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資本主義と社会主義の相克と相互浸透

このブログの今後の方針としては、趣味的内容、娯楽的内容の記事を、気の向いた時に書いて行こうと考えているが、「神州の泉」に好記事が載っていたので、転載しておく。
好記事というのは、言うまでもなく、私と考えが同じである、ということだ。(笑)
現代史を概観する上で、資本主義と社会主義の相克と相互浸透が最も重要だと私は考えているが、その関係を実に分かりやすくまとめている文章である。
ぜひ、若い人たちの多くが、下に書かれたような認識を持ってほしいものだ。
学校や予備校の社会科教師なども、この程度の認識が無ければ、教師をするべきではない。





(以下引用)




専門家でなくとも分かることは、諸規制の存在が修正資本主義体制の重要な柱となっている事実である。
イギリスで発祥した資本主義は、産業革命後に「生の形」で発動したために、資本家の横暴がまかり通り、社会は貧困、格差、失業、労働不安、社会暴動の不安など様々な弊害を生み出した。

これに対抗する形で社会主義が生まれたが、第一次世界大戦後、資本主義体制を温存したままで、数々の深刻な弊害に国家が介入して修正を図るという考え方が取り入れられた。
これが修正資本主義である。
分かりやすく言えば、ラッサールの夜警国家から福祉型国家への組替えである。

世界が米ソ二大大国の冷戦ヘゲモニー状態にあったときは、共産圏の影響を防ぐために資本主義国家群は、比較的に福祉政策に注力していたが、1989年にこの東西冷戦が終焉し、強力な共産圏国家が事実上消滅してから、再び資本主義の猛威が頭をもたげてきた。
この歴史的な推移は、現代においては国際金融資本の世界侵略という形で各国に甚大な被害を与え、それは1%の超富裕層が99%の人間を経済奴隷の道に進ませている。

グローバル資本の最終目的は、社会主義体制が消滅した今の世界で、再び産業革命直後のイギリスのように、資本(企業)が勝手気ままに、支障なく利潤の追求に明け暮れるようなシステムに世界を変えて行こうとする趨勢である。
欲望資本主義が跳梁跋扈し、第一次世界大戦後に形作られた修正資本主義は彼ら1%による強力な外部干渉で崩壊しつつある。

これが日本で言えば、小泉政権以降に表舞台に躍り出た新自由主義(フリードマン主義)の実態である。
ミルトン・フリードマンのセオリーに従ったワシントン・コンセンサスとは、彼ら1%のための侵略思想なのある。

分かりやすい範囲で言うなら、この思想は貿易、投資の自由化、公的部門の民営化、政府介入を極小化することなど、夜警国家論の現代的な実践版となっている。
投資の自由化や公的部門の民営化、政府介入の極小化などは、99%の一般人の視点から見ると、修正資本主義国家が行っている福祉や国民を守る諸規制の取り外しを意味している。

この視点から安倍政権が国家戦略特区法や産業競争力強化法、あるいはTPPで強力に推進しようとしている「規制緩和」が、小さな政府論の典型的な具体化であり、それがグローバル資本の日本侵略のためであることを強く指摘することができる。














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林住期に入ります

しばらくご無沙汰をしたが、徽宗皇帝のブログに昨日書いたとおり、パソコンがおそらく寿命のようで、不調なので、初期化したらネット接続も当然できなくなり、面倒だからそのままブログ更新もやめていただけである。これを機に、ブログ自体の継続もやめようという気持ちもあった。数日前からネット接続はできるようになったが、ネットに関わるのもなかなか時間を取られるし、残り少ない人生の無駄ではないか、という気もするので、今後は更新頻度は極端に落ちるか、あるいは無期限停止になると思う。まあ、文章を書くこと自体は面白い作業でもあるから、個人的な趣味としては多分続けるだろうが、公開まではしないかもしれない。
しばらくブログが停止していたことについて、谷間の百合さんなどからご心配をいただいたようだが、ネット接続どころか、パソコンが使用不能状態だったので、そのCM自体、数日前までは読めなかったのである。ご心配をおかけして申し訳ない。(ミスによるコメントのダブりは削除させてもらいました! まあ、別にそのままでもいいのですがね)
特定秘密保護法案が先日成立したが、私のブログ中断はそれとは無関係である。まあ、心理的にはまったく無関係でもないが、私の思想はこれまで書いた内容で尽くされているから、今さらどうということもない。
これからはこのブログはかなり不定期更新になるか、無期限停止になると思うが、最後に、特定秘密保護法案その他の状況について、なかなか素晴らしい文章を小田嶋隆ツィッター経由で知ったので、それをしばらくの別れの挨拶に代える。筆者の岡田氏は都内の私立大の教員らしい。


うろ覚えだが、仏教で「林住期」という言葉があったと思う。死が近づいたらすべての現世(俗世)との縁を切って林の中に住むべきだ、という考えだったと思う。まだまだ死ぬ予定は無いのだが、精神的にはそろそろ林住期かな、という気分だ。時間はあるのに、やたらと心急いて何も手につかない、というこれまでの生き方をやめて、毎日をゆったりと、心静かに、人類の遺産や自然の美を楽しみながら生きていこうと思っている。




(以下引用)

2013年12月7日土曜日

祭りの後にするべきことについて 〜大切なこと3つ〜

 デモクラシーと憲法の根っ子をダメにしかねない法律が昨日成立した。ものを書く人間にとっては、昨日までの世界と今日からの世界が変わってしまうほどの大変なルールの変更がなされてしまった。怒りと情けなさと失望で少々無口になりかけている。多くの友人たちが元気を失っているようにも感じられる。当たり前だと思う。それが自分の頭でものを考える者たちの普通の反応だ。
 しかし、この2週間あまりの日々に、何かがおかしいと思い始めた人々が急速にその気持ちを増幅させていき、街頭に出て、立ち話をして、キーボードを打ち、人差し指で文字を送り出し、危険を伝え合った。大変な数の人々が肉体を動かして、「おかしなことになりかけている」と声帯を震わせた。日比谷公園に、ものすごい数の人々が集まった。永田町周辺も、どうにかしたい、なんとかしたいという人々が集まった。そこには大きな高揚感があったと思う。
 私たちのほとんどは、職業政治運動家ではないから、軍隊のような行進はできない。だから、怒りと憂慮でこわばる心を緩(ゆる)めるように歌い、話し、歩き、呼びかけ、声を出す。それにはいくばくかの祝祭的要素が必ず含まれている。そうでないと生きていけないからだ。それを見て「絶叫はテロだ」と自称職業政治家が言った。そして人々の心をこわばらせているのが自分たちだということを等閑に付し、なおも人の気持ちを縮こまらせようとした。
 だから言い返した。祭りで何が悪い。祭りは、人間の無力をサポートする何かを呼び起こすのだから、力を得たい、なんとかしたいと思う者は祭りをするのだ。「祭りなどくだらぬ」と、過去に生きた人々、今を生きる人々、未来の人間に貴方は言えるか?世界を畏怖する以上、私にはそんなことは言えない。言えるはずがない。
 しかし、祭りの高揚感の後には「心の二日酔い」がやってくる。昨日はよく呑んだなぁ、久しぶりに聞こし召しましたなぁ、ああ、もうしばらく酒なんかのまねぇぞなどと、脱力している。酔って口に出してしまった死ぬほど恥ずかしい言葉が鈍頭痛の合間をぬってハウリングする。心のある部分が開いてしまい、制動されそこなって、呆然とするような振る舞いをしたことも、古いモノクロームの映画のようにフラッシュバックしてくる。疲れた身体でつぶやく。
 
 「ああ、なんかが終わっちゃったなぁ」と。
 
  終わってなどいない。世界は「まだ」ギリギリで何も変わっていない。
 
 何も終わってはいない。これから始まる。私たちは、自由にものが言える世界をすでに疑う余地のないものと高をくくり、冬の日向ぼっこをしながら享受できると思い込んでいたが、そうした世界は「ものを言い続けなければ保つことができない」ということに気がついたと思う。あんな安易に、あんなにあっさりと、あんなに短い時間で、自由にものを言い、自分の頭でものを考えるための基本のルールが変更されてしまうのだということに気がついたと思う。しかし、途方に暮れている。で、どうすりゃいいの?と。
 
 だから私はここで、祭りの後に何をしたら良いのか、でもじゃあどうすればよいのか、そんなこと言われてもと途方に暮れている友人達に伝えたい。祭りの後の気だるさと脱力の中で何をするべきかを共有したい。
 大切なこと「その一」
 
 少々ささくれ立った「怒り」を、やや温度の低い「鋼(はがね)のような意志」へと変形させて、それを長く継続させる方法を習慣化させよう。ハートは熱く頭はクールに。
 そのために暮らしの中で感じた「異変」、「奇妙な変化」をひたすら記録しよう。
 「実におかしなことになってしまったではないか」という気持ちを持続する方法を考えることが必要だ。人間は全員上手に忘れる生き物として創られている。それは人間が様々な苦悩の中で完全につぶれてしまうことを防ぐ装置だが、同時に加速度を付けて過去を「既成事実(すんでしまって今さらどう仕様もないこと)」へと決めつけてしまう厄介なものだ。
 忘却し「ああ、あったよねぇ、秘密保護法、チョー盛り上がったよね」となり易い私たちを、どこかでせき止めるための工夫を考えねばならない。
「今までは問い合わせれば教えてくれたことを教えてもらえなくなった」とツイートする。
「調べものをしても、肝心な情報が出てこなくなった」とメモする。
「福島第一の様子が変だとツイッターが言っているけど情報が出ていない」とFBに書く。
「酷いことが起こっているのに、何故か皆が無口になっているような気がする」と話す。
 SNSは、日々の記録をデータベース化させるのに絶好のメディアであり、記憶装置である。
  大切なこと「二」
  
「あいつが悪い」と言う代わりに「こいつは我々の力になる」と言って友人を探そう。
 大切なことは、大きな悪の根源を「あいつのせいだ」としないことである。巨悪は、巨大なる悪を懐に抱えた強靭なる悪人によってもたらされるのではない。巨悪は、我々の怠惰と迂闊と油断を素とする小悪と微悪が集積してできるものである。だから「アベイッテヨシ!」と溜飲を下げるのは、明日に結びつかない迎え酒である。悪夢のようなアベは、七変化となって後から絶え間なく立ち現れる。そして、それは我々自身の何らかの幻影かもしれない。
 「あんなデタラメな法律に投票した自公と裏切り者のみんなの党と維新は許さん!ではなく、我々のボロ議会にも、議会人の良心を必死に維持した者たちがいたよ」と言い換える。
 「掲示板やツイッター見てるともう反吐がでそうなネトウヨがいる。あいつらは人間じゃないよ!ではなく、自分の頭でものを考えている人たちが他にもこんなに大勢いるではないか」と再確認してみる。
 「どんな時代どんな問題においても、問題があることすら気がつかない悪意なき人々が3割は存在するのが人間の世界であるという健全なペシミズムを持って」、諦めるのではなく「落ちついて」みる。
 「マスゴミという大雑把な言葉は捨てて、自分で考えたり、ものを書いたりする者はみな我々の友人足りうるのだから、横並びの関係で悪口を言うのはやめよう」と決心してみる。
 「だからあの時あれだけ言ったではないか!という口上は、後になって問題に気付いた友人達には決して浴びせず、一緒にもっとたくさんの友人に知らせよう」と誘ってみる。
  我々は闘う相手を間違えてはいけない。つまらない内ゲバは力を低下させる。
 「バカ」と言わずに、でも、それでも言いたかったら「残念です」と言い換えよう。
 大切なこと「三」
 「あっという間に3年ぐらい経ってしまう」という当たり前のことを思い出そう。
 今から3年前がどれだけ近い過去であったかを思い出した時、衆議院の任期満了が瞬き2回ぐらいでやって来ることに気がつく。3年前の201012月とは、震災の数ヶ月前である。暦の上「でも」もうディッセンバーと、裏声で歌ってみる。もう選挙は始まっていると考える。
 これほど迂闊で、粗雑で、杜撰で、前のめりになっている政権は、今日から任期満了になるまでに、必ずいくつかの致命的な過ちを犯す。議会が解散されないという保証も無い。
 ワールドカップを見て元気がついたら、次の選挙は目前である。人生は速い。
 まとめてみる。
 「おかしな出来事を記録する」
 「罵らず、友人を作る」
 「チャンスはすぐにやって来ると信じる」
  祭りの直後に、これだけのことを生活において習慣化すれば、我々は必ず世界を修正できる。ただし、やり「続け」なければならない。私は、今日からそれを始める。多くの人のおかげで高い教育を付けてもらった。だから恩返しのためにも頑張る。
2013127
   

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NHKへの好感と嫌悪感

「神州の泉」から転載。
この中に引用された「日々坦々」記事はたしか「文殊菩薩」にも転載されていたと思うが、拡散のため、こちらにも引用した。
私はどちらかと言えばNHKが好きである。特に、早朝の、誰も見ていないような時間帯の番組が好きだ。一種の環境ビデオのような、美しい自然の景色に美しい音楽が重なった映像が淡々と流されているのだが、それが好きだ。「小さな旅」も好きだし、ほかにも好感の持てる上品な番組が多い。民放の下品そのもののタレント救済番組(ほとんどがそれだ)とは段違いである。
しかし、政治姿勢に関しては、テレビ全体がダメである。NHKは料金を取っているだけに罪も重い。
ついでに言えば、NHKでも最近はステマが多く、ニュースの一部の情報コーナーでやたらとスマートフォンを持ち上げることが多い。これも気に食わないことの一つである。




(以下引用)






2013年11月26日 (火)



NHKは「特定秘密保護法案」の強行採決の場面を故意に生中継から外した(怒)




今日(11月26日)、午前中の衆院特別委員会の様子をNHKのラジオ放送で聴いていた。
すると審議が突然打ち切られ、総理の退席が告げられた。
怒号が飛び交い始めた段階でラジオの中継はいきなり止められた。
その数分後にNHKラジオは「特定秘密保護法案が採決されました」とそっけなく伝えた。

中継が止まる直前に怒声の出たことから、おそらく反対派議員たちが議長席に詰め寄ったものと思われたが、その肝心な場面は伝えられなかった。
はたしてテレビ中継は、この場面と強行採決の光景をきちんと中継したのだろうかと思っていたが、案の定、NHKはテレビ中継でも採決場面を中継しなかったようだ。

日々坦々さんは下記のように書いている。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

日々坦々 @hibi_tantan24

フォローする

NHKは総理退席の後、一旦、放送を終了させ、猪瀬都知事会見といくつかのニュースを報じた後、速報として特別委員会に再び切り替え、特定秘密保護法案が採決されたと報じた。完全に最初から強行採決される映像を恣意的に避けて、政府と申し合わせしているとしか思えない。

2013年11月26日 11:23 AM

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

NHKはテレビもラジオも肝心な強行採決場面の生中継を避けていたのである。
反対派議員たちが、突然の審議打ち切りから強行採決にいたるまでに頑強に抵抗する様子を故意に視聴者に見せない方針を取っていたことは間違いない。
実に卑劣というか陰険な放送姿勢である。

強行採決に対する議員連中の抗議の様子が放映されれば、反対派の視聴者を刺激することを恐れたのである。
もしかしたら、これは官邸の要請だった可能性もある。
だが、肝心の場面を中継から外して、その後に結果だけを伝えるとすれば、そのやり方は活字媒体の新聞と変わらず、リアルタイムの映像中継の意味がない。

報道公器としてのテレビの役割を自ら放棄する愚劣かつ姑息な姿勢と言えるだろう。
このような重大法案の採決状況だけが故意に生中継からブラインド(目隠し)されたことは、NHKが安倍政権に協力していることの明白な証拠であり、同時に報道倫理としての不偏不党原則を完全に破っていることになる。


それにしても怒りが湧いてくる。

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防空識別圏より、過剰反応の方が問題

中国が防空識別圏をどうしたこうしたとうるさいので、ウィキペディアで調べたら、べつにどうという話ではない。防空識別圏を設けるのは防衛上の常識的行為であり、それは国家が自由に設定する、というのが慣習のようである。そもそも、他国の防空識別圏に侵入しようとする行為自体が戦争挑発行為であり、そういう行為さえしなければ、何の問題もない話である。
他国の飛行機が無断で「防空識別圏」に侵入したら?
撃墜すればいい。その当事者が中国だろうが日本だろうが、同じである。
それだけのことだ。
その後、戦争にまで発展するかどうかは、国家指導者の叡智のレベルによる。




(以下引用)




防空識別圏







防空識別圏(ぼうくうしきべつけん、Air Defense Identification Zone、ADIZ)とは、国などの防空上の理由から設定された空域のことである。英称の頭文字から「アディズ」や「エイディズ」と呼ばれることがある。日本国の防空識別圏は1945年にGHQが制定した空域をほぼそのまま使用しており[1][2]、航空自衛隊の対領空侵犯措置の実施空域に指定している。

他国との中間線付近には防空識別圏外側線(アウターアディズ)が設けられ、国外からの航空機の侵入を警戒するほか、領海線付近にも防空識別圏内側線(インナーアディズ)が設けられ、国外への不法渡航が監視されている。防空識別圏内を飛行する際は、飛行計画を航空管制機関に提出することが義務づけられており、 止むを得ず事前に提出された飛行計画と異なる飛行を行う場合は、航空交通業務機関及び自衛隊レーダーサイトに通報しなければならない。また、防空識別圏内で飛行する場合は常時レーダーサイトに監視されており、121.5MHzまたは243MHzの航空無線に応答できるよう取り決められている。






空軍力への対抗[編集]





日本の防空識別圏(外側線内)(夢人注:これは写真のキャプション。写真はカット)

自国の航空機が平和時に他国の防空識別圏内を飛行する場合には、事前に飛行計画を提出することで望まない偶発的紛争や軍事的緊張が高まるのを防ぐよう配慮されていると一般的には理解されている。ただ、この防空識別圏は国際法で確立したものではなく、領空、領土の範囲を定めたものではない。

多くの国において領海は12海里に設定されており、他国機が領海上空の領空を侵犯してから領土上空に到達するまで、旅客機でも1分強、超音速軍用機であれば数十秒あれば可能であり、領空侵犯を確認してから対応するのでは手遅れになる危険がある。従って領空の外周の空域に防空識別圏を設定し、届けのない航空機が防空識別圏に進入した時点で空軍力による強制措置を含む対応がなされる。そのためのスクランブルは、当該機が防空識別圏に進入する姿勢を見せた時点で行われることが多い。




(引用2)「ウィキペディア」から転載。長いので、暇な人向け。この事件も当時大騒ぎされたわりに有耶無耶で終わり、その事にむしろ私は驚いた。結論的には、ソ連の撃墜行為は正当な国家防衛行為だったということだったのではないか。要するに、他国の領空を侵犯するのはもちろんとんでもない行為だが、防空識別圏もそれに近いわけで、そもそも、他国の防空識別圏に近付く必要性など、スパイか戦争挑発の意図以外には無いのである。下記事件はパイロットのミスによるものだろうと推測されているが、要するに、少し誇張すれば、お店の商品を無断で自分のポケットの中に入れたら、逮捕されても仕方がない、というレベルの話である。






大韓航空機撃墜事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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大韓航空 007便
1981-09-15 12-00-00 United States Hawaii Aliamanu 2.JPG
事故機のボーイング747-230(HL7442/1981年撮影)
概要
日付1983年9月1日
原因領空侵犯による撃墜
場所北海道の北・樺太近海
死者269
負傷者0
航空機
機体ボーイング747-230
航空会社大韓航空(KAL)
機体記号HL7442
乗客数240
乗員数29
生存者0
テンプレートを表示

大韓航空機撃墜事件(だいかんこうくうきげきついじけん)は、1983年9月1日大韓航空ボーイング747が、ソビエト連邦領空侵犯(航路逸脱の原因については後述) したために、ソ連防空軍[1]の戦闘機により撃墜された事件。乗員乗客合わせて269人全員が死亡した。


なお、大韓航空はこの5年前にも航法ミスでソ連領空(コラ半島上空)を侵犯し、ソ連軍機に迎撃されている(大韓航空機銃撃事件)。


日本で大韓航空機事件と呼ぶ場合この事件の事を指す場合と、1987年11月29日大韓航空機爆破事件のことを指す場合に分かれるが、両事件の性質は基本的に異なる(混同しているケースもみられるので注意が必要)。


(中略)

経緯[編集]

007便の概要[編集]

 
 
 

事件の当該機となった大韓航空のKAL/KE007便は、アメリカ・ニューヨークジョン・F・ケネディ国際空港を出発し、アンカレッジのアンカレッジ国際空港(現在のテッド・スティーブンス・アンカレッジ国際空港)を経由、大韓民国ソウル金浦国際空港に向かう、当時週4便で運航されていた定期便である。なおこの便は1979年4月に開設されたもので、事故機には「I LOVE NEW YORK」というステッカーが貼られていた[2]


機材はボーイング747-230型機(HL7442)を使用。ファーストクラスエコノミークラスの2クラスが用意され、当日の乗客は240人、乗務員は千炳寅(チョンビョンイン)機長以下29人(うち6人が「デッドヘッド」= 業務移動のため乗務した非番の乗務員)となっていた。なお、乗客乗員の国籍は次のとおりである。


国籍人数
オーストラリアの旗 オーストラリア2
カナダの旗 カナダ8
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国1
香港の旗 香港12
インドの旗 インド1
イランの旗 イラン1
日本の旗 日本28
韓国の旗 韓国 76(乗客)
23(乗務員)
6 (デッドヘッド乗務員)
マレーシアの旗 マレーシア1
フィリピンの旗 フィリピン16
台湾の旗 台湾23
スウェーデンの旗 スウェーデン1
タイの旗 タイ5
イギリスの旗 イギリス2
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国62
ベトナムの旗 ベトナム1
合計269

発着国の韓国人とアメリカ人の乗客が多くを占めたが、日本中華民国、当時イギリス植民地であった香港フィリピン国籍の乗客も多かった(なおフィリピン人のうちの4人は日本在住者で、そのうちの1人は横浜市セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに通学する小学生であった)。また、業務渡航客から観光客まで幅広い層が利用する路線であったことから、1987年大韓航空機爆破事件と比べると犠牲者の年齢層も幅広い(日本人の犠牲者で最年少は3歳の男児だった)。


なお日本人乗客の多くは、日本航空パンアメリカン航空の直行便に比べて航空券が安価な大韓航空を使い、ソウルを経由して日本へ戻る観光客や留学生であった。また乗客には、右翼団体のジョン・バーチ・ソサエティの会員で、アメリカの民主党の保守派議員として知られ、ソウルでの式典に参加するために搭乗していたラリー・マクドナルド下院議員も含まれていた。

撃墜までの経過[編集]

予定航路(破線)と実際の飛行航跡(実線)の地図

※時刻は東京/ソウル時間(GMT+9)。


(中略)

事件の発覚[編集]

航路を外れた007便は航空自衛隊の稚内レーダーサイトにより観測されていた。しかし、この時点で洋上飛行中(のはず)であった007便はATCトランスポンダから識別信号を発しておらず、航空自衛隊は007便を「ソ連国内を飛行する所属不明の大型機」として、その周りに飛行するソ連軍戦闘機を、「迎撃訓練を行う戦闘機」として扱った。


これとは別に、陸上幕僚監部調査第2部別室(通称「調別」、電波傍受を主任務とする部隊)は、ソ連の戦闘機が地上と交信している音声を傍受。「ミサイル発射」のメッセージを確認したが、この時点ではソ連領土内での領空侵犯機に対する通常の迎撃訓練が行われていると考えており、実際に民間機が攻撃されていたという事実は把握していなかった。この録音テープは、のちにアメリカがソ連に対し撃墜の事実を追及するために使用するが、公式には日本政府からアメリカへの引き渡しは行われておらず、どのような経緯で渡ったのかは不明である)。


撃墜直後、稚内のレーダーサイトは所属不明機の機影が突然消えたことを捉えた。しかし、行方不明機がいないか日本や韓国大邱)、アメリカ(エルメンドルフ)、ソ連(ウラジオストク)の各航空当局に照会したところ、前記の3国からは「該当機がない」との返答を受け、ソ連からは返答そのものがなかった。


撃墜30秒後、それまで007便を通信管制していた東京管制に雑音が混じった007便からの呼び出しが入ったが、そのまま連絡が途切れた(「急減圧により緊急降下する」旨の交信の内容は、その後鈴木松美の音声分析により判明)。付近の飛行機からも007便へは無線が通じず、30分後から「遭難の可能性あり」として当局に捜索を要請した。

各国政府の対応[編集]

撃墜当日[編集]

 
 
 

9月1日の朝の時点で日本政府が、大韓航空機が「サハリン沖」で行方不明になったことを公式発表し、午前7時前後には日本のテレビラジオでは「ニュース速報」として「大韓航空機が行方不明になった」と報じた他、各国の通信社東京発の情報として大韓航空機の行方不明を報じた。


またこの後に「ソ連軍機により樺太に強制着陸させられた」、「乗客乗員は全員無事」などの出所のわからない誤報も報道機関の間で飛び交い、日本の各マスコミはこれらの誤報を朝から昼にかけてニュースで放送した上に、夕刊に掲載してしまった新聞社もあった。さらにこれらの記者が家族に対して直接伝えたりしたために、大韓航空や家族などの関係者が混乱する一幕もあった。


このような日本や韓国、アメリカなどの西側諸国の報道に対し、ソ連は「該当する航空機は国内にいない」、「領空侵犯機は日本海へ飛び去った」と事件への関与を否定した。これに対してアメリカは、この日の内に「ソ連軍機が007便を撃墜した」と発表。日本当局から入手したソ連軍機の傍受テープも雑音を除去しロシア語のテロップを付けた上で一部放送した(自衛隊が傍受した軍事情報であるこのテープを公開することについて、中曽根康弘首相や後藤田正晴官房長官をはじめとする日本政府首脳は全く相談を受けていなかっただけでなく、自衛隊からアメリカ側に渡った事実も伝えられていなかった。さらにどのように渡ったのかも不明なままである)[4]


このアメリカ政府による正式発表を受けて、事件の当事国である日本や韓国、アメリカなどの西側諸国ではソ連に対する非難が起こり、ソ連政府に対して事実の公表を求めた。


当日、ソ連の政治局会議が行われたがこの会議では議題にならなかった(ユーリ・アンドロポフ書記長に対しては会議直前に撃墜の報告は行われた)。翌日には事件の反響に伴い、臨時政治局会議が健康不良のアンドロポフに代わりチェルネンコ主催で行われるが、「領空侵犯を計画的な挑発行為として非難する」事のみの決定に留まった。


またこの日には、北海道沖で操業していた日本の漁船が機体の破片や遺品を発見した。これと前後して、海上保安庁アメリカ海軍の船艇が、大韓航空機が墜落したと思われる付近に向けて捜索に向かった。

翌日以降[編集]

9月2日には、ソ連の参謀総長 ニコライ・オガルコフが「領空侵犯機は航法灯を点灯していなかった」、「正式な手順の警告に応答しなかった」、「日本海方面へ飛び去った」と発表した(のちに、航法灯は点灯しており十分な警告は行われていなかったことをパイロット自身が証言する)。これに対してアメリカ大統領 ロナルド・レーガンはソ連政府を「うそつき」と非難した他、当事国である韓国の大統領 全斗煥もソ連を激しく非難した。また、多くの西側諸国の政府がソ連の対応を非難する。


9月6日に、国連安全保障理事会において、陸上幕僚監部調査第2部別室が傍受したソ連軍機の傍受テープに英語とロシア語のテロップをつけたビデオがアメリカによって各国の国連大使に向けて公開され、ソ連軍機による撃墜の事実を改めて世界に問いかけた。これに対してソ連大使はビデオの公開中一貫して画面から目をそらし続けていたが、この後、ソ連の外務大臣 アンドレイ・グロムイコは撃墜を認める声明を正式に発表した[5]


9月9日には、ソ連の参謀総長 オガルコフが「大韓航空機は民間機を装ったスパイ機であった」との声明を発表。9月13日には、緊急安保理事会でソ連への非難決議が上程されるが、常任理事国のソ連の拒否権の行使により否決された。


なお、当事者である韓国は当時ソ連との国交がなかったうえ、国連に加盟していなかったこともあり、ソ連への抗議や交渉、国連での活動は、国連加盟国でソ連と国交があり、かつ事件の当事者である日本(事件時に当該機の管制を担当し、さらに隣接する公海上に当該機が墜落、また多くの乗客が被害に遭った)とアメリカ(当該機の出発国であり、また多くの乗客が被害に遭った)が主に行った。

(以下略)














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いのせ(瀬)もやがて淵となるか

久々に小田嶋隆ツィッターから転載。
いや、本当に小田嶋隆は天才だ。
ついでに言うと、私は高校くらいまで「恋すてふ」を「恋捨てふ」と思っていた。「ふ」って何だよ。いや、それくらいはまけとけ、となると落語の「ちはやふる」だが。
念のために、下記狂歌の元歌を、句読点・引用符付きで書いておく。「てふ」は「と言ふ」の縮約形、「まだき」は「早くも」の意。最後の「しか」は[過去助動詞「き」の連体形「し」+疑問の「か」]ではなく、上の「こそ」との係り結びで、「しか」全体が過去助動詞「き」の已然形である。


「恋す」てふ、我が名はまだき、立ちにけり。人知れずこそ思ひ初めしか。




(以下引用)



小田嶋隆 ‏@tako_ashi 11月23日

返すてふ わが名はなおき バレにけり 人知れずこそ もらいそめしか




 

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寒い話

「長く、暗い冬」というタイトルで徽宗皇帝のブログに記事を書いたが、そこからの連想で、小泉八雲の「鳥取の布団の話」を思い出したので、ネットで拾ったものを転載しておく。訳が少し軽すぎるし、アレンジしてあるので、八雲作品の持つ詩情や不気味さが失われた感があるが、冬の夜、寒さに震えて布団をひきかぶる時には、この話を思い出すのもいいだろう。子供なら、この話がトラウマになって、布団そのものを怖がるようになりかねない話である。

ついでに、同じく寒さからの連想で、山上憶良の「貧窮問答歌」も後で追加しておこうと思う。



(引用1)最初の「ムカ~シ」は、この話の陰惨さにまったく釣り合わないと思うので、訂正させてもらう。その他、少々変更した。







鳥取の、ふとんの話

〔小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『怪談』から〕





 昔、鳥取に小さな宿屋がありました。
この宿屋の主人は開店して初めてのお客に一人の旅の
商人を迎えました。宿屋は新しい店ではあり
ましたが、お金があまりなかったため、家具などはすべ
て古道具屋から買ってしつらえたものばかりでした。  
 お酒などのたくさんのもてなしを受けたお客は横にな
るとすぐに眠ってしまいました。


眠っていると
誰もいないはずの部屋から
もの悲しげな声がきこえてきました。

「兄さん寒かろう」

「おまえこそ寒かろう」

 二人の子どもの声でした。

 お客は明かりをつけて部屋の中を見回しましたが、だ
れもいません。気のせいかと思いましたが、また、

「兄さん寒かろう」

「おまえこそ寒かろう」

 という声が聞こえてきました。
よく聞くと、掛けているふとんからこの声が聞こえてくるのです。
 

 気味の悪くなったお客は慌てて勘定をすませ宿をとびだしていきました。

 つぎの晩も同じようにふとんに怯えた別の客が出てい
ってしまいました。
 はじめは、お客の話を信じていなかった主人もさすが
におかしいと思い、そのふとんを自分で掛けて寝てみる
ことにしました。すると――

「兄さん寒かろう」

「おまえこそ寒かろう」

 という声がするのでした。




 
 このふとんは、もとは貧しい一家のものでした。
 貧しい家でしたが両親と2人の子供の4人で仲良く暮
らしていました。しかし、あるとき父親が病気で亡くな
り、それを追うように母親まで亡くなってしまったので
す。残された2人の子どもは頼りもなく生きていくため
に身の周りのものを売っていくしかありませんでした。
そして一番最後に残ったのがこのふとんでした。

 ある寒い日、二人がふとんにくるまって寝ていると、
家主が家賃を払えとふたりのところへやってきました。
家賃が払えないふたりは、ふとんを取り上げられ、雪の
降るなか外に放り出されてしまいました。ふたりは寒さ
を凌ごうと抱き合い、いつしか眠ってしまい、永遠に目
覚めることがなかったのです。あまりの寒さにふとんに
魂が取り憑いてしまったのでしょう。

 そんなかなしい話を知った宿の主人は、ふとんを供養
してもらいました。
 
 それからは、ふとんがしゃべることはなかったという
ことです。








(引用2)夢人が少し訂正してある。たとえば、「布肩衣」が「布肩着ぬ」と誤記されていた。その他、返歌が長歌部分と連続していたのを分けて表示し、一部は色字にした、など。


貧窮問答歌

 風雑(ま)じり 雨降る夜の雨雑じり 雪降る夜は術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しは)ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かきなでて 我除(われお)きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引きかがふり 布肩衣 有りのことごと きそへども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ このときは 如何にしつつか 汝(な)がよはわたる
 天地(あめつち)は 広しといへど 吾がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明(あか)しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾れもなれるを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち掛け ふせいおの まげいおの内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは足の方に 囲みいて 憂へさまよひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 言えるが如く 鞭(しもと)とる 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術なきものか 世の中の道 


世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば




風交じりの雨が降る夜の雨交じりの雪が降る夜はどうしようもなく寒いので,塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり,咳をしながら鼻をすする。少しはえているひげをなでて,自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが,寒くて仕方ないので,麻のあとんをひっかぶり,麻衣を重ね着しても寒い夜だ。私よりも貧しい人の父母は腹をすかせてこごえ,妻子は泣いているだろうに。こういう時はあなたはどのように暮らしているのか。

 天地は広いというけれど,私には狭いものだ。太陽や月は明るいというけれど,私のためには照らしてはくれないものだ。他の人もみなそうなんだろうか。私だけなのだろうか。人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなく,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ。ぬえ鳥の様にかぼそい声を出していると,短いもののはしを切るとでも言うように,鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえる。こんなにもどうしようもないものなのか、世の中というものは。


この世の中はつらく,身もやせるように耐えられないと思うけれど,鳥ではないから,飛んで行ってしまうこともできない。


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今の日本は何色か

今日の「徽宗皇帝のブログ」の記事タイトルの解題(解説)として、ネットで拾った「茶色の朝」の書評を転載しておく。



(以下引用)






■書評『茶色の朝』





 昨年十二月に日本で発刊された本書を、遅ればせながら手にとった。
 原本は一九九八年、フランスで出版された。八〇年代以降仏国内で勢力を伸ばしはじめた極右政党国民戦線が、同年の統一選挙で躍進。著者フランク・パブロフ氏は、これと協力関係をとり結ぼうとした保守派の動きに抗議するために本書を出版した。そして二〇〇二年。仏大統領選の決選投票にルペン・国民戦線党首が臨むことが決まった直後から本書は爆発的に読まれ、ベストセラーに。かつてナチス・ドイツに侵攻された歴史を持つ欧州の人々にとって、初期のナチス党が制服に使っていた茶色はナチズム、あるいはファシズムの象徴なのだという。このわずか十一ページの寓話は、全欧州で擡頭する極右運動への人々の危機感を覚醒させたのである。


 …主人公はある日、友人に彼の飼犬だった黒色のラブラドールを安楽死させた、と告げられる。主人公が白地に黒のぶちが入った猫を処分したのと同様に。毛が茶色以外の犬猫を飼ってはならないという法律を政府がつくったからだ。街には自警団がつくられ、毒入り団子が無料配布される。主人公は胸を痛めるが、人間のどもと過ぎれば熱さも忘れるものさ、と呑気に構える。そのうち、この法律を批判する新聞が廃刊に追い込まれ、この新聞社系列の出版物が街中から強制撤去される。あらゆる言葉に「茶色」という修飾語を織り交ぜ友人と会話をするようになる主人公。やがて「茶色に染まること」に違和感を感じなくなっていく。ある日、お互い自分からすすんで飼いはじめた茶色の犬と猫とを見せあいながら、二人は笑い転げる。「街の流れに逆らわないでいさえすれば」「茶色に守られた安心、それも悪くない」と。だが、「快適な時間」を過ごしていたはずの彼らに、突然「国家反逆罪」のレッテルが張られ--。



 「私たちのだれもがもっている怠慢、臆病、自己保身、他者への無関心といった日常的な態度の積み重ねが、ファシズムや全体主義を成立させる重要な要因であることを、じつにみごとに描き出して」いる。東京大学大学院教授の高橋哲哉氏は、本書への「メッセージ」のなかでこう述べている。そして氏は、この物語は日本にも無縁ではない、主人公たちが「茶色」を受容していく時に持ち出すさまざまな「言い訳」と似たような理由をつけてその都度「流れ」を受け入れているじゃないか、と警鐘を打ち鳴らす。そしてこう結ぶ。「やり過ごさないこと」「思考停止をやめること」が必要だと。


 ついに日本国軍隊がイラクの軍事占領を米英とともに担うためについに足を踏み入れたいま。私は、たくさんの人が本書を手にとって、この日本社会も「茶色に染め上げられ」てんだと感じてほしいと思う。それは非常に大きな一歩であり、心有る者の前提である。
 同時に私は、では私たちはこの寓話から何を紡ぎだすべきかと考えた。おそらく多くの日本人は、高橋氏の解説がなければ、この寓話を「読めない」だろう。まず私は、パブロフ氏と私たちとの歴史感覚、身体感覚の違いに驚愕した。確かに、イラク戦争とは何だったのかを問う声はここ日本でも皆無ではない。しかし、その多くが国家権力の命令を己の使命とする軍隊に対して「殺すのも殺されるのもダメ」と哀願するものだ。ここからこの寓話に匹敵するものを生み出せる人間がどれほどいるだろうか。この一事に、日本にある私たちが感じ考えるものの浅薄さと軽さを発見し、ずきんと胸が痛むのだ。なぜこんな社会になっているのか。この痛みから私たちははい上がるしかない、と思いを新たにする。
 本書を読んで前が開けるものを感じるのは、パブロフ氏の思いに反するだろう。氏は、イラク軍事占領の当事国の国民である私たちに重い宿題を突き付けた。この宿題にどう答えるかを模索する道程に一歩足を踏み出すことが、私たちには問われている。(晴佳)




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