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精神変化を待つか、革命か

「バカ国民帝国日本の滅亡」の記事の一節のみ引用。文中の「ダブルスタンダード」とは、日本人の思考習性が「いい人・悪い人」「身内・よそ者」で決定されていることのようだ。通常の「ダブルスタンダード」という用法は、二つの矛盾する基準を場合によって使い分ける、狡猾なやり方を言うが、ここでは単に「二つの基準」という意味で言っているように見える。というのは、「いい人・悪い人」「身内・よそ者」は矛盾することはほとんどなく、日本人的な思考習慣では、「身内=いい人」「よそ者=悪い人」となっているからである。私の「毛唐嫌い」も、(偽)右翼の「中国・韓国・ロシア嫌い」も、そういう意味では似たようなものだ。ただ、私にとっては「アジア=身内」であり、(偽)右翼にとっては「欧米=身内」という違いがあるだけである。言うまでもなく、(偽)右翼と書いたのは、本来の右翼はアジアが団結して欧米の侵略から日本(アジア全体)を守ろう、という思想が主流だったからである。
前置きが長くなったが、孔徳秋水氏は、その筆名(当然、幸徳秋水を尊敬しているのだろう)にも関わらず、「革命」に否定的であるようなのが解せない。日本人が精神的に変革しないかぎり、どんな革命をしても無意義だ、という考えのようだが、はたしてそうか。革命によって精神の変化も生まれる、ということもあるのではないか。人間の精神は外部刺激によって変化していくものだ。とすれば、今の社会が変われば、人間の精神も変わるだろう。もしも、精神変化を待つのなら、釈迦、キリストなどの偉大な教えがあったにも関わらず、人間の世界はこの2000年以上も暴力と悪の支配する野獣的世界であり続けたのはなぜか、を問わねばなるまい。



(以下引用)




また、こうした社会で”革命”などすればどうなるだろうか?




庶民が、どいつもこいつも”小権力者”、”小独裁者”なのだから、成り上がれば”大権力者”、”大独裁者”になるだけである。





権力を打倒しても、別の権力者が取って代わるだけにすぎない…




それで「世の中が変わった」などと言えようか?…「目先が変わった」にすぎないのではないのか?…





日本が民主社会になるための第一の条件は、日本人がことごとく、


この”ダブルスタンダード”を捨てることである。




「常識」を振りかざして、人を裁くことを止めることである





日本人よ、まず人間になれ!


 


地獄鬼畜生のルールを捨てて、人間のルールにしたがえ!!

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「非常時」はゆるやかに日常とすり変わっていく

「シジフォス」というブログに転載されていた記事の孫引き転載である。
中島京子という作家が直木賞を取ったことは知っていたが、最近の作家にはまったく興味がない(漫画家には興味があるが)ので、作品を読もうとは思わなかった。しかし、この文章を読むと、作家としてというより、「人間として」実にまともで賢明な人のようだ。
下の記事は、「非常時」がゆるやかに日常の中に滑り込んできて、当たり前の日常と同化していく様を見事に示している。そして、多くの人が言うように、今は再び「戦前」になろうとしているのである。まったく戦争の必要性の無い、平和なこの日本が「戦前」だ、と言うと頭がおかしいと言う人も多いだろう。しかし、戦争は国民の意志で起こされるものではない。経済界の一部と政治指導者の意志で起こされるものであり、戦争の「理由」など、どうとでもでっち上げられるものだ。そして、マスコミがそのでっち上げに協力し、全国民的な狂気が形成されていく。
「霜を踏みて堅氷至る」とは、そうした事態への警告でもあるのだ。


(以下引用)



>(寄稿)「戦前」という時代 作家・中島京子(朝日新聞 2014年8月8日)

 昨年のいまごろ私は、準備中の短編小説のために、戦後まもないころの出版物をあれこれ調べていて、プロレタリア作家・徳永直(すなお)の「追憶」という文章に出くわした。「文藝春秋」1946年11月号に掲載されたその随筆は、敗戦直後に書かれたにも拘(かかわ)らず、なんと、関東大震災時の朝鮮人虐殺を書いたものだった。
 「朝鮮人が火をつけた」に始まり、「“てき”が一人一つずつ爆弾を抱えて向かってくるから応戦せよ」に至る、震災当日から翌日、翌々日と膨れ上がっていくデマの実態と、それを真に受ける人々の行動が詳細に描かれる。同時に、「しゃかいしゅぎしゃ」だった徳永が、身に迫る危険を感じていかに怖かったかも書かれている。実際、このときに「亀戸事件」も「大杉栄一家惨殺」も起こるので、徳永は戒厳令下で行われ始めた排除の空気をその肌に感じて、東京の街を逃げ惑う。
 1923年が関東大震災の年、2年後に「治安維持法」が成立、その悪名高い法律は、3年後の改定を経て、戦争へとなだれ込んでいく昭和の時代の思想弾圧に猛威を振るった。太平洋戦争に突入する1941年には、さらに厳罰主義を徹底する全面的な改定がなされ、戦時の言論は見事に封殺される。敗戦で自由が保障されるまで、徳永は書こうにも書けなかった。「戦争中にくらべれば多少は検閲がらくであつた昭和の初期でも、伏字くらいですむ性質とも思へなかつたし、昭和七・八年以後となると、書いてしまつておくことさへいざといふ場合が考へられて怖い気がしてゐた」。1923年から1945年までは、徳永の中でひとつながりだ。
 私が随筆「追憶」を見つけて間もないころに、「特定秘密保護法案」に対するパブリックコメント募集がひっそりと行われ、あっという間に締め切られた。それでも9万件ものコメントが寄せられ、その8割近くが法案に否定的だったにもかかわらず、問題の多いこの法案は、年末に強行採決され、国会を通過した。
 あれ以来、日本史年表を見るとどうしても、「関東大震災」と「東日本大震災」を、「治安維持法」と「特定秘密保護法」を引き比べてしまう。いまは昭和史で言うと、どのへんにいるのかと、つい考えてしまう。「関東」と「東日本」が違うように、「特定秘密保護法」は「治安維持法」ではないのだから、そんなに心配することはない、というような楽観的な気持ちにはなかなかなれない。7月に閣議決定で憲法解釈の変更がなされ、行使できるとされてしまった「集団的自衛権」が、「特定秘密保護法」施行下で使われたら、日本は歯止めのない武力行使の時代に突入することが、理論上ありえることになる。
 しかし、私は政治家でも法律家でもないので、法律の話はこれくらいにしようと思う。私の危機感、私自身が皮膚感覚で感じ取っている怖さは、法律や政治の動きもさることながら、少し別のところからやってきている。
     ■     ■
 「小さいおうち」という小説は、今年映画になって公開もされた、私の代表作だ。昭和10年、東京郊外に小さな家が建てられ、核家族の一家がそこで暮らす日々を、当時女中として雇われていた女性が晩年になって綴(つづ)る、というのがメインのストーリーになっている。
 これを書こうと思った理由は、現実社会に警鐘を鳴らそうなどという大それた気持ちではなくて、ただ単純に、自分自身の興味と関心のためだった。私は、政治家や軍人、官僚など、歴史を動かす決断をした人たちではなく、一般の人々にとって、あの時代はどういう時代だったのか、なぜ戦争に向かったのか、知りたいと思ったのだ。
 当時の記録に触れると、文化的には円熟期であり、都会の市民層には教養もあり、分別もあり、平和主義的な傾向すらあったように見える。しかし、歴史の教科書が教えるように、軍国主義が力を持ち、他国を侵略し、おびただしい犠牲者を出した時代だ。私はその、明るくて文化的な時代と、暗くて恐ろしい残酷な時代がどう共存していたのか、あるいはどこで反転したのか、知りたいと思った。
 そこで私は当時書かれた小説、映画、雑誌、新聞、当時の人々の日記などを読んだ。のちになって書かれたものは、戦後的な価値観が入っているので、できるだけ、当時の考え方、当時の価値観がわかるものを調べた。すると、だんだんわかってきた。そこには、恋愛も、親子の情も、友情も美しい風景も音楽も美術も文学も、すべてのものがあった。いまを生きる私たちによく似た人たちが、毎日を丁寧に生きる暮らしがあった。私は当時の人々に強い共感を覚えた。
 けれども一方で、そこからは、人々の無知と無関心、批判力のなさ、一方的な宣伝に簡単に騙(だま)されてしまう主体性のなさも、浮かび上がってきた。当時の人々に共感を覚えただけに、この事実はショックだった。豊かな都市文化を享受する人たちにとって、戦争は遠い何処(どこ)かで行われている他人事のようだった。少なくとも、始まった当初は。それどころか、盧溝橋で戦火が上がり日中戦争が始まると、東京は好景気に沸いてしまう。都心ではデパートが連日の大賑(にぎ)わい。調子に乗って、外地の兵士に送るための「慰問袋」を売ったりする。おしゃれな奥様たちは、「じゃ、3円のを送っといて頂戴(ちょうだい)」なんて、デパートから戦地へ「直送」してもらっていたようだ。これは前線の兵士たちには不評で、せめて詰め直して自分で送るくらいのデリカシーがないものか、と思っていたらしい。つまり、それほどに、戦闘の事実は市井の人々から遠かった。これは1939年の「朝日新聞」の記事から読み取れる。盧溝橋事件からは2年が経過している。しかし、この後、戦況は願ったような展開を見せず、煮詰まり、泥沼になってきて、それを打開するためと言って、さらに2年後に日本は太平洋戦争を始める。また勝って景気がよくなるのだと人々は期待する。しかしそうはならない。坂を転げ落ちるように敗戦までの日々が流れる。
     ■     ■
 人々の無関心を一方的に責めるわけにはいかない。戦争が始まれば、情報は隠され、統制され、一般市民の耳には入らなくなった。それこそ「秘密保護法」のような法律が機能した。怖いのは、市井の人々が、毒にちょっとずつ慣らされるように、思想統制や言論弾圧にも慣れていってしまったことだ。現代の視点で見れば、さすがにどんどんどんどんおかしくなっていっているとわかる状況も、人々は受け入れていく。当時流行していた言葉「非常時」は、日常の中にすんなりと同居していってしまう。
 昨年あたりから、私はいろいろな人に、「『小さいおうち』の時代と(今の空気が)似てきましたね」と言われるようになった。出版された2010年よりも、2014年のいまのほうが、残念ながら現実と呼応する部分が多い。
 いちばん心配なのは、現実の日本の人々を支配する無関心だ。戦前とは違い、戦後の日本は民主主義国家なのだから、きちんと情報が伝えられる中で、主権者である国民がまともな選択をすれば、世の中はそんなにはおかしな方向にいかないはずだ。それなのに、たいへんな数の主権者が、投票に行かず、選挙権を放棄している。そのことによって、あきらかに自分自身を苦しめることになる政策や法律が国会を通ってしまっても、結果的にそれを支持したことになると気づいていない。そうした人たちが、だんだんと日常に入り込んでくる非日常を、毒に身体を慣らすように受け入れてしまうかと思うとほんとうに怖い。
 「集団的自衛権」に関して言えば、これを「検討が十分に尽くされていない」と感じている人は、共同通信の世論調査結果で82%に上る。高い数字の中には、防衛政策云々(うんぬん)の前に、内閣が立憲主義を無視した暴挙に対する批判も含まれるだろう。こうした意識が有権者に芽生えたのには、報道も寄与したはずだ。「集団的自衛権」に関しては、どの報道機関もかなり力を入れて報道していた。国民のほとんどが、「よく検討されていない」と感じるくらいには、報道されたわけだ。逆説のようだが、きちんと報道されなかった事柄に対しては、人は「検討が十分でない」ことすら判断できない。
 日常の中に入り込んでくる戦争の予兆とは、人々の慢性的な無関心、報道の怠惰あるいは自粛、そして法整備などによる権力からの抑圧の三つが作用して、「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿状態が作られることに始まるのではないだろうか。その状態が準備されたところに本当に戦争がやってきたら、後戻りすることはほんとうに難しくなる。平和な日常は必ずしも戦争の非日常性と相反するものではなく、気味悪くも同居してしまえるのだと、歴史は教えている。
     ■     ■
 終戦直後の新聞を繰っていると、やたらと出てくるのが「一億総ざんげ」という言葉だ。戦争に負けたことを、戦死した兵士と天皇に向かって謝らなければならないらしいのだが、「一億」みんながやらなければならないという主張が政権担当者によってなされ、戦争を煽(あお)ったメディアが積極的に報じているところが、なんとも責任逃れくさくて受け入れがたい。とはいうものの、私たちが未来への選択を誤るようなことがあれば、そのときこそ、主権者である国民は、言い逃れできなくなるだろう。
 「自分が何をしようと、世の中が変わるわけじゃない」と思うのは、間違っている。8割の人が「憲法解釈変更による集団的自衛権行使容認」に懐疑的である事実は、少なくとも、前のめり一辺倒できた政府の姿勢を慎重にさせている。「カラーパープル」を書いたアフリカ系アメリカ人の作家アリス・ウォーカーの言葉を引くならば、「人々が自分たちの力を諦めてしまう最もよくある例は、力なんか持っていないと思い込むこと」なのだ。特別なことをする必要はない。いまより少し社会に関心を持って、次の選挙で自分の考えに近い候補者に投票すればいい。
 「小さいおうち」の時代の人々は、いまを生きる私たちとよく似ている。でも、戦前の日本は、民主主義国家ではなかった。日本国憲法を得る以前は、一般市民は主権者ではなかった。だいじなのは、関心を持つ状態をこそ「日常」化させることではないだろうか。
 日本国憲法第十二条には書いてある。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」
    *
 なかじまきょうこ 64年生まれ。出版社勤務、フリーライターを経て作家に。2010年、「小さいおうち」で第143回直木賞。著書に「かたづの!」(8月下旬刊行予定)など。

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職業としてのテロリスト

前に「徽宗皇帝のブログ」で引用した言葉だが、

若者の1人目は親の後を継いで家に残れるが、余った2人目は外国に働きに出て、3人目は犯罪者か革命家になる

という言葉は世界政治を考える上で非常に重要なことを示唆している、と思う。具体的には中東におけるIS(ISIS)のことである。
あのキチガイ集団は、要するに「3人目は犯罪者になる」ということなのだ。つまり、「職業」として犯罪者になることを選んだのであり、彼らをイスラム原理主義者だとか規定するのはまったくの間違いだ、ということだ。彼らの生きる世界では、犯罪者、テロリストになることが「合理的選択」だったのである。なぜなら、それ以外の生き方では「奪い尽くされる側」にしかなれないからである。もちろん、「革命家」にならないのも同じ理由だ。革命家は虐げられた者への奉仕者であり、革命は、(少なくともその途上では)自らの利益になることはまったく無い。
いずれにせよ、彼らテロ集団は「職業として、あるいは生活手段として」テロを選んだ連中だ、という観点を持たないいかなる論評も中東情勢批評においては弱いものになるだろう。彼らに、テロ以外の有望かつ有意義な生活手段を与えることこそが、迂遠だがテロ撲滅への道になるかと思う。
そして、もちろん、彼らテロリストの最初の「雇用主」は「西側」にいるのだから、まずはその事実を究明し、「道義」の面からこの両者を責めることである。(テロリストが「自活」し始めた現在では、この線からのテロ撲滅は困難だろうが。)

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太平洋戦争は「防衛戦争」だったか?

「yahoo知恵袋!」から転載。
大学の先生や評論家などの書いた長大な(そして明らかに偏向した、あるいは思考硬直した)本を読むよりも、こうしたネット掲示板での質疑応答などのほうが、世界の真実や事実を簡潔明瞭に分からせてくれる。ネットというものは、人類の精神的次元を変える、革命的発明ではないか。
何はともあれ、この小さな記事は、「対日石油禁輸」によって日本は対米戦争に追い込まれた、という(主にネット右翼の世界で叫ばれている、「あの戦争は防衛戦争だった」という)「常識」に一石を投じるものだろう。



(以下引用)



「先の大戦」について どうやら「海軍善玉論」、「陸軍悪玉論」という評価があ...


質問者


shpfiveさん


2014/5/1306:02:48



「先の大戦」について

どうやら「海軍善玉論」、「陸軍悪玉論」という評価があるようです。 個人的に言うと、歴史を「善玉、悪玉」という、単純な二元論で割りきるのは違和感があるのですが、事実として言うなら、少なくとも「先の大戦」は、陸軍主導によりはじめられた、という点に関しては、例えば「機密戦争日誌」などを読んでも間違いないように思われます。
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/nitibeikaisen/kimitusens...

Q 「先の大戦」開戦にあたり、海軍が果たした役割も、確かに小さくはないとは思いますが、陸軍主導によりはじめられた戦争である、という認識を覆すだけの材料はあるのでしょうか?


補足皆様、ご回答いただきありがとうございます。

いろいろ考えましたが、本質問は「投票」とさせていただきます。

以上、よろしくお願いいたします。

ありがとうございました。


閲覧数:
228
回答数:
5
お礼:
25枚

 


ベストアンサーに選ばれた回答


red_spi99さん


編集あり2014/5/1411:50:48



最初に余談から書くと、私は海軍が「善玉」とは思っていません。その根拠もあとで書きますが・・・どうもなにかの反動なのか、「陸軍善玉海軍悪玉」みたいな、わけのわからないトンデモ主張が飛び出すのはどうにかならないものかと・・・

さて、「海軍は知能犯、陸軍は暴力犯」という海軍反省会で出てきた言葉は、じつにうまく状況を表していると思います。
陸軍は軍部大臣現役武官制のあからさまな悪用や、満州事変をはじめとする勝手な軍事行動など、暴力的な手法で国政に干渉を繰り返しました。
これによって状況が混沌としていったことは否定のしようもないでしょう。

しかし海軍も裏ではあれこれ画策しています。
まず海軍においては海軍左派と呼ばれた対米戦反対派、米内、山本、井上らが有名ですが、勢力としては小さなものでした。大半はどちらにも明確につかないあいまいな層です。
そして、むろん対米強硬派もいました。これもけっして大きな勢力ではないのですが、困ったことに軍務局の要所に集まっていました。

海軍に限らないのですが、軍務局の若手中堅の研究が上層部に上げられ、これが採用されるという傾向があっため、ここに対米強硬派が集まっていた影響は少なくありませんでした。

ことに軍務局の石川らが中心となった海軍第一委員会が策定した「現情勢下ニ於ケル帝国海軍ノ執ルベキ態度」の絵図面は、じっさいこのとおりになっているだけに軽視できません。

この第一委員会の策謀でもっとも重大な問題は南部仏印進出で、いくつか相反する史料があるためなんとも言えないところがあるのですが、この第一委員会が南部仏印進出を裏で強行していたらしく、その影響を考えれば海軍の開戦に関する関与は軽視できるものではないでしょう。

詳細については防衛研究所の資料がありますので、見てください。
http://www.nids.go.jp/publication/senshi/pdf/200103/07.pdf


いくつかの相反するということについて書いておきますが、南部仏印進出は松岡外相が言い出して強行に主張したという説(松岡と石川は盟友だったという)と、石川ら第一委員会が強行して、反対する松岡に圧力をかけたという説があります。


ほんとうに真逆なんですが、同じ防衛研究所論文でも上記のどちらも採用されている例があって、どちらが正しいのかわかりません。


それと、史料から見て陸軍が開戦に大きな役割を果たしたことは否定できませんし、機密大日誌あたりを見れば陸軍部戦争指導班が開戦を望んでたことは明白ですが、「陸軍側の史料が多く残っている」という実態もあります。

海軍の機密大日誌は現存していませんから、わからないだけですね。軍務局の対米強硬派の存在を考えれば、ロクでもないことが書かれている可能性は十分にあります。

まあ書くとキリがないのですが、なぜかこういうところを指摘する人は少なく、連合艦隊という開戦の可否を判断する場から離れていた山本を原因にしたがる人がいるのが不思議でなりません。

nmurasさん

「現情勢下ニ於ケル帝国海軍ノ執ルベキ態度」は、対日禁油前に作られてますよ。石油の輸出停止は南部仏印進出への経済制裁ですが、第一委員会はそれに先だって「直に戦争決意(対米を含む)明定」

さらに米英蘭の妨害があった場合は「英米に対し武力を行使す」と書かれています。

つまり、禁油の前から対米戦を決意していた層は存在しました。むしろ第一委員会の計画は対米英戦を必至のものとした上で策定されています。つまり南部仏印進出は対米英戦の布石です。

ちなみに、陸軍も「対南方政策要綱」において仏印進出を計画しています。これは「対米戦にはならないだろう」という目算で定められましたが、やることは同じです。
南部仏印進出がもたらす結果を第一委員会は対米戦必至と考え、陸軍は対米戦回避と考えていた。考えは違っても、これが禁油を招いたことは史実のとおりで、単に陸軍は読みが甘いだけです。
やったことの責任は回避できません。


  •  

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「奴らは敵だ。敵を殺せ」

先に引用からしておく。「日々平安録」というブログから転載。

(以下引用)

 共同体の正義は進化論的には「なわばり」から生じる。「なわばり」を守ることは進化のうえでのきわめて強力な生存戦略である。当然人の脳のなかにも「なわばり感情」は埋め込まれている。「正義」とは「自分たちのなわばりを守ること」、「悪」とは「なわばりを奪いにくる敵のことである。ヒトは集団を「俺たち」=味方と「奴ら」=敵とにわけて、殺し合ってきた。これは人間の本性で、カール・シュミットは「奴らは敵だ、敵を殺せ」が政治の本質だと述べたのだそうである(埴谷雄高かと思っていた・・恥)。


(引用終わり)


なぜ、先に引用をしたのかというと、ご想像通り、「奴らは敵だ。敵を殺せ」というフレーズについて考えたいからだ。
これが政治の本質だ、と言われると私などには理解しがたい。政治とは、個人(私人)間の矛盾や軋轢を社会的に、あるいは集団秩序に基づいて調整するものだ、というのが私の政治認識だ。それに対して、カール・シュミットの言う政治は、最初から調整ではなく権力闘争として捉えられているわけで、そのハードボイルド的な苛烈さが一部の人々には「ウケル」のだろう。だが、私はそれが政治の本質だとはどうも思えないのだ。まあ、チェーザレ・ボルジア的政治はそうだろうし、現代の政治も水面下では同じかもしれないが、現実政治は「大義名分」を常に必要とするし、そこに理性の出番もある。いきなり「奴は敵だ。敵を殺せ」とはなりえないのである。
さて、ここまでは前置きである。

実は、「奴らは敵だ。敵を殺せ」という言葉は、二つの大きな深淵を一気に飛び越えている。

まず、「奴らは敵だ。」という判断。相手を「敵」だと看做すのは、大きなジャンプである。ところが、イスラエル人はパレスチナ人を、相手がパレスチナ人である、というだけで即座に「敵」と看做すだろう。ここに一つの狂気がある。あまりにもありふれていて、狂気とは看做されない狂気が。
次に、「敵を殺せ」にも大きな深淵と飛躍があるのは分かるだろう。なぜ「敵」を殺さねばならないのか。「汝の敵を愛せよ」とまではいかなくても、「和解する」という道は容易に考えられるはずだ。そもそも、相手を「殺す」ことは相手から自分が殺されることを当然のこととして受け入れねばなるまい。これは狂気ではないか? しかし、戦争ではこの狂気が日常となる。

実は、ここで、レディー・ガガという歌手が、なぜ悪魔主義的ファッションをし、彼女がなぜ女性たちの支持を得ているのか、という考察をしようか、と思っていた。というのは、「女性にとって男性は敵ではないのか」、ということを思いついたからだ。(もちろん、個人個人としては味方にもなりうるが、社会的には敵だ、ということだ。)そして、世界の「正義」や「秩序」から抑圧されている女性は、同様に抑圧された「悪魔」を自らのシンボルとして選んだレディー・ガガに無意識的な共感を覚えているのではないか、という推論をしたのだが、まあ、単なる思い付きだ。しかし、「敵」と「味方」の間に「奴隷(手駒)」という層を置けば、ジェンダー論に限らず、様々な社会学的考察のヒントになりそうである。







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流出した個人情報への防衛策

「東海アマ」ツィッターから転載。
情報パンデミック時代を生き延びるには、こうした民衆の側からの逆襲も必要だろう。流されているばかりではいけない。不買運動や対企業訴訟と同様、相手に経済的ダメージを与えることこそが、企業にモラルを守らせる唯一の手段だと思う。こうした知恵はぜひ拡散し、市民の常識にしたいものである。
大きな政治にだけ目を向け、悲憤慷慨するのもいいが、こうした「小さな政治・経済」も大事である。「小を積んで大に至る。」「霜を踏みて堅氷至る。」だ。




(以下引用)


     アマちゃんださんがリツイート

「ベネッセのデータ流出が問題となっていますが、届いた迷惑なダイレクトメールは、 開封せずに赤いペンで受取拒否と書き、認印を押してポストに投函すると 、発送元に返送代が請求されるので、大抵リストから外れます。」

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盆に寄せて


生きて世にひとの年忌や初茄子    几董「五車反古」

玉棚の奥なつかしや親の顔   去来「韻塞」







(補足)某ネットサイトより転載。


年忌法要とは、故人の祥月命日に行う法要のうち主な年度に行うものをさします。

[祥月命日とは]…「しょうつきめいにち」と読む。故人の命日と同じ月・同じ日をさす。年に一回来る命日のこと。
〈例〉亡くなった日が9月1日であれば毎年9月1日が祥月命日となる。

(ちなみに月命日とは各月ごとの命日で、「つきめいにち」と読む。毎月の故人が亡くなった日と同じ日をさす。一年に12回ある。
〈例〉亡くなった日が9月1日であれば毎月1日が月命日となる。)




魂祭/たままつり



魂祭


初秋

霊祭/玉祭/聖霊祭/聖霊盆棚/盆棚/魂棚/聖霊棚/棚経
棚経僧/掛素麺/苧殻の箸/瓜の馬/茄子の牛/手向け/水向
七月十二日の草市で買いととのえた品で精霊棚をつくり、祖先の霊
を招く。棚を略して仏壇の前に供物をする所もある。みそ萩、枝
豆、瓜茄子等を供え、門火を焚く。僧は各檀家を廻り棚経をあげ
る。掛素麺は供物のひとつ。瓜茄子の馬は聖霊の乗物。

 


まざまざといますがごとしたままつり 季吟 「師走の月夜」
蓮池や折らで其まゝ玉まつり 芭蕉 「千鳥掛」
熊坂がゆかりやいつの玉まつり 芭蕉 「笈日記」
玉祭りけふも焼場のけぶり哉芭蕉 「笈日記」
棚経や遍照が讃し杖さゝげ 言水 「富士石」
数ならぬ身とな思ひそ魂祭 芭蕉 「有磯海」
玉棚の奥なつかしや親の顔去来 「韻塞」
遺言の酒そなへけり魂まつり太祇 「太祇句選」
魂棚をほどけばもとの座敷かな 蕪村 「蕪村句集」
なき父の膝もとうれし魂祭 樗良 「まだら雁」
さし汐や茄子の馬の流れよる一茶 「享和句帳」

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酔生夢人
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男性
職業:
仙人
趣味:
考えること
自己紹介:
空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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