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高校生のための「現代世界」政治経済編1

第三部 政治経済

 地理は政治と経済のための舞台であり、歴史は政治と経済の記録です。現代の世界を知る総仕上げは政治と経済ですが、高校生にとって(いや、大人にとっても)これほど分かりにくいものはありません。特に、近代の経済学は、数学が付き物ですから、文系の人間は最初から敬遠してしまいがちです。しかし、恐れる必要はありません。数学は、学者が自分の学説を権威づけるための装飾にしかすぎないと思っていいのです。我々が知りたいのは、本物の経済であり、経済「学」には用はありません。
 経済学者なんて楽なものです。なにしろ、マルサス(マルクスではありませんよ。)なんてのは、「食糧生産は算術級数的にしか増えないが、人口は幾何級数的に増える」という言葉だけで歴史に名を残したようなものです。要するに、人口の増加に食糧生産は追いつかないから、そのうち人類は深刻な食糧危機を迎えるぞ、ということです。この考えは、ローマクラブの「成長の限界」に換骨奪胎されています。人類の文明の発展によるエネルギー消費は、やがてエネルギー資源の枯渇を招き、人類はエネルギー危機を迎えるというのが、その考えです。ごく当たり前の話のようですが、それまでは誰も言わなかったのです。
 マルクス(マルサスと名前が似てますが、こちらは例の髭親父です。)は、労働による生産は、資本家によって搾取されているという、当たり前の事実を述べただけで、二十世紀の世界を動かしました。彼の説を簡単に言うと、「ある大きさのパイ(でもケーキでもかまいません)をある人数で分けるのに、誰かがズルをして多く取ったら、他の人の取り分が少なくなる」という、幼児でも分かるような説なのです。しかし、彼の説の欠点は、パイの大きさは不変ではなく、文明が進むにつれてパイが大きくなり、一人一人の取り分も大きくなることを無視していたことです。そのため、労働者が、与えられるパイ以上には働く意欲のなかった社会主義国家は、労働者が資本家に飴(給料や昇進)と鞭(解雇される恐怖)で追い立てられ働かされ、パイが自動的に大きくなっていく資本主義国家に経済的に敗北しました。
 そして、経済的敗北とは、そのまま政治的敗北でもあります。
 それによって、資本主義と社会主義の優劣の比較は終わったと思われていますが、果たしてそうなのか、これは後で考えましょう。その前に、資本主義と自由主義、社会主義と共産主義の違いも説明したいと思います。
 政治経済の問題、知るべきことはいろいろありますが、なるべく大事な問題、興味深い問題を中心に、軽く読めるように書いていきましょう。ただし、この本は、みなさんが自分の頭で考え、議論ができるようにするための土台であり、ここに述べられた考えは、私の主観的考えでしかありませんので、その点は注意してください。

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「第三部」が「第二部」である理由(付、記事閲覧上のアドバイス)

連続投稿でうんざりする人もいるだろうが、いつ投稿不可能になるか分からないので、今日のうちに残りも投稿しておく。
「高校生のための『現代世界』」は「歴史」「地理」「政治経済」と三編あるが、「地理」はかなり不十分なので省略し、書いた時には「第三部」としていた「政治経済」を掲載して、それで一応の終わりとする。
できれば、私の拙文が、高校生への啓蒙という試みを多くの人が行うための叩き台になれば幸いだ。



老婆心ながら、この「現代世界」を一気に読むなら当ブログカレンダーの「5月5日」をクリックすれば全部が一度に出てくるので、そうするようお勧めする。

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高校生のための「現代世界」4(世界近代史編終了)

1933年、ドイツはその前に加盟していた国際連盟から脱退し、1935年、再軍備を宣言します。ドイツと同じくイタリアも、ムッソリーニ率いる右翼政党(つまり、反共産主義を唱え、資本家たちの支持を得ている政党です。)ファシストによる全体主義的国家に変わっていましたが、そのイタリアも恐慌による経済危機打開のために他国への侵略を図り、1935年、エチオピアへ侵入します。こうした右翼政権に共通しているのが、共産主義弾圧であり、世界の共産主義者とそのシンパ(賛同者)は、右翼の共産主義弾圧行為に対抗して人民戦線を各国に広げていきます。共産主義は、非現実的な政治経済思想ですが、ファッシズムに対して最初にはっきりと戦ったのは共産主義であったことは、注意しておくべきでしょう。当時の共産主義は、一種のユートピア的理想主義でもあったのです。理想に燃える純真な(というよりは、無邪気で騙されやすい)若者たちにとっての新しい宗教だったとも言えます。現在の共産主義のイメージの悪化は、第二次世界大戦後の「共産主義」国家の醜悪な実態や日本の学生運動の愚劣な現実のせいもありますが、資本主義社会での、人々の恐怖心を煽るマッカーシズム(いわゆる赤狩りです。)のような反共活動も大きく影響しているのです。つまり、政治の中心にあるのは、常に資産家階級の利害である、というのが、歴史の大原則だと考えていいのです。国家としての大義名分など口実にすぎません。しかし、どこの国でも国民の九割九分は様々な「教育」で洗脳されてますから、その事実に気がつかないわけです。まあ、私だって、自分が金持ちになったり、官僚になったりしてたら、同じことをするかもしれませんから、自分だけ清らかな顔をするつもりはありませんが。
1931年、関東軍の自作自演である柳条溝鉄道爆破事件をきっかけに満州へ進軍した日本は中国と戦端を開き、(これは満州事変と呼ばれ、まだ完全な戦争状態ではないミニ戦争です。)1932年には清朝の最後の国王溥儀を国王として満州国を建国しますが、国際連盟は満州国を承認せず、日本は33年に国際連盟を脱退します。
1937年、盧溝橋事件によって始まった日中戦争は、やがて日本対アメリカの太平洋戦争へとつながっていきます。この戦争を指導した参謀本部の軍部エリートがいかに馬鹿ばかりであったか、また、戦後に彼らがいかに責任逃れをしたか、興味のある人は、他の本などで読んでください。
1937年、日本・ドイツ・イタリアは、防共協定、つまり共産主義弾圧のための協定を結びますが、これが第二次世界大戦での枢軸国の土台です。つまり、この三カ国に共通しているのは、いずれも右翼政権が支配していた国であったということですが、それを単なるナチスやファシスト党や日本の軍部の問題にすりかえるべきではなく、それを支援していた資本家や経済的支配層の存在を無視するべきではありません。政治が国民全体に奉仕するのではなく、一部の人間の利益に奉仕することが、様々な不幸を生み出すのです。そして、敗戦によっても裁かれるのは政治家や官僚の一部であり、経済的支配層が戦争犯罪者として裁かれることは無いのですから、政治家や官僚は結局、経済人の手足でしかないと言えるでしょう。ついでに言っておくと、ナチスのユダヤ人殺害のための様々な施設の建設と維持を請け負ったのは、アメリカの企業だったようです。その企業が戦後に何かの咎めを受けたという話は聞いていません。
1939年、ドイツのポーランド攻撃に対し、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、第二次世界大戦が始まります。
中国との戦線を拡大し、東南アジアの資源獲得を狙った日本に対し、アメリカは在米日本資産を凍結し、日本への石油輸出を禁止しました。この措置に対し、日本は1941年12月8日未明にハワイ真珠湾への奇襲攻撃をかけ、日米は開戦します。この攻撃が宣戦布告数時間前に行なわれたことで、日本は卑怯なだまし討ちをする民族だというイメージがアメリカ人の間で定着しますが、実はアメリカ側は日本の暗号電文を解読して真珠湾攻撃はすでに知っていたと言われています。つまり、すでに始まっていた世界戦争への参加を狙っていた(もちろん、戦争で儲けるためです。)米国上層部は、戦争参加に不賛成の意見が多かった国民の間で参戦への合意を形成するためのきっかけを探しており、わざと日本に先制攻撃をさせたということです。それを信じる信じないはみなさんの自由ですが、アメリカという国の伝統的政治行動パターンの中には、自作自演で何かの口実を作り、それをきっかけに自国にとって有利な政治行動を強引に始めるというものがあることは確かです。(ベトナム戦争でのトンキン湾事件や、ごく最近の9.11事件などはそれでしょう。)
1943年、イタリアは降伏し、45年5月にドイツも降伏し、日本の降伏も目前になってきた同年8月、アメリカは日本に原爆を投下します。この行為は、今にもノックアウト負け寸前のボクサーの頭をピストルで打ち抜くような残虐な、そして表面的には無意味な行為であり、その真意は、新しく発明された原爆の威力を実験することにありました。原爆の威力はすでに予測されていましたが、それを世界に知らしめるためには、実際の戦争でそれを使ってみせる必要があったのです。それが戦後のアメリカの世界経営にとって必要だという判断によるものでしょう。さすがに、白人の国を相手には原爆を使うことはできなかったので、東洋の猿どもを相手にためしてみようということです。では、なぜ東京ではなく地方都市がその対象として選ばれたか。それは、たとえ敵国でも、そのエスタブリッシュメント(支配層)まで絶滅させた場合、それが歴史的な先例となり、自分たちが別の機会に同じことをされる可能性があるからでしょう。あるいは、政治経済的支配層やその配下を残しておいたほうが、占領後に彼らを自分の手足として使うことができるという計算かもしれません。あるいは、東京のお偉方とアメリカのお偉方の間に秘密の約束があったのかもしれません。どうせなら、東京に原爆を落としてくれていたほうが、日本を悲惨な戦争に追いやった張本人たちが掃除されて、日本はもっと良くなっていたかもしれませんが。ついでに言っておくと、近現代のほとんどの戦争では、政治や経済の上層にいる人間やその家族縁者が戦場に出て死ぬことはほとんどありません。ベトナム戦争の頃に、現ブッシュ大統領が徴兵逃れのために安全な州兵(ミリシア)となってお茶を濁していたというのは、一部の人間には良く知られた話です。いまの米国政治のタカ派と呼ばれる好戦的な連中のほとんどは、実は皆、徴兵逃れをした「チキン・ホーク(弱虫の鷹)」なのです。
世の中とはそういうものです。ですから、戦争をやめる一番の方法は、誰かが言っていたように、戦争を決定し、それに賛同する人間やその家族にまず最前線に出て戦ってもらうことでしょう。(現代の戦争は、大量破壊兵器を用いるから、一部の人間だけがその被害を免れることは不可能だ、だから一部の人間の利益のために戦争が起こるという考えは妄想だ、という意見がありますが、大嘘です。「彼ら」は、大量破壊兵器をどこで使うか、ちゃんと計算して使うだけのことです。)
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結します。
1945年10月、国際連合が発足しますが、これは米・英・仏・ソ・中の常任理事国が総会の議決に対する拒否権を持つという大国優先の機関であり、小国の利害に対しては人道的判断よりもそれに関わる大国の利害が優先されるのであって、世界政治の上では、無いよりはまし、という程度のものでしかありません。
第二次世界大戦ではファシズム国家に対し協力して戦ったアメリカとソ連は、戦後は国家経営の基盤である資本主義と共産主義という思想のために対立します。これがいわゆる「冷たい戦争」です。
アメリカは、共産主義の「封じ込め政策」を採用し、欧米諸国間で北大西洋条約機構(NATO)という軍事同盟を作って共産主義の伸張に備えます。それに対し、ソ連は東欧8カ国援助条約(ワルシャワ条約)によって結束を固めます。
1949年、中国共産党によって中華人民共和国が成立。
1950年、朝鮮戦争勃発。これは、日本の敗戦によってその支配から離れた朝鮮が、ソ連とアメリカの手によって分割され、ソ連に支援された北部の朝鮮民主主義人民共和国と、アメリカに支援された南部の大韓民国となっていたのが、その国是である共産主義と資本主義のために対立し、とうとう武力衝突となったものです。(例によって、本当は経済的利害がその原因だったのでしょうが。)北は中国に支援され、南はアメリカを中心とした国連軍が韓国軍とともに戦いましたが、戦争は膠着状態となり、1951年、ソ連の休戦提案によって53年に休戦します。つまり、本当は朝鮮戦争はまだ終っておらず、アメリカに加担していた日本は、北朝鮮にとっては交戦国であるわけですから、拉致問題などある意味では戦争の継続として捉えるべきかもしれません。ただし、現在では、北朝鮮そのものが、アメリカの世界経営の道具となっている可能性も高いので、問題は簡単ではありません。
この朝鮮戦争は、第二次世界大戦で疲弊していた日本に軍需景気をもたらし、その後の日本の経済発展(いわゆる高度成長)の原動力となります。
1951年、日本は48カ国との間でサンフランシスコ講和条約を結び、アメリカによる占領状態から名目的には独立国家として世界に承認されますが、同時にアメリカとの間で日米安全保障条約を結ばされ、引き続いて日本におけるアメリカ軍の駐留と軍事施設の存続を強制されました。そして、この状態は現在でも続いています。つまり、日本は、自国内にアメリカの軍隊を置いている以上、アメリカに対しては永遠に反抗できないということです。これは独立国家などではありません。それから現在に至る日本の対米屈従外交は、すべてここに理由があるのです。この日米安保条約は、当時の吉田首相をほとんど脅迫するような形で締結したものだと言われています。
その後の世界の現代史は、政治経済のところで扱いますので、要点だけを書くことにしましょう。もっとも、現代史は煩雑ですから、何を要点とするかは私の主観です。
1947年、インド、パキスタン分離独立。(パキスタンはイギリス連邦自治領となる。)
1948年、イスラエル建国。パレスチナ戦争起こる。
1952年、エジプト、ナセルによる国王追放。(反英独立闘争)
1956年、スエズ戦争。(イギリス・フランス・イスラエルVSエジプト)
1958年、イラク革命。王制廃止。
1959年、キューバ革命。
1962年、キューバ、ミサイル危機。
1963年、ケネディ大統領暗殺。
1966~70年、中国文化大革命。
1965年、アメリカのベトナム北爆開始。
1967年、EC発足。
1968年、フランス5月革命。チェコ事件。
1971年、中華人民共和国国連加盟。インド・パキスタン戦争。アメリカ、ドル防衛策発表(ニクソン・ショック)。世界は変動為替相場へ移行。
1972年、ニクソン訪中。
1973年、ベトナム和平協定調印。石油危機。
1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終結。
1979年、米中国交樹立。ソ連アフガニスタン侵入。イラン革命(ホメイニ政権)。
1980~1988年、イラン・イラク戦争。
1982年、フォークランド紛争(イギリスVSアルゼンチン)
1989年、ベルリンの壁崩壊。中国天安門事件。
1990年、東西ドイツ統一。イラク、クウェート侵攻。
1991年、ソ連崩壊。アメリカ、イラク攻撃(湾岸戦争)
2001年、9・11事件。(アメリカの新世界秩序の布石となる。)

大雑把に言えば、冷戦(米ソ対立)と、ソ連崩壊による冷戦の終わり、アメリカによる世界新秩序への移行というのが、現代史の大筋です。
別の面から言うならば、これらの政治的事件は要するに、欧米諸国の、過去の植民地支配の事後処理(と言っても、「精算」ではありません。)と、新たな干渉の歴史です。たとえば、ベトナム戦争は、ベトナムのフランスからの独立運動に対し、それを援助したのがソ連であったために、世界の共産主義化を恐れたアメリカ経済支配層が、アメリカ政府を動かして介入したものです。ベトナムに送り込まれた米軍兵士たちのほとんどは、自分が何のために戦っているかも分からなかったでしょう。この戦争でアメリカ国内でも反戦運動が活発に起こったのは、そのためです。まあ、大多数の兵士は、とにかく共産主義者は悪党だから、それを倒せばいいんだ、と思っていたでしょうが。他国の戦争に出て行って死ぬなんてのは、はっきり言って、犬死にです。だから、アメリカ国内でも厭戦気分が蔓延し、アメリカは結局ベトナムから手を引くことになります。マスコミの正直な報道がこういう結果を招いたというその反省から、以後の戦争では、政府公認の御用マスコミ以外には戦争報道を許可しないということになります。
こうした政治的事件は、新聞やテレビで報道される表の顔と裏の顔が全然違います。表面的には敵同士に見えている人間たちが裏では手を結んでいる場合もあります。たとえば、「アメリカの敵」であるイラクのフセインやイランのホメイニは、どちらもアメリカの援助で政権を手に入れた人間です。ウサマ・ビンラディンはもともとCIAの援助を受けてアフガニスタンで対ソ連の抵抗運動をしていた人間ですし、また、中南米での政変のほとんどは、アメリカの意思が背後にあるのは確実です。アメリカとソ連だって、単純に喧嘩ばかりしていたわけではなく、冷戦の間も貿易はしていたのです。冷戦そのもの、あるいは、資本主義と共産主義の対立そのものが、軍需産業や軍隊によって演出されたものだと考えることもできます。つまり、戦争が政治の延長であるのと同様に、政治はビジネスの一環なのです。
新聞に出てくるような公式の説明だけでは政治の現実はわかりませんが、「政治における言葉と行動の食い違い」を見て、「それで誰が利益を得たのか」を考えれば、物事の真実が見えてくるということです。そのことをいつも心に置いて、政治の世界を眺めるようにしてください。そうした視点を、マスコミお抱え評論家の言うように「陰謀論」だとか、「トンデモ論」の一言で片付けていたのでは、無知のままで終わり、現実は変わりません。
これで、世界の近現代史概観は終わりますが、歴史は政治の記録であり、政治は経済を本質とするというのが、私の考えで、そう考えた時、歴史は見やすいものになると思っています。そして、世界の近現代史は、一言で言えば、西欧文明の侵略の歴史なのです。 

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高校生のための「現代世界」3

植民地獲得競争の意識がまだ残っていた20世紀初頭、ヨーロッパ各国は、植民地領有についての対立などから国と国との間で同盟関係が結ばれました。その中心は、ドイツ、オーストリア、イタリアの「三国同盟」と、イギリス、フランス、ロシアの「三国協商」です。こうした同盟関係そのものが、敵陣営への憎悪を呼んで、第一次世界大戦の原因になったという見方ができます。もちろん、戦争の本当の原因は、常に、庶民とはほとんど関係のない一部の人間の経済的利害によるものですが。
 1914年6月、オーストリア皇太子のボスニアの首都サラエボでの暗殺がきっかけとなり、第一次世界大戦は始まります。その後、
① オーストリアの、セルビアへの宣戦布告。
② ロシア(バルカン同盟の実質的指導国)の軍隊動員。
③ ドイツのロシア宣戦。
④ ドイツのベルギー進軍とフランスとの戦闘。
⑤ イギリスのドイツ宣戦。
 という過程で戦争は拡大し、日本もまた日英同盟(これは、日露戦争当時に、イギリスがロシアを牽制するために日本と結んでいた同盟です。)を理由としてドイツに宣戦し、ドイツ租借地の青島や南洋諸島に派兵します。
 戦争が長期化するにしたがって、各陣営は、自らに有利に戦況をすすめるために中立国や従属国、植民地の国々に援助を求めて働きかけ、その代償として様々な約束をします。このことが20世紀後半の、国際政治の混乱の原因となるのです。たとえば、インドやエジプトはイギリスから戦後の独立を約束されてその国民を戦場に送ります。しかし、実際にインドが独立するときには、イギリスは様々な策謀をし、インドの民族主義を利用してインドとパキスタンを分裂させます。また、イギリスはアラブ人に独立国建設の約束をして自国陣営に引き入れる一方で、ユダヤ人資本家(例のロスチャイルドです。)の資金援助を当てにして、戦後のパレスチナでのユダヤ人国家の建設を約束したりしています。これは一般には「バルフォア宣言」と言われていますが、公式の声明ではなく、単なる書簡のようなものですから、法的な実質は無いのですが、それがイスラエル建国の根拠とされ、中東紛争の火種となります。
こうしたイギリスの外交を「三枚舌外交」と言いますが、外交とはもともと騙しあいであり、ナイーブな日本人のもっとも苦手とするところです。政治における原則はただ二つ。「力は正義なり」、「勝てば官軍」です。そして、政治はけっして国民全体の利益を優先するものではなく、一部の人間の都合で動いていくものです。政治は国民が監視し、コントロールすべき怪物であって、優しい母親ではないのです。
 交戦国との貿易で巨大な利益を得ていたアメリカは、戦争終結が見えてきた1917年に、(戦勝国の仲間に入るために)ドイツの潜水艦による中立国攻撃を理由として、ドイツに対し、宣戦します。まるで後だしジャンケンみたいなやりかたですが、国際政治では普通のことです。日本の第一次世界大戦参加も、第二次世界大戦終結間際でのソ連の日本への宣戦も同じことです。
 ロシアでは、長引く戦争で疲弊した国民の不満を背景に、まず三月革命で帝政が倒れ、そこで誕生した臨時政府も十一月革命で倒されてレーニンによるボリシェビキ政権(後の共産党)が生まれます。新政権はドイツと単独講和を結んで戦線を離脱します。
 同盟国側の敗色が濃厚になった1918年秋、同盟国の中心であるドイツでも革命によって帝政が崩壊し、全世界を巻き込んだ第一次世界大戦は終結しました。
 第一次世界大戦の特徴は、それまでの戦争が軍隊同士の戦いであったのに対し、経済をはじめ、あらゆる国民生活が戦争遂行のために総動員されるという総力戦だったところにあります。君主が自分の軍隊を動かして勝手に戦争をしていた時代に比べ、庶民生活が戦争によって被る害が比べ物にならないほど大きくなったのです。そうなると、国民の厭戦気分を抑えるために、さまざまなプロパガンダ(宣伝活動)も必要になり、情報操作も生まれてきます。敵国への憎悪の形成、「非愛国的行動」への非難などがそれです。
 また、この戦争は科学が戦争に積極的に協力した戦争でもあります。戦車や飛行機、毒ガスが初めて使われたのが第一次世界大戦でした。その行き着く先が第二次世界大戦の原爆だということになります。
 この戦争の被害は、死傷者だけでも3000万人だとされています。
普通の神経を持っていたら、こうした悲惨を経験したら、もはや二度と戦争は起こすまいとしそうなものですが、そうならないところが政治と歴史の現実です。それからすぐに世界は第二次世界大戦を迎えるのですから。
さて、1919年6月、連合国とドイツの間でベルサイユ条約が結ばれ、敗戦国ドイツの海外権益や植民地はすべて奪われ、巨額の賠償金が課せられました。その他の敗戦国も同様の扱いを受け、敗戦の苦難の中に悲惨な国民生活を送ることになります。こうした「ベルサイユ体制」への不満がナチスの台頭を生み、続く第二次世界大戦の原因となったと言えるでしょう。
1920年1月、アメリカ大統領ウィルソンの提案で、世界の平和的な新秩序を作るために国際連盟が発足しますが、米議会の反対でアメリカ自身がこれに参加せず、共産主義国(正しくは社会主義ですが)ロシアと敗戦国ドイツその他は除外されました。
この頃の世界は、新たな局面を迎えていました。それは、共産主義の台頭です。1922年末ソビエト社会主義共和国連邦が誕生し、中国では1911年の辛亥革命の後、1912年に清帝が退位し、清朝は滅びます。その辛亥革命の中心者孫文が唱えた三民主義は、「民族主義・民権主義・民生主義」ですが、そのうち民権主義は現在の民主主義、民生主義は社会主義的福祉政策と言えるでしょう。1921年には中国共産党が結成され、孫文らの国民党との間に協力関係が成立します。しかし、孫文の死後、この協力関係は崩れ、中国は資本家と手を結んだ蒋介石らの国民党と、農村に基盤を置く毛沢東らの共産党が対立していきます。
1929年、ウォール街の株式相場大暴落に端を発した米国の経済恐慌は、アメリカの対外投資引き上げによって世界恐慌へと広がります。
アメリカの経済恐慌の原因は、機械化された工場による大量生産などの合理化によって工業生産が過剰になるとともに、増大した失業者への対策が不十分であったため、生産量と国民の購買力の間に不均衡が生じたこと、空前の株式投機ブームの過熱が、株価下落によって不安を呼び、下落に歯止めがかからなかったことなどがあります。ただし、こうした株の暴落や企業倒産は、大資本による統合や独占の一過程でもあります。ここでも、誰が生き残り、誰が利益を得たのかを良く観察する必要があります。全員が損をするゲームなど、ありえないのですから。
世界恐慌によってもっとも苦しんだのは、先の大戦での高額な賠償金によってすでに国民生活が圧迫されていた敗戦諸国でした。その中でドイツは、ヒトラーの率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が、ベルサイユ条約の破棄、ドイツ国民の領土回復、ユダヤ人排斥、共産主義者排斥などをスローガンに急激に勢力を伸張してきました。この中で、ユダヤ人や共産主義者を排斥する行為は、分かりやすい敵を作ることで国民全体や資本家たちの支持を得ようというものです。その狙いは見事に当たり、1932年の総選挙でナチスは第一党になり、翌33年、ヒトラーは政権を握った後、同年3月政府に独裁権を与える全権委任法を作って一党独裁を確立します。これは、民主主義の否定であり、「全体主義」(ファッシズム)と言われるものです。(政党名の中の「社会主義」と、彼らの現実行動の共産主義攻撃との「矛盾」に良く注意してください。これは、政治的な名目と中味の相違でもありますが、また、社会主義と共産主義は別だということでもあります。詳しくは政治経済の章で述べましょう。)
この、ヒトラーが政権を握っていく過程は、なかなか面白い研究課題ですが、その本質を言えば、突撃隊という私設軍隊(要するに、暴力団です。)のテロ行為に対する人々の恐怖を利用して政権を握ったものです。そして、その背後には、彼らを支援した資本家たちがいるわけです。
人間は身近な暴力に弱いものです。そして、警察が庶民ではなく暴力団のほうに味方しているという状況では、それに対抗できる人間はいません。選挙でそうした危険人物を落選させるのが唯一の手段ですが、実は、選挙を有名無実化する方法もあるのです。(現在なら、電子投票の導入もその一つですが、ナチスはもっと原始的なやり方をやったようです。それがどんな方法か、詳しくは言いませんが、秘密投票を秘密でなくするというのが、その方法です。)
さて、これは過去の出来事であり、現在には関係の無い話なのでしょうか? 我々の生きているこの社会は、はたして国民の意思が政治に反映されているのでしょうか。情報操作や目に見えない弾圧によって人々の政治的意見は封殺され、一部の人間の思いのままに政治が動かされているのなら、それはナチスの独裁政権と何が変わるのでしょうか。そういう視点をもう一度確認した上で、先に進むことにしましょう。

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高校生のための「現代世界」2

第一部 近現代史

 前書きで書いたように、世界の近現代史は、西欧文明の侵略の歴史です。ただし、ここで言う西欧文明とは、経済的自由主義、つまり、自らの経済的利益のために何をしてもいいという強欲な考え方のことです。さらに、その根底には西欧人以外の有色人種への差別意識があります。ヨーロッパ人によるアメリカ原住民の虐殺と領土強奪や、メキシコのマヤ文明の破壊と虐殺、南米のインカ帝国の破壊と虐殺は、そうした西欧文明の精神から来るものです。あるいは、過酷な労働のためにわざわざアフリカから黒人を運び、牛や馬のように働かせるという非人間的な奴隷制度も、その精神の表れでしょう。これらの非人間的行為が、なぜキリスト教の言う「愛」の精神と両立するのか、疑問に思った人は多いと思いますが、キリスト教はもともとユダヤ教の一分派でしかありません。そして、ユダヤ教とは、選民思想を土台とした宗教ですから、他民族は人間として扱う必要は無いのです。西欧文明の根幹は、教会に指導されたユダヤ教的キリスト教なのです。
 以上のような「西欧文明の精神」についての理解が無いと、歴史は理解しにくいものとなるでしょう。欲望の無いところにドラマは生まれません。そして、貨幣制度が世界に広まって以来、人々は欲望の実現手段である貨幣や貴重物資の獲得のためにあらゆる闘争を重ねて来ました。その結果が歴史なのです。みなさんは、その「本音」と「口実」を区別して捉える必要があります。悪行を為す者は、常に美名を口実としますから。
 では、近現代史をどのように概観すればいいのでしょうか。
 まず、言っておきたいことは、客観的な歴史はありえない、ということです。すべての歴史は勝者の歴史であり、勝者にとって都合の悪い事実は捨てられ、修正され、捏造されています。我々の為すべきことは、そのようにして残ってきた「歴史」の中から、真実の姿を見抜くことです。言葉を換えれば、主観的であることを恐れるな、ということです。これから私が書く近現代史概観は、無味乾燥な学校教科書の中から、私にとって重要と思われる「事実」をつなぎあわせ、解説したものです。つまり、「西欧文明の精神がもたらした歴史」という一つの視点によって眺めれば、歴史は非常に分かりやすいものになるということです。
近代はいつから始まるか。一般的にはルネッサンス時代からでしょうが、私は、封建制度、つまり単なる暴力(武力)による支配が崩壊し、経済的な力を持つ市民(ブルジョワ階級と言いますが、これは一つの階級ですから、この言葉を単なる「市民」と区別する必要があります。)が政治的にも強大な力を持ち始めた頃が近代の始まりだと考えています。近代の始まりを告げるのはフランス革命だと言っていいでしょう。
 まずは、フランス革命に先立って、アメリカ独立戦争(これは、植民地アメリカが、宗主国イギリスに対して行なった独立革命です。)がありました。[1775~83]
 この「革命」の成功がフランス革命に与えた影響は大きいものでした。
 そして、1789年にフランス革命が起こります。これは、宮廷の奢侈や戦争から来る財政難を解消するために、それまでの特権身分(貴族や聖職者)にも課税をしようとしたことから、貴族が国王に反抗し、始まったものです。その貴族の反抗が、貧困にあえぐ都市民衆や農民を巻き込んで革命へと発展していったのですが、やがてブルジョワ階級を中核とするジロンド派と、庶民の利益を代表するジャコバン派が対立し、最終的にはジロンド派が革命の主導権を握り、革命を終結させます。
 フランス革命は、現在の民主主義の出発点と言ってもいいでしょう。しかし、同時にそれは資本主義の出発点でもあります。それ以降の世界は、武力で政権を握った政治的支配者と、経済的実権を持つ資本家が協同し、時には対立しながら世界の政治は動いていくことになります。
 イギリスでは、フランス革命に先立って、ピューリタン革命[1640~60]と名誉革命[1688]の二つの革命があり、それをイギリス革命と言いますが、ここでも、最終的には貴族や富裕な商人たちが実権を握り、庶民とはほとんど無縁な革命で終わります。
 イギリス革命によって、イギリスでは議会が政治の決定権を持つようになりますが、議会に代表を送れたのは貴族と富裕層のみであり、議会活動の中心的な目的はブルジョワ層の私有財産権の保護にありました。国と国の経済闘争が戦争であり、一つの国の中の、ある身分と他の身分の経済闘争が革命であると言っていいでしょう。革命の起爆剤は社会上位層の権力闘争ですが、それが革命となる原因は、やはり腐りきった政治や社会への民衆の不満にあります。フランス革命は、現在の人権の出発点として大きな意義があります。
 さて、イギリス革命やフランス革命によって国王からの過度な干渉を受けなくなった富裕層は、大きく発展していきました。その「自由な」経済活動の一つの例がロスチャイルド家で、彼の一族は、ナポレオンがワーテルローで負けた時、その情報をいち早く手に入れ、逆にイギリスが負けたという偽情報を流してイギリス国債を買占め、一夜でそれまでの財産を数千倍(数十倍ではありません)に膨れ上がらせたといいます。もちろん、それで大金を失って没落した貴族や商人が無数にいたわけです。
情報を握った者が富を支配するということがすでに分かっていた人間は、この頃から国を越えて商売をするようになっていきます。現在の「多国籍企業」は、18世紀にはすでに存在していました。ロンドン、パリ、ウィーン、ナポリ、フランクフルトにそれぞれ銀行を持っていたロスチャイルド家はそれです。中世では、自らは労働せずに金で金を生むという金融業は軽蔑の対象であり、ユダヤ人だけがそれを行なっていましたが、世界の産業の規模が大きくなるにつれて、生産的な活動よりも金融や投機のほうがはるかに巨額の富を生むことが知られてきたのです。
 イギリスで産業革命が起こるのは18世紀ですが、産業の発展には「資本・労働力・市場」が必要です。イギリスでは、穀物の値段騰貴のため、資本家が地主から広い土地を借りて大規模な農業を行なうことが起こり、そのために小作地や共有の土地から追い出されて働き場を失った小作農民は都市へ移動しましたが、そうした人々は、その頃から発展し始めた工業のための労働力となったのです。こうして、イギリスでは世界に先駆けて産業革命が進行しました。これがエンクロージャー(囲い込み)と産業革命の関係です。
 16世紀から19世紀は、またヨーロッパ諸国が世界の各地を侵略した時代でもあります。実は20世紀も21世紀もその延長線上にあるのですが、16世紀から19世紀が何一つ隠すことのない侵略の時代であったのに対して、20世紀から後は美名に隠された侵略行為になるので、その正体は見づらいものになっていきます。
 ここで、少し歴史を遡ります。地理上の発見時代とか大航海時代と言われたのが15世紀末から16世紀前半ですが、その動機はもちろん富の獲得にありました。コロンブスのアメリカ発見[1492]、マゼラン一行による世界周航の実現[1519~22]などによって世界像が明確になるにつれて、ヨーロッパ諸国は富の獲得のために未知の世界へと進出していきます。初めはポルトガルとスペインが主導権を握り、ローマ教皇が勝手に、新大陸はスペインのもの、アジアはポルトガルのもの、などと決めたりしています。この一事によっても、そこに住んでいる住人は最初から権利を認められず、人間らしい存在とはみなされていなかったことが分かります。
 そうした意識の現れが、前にも書いたコルテスによるアステカ文明(アズテック、マヤ)の破壊、ピサロによるインカ帝国の破壊です。彼らはそれらの土地の大半の住人を殺した後、残った人々は奴隷にして鉱山の採掘作業などの強制労働に酷使し、過酷な扱いのために原住民の数が減ると、今度はアフリカ大陸から黒人奴隷を輸入して働かせました。そのためにアフリカでは奴隷狩りが行なわれたのです。家畜以上にひどい扱いのために、輸送途中で死んだ黒人奴隷も無数にいました。(およそ3分の1の割合で死んだと言われています。)
北アメリカでは、1620年にピルグリム=ファーザーズと呼ばれる清教徒の一団がメイフラワー号でアメリカに渡ったあと、アメリカ北東岸にニューイングランド植民地を形成し、オランダ、フランスとの主導権争いに勝って北米大陸の大半をイギリス支配の植民地としていきます。その過程で、先住民族であるアメリカ・インディアンはその居住地域を圧迫され、土地を奪われていきました。ヨーロッパ人の侵略に怒ったインディアンたちは彼らと戦いますが、鉄砲などの威力に敗れ、大量に殺されました。
現在のアメリカ合衆国は、そうしたヨーロッパ人の土地強奪(あるいは、詐欺に近い買収。当時のアメリカ・インディアンは、土地私有の概念が無かったため、驚くほどの安い値段で、土地を白人に売ったのです。)によって生まれた国であり、その本来の所有者(土地を私有して良い、というのは、実は一つの考え方でしかありません。土地は、本来は誰のものでもないのですから)は今ではインディアン居住区に押し込められて生活しているのです。また、アメリカ南部を中心に、綿花や煙草の栽培のために黒人奴隷が大量に輸入され、現在も続く人種差別問題の源となりました。
 スペイン、ポルトガルに続いて、イギリス、フランス、オランダも植民地獲得の競争に乗り出し、船や港を襲う海賊行為も頻繁に起こりました。特に、イギリスの海賊船である私拿捕船は、国からイギリス海軍に準ずる扱いを受け、その親玉のドレークやホーキンスは一種の国民的英雄ですらありました。当時の(あるいは、政治経済的上層部は現在でも)西欧民族のモラルはこの程度のものです。
 ヨーロッパの植民地は、南北アメリカ大陸だけでなく東南アジアにも広がりました。昔からその土地にいた豪族たちは、自分たちの勢力争いにヨーロッパ人の手を借りようとして、やがてそれらの土地のすべてはヨーロッパ人たちのものになっていったのです。それを考えると、徳川幕府の鎖国政策は、必ずしも全否定されるべきものではなかったと言えるでしょう。特に、キリスト教が侵略の手引きになっていたことについて、当時の為政者は正しい認識をしていたのです。秀吉や家康など、当時の政治家(武将)は、現代の政治家や官僚などより、はるかに冷徹で合理的な判断をしていたと言って良いでしょう。
 18世紀なかばから19世紀前半にかけて、イギリスはインドを手に入れ、さらにアフガニスタンを保護国とし、ビルマを植民地としました。同様にフランスもインドシナ(現在のベトナム)を手に入れ、シンガポールなどを拠点にマレー半島に手を伸ばしたイギリスと対立しますが、すでにオランダ領となっていた東インド諸島(現在のジャワ、スマトラ、ボルネオの一部)もふくめ、ヨーロッパ各国による東南アジアの分割と棲み分けは19世紀末にはほぼ完了します。
これらの植民地でいかにひどい搾取が行なわれたか、学校教科書ではほとんど教えられませんが、たとえばイギリスが、そのころ発達しはじめた自国の機械織りの綿布を売るために、それまで世界でもっとも発達していたインドの綿布産業を弾圧し、織物職人が布が織れないように手首を切り落とした話などに、目的のためには手段を選ばない西欧文明の残虐な一面が良く現れています。(こうした負の側面を記述することに対し、たとえばインドで鉄道や港が整備されたということなどを正の側面として記述するべきだという意見もあるでしょう。そうした優等生的見解は、学校教科書に任せておきます。私のこの本は、従来の家畜養成教科書では無い、劇薬としてのテキストですから。)
 西欧文明の非道義性をもっとも良く表した事件は、アヘン戦争[1840~42]でしょう。
イギリスから中国(当時は清)に輸出される麻薬であるアヘンの害悪に困った中国は、1839年にアヘン輸入を禁止しますが、これに対し、イギリス側は武力に訴えて中国を屈服させ、上海その他の5港の開港と香港の割譲などを認めさせました。
 1868年の明治維新によって新国家としてスタートした日本は、西欧流の侵略による国力の拡大を狙って朝鮮への進出を図り、その宗主国である清と対立し、1894年に日清戦争が始まりました。この戦争に日本が勝ったことは、中国の意外な弱さを世界に知らしめ、ロシア、フランス、ドイツ、イギリスはそれぞれ中国各地を租借(一定期間借りて統治すること)することを中国に認めさせました。アジア植民地争奪戦に遅れたアメリカは、「門戸開放宣言」(中国の門戸開放、機会均等、領土保全を主張したものですが、要するに、自分たちにも分け前を寄越せ、ということです。)で西欧列強を牽制します。
 日清戦争で意外な勝利を収めた日本は、その後、南下政策で満州から朝鮮を狙うロシアと対立し、1904年、日露戦争が起こります。日本海海戦での日本の大勝利の後、大陸での戦いは苦闘が続きますが、戦争の途中、革命運動などで戦争遂行能力を失ったロシアは、日本との間にポーツマスで講和条約を結びます。しかし、この戦争で日本の払った犠牲は大きく、また、この勝利で肥大した軍部の自惚れは、昭和初期の軍人支配の土台となります。つまり、日清、日露両戦争は、近代日本の成長の過程であると同時に太平洋戦争の遠因でもあるのです。まあ、ここで日本が負けていたら、近代日本はそこで終わりだったわけですが、その幸運な勝利への度を越した賛美はやめたほうがいいでしょう。その後の日本は、「三四郎」での夏目漱石の予言的言葉どおりに「滅びる」ことになるのですから。
 こうした19世紀末から20世紀初頭にかけての列強の対外膨張政策は、金融資本の産業支配の結果、限界に達した国内市場から商品と資本のはけ口が海外に求められたもので、難しい言い方をすれば、「独占段階に進んだ資本主義体制」の表れで、それを「帝国主義」と言います。そして、現在の歴史認識の問題点は、実は世界は今もなお帝国主義の段階にあることが隠されていることなのです。要するに、弱い者を食い物にして、強い者が繁栄するということです。西欧文明のもう一つの側面である科学技術の向上によって世界のほとんどの国で生活水準は上がっています。だが、政治的経済的な略奪と搾取の行為は前と変わらず続いているのです。たとえば、これほどに文明の進んだ時代に、なぜアフリカ諸国はあれほどの貧困の中にあるのでしょうか。南米諸国はなぜ経済的な発展ができないのでしょうか。詳しい中身を知ることは不可能ですが、大きく事象全体を見れば、そこに恒常的な搾取の事実があるはずだと判断できます。たとえば、先進国が後進国に金を貸すことや、援助をすることなどは表面的事実です。しかし、現実にはその資金を用いた事業は先進国の企業が請け負って、金儲けをしたりしているのです。そして、借金には当然ながら利息がつきます。貧しい国は目の前の餌につられて、自分の首を締めているわけです。
 ここで気をつけたいのは、こうした帝国主義的侵略行為をしてきたのは、明治以降の日本も同じだということです。日本はお隣の朝鮮を侵略し、併合して日本の領土としました。台湾も同様です。こうした過去に対して、それは当時の時代背景からして許されることだ、とか、日本が朝鮮や台湾を併合したことで、その地の文化や生活水準が向上した、という言葉が、日本の保守派の論者からよく発言されますが、相手を殴ってから頭をなでても、殴った罪が許されるわけではありません。相手側が、過去は過去として水に流そうと言うのならともかく、加害者側が言う言葉ではないでしょう。

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高校生のための「現代世界」1

   高校生のための「現代世界」

 始めに

 高校や中学で習う社会科が退屈な学科だということは、多くの学生が感じていることです。その原因は、それが我々の日常生活と無縁な、地名や年号暗記などの些末的知識の習得だけを強制しているからでしょう。我々の生活と無縁な? はたして本当にそうなのでしょうか。
 地理や政治経済は、まさしく現在の我々が生きている世界そのものです。では、それがこんなにも退屈なのはなぜでしょうか。それは、そこには生きている人間の姿が感じられないから、何のドラマも無いと思われるからです。しかし、そこが間違いなのです。
 歴史と地理と政治経済は、実はすべて同一です。いや、同一のものとして扱わなければならないのです。どのような意味で? それは、生きている人間が自らの欲望を実現するための舞台がこの世界であり、そのための手段が政治経済であり、その結果を書いたのが歴史だからです。別の言い方をすれば、この世界は欲望と闘争の世界であり、その記録が歴史です。みなさんは、自分がこれから生きていく世界がどのようなものであるかを知り、その闘争の中に入っていかなければならないのです。政治経済、地理の知識が無い人間は、そして歴史から学ばない人間は、他人に精神的に、そしておそらくは実際的にも支配される人間になるでしょう。つまり、奴隷的国民になるわけです。
 ある意味では、これまでの社会科教育は、その科目を退屈なものにすることによって、日本人の社会意識そのものを希薄にし、政治参加の意欲を失わせたという点で、為政者(官僚や政治家)や社会の実質的支配者(経済的支配層)たちにとっては有益なものだったでしょう。国民の無知や無気力ほど上の人間にとってコントロールしやすいものは無いのですから。だが、それによって精神的な奴隷となっているのが今の日本人なのです。
 みなさんは、いや、我々はもっと真剣に社会科を学ぶ必要があります。学校や予備校の社会科だけではなく、また、スポンサーの意向によって偏向を受けている新聞テレビなどのマスメディアだけでなく、様々な書物やインターネットなどをとおして真の情報を手に入れ、この社会について自らの頭で正しく判断できる人間にならねばなりません。そして、選挙の投票行動を通して、この社会をより良くしていく必要があります。今の社会が悪いのは、確かに、今の大人やその前の世代の無知と無責任のためですが、その原因は実は彼らを無知に追いやった社会科教育のためであり、彼らも被害者なのです。この悪循環をどこかで断ち切らないと、日本に未来は無いでしょう。
 この本は、一応は高校生のための社会科参考書ですが、そこに述べてある事柄のほとんどは、他の参考書にも出ていることです。いや、ほとんどの教科書や参考書は記載された事実や資料に違いはありません。大事なのは、その書物が生きるための武器となるかどうかであり、興味深く、効率的に学べるテキストかどうかなのです。
 では、現代世界(「現代社会」では、限定された科目の話になりますから、私のこの本の題名は「現代世界」とすることにします。)を学ぶポイントは何でしょうか。私の考えでは、それは、次のようなものです。①、②、③、④は世界の見方、⑤は勉強の仕方です。

① 政治は経済を目的として動いている。(簡単に言えば、誰か…個人や団体…が、自分が得をするために政治的手段でそれを実現するということです。)
② 経済は、物的人的資源を金に換える手段である。したがって、地理と経済は密接に関連し、政治とも関連する。(たとえば、ある国が戦争を起こすのは、正義や大義名分のためではなく、その裏に常に金や利益という目的があるということです。)
③ 近現代史は西欧(注:「西欧」は「西洋」の誤記。以下同様)中心の歴史として捉えねばならない。(もっと露骨に言えば、現在の世界は、十九世紀から二十世紀前半に西欧国家が世界を支配したその延長にあり、弱小の国々は、外見上は独立国家でも、実質的には元の宗主国等の支配を受けているということです。日本は十九世紀の侵略からは免れましたが、第二次世界大戦での敗戦によりアメリカに占領され、サンフランシスコ平和条約で名目的には独立は果たしたということになっていますが、今なお日本の中に米軍基地が居座っているという「被占領国家」です。)
④ 国家と国民と政府は区別して捉えねばならない。(これは、我々が日常的にやりがちな誤りです。たとえば、日本の国債残高が何百兆円あって、それは国民一人当たり何百万円の借金に当たるという「説明」がよく新聞に載りますが、借金したのは政府であって、国民ではありません。そうした言い方で責任の所在を誤魔化すのはよくあることです。一般に、新聞記事は「誰が何のためにそういう情報を流しているのか」という視点で見る必要があります。)
⑤ 一般的に、物事の幹となる部分と枝葉の部分を分け、まずは幹となる部分を身につけた上で枝葉の部分を勉強していくこと。(地理で言うならば、まずは西欧の大国と、その関連国家を学ぶべきだということです。たとえ大国でも現代世界の主役ではない南米やアフリカの諸国は最初からは学ぶ必要はありません。また、小国でもベトナムやカンボジアのように大国の植民地政策の犠牲になってきた国々や、現在の世界の焦点である中東諸国は、政治の実際を知るためにも学んだほうがいいでしょう。歴史なら、まずは近現代史のトピック的事件を中心に学ぶべきです。)

 では、これから一緒に「現代世界」について学んでいきましょう。ただし、勉強の主役はあなたであり、自ら主体的に学び、調べていくという姿勢が無いと、ここで学んだものは役に立たないと思ってください。それでは、いざ、未知の世界へ!



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徳川幕府はなぜ開国を拒んだか

今日二度目の投稿だが、先ほど興味深い記事を読んだので、転載しておく。
「逝きし世の面影」という、わりと知られたブログの記事なので、読んだ方も多いだろうが、一つだけ解説を加えれば、西洋諸国の姿勢は今でも当時の「帝国主義」時代と何も変わってはいないのである。TPPが明治維新、太平洋戦争の敗戦に次ぐ「第三の開国」であり、それによって日本は今度こそかつての印度のように完全な奴隷国家になるという認識を日本国民全体が共有しなければならない。その前提として、「真の世界近代史」が知られねばならないだろう。
私が昔書いた、「高校生のための世界史」という「世界近代史ダイジェスト」を、今日のうちに掲載しようと考えている。これは山川出版などの世界史教科書を私流の観点からアレンジしたもので、書かれた事実は教科書通りだが、そこに「西洋の本性」という要素を加味すれば世界近代史が違って見えてくる、というものだ。
とりあえず、次回から数回に渡って(多分今日のうちに全部)掲載する。もちろん、ネット上には優れた知識の持ち主や優れた書き手はたくさんいるが、そういう人たちは十把一絡げで「陰謀論者」扱いされ、彼らの書いたものが多くの人には知られていない可能性があるので、私自身の拙文も「いざ鎌倉となればやせ馬に乗り、錆刀を取って参戦する」くらいの戦力にはなるかもしれないと思ってのことだ。それほど今の日本は、(TPP参加による)亡国の危機にあるのである。


(以下引用)


『何を恐れて開国(通商条約)に抵抗したのか』

当時のロシアやイギリス、フランス、アメリカが日本側に求めた『通商』(開国)とはいったい『何』を意味したのだろうか。
何故、これほどまで徹底的に徳川幕府は外国との自由な通商(開国)を恐れ、拒み続けたのだろうか。
現在における『通商』の意味は、何か喜ばしいもの、有利なものと考えられている。
通商関係を持つことで双方が利益を得ることが出来るし、新しい可能性や視野が生まれて来ると現代人なら思っているので、通商関係(開国)に頑強に抵抗した江戸時代の日本人とは島国根性で視野狭窄、未知の新しいものを恐れてパニック状態に陥ったとも解釈出来る。
現代人は、世界との通商関係とは日本の命綱に近い大事なものと考えていて、世界に広がる貿易(通商)なくして現在の豊かな日本社会は考えられない。
ところが民主主義の今とは大違いで、19世紀中葉の世界は全く別の『危険な構造』になっていた。
自由な通商とは恐ろしい罠であり、特に当時の日本人にとっての『世界』とは、恐ろしい脅威に満ち溢れている弱肉強食の『力』の論理で無法が横行する危険な世界であると考えられていた。

『インドの植民地化とアヘン戦争後の中国』

5千年近い古い偉大な文明を誇る大国インドのマハラジャ達の野望を利用してイギリスやフランスは傭兵部隊を組織して国内で血みどろの権力闘争を行い、インド人の権力者達は次第に弱体化していく。
当時の欧州諸国にとってのインド製品は魅力に満ち溢れていたが、対してイギリスフランスなど欧州製の品物は皮革や羊毛蜜蝋など大航海時代以前とさして代わり映えしない魅力の無い品物ばかりで、イギリスやフランスなど欧州側が大幅な輸入超過による慢性的な貿易赤字に苦しめられていた。
イギリスにはインドの様な何でもある国が欲しがる品物が無かったのである。
ワーテルローでフランスのナポレオンがイギリスに負ける1815年に、全インドもイギリス軍の軍事力で完全植民地化が成功してしまう。
イギリスの東インド会社による支配により、インドの優れた繊維産業は壊滅しインドは単なる原料輸出国(イギリス製品の輸入国)に成り下がってしまい、原綿の輸入価格も綿製品の輸出価格もイギリスが独断で決定出来るようになって、やっと英国の今までの構造的な貿易赤字が解消されるのです。
徳川幕府は地理的に5000kmも遠く離れていたにも関わらずオランダや中国経由で、正確な情報を取集してインドで起こった悲惨な事態をすべて把握していた。
インドは日本にとっては中国に次ぐ心情的にも親近感の有る文化の一大中心地であり、日本人の精神的バックボーンの仏教発揚の地である。
スペインから独立したオランダは海洋国家として19世紀の初頭まではイギリスフランスなどに対抗する一大勢力(敵)であったので、遠慮することなく敵国イギリスが日本と比べられないくらいに大きな国であるインドの首を徐々に絞めて殺していく様を正確に日本に伝達していたのである。
ペリー来航の9年前(アヘン戦争終了2年後)の1844年オランダ王ウィレム2世はイギリスによってインドが無残に植民地化される様や中国に無理無体を吹っかけたアヘン戦争の経過など弱肉強食の帝国主義時代の世界情勢に鑑み『開国も止む無し』(武力抵抗の危険性)との国王の親書を徳川幕府の将軍に送っている。

『最初は通商から始まった』

当時の日本人が欧米の求める『通商』を恐れた理由は、独自の優れた文明を誇った大国インドが滅んだ最初の出来事が、何でもない普通の『通商』から始まっていたからである。
悲惨で残酷極まるイギリスによるインドの植民地化は、300年前に白人が来て南部の海岸部の幾つかの都市と普通の通商を求めるところから全ては始まった。
最初は慇懃で親切で友好的であったが、少しづつ着実に影響力や権力を持っていきインド内部の争いに介入して対立を煽り、最初の白人商人のインド上陸から300年後の最後には大文明圏である全インドを手に入れ、その時は慇懃でも親切でも友好的でも無くなっていた。
インド人は自分自身に対して自信を持っていて、欧州人を少しも恐れていなかった。
何故なら当時のインドは欧州諸国に対してほとんどあらゆる点で優れていたからです。
最初の時点では、インドは文化的にも軍事的にも経済的にもヨーロッパよりも数段勝っていた。インドは植民地化される19世紀時点でもGDPで英国を上回っていた。
しかしインドにとって、そんなことは最後には何の役にも立たなかったのである。

『本当は怖い貿易・通商。trade(貿易)の意味』

150年前にアメリカなど当時の列強が押し付けた『全ての障壁を失くした自由な通商・貿易』(trade)ですが、今の日本語的なイメージでは『自由な貿易』は薔薇色で、少しも『悪い』ところが無い。
ところが、この名詞としての通商(trade)の本来の意味は動詞としての『騙す』であると言われています。
広い大陸での、価値観の違う異民族相手の利害が対立する通商・取引(trade)とは騙し騙されるのが基本で、少しでも油断したら騙されて酷い目に合う危険が潜んでいた。
英語の通商・貿易(trade)には、日本語に無い『怖い意味』が含まれているのです。
tradeは、島国で同じ相手と永久に付き合う必要がある日本人が身上とする商売上の『正直さ』や『公正さ』だけでは成り立たない、彼我の『力関係』がものを言う弱肉強食の厳しい世界なのです。 (trade on には『取引します。』との訳以外に、もう一つの『付け込む。』との恐ろしい意味が含まれている)
大ヒットしたジョージ ルーカス監督の『スター・ウォーズ』の悪役は何故か通商連合だった。
英語圏では『通商連合』(Trade Federation)と言われると『油断するな』と身構えるのでしょう。
『天高く馬肥ゆる秋』の言葉の由来となった万里の長城を越えて中国を脅かした匈奴の昔から、洋の東西を問わず、通商を担う遊牧民は、農耕民にとっては貴重な品々を商う『貿易』だけではなくて、同時に恐ろしい略奪者なのです。









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HN:
酔生夢人
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男性
職業:
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考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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