不可能な倫理を人類に示したことにある」という2点だ。後者はトルストイの示唆によって私が得たものだ。
自分を愛する者や自分に利益を与える者を愛するのは容易だ。しかし、それは「ギブ・アンド・テイク」の商取引にすぎない。何の見返りもなく、むしろ自分に危害さえも与える存在を愛することが、あなたにはできるか。
母親による育児放棄や児童虐待は、見返りの無い行為ができない現代人の時代精神の象徴だろう。子供がうるさい、邪魔だ、面倒だ、だから育児を放棄する、あるいは虐待する。これは自分にとって利益になる存在しか愛せない、ということだ。育児のために自分の好きなことができない、という不満も(子供)と(趣味)の価値比較をしているのだ。もちろん、自分にとっての価値であり、子供はそこではただのモノ(物体)だ。
我々は、援助の必要な無力な存在には本能的に援助を与えたくなるものだ。社会福祉とはその自然な本能を制度化したものにすぎない。もともと功利主義とは相反するものだ。したがって、功利主義と拝金主義に毒された現代社会では排斥の対象になるのである。その先頭に立つのが野田民主党や自民党、そして橋下のような連中だ。
社会的弱者への援助と母親の子供への援助は同根であり、どちらも「無償の愛」なのだから、その両者が同時に弱まっているのは当然だろう。

最初の段落の考えを補足する。キリストの教えは「人間はどう生きるべきか」という社会倫理がその大半を占め、その倫理の土台には神の存在がある。だから私のように神の存在を否定したら、ドストエフスキーの作中にある「神が存在しなければすべてが許される」という思想になる、というのが西欧的な考え方だ。だが、私はキリストの教えは神の存在と切り離しても有効だと考える。そういう意味では、私は「無神論的キリスト教徒」と自分を名乗ってもいいかと思う。
もちろん、「神」の定義次第では私も神を信じると言ってもいい。むしろ人間の心の中の善性を「神」と言うべきかと思う。「神」という漢字は「しめすへん」である。つまり、人間に正しい方向を示すのが神だ。人間はときどき自分自身が神になる、という考えなど面白いかもしれない。と言っても、新興宗教の話ではない。自分自身の中の善なるものに無心に従う時、その人は神のようなものだ、ということで、神というものはこのように日常的な、身近なものとしてもいいのではないか。
「汝の敵を愛せという不可能な倫理」とは、「倫理の極限」と言うほうがいいかもしれない。この「不可能」とは「不可能だが、それを目指して近づこうとするべきもの」であり、それに近づくほど人類は神的な存在になるのである。

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子供社会は大人社会のフラクタル図形

「長周新聞」から記事の一部を転載。
いじめは子供の欲求不満の現れであることは、まず確かだろう。その不満はただの甘ったれであることも多いだろうが、今の子供の「満たされない心」がいじめという現象の底にあることを、まず考えることが大事だ。もちろん、いじめとは言っても実際には犯罪そのものであることも多いのだから、それははっきりと法的処罰の対象とするべきである。学校の処理する範囲を超えている事柄は、ここでは論じない。
では、子供は何に不満を持っているのか、と言えば、それは簡単である。基本的には「やりたい事ができない」という、ただそれだけだ。「自分の置かれた状況が自分の望む状態ではない」、と言い換えてもいいだろう。
遊んで、菓子を食って、酒を飲んで、煙草を吸って、異性とセックスしたいのに、それが自由にできない。その一方、やりたくもない勉強は強制される。これで欲求不満にならない方が不思議だろう。
学校制度ができて以来、あらゆる生徒は、実は中学高校と欲求不満の時代を過ごしてきたのである。そうでないのは、いわゆる「不良」だけだ。本当は、真面目な生徒も、不良の生き方を羨望していたのである。だから、漫画などではたいてい不良はヒーロー視されて描かれているわけだ。
しかし、少しでも先を考える程度の頭があれば、そうした刹那的な生き方をすると一生浮かび上がれないことをみんな知っていた。「不良」の将来は、男ならせいぜいが暴力団の舎弟になるか、女なら水商売か売春婦になるしかないと分かっていたから、みんなやりたくもない勉強をいやいややっていたのである。つまり、「蟻とキリギリス」の蟻の生き方を選んで高校入試、大学入試を突破しようとしてきたわけである。言い換えれば「未来の成功の約束によって現在の欲求不満は抑制されていた」というのがこれまでの「普通の生徒の生き方」だったのだ。
ところが、いまやチンピラや暴走族はいつでも社会復帰できるどころか、逆にヒーロー扱いである。元ヤンキーの方が度胸があるから営業向きだし、口もうまいし恥知らずだし器用だから芸能界でも重宝される。女だって顔やスタイルさえ良ければモデルにもタレントにもなれる。顔が多少不細工でも整形すればいい。どちらも駄目でもお笑いタレントにはなれる。
一方、真面目に勉強して「いい高校」「いい大学」に入った人間は大学を出ても正社員にもなれないし、正社員になっても死ぬほどこき使われて過労死するか、40歳で定年とか言われて放り出されるという時代である。
つまり、真面目であることがまったく評価されない時代において、子供が真面目に勉強したり真面目な生活をする、ということが可能なのか、ということだ。社会の指導者がいくら嘘をついても、何の罰も受けず、やった者勝ちという社会で、正直に生きるという生き方を選ぶ子供がいるか、ということだ。他人を蹴落とすことが奨励される競争社会で、他人への優しさを持ち続ける子供がいるか、ということだ。
このような社会に生きなければならないことをうすうす感じている子供たちが無意識に欲求不満を募らせ、破壊や暴力の衝動に駆られるのは、当然の話である。昔なら真面目な生徒であった部類の子供までいじめに加担することが多いのは、そのためだろう。つまり、子供たちはみんな自分の未来に怯えているのである。
いじめを受ける方の子供が簡単に自殺するのも同じことだ。これ以上生きていてもロクな未来は無い、と子供が思っても不思議はない。家庭の問題などではない。社会全体が地獄化しているのである。
多くの教師はおそらくそれを無意識に感じているはずだ。自分たちの力ではどうにもならない、と。だからこそ彼らの多くは鬱病になるのである。もはや金八先生や夜回り先生レベルでどうにかなる話ではない。一部の生徒は救えても、社会全体の、子供の心の闇は救えない。
下記記事に書かれた内容を敷衍すれば、以上のようなことだ。
長くなるから、今は病状分析だけにし、処方箋は書かない。
補足として「引用2」に「2ちゃんねる」から大津いじめ自殺事件へのコメントの一部を転載する。日本の心の荒廃は今に始まったことではない。


(以下引用)


 過酷な差別・選別 教育制度の根がいじめ構造 教師縛り上げ

 A 学校のいじめが増えているが、それは第一に文科省が強権的に進めてきた教育改革そのものがいじめの構造となっている。「個性重視」「興味関心」といって子どもの好きなようにさせろと教師の指導性を否定し、教師が悪さをする子どもをしかったらマスコミをあげて「体罰禁止」「子どもの人権」と騒ぎ、教育をできないようにしてきた。そしてその結果子どもが好き勝手をして荒れ学校が崩壊すると、今度は「教育していない」といって教師をたたく。これは完全な教師いじめ、学校いじめだ。
 1980年代の中曽根臨教審で戦後教育の原則であった教育の機会均等主義を否定し、自由競争、差別、選別、ランク付けをひどいものにした。そして90年代には「個性重視」「興味と関心」だ。保育園は自由保育でまるでサルの子を好き放題に野放しするような状態にした。そして「勉強できないのも個性」などといって放置させた。九九も分数も漢字もわからないまま授業に出て、毎日拷問を受けているようなたくさんの子を生んだ。「勉強できないのも個性」というが、実際は点数での過酷な差別・選別だ。
 しかもできる子とできない子とのひどい格差は、塾に行けるか行けないかが別れ道で、経済的な貧富の差で決まるというものだ。
 点数をよくとるが自己中心で冷酷な子と、九九もわからなくて学校に出てくる意味もなく暴れている子ができている。暴れて殴る子がいじめなら、できない子をバカにする点数のいい子もまたいじめだ。どっちがどっちをいじめたとは簡単にはいえない。教育制度の根幹がいじめの構造になっているのだ。
 E また「プライバシー」といって、教師が家庭訪問しても親の職業を聞いてはいけないとされ、教師と親を切り離してきた。親の仕事や家庭生活がわからなければ子どもが理解できるわけがない。そういうなかで教師のなかに事なかれ主義も蔓延してきたし、子どもはそれを見抜いて、「山の田ナイフ事件」のように、子どもをしかる大人を子どもが警察に通報して「通り魔事件」といってマスコミがとりあげる。これは子どもの側からの警察を使った大人いじめだ。
 B ある生徒指導の教師が、男子グループが女子をいじめていたのを見とがめて、追いかけていってしかると、その後しかられた生徒が警察に通報して、「不審者に追いかけられた」というメールが市内中に流されたこともあった。「子どもの人権」といい「児童虐待」というなかで、子どものなかでは警察を利用するのが常識のようにもなっている。大津の事件でも、警察の強制捜査直前の8日間で、市教委に抗議の電話が3200件、抗議メールが5100件きたという。山口県でも県教委などへの通報はすごい数らしい。
 
 いじめ社会に根源 攻撃的ないじめを量産 搾取者の思想

 C ある教師は「今の世の中、いじめだらけ」だという。「日産のゴーン社長は何億円という給料をもらっているけど、それももうからなくなったら工場を閉鎖し、下請・孫請から一つの町をつぶしたうえに成り立っている。人の生活は知ったことではないというもので、それこそ最大のいじめではないか。そうした社会に出て行くのだから、それに負けない子どもに育てなくては」といってきた。
 A いじめの根源は、この社会そのものが自由競争のいじめの構造になっていることだ。子どもの親たちは工場が海外に移転してもうけるために簡単に首を切られ、一家が路頭に迷う。これだけ失業や倒産が多いのに消費税は上げ、法人税は下げて、高速道路や新幹線のゼネコン需要の公共投資を拡大する。福島事故の収束もないのに原発を再稼働して人人を命の危険にさらす。日本社会のどこを見てもアメリカ金融資本と財界を代弁する政府による庶民いじめ、労働者いじめ、年寄りいじめが蔓延している。いじめの親方は政府や財界であり、アメリカの金融機関だ。子どもたちはそういうのを毎日見ている。
 社会と学校を支配するいじめの構造が子どもたちの意識に反映して、全国のどこの学校でもいじめが広がっているのだ。つまりひどい搾取と抑圧のいじめのなかで、いじめる搾取者、抑圧者の思想が反映しているのだ。その根源を解決しなければ、いじめは広がるばかりだろう。イデオロギー上は戦後教育の基調となってきた享楽主義、退廃主義、拝金主義などであらわれるブルジョア的な個人主義思想が攻撃的ないじめになってあらわれている。アメリカの植民地的隷属下に置かれた戦後日本社会の根本的な構造そのものがいじめを量産しているのだ。


(引用2)


84 ハイイロネコ(関東地方). 2012/07/24(火) 22:04:48.53 ID:5v6ifv7xO
何人か助けようとしない周りの生徒も悪いとか言ってるけど本当想像力ないな
仮に庇ったとして13歳かそこらで自分が次のいじめの標的になる絶望感考えられないの?
それこそ死ぬ位の勇気持ってなきゃ助けたくても助けらんねぇよ、虐めた奴らはマジモンのキチガイだし
結局女がーとか言ってる奴ら1番最低な「傍観者」だな
95 アムールヤマネコ(チベット自治区) 2012/07/24(火) 22:12:50.21 ID:N3EMKFY/0
>>84
いじめっ子をぼこりまくって停学になったよ俺
いじめを止めるにはねそれ以上の暴力で制圧するしかないんだよ
またいじめたら次は殺しちゃうよ?って言ったらいじめなくなったよ
85 ジャガー(新疆ウイグル自治区). 2012/07/24(火) 22:05:13.02 ID:HhoAT6Fa0
本当に今回ばかりは格が違うな
鬼畜って言葉じゃ足りないくらいだ
事件と全く関係のない俺でもさすがに許せない。本当に心の底から軽蔑する。
89 ピューマ(群馬県) 2012/07/24(火) 22:07:37.35 ID:6G5qMPJ30
この空気感が日本全体を覆ってるなら
当然駅のホームから線路に落ちた人を助ける奴なんて、出てくるはずがないだろうし
混み合う横断歩道を救急車が横切ろうとしても誰も歩みを止めず道を開けないなんてことも
別に珍しい事じゃないと納得できる
つーか、実際そうなんだから、そうなってるんだろうな

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150機中50機近くがすでに故障?

「東海アマツィッター」から転載。ここにはいろいろと面白い情報が載っていることが多く、重宝している。「阿修羅」もかつては情報の宝庫だったが、今では誰でも知っているようなマスコミ情報やネット情報のスクラップブックになっている。昔は少数の知的ディレッタントの「陰謀論も含めた世界の真実」についての優雅な御喋りサロンだったのだが、今は体も洗わないで湯船に飛び込むような下種でひしめく浮世風呂になったわけだ。まあ、それでも時には有益な投稿やコメントもあるから私のネット周遊コースの一つではあるが。
「東海アマ」氏は変人だが、そのツィッターはいい情報集積所になっているので、愛読しているわけである。まあ、ネット著名人の大半は変人だし、変人だからこそ平凡人にはない発想があって面白い記事が書けるのだろう。変人とは言っても、我欲だけが行動基準であるお偉いさんなどよりはるかに優れた人物たちなのである。
「あんたかてアホやろ。わてかてアホや。ほなさいな~ら」というのは歴史的名言であると私は思っているが、自分が賢いと思っている専門家や学者たちがこの世に流した害毒を考えると、安藤昌益が「聖人」こそが世の害悪である、と言った意味も分かる。「聖人」とは社会の収奪システムを作り上げ、維持する装置だったからである。
話があちこちに飛ぶが、「東海アマ」氏には、少し安藤昌益の面影があると私は思っている。飯山一郎にもそういう面があるが、この二人はだいぶ仲が悪いらしい。
お互いに変人なのだから、それも仕方がないことだ。しかし、どちらも社会全体が幸福になることを常に念頭に置いている人物だ、と私には思われる。そこが安藤昌益的なのである。あるいは宮沢賢治的と言ってもいい。
下に引用する記事は私が上に書いた内容とは関係なく、単に興味深く思った情報である。


(以下引用)

森田実‏@minorumorita
4)正確な数字は忘れましたが、約150機のオスプレイが製造され、配備されましたが、すでに約3分の2の数に減っているとの口コミ情報は、かなり以前に私の耳に届いていました。3分の1が事故で破損して使えなくなったのです。

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まるで馬を人間が担いで旅をするような話

高校野球の地方予選の準々決勝をここ京都ではテレビ放映しているので、その観戦に時間を取られ、ネットなどする暇もない。まあ、その方が健全ではある。ネットは、始めるとやたらに長い時間を使ってしまうという欠点があり、しかも充実感は少ない。野球観戦のほうが、たとえ高校生レベルだろうと凡戦だろうと、充実感はある。
というわけで、試合の合間にブログを書くという、まるでツィッターみたいなことをしているのだが、「ネットゲリラ」氏が面白いことを書いている。たしか山科恭介(もはや有名人なので敬称略)もこの話題を書いていたが、私のようなボンクラは、人から言われないと、こんなことにも気づかない。
下に書かれたこと以外に理由をあげれば、オスプレイは離着陸の操作が非常に難しく、何分の1秒か手元が狂っただけでも離着陸に失敗する可能性があると、米国の専門家が言っていた。しかもそれは機体をどのように改善しても直せないらしい。となれば、波で揺れる海上の船の上での離着陸はほとんど無理だろう。
いずれにせよ、「後家製造機」であることがオスプレイの宿命であるようだ。
しかし、航続距離の長さ、積載重量の重さ、速度など、従来のヘリコプターに数倍するものだから、これを使うということは米軍にとって絶対的方針になっており、人が何人死のうが、事故がどれだけ起ころうが、オスプレイは配備するのである。


(以下引用)



ところで、オスプレイのウリは、航続距離が長く、空母を必要としないので、強襲揚陸艦から発進して何百キロも飛んで、狭いところにも着陸できる、というモノらしいが、そんなに便利なモノが、何故に、民間の輸送船に積まれてのろくさと運ばれて来るんだ? 飛んでくりゃいいじゃん。それ一つ取っても、「なんかオカシイ」という感は否めない。で、米軍も危ないのは承知なので、まわりに民家のない辺野古に基地を作って運用するつもりだったのが、辺野古案を鳩ポッポに潰されて予定が狂っちゃって、もう、ゴリ押しするしかない。でも、ゴリ押しすればますます反米の風潮が強まり、コレで万が一にも落ちたりしたら、沖縄全土から米軍基地が追い出されてしまう。オスプレイの強行配備が日米安保を破壊するという、まぁ、そんな陰謀論も出ているようですw

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海外に日本人コロニー建設か

「想い出の彼方」というブログからの転載だが、実はそこに引用された「暗黒夜考」の孫引き引用である。
「暗黒夜考」はお気に入りにも入れているのだが、この記事には気づかなかった。だが、非常に面白く、示唆的な記事なので紹介したい。
まあ、偉い人たち、つまりお役人様や経団連の富豪たちが関東地方から逃げ出すのは時間の問題かとは思っていたが、こうしてコロニーを作って移住するとは思わなかった。せいぜいが大阪遷都くらいかな、と思っていたのだ。
確かに、放射能汚染食物が全日本的に流通すれば、日本のどこに逃げても無意味なのだから、海外脱出を図るのは当然だ。まさしく沈没する「日本」という船から逃げ出す鼠の姿である。
いやはや日本を放射能地獄にしておいて、その張本人たちだけが無事に逃げのびるとは、神様というのは実に皮肉なものである。悪いことをすればするほど報われる、という、子供たちへのいいお手本だ。いじめ事件などで子供に偉そうに説教できる大人などどこにいるだろう。こんな社会を作ってきたのがその大人たちなのだから。
しかし、日本の「悪の遺伝子」をそっくりそのまま受け入れるのは、ベトナムにとってもインドにとっても将来の禍根となるのではないだろうか。まあ、原発に限らず、金になるなら子孫などどうなってもいい、というのはベトナムやインドも同じかもしれない。
補足だが、引用文中には建設されるのは「工業団地」とあるが、記事内容から推測して、リゾート住宅地のように私には感じられる。


(以下引用)




-----------(暗黒夜考より転載)---------

最初にお断りしておくが、本日のエントリーは個人的妄想に基づくものであり、信じるか否かは個人個人にてご判断をいただきたい。

いくら落ちぶれてきたとはいえ、日本の誇る都市インフラ技術は世界でも指折りのものと言ってよいであろう。

戦後の国家施策であったとは言え、
どんな田舎まちでも道路がきちんと舗装され、国土の大部分にて電気・ガス・上下水道が完備されている国家などそうそう見当たらないであろう。

然るに、特に今後発展が見込まれるアジアを中心とする新興国にとって、
日本のインフラ技術をはじめとする都市基盤整備ノウハウは実に魅力的なものであることは想像に難くない話である。




今回、日経新聞にてベトナムにおける東急の大規模田園都市開発が取り上げられているが、問題は、何故今年2月に東急より公表されている内容が、半年近く経った今、クローズアップされているのか?である。

ここからが個人的妄想の世界であるが、思うにこれは官僚等、一部の”エスタブリッシュメント”(特権階級)専用の疎開地開発ではないかということである。

何から疎開するかについては、”放射能汚染”であることは言わずもがなであろう。


http://blog.goo.ne.jp/tarutaru22/e/d09a5429cfa56ebe2999641c0e84603f


※写真は極東開発を説明するプーチン。





これまでのエントリーにて何度もコメントしてきたとおり、首都圏を含む東日本の”放射能汚染”は着実に深刻化しており、フクシマ原発4号機にもしものことがあれば東日本はおろか、もはや国内に安全な場所などなくなるであろう。




そうなれば相当数の日本人が一時(いっとき)に海外に避難することが予想されるが、その際、果たして各国は諸手を挙げてこれを歓迎してくれるであろうか?

答えは「NO」である。




着ている物・所持品等がひどく汚染されているとの風評も立つであろうが、何よりも利己的な理由にて”地球規模的な環境汚染”を引き起こした張本人たる日本人を引き受けることを世界中が拒絶することであろう。




実際問題として、数千人単位ならともかく、数万人~数十万人(数百万人)単位の移民を一時に受け入れる国などありはしないであろう。

ならばどうすればよいかと言うと、今回のベトナムの事例のように、日本自身の資本にて自ら「まち」をつくることである。



日本のカネを同国に落とすと共に、そのインフラ技術を得られるとあらば、諸手を挙げて移民を望む日本人を受け入れる新興国は複数あるであろう。
そのような新興国に対し、”技術提供”を楯にして媚を売っておけばよいということである。







記憶にある方もいるかと思うが、実はこの手の話は今回が初めてではなく、以下の3つ目の記事にあるように、今年の正月明け早々にインドでも同様の構想が進められているのである。

即ち、「入植地」「コロニー」の創設である。




マンガ「機動戦士ガンダム」にて「スペースコロニー」という宇宙空間の入植地が登場したが、わかり易く言えばそれの新興国版である。

しかしながら、ここに入植できる人間には当然”定員”があり、一部の特権階級だけがその恩恵に与(あずか)れるということは想像に難くない話であろう。

政・財・官3者の間で具体的にどういう話がなされているのかはわからないが、我々一般市民にはハナからイスなど用意されておらず、これら一部の特権階級層(上層部)だけが当たり前のようにその席につくことであろう。





(転載開始)

◆日本の暮らし丸ごと輸出 ベトナムに東急田園都市
 内需型企業、成長の起爆剤に(1/4ページ)
 2012/7/15 20:07

生活水準の向上とともに成長してきた日本の内需企業。そのノウハウを海外に持ち込み、収益を得ようと、新興国に乗り出している。

最終製品に加え、日本の生活様式や食文化を根付かせ、新たな需要をつくりだそうとし…(以下、有料版)



◆東急/ベトナムでの都市開発で合弁会社設立
 2012年02月29日 「流通ニュース」
http://ryutsuu.biz/abroad/e022924.html

東京急行電鉄は2月27日、ベトナムのBECAMEX IDCと都市開発を行う合弁会社を設立すると発表した。

<都市開発のイメージ>

合弁会社では、ビンズン省新都市総面積約1,000haで、街区面積約110ha(敷地面積約71ha)を対象に、総額約1000億円規模の事業を実施する。

約7500戸の住宅、商業施設、業務施設などの「TOKYU BINH DUONG GARDEN CITY」を開発し、街の認知度を高めながら、定住に向けた街づくりを進める。

新会社は3月上旬に設立予定で、資本金は約327億円。出資比率は東急65%、BECAMEX IDC35%。

国内での「東急多摩田園都市」における街づくりのノウハウや東急グループとしてのネットワークを活用することで、日本企業としては、同国初の街づくりパッケージの輸出、同国最大級となる街づくりを展開する。


合弁会社の概要
名称:BECAMEX TOKYU CO.,LTD.
所在地:ベトナム社会主義共和国ビンズン省
代表者:星野俊幸
事業内容:不動産開発業・不動産販売業・不動産賃貸業
資本金:8兆6,000億ベトナムドン(約327億円)
設立年月日:3月上旬(予定)
出資比率:東急65%、BECAMEX IDC CORP.35%



◆インドに「日本品質の街」輸出.... 大規都市開発
 2012年1月5日 読売新聞

日本政府は、官民一体のインフラ(社会基盤)輸出として、インド南部のチェンナイ近郊で、大規模な都市開発を行う方針だ。

中小企業向けの工業団地と、日本人好みのショッピングセンターや病院なども併設した5万人が生活できる街をまるごと「輸出」する。

政府の新成長戦略に基づくインフラ輸出で、都市開発事業が具体化するのは初めて。

枝野経済産業相が10日、チェンナイを訪問し、州政府に支援要請する。

みずほコーポレート銀行とプラント大手の日揮が現地開発会社に計40億円を出資する計画だ。

工業団地は2・3平方キロ・メートルで今夏から販売を始め、2013年に進出工場の稼働を予定している。

併設される居住地区は2平方キロ・メートルで、インド洋を望む高級マンション群が中心の「リゾート都市」を13年以降、順次開発する。日系の ショッピングセンターやゴルフ場、日本人医師が常駐する病院なども整備する計画だ。日本人駐在員が家族で暮らせる高品質な街づくりを目指す。

(転載終了)

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