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情緒的・非論理的言説を見抜く目

「日々平安録」から転載。
『逝きし世の面影』(ブログではなく、本のほう)は、まだ読んだことがない。読まなくても、だいたいこんな本だろう、というのが想像がつくからだ。その著者の渡辺京二が何者なのかも分からない。文芸評論家なのか、社会評論家なのか。
で、下の文章中で紹介された渡辺氏の言説を読むと、相当に頭が混乱した人間のように思えるのだが、それでも断定的な口調で何かを語られると、ついそれに耳を傾けてしまい、「そうかもしれないなあ」という気持ちになるのが、頭の鈍い私のような人間の常だ。だから、そういう人物の著書は「読まないに限る」。
もちろん、読めば、中にはいいことも有益な知識もたくさん書いてあるだろうが、「独断的な人間」の怖いのは、洗脳能力の高さである。
その代表が小林秀雄で、彼の文章は、「一切の論証無しで、すべてを断定する」ような文章で、しかもその内容が面白いものだから、読んだ人を洗脳する力がすごい。私もだいぶ洗脳されたものだ。そうなると、それは私自身の精神の一部を形成しているのだから、今さら除去するつもりもない。(洗脳云々以前に、それまで考えもしなかったような「物の見方」を教えられた、という部分も大きい。)まあ、「欠点も長所も主観の問題だ」というのが私の主義だから、その「精神の偏り」を含めての自分なのだ、と考えている。ドストエフスキーなども私の精神を形成した(つまり洗脳した)重要な要素である。読む者が洗脳されるくらいの力が無い「軽い書物」を読むのはただの「気晴らし」であって、どうせ読むなら読者を洗脳するくらいの「凄い本」を読んだ方がいい、とも言える。若いころなら特にそうだろう。
というわけで、読書と洗脳(読書の影響力)という問題はここまでとするが、「日々平安録」管理人氏くらいの冷静な読解力(あるいは知性)があれば、読んだ本に洗脳されることも無いだろう、というのは少し羨ましい。若い頃はともかく、他者の愚劣な主張(あるいは非論理性)を見抜けないようでは社会人としての資格に欠けるだろうからである。


(以下引用)

2015-08-16

[][]渡辺京二対談集「近代をどう超えるか」(2)Add Star

   弦書房 2003年


 


 この対談集には、7人との対談を収めるが、榊原英資氏と中野三敏氏との対談は(1)でとりあげたし、また岩岡氏との対談「石牟礼文学をどう読むか」も一部論じたので、ここでは、大島仁氏との対談「9・11とグローバリズム」、森崎茂氏との対談「魂の飢えこそ思想の課題」の二つの対談を見ていくことにしたい。


 9・11が2001年で、この対談は2002年に行われている。渡辺氏は、自分は「資本制によって前近代的共同体が世界的な規模で破壊される過程が「近代」である」としているが、グローバリズムの実体は政治にあるのではなく、経済の世界での話であり、それは資本主義の新しい段階ではあるが、国家が主導したものではないと考えるという。


 9・11のようなイスラムテロリズムは、抽象的な観念によって社会を計画的に変えようとする思想の流れの中にある急進的な社会革命の論理にもとづいているという点で、スターリン主義や毛沢東主義と同じものと考える、自分の基本は個々人の尊厳を重んじるのが一番大切であるとする啓蒙である。抽象的な理念で社会を変革しようという革命の思想は近代が生んだ驕りである、という。


 キリスト教においては、近代化に直面したときにバチカンは中世的な神の理念を反省した。イスラム教ではそれができていない。世界を単純に善と悪に分け、自己を善とし、異教徒(悪)を改宗させなければならないとする。これはスターリニズムと同じ考え方である。


 政教分離ができていないから、思想的に自由な模索ができない。一番の問題はイスラム教普遍主義であることで、イスラム改宗すれば故郷を失わなければならなくなる。聖地がアラビア半島にあるのだから。それはイリイチのヴァナキュラーな(土地に根差した)ものを否定する。これも「労働者には祖国なし」とするマルクス主義と同じである。イスラム教グローバリズムなのである。


 米国こそが最大級のテロ国家であるというチョムスキーは、自分をヒューマンな立場に置いて、回りを攻撃する聖人なのである。己一人を高しとして、他を批判するのは、聖人的な自己満足を与えるだけで、何ら問題を解決するものではない。チョムスキーは理性主義を奉じるウルトラ原理主義者である。


 昭和初期の青年テロリストたちはすでに近代にさらされていたので、単純に農村共同体に帰りたいとしたわけではなかった。ただ資本主義の社会が共同体的なものや人間同士のきずなを破壊していくのを目のあたりにして、共同体的なものへの飢えを感じ、それを天皇投影した。そこまではイスラム原理主義と似ている。しかし北一輝も2・26の青年将校も近代を肯定していた。彼らは白樺派なのである。大切なのは個人だった。三島由紀夫も2・26にこだわったが、彼には近代化に置いてけぼりを食らった民衆への共感がなかった。北一輝や2・26の将校たちを動かしたものは悪い感情であるとはいえないが、北がもつ日蓮の霊的世界の部分は自分は苦手である。


 グローバリズム自体は資本主義の宿命である。問題はそれがもたらす世界の均質化である。伝統的な生活の根っこが押し流されようとしていることである。人間にとって大切なのは何らかの土地に生きて、具体性な食べ物や言語で生きることである。アフガンの子供たちは貧しいがいい顔をしている。グローバリズムがもたらす害を否定するには、生活民衆が自立するしかない。一人の人間がいて、家族、友人に囲まれた毎日の生活の中で、息が通うようないい世界をつくるのがまず第一となる。そこでは国家は関係ない。しかし同時にぼくらは国家の一員でもあるので、国家の行動に責任を負っていかなかればならない。(→自分たちの生活文化を守ろうとすれば、国民国家の立場をとらざるをえない。)


 土地の霊性に代表されるような生命の流れが現代文明によって圧殺されていることへの反抗がイスラムの過激主義の根底にあることは認めなければならない。フランスの現代文学を読むと、男女の関係にしても何と孤独な世界かと思う。


 自分は国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたいが、一方で、人間の共同的なあり方は求めたい。


 ここまでが大島氏との対談での渡辺氏の論のまとめで、以下が森崎氏との対談。


 人の生はただそこにあるだけで価値そのものである。石牟礼氏とであって、それまでの自分の知識人的な個でない、ほんとうの生活民に目を開かされた。


 自分が抱えている問題は魂の飢えということである。


 古代や中世の思想の中には真善美の価値観が確固としてあって、人間はそれを目指せばいいという安心感があった。近代はそれをことごとく打ち壊した。それを極限まですすめたのがポストモダン思想である。しかし、人と人の交わりを成り立たせる原理、道徳や倫理は古今を通じて変わっていない。とすればそれは生物進化の過程に裏づけられているはずである。古今変わらざる真善美を信じるというのは自分の決断であり、選択である。しかし選択の対象は恣意的なものではなく、(進化の過程に)根拠づけられているとしか言いようがないものである。人間は事実問題として倫理を抱え込んでいるのであるから、それは生物的進化の産物としか考えられない。これは自分の信念の問題ではない。信念であれば、恣意であり、相対であるに過ぎなくなる。信念ではなく、人間が進化の過程で形成してきた揺るがぬ普遍的な価値なのである。それへの自信の回復が今日の最も大事な課題である。われわれは進化の過程でそういう感覚をもつような生物として形成されたのだという事実をもとにそれを取り戻さねばならない。


 


 9・11の事例がスターリン主義や毛沢東主義と同じというのがわからない。イスラム宗教であるのだから、社会主義思想も一種の宗教であるとするのであれば別であるが、


「抽象的な観念によって社会を計画的に変えようとする思想」とするのだから、そうではない。宗教は抽象的な観念なのだろうか? 宗教には個人の救済と民族(集団、共同体)の救済の二つの側面があって、もしも宗教が「個々人の尊厳を重んじる」方向のみにのみ特化しているとすれば、それは宗教として衰弱した形であるとする見方もあるだろう。近代化に直面したときにバチカンが中世的な神の理念を反省したのだとすれば、それは共同体を統合する力の衰弱を自覚して、カイザルのものはカイザルに帰しただけのことであって、政教が分離せず一元化しているイスラム教のほうが本来の宗教としての生命を保っているのかもしれない。宗教というのは人間の理性の判断をこえるものであって、理性の産物であるマルクス主義と同じに根のうえにあるとするのは無理な議論の進め方であると感じる。「個人が一番大切であるとする啓蒙」の立場にたてば当然、宗教というものは否定せざるをえないわけで、それが「抽象的な理念で社会を変革しようという革命の思想」であるか否かは関係がないはずである。


 政教分離ができていないから、思想的に自由な模索ができない、というのも変な議論で、思想的に自由な模索などというのは宗教の立場からすれば、神をも恐れぬ人間の傲慢ということになるはずである。


 イスラム教普遍主義であることが一番の問題なのだろうか? 故郷を失ってもあまりある何かが得られるからこそ宗教帰依するひとが出るのではないだろうか? マルクス主義だって同じで、普遍主義には普遍主義の魅力があるのである。


 チョムスキーは、自分をヒューマンな立場に置いて、回りを攻撃する聖人で、己一人を高しとして、他を批判しているというのはその通りであろうが、渡辺氏の論をみて、チョムスキーに似ていると思うひともいそうな気がする。


 昭和初期の青年テロリストたちは(あるいは北一輝)は白樺派なのだろうか? 白樺派のような微温的なものでは何も変わらないと思ったからこその行動なのではないだろうか?


 人間にとって大切なのは何らかの土地に生きて、具体性な食べ物や言語で生きることであるとするならば、亡命するひとたちは人間たることの資格を欠くのだろうか? 「アフガンの子供たちは貧しいがいい顔をしている」というのは、村上龍の「希望の国のエクソダス」でアフガニスタンのパシュトゥーン族の民族衣装を着たナマムギ少年がいう「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない。・・すべてがここにはある。生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある」というのを思い出させた。だが、ナマムギ少年は日本の土地と食べ物と言葉を捨てて、幸せなのだろうか? そこには、「家族、友人に囲まれた毎日の生活、息が通うようないい世界」があるのだろうか? ナマムギ少年は、国家の一員であることをやめ、国家の行動に責任を負うこともやめた。


 渡辺氏は「生活民衆の自立」ということをいうのだが、それはとても観念的で理念的で生活の実感をともなわない言葉であるようにわたくしには思える。「理性」の産物であるように感じる。「土地の霊性に代表されるような生命の流れ」というのもまた同じである。そういうものを感じ取れるひとは(少数であるのかもしれないが)間違いなく存在する。しかし、そういう感性というのは同時に宗教的な何かともきわめて親和性が高く、理性の対極にあるものではないだろうか?


 「自分は国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたいが、一方で、人間の共同的なあり方は求めたい」というのは虫がよすぎないだろうか? これはあちらを立てるとこちらが立たないような二律背反に近い関係にあるのではないだろうか?


 「知識人的な個でない、ほんとうの生活民」というのも随分と観念的な言葉に思える。渡辺氏が抱えているという「魂の飢え」を「ほうとうの生活民」はみな感じているのだろうか?


 古代や中世の人間には安心感があったのだろうか? そもそもそこには「個人」がいなかったというだけはないだろうか? 近代が「個人」というものを持ち込むと、それは壊れざるをえなかったというだけなのではないだろうか?


 「人と人の交わりを成り立たせる原理、道徳や倫理は古今を通じて変わっていない」というのが一番わからない。この古今というのはいつからのことなのだろうか? というのがこれが「物進化の過程に裏づけられているはずである」としているからで、現在の進化の主流の見方では人間という生物を進化の過程から規定しているものは狩猟採集時代の生活であって、農耕以降の時代は進化の過程に組み込まれるには時間的に決定的に不足しているとされているからである。そうであるとすれば、「古今変わらざる真善美」というのが狩猟採集の時代に人間に組み込まれたことになるが。


 人間は事実問題として倫理を抱え込んだのは文明以降ではないのだろうか? 倫理というのは文明の産物であって、進化の過程とは無関係なのではないだろうか? 人間というのはきわめて弱い動物であったはずで、集団で生きるしかなかった。その集団を保持統制する上で宗教とつながっていくような何かが人間のなかに生まれたということはありうると思う。しかし人類などという概念をその頃の人間が持っていたはずはないので、ある数の構成された自分の集団の外にいる人間は敵であったはずである。そこから真善美などというものが生まれるだろうか?


 渡辺氏の「なぜいま人類史か」を読むと、進化ということで想定しているのはローレンツの論であるらしい。「ローレンツは、動物の行動の非常に大きいしかも重要な部分が生得的なものであることを明らかにしたのですが、さらに進んで、人間の儀式や伝統や習俗や倫理のもつ意味も、おそらくそれが生得的な行動様式によって基礎づけられているところにあるのではないかと考えました。そしてそこから彼は、伝統や倫理を合理主義的な批判によって解体する現代文明の動向に警告を発したのですが、そのためにこの偉大な生物学者は学問的な名声まで失墜する危険にさらされることになりました。・・ローレンツは文化には生物学的な基礎があると主張していることになります。これは重大な論点です。一般に、人間は文化を獲得することによって生物進化の法則から離脱したとされています。」 渡辺氏はネオ・ダアーウィニズムが嫌いらしく、「じつはローレンツの確立したエソロジーという学問はいまや、彼の弟子のティンベルヘンを経由してE・O・ウィルソンやドーキンスなどの社会生物学という、極端に戯画化されたネオダーウィニズム的畸形に到達している」などという。そして今西錦司などを「観念や知的なものの基礎に自然のいとなみをみいだそう」としたといって、ローレンツもそれに近いという。そして最後にはこんなことを言い出す。「この地球という実在系はしかるべき方向性をもって進化して来たのだ。その方向性はそのもっとも基礎には物理化学的法則性が存在するものであって、なにも神秘的な生気論は必要としない。意識も精神も文化も制度も言語も進化の産物である。その進化の方向性は一種の目的論的解釈を当然許容するものである。」


 日高敏隆氏はローレンツノーベル賞を受賞する以前からローレンツをふくむエソロジーの日本への紹介につとめた人である。その日高氏は、ローレンツの受賞(1973年)の直後に書かれたローレンツを論じた文で「西欧人には共通したことかもしれないが、《人間》の優越性という感覚と、それに対応すべき道徳感覚がローレンツの頭からはどうしても消しきれないらしい。つまりぼくからみれば、ローレンツはエソロジーの考えから逸脱しているようにみえるのである」といっている。渡辺氏はローレンツを援用することによって、人間のもつ道徳感覚も生物学的基盤ももつ進化に基礎を持つものとして説明できるとしているわけで、したがって道徳感覚も超越的な何かを持ち出すことなく自然科学的なものとして提示できているとしているようである。しかし、ローレンツはデズモンド・モリスの「裸のサル」という表現を嫌い、人間は「累積的伝統をもったサル」と呼ぶべきであるとするひとである。日高氏によればモリスのほうがエソロジーの考えに忠実なのであるが、生物学の正統(つまりネオ・ダーウィニズム)にいるドーキンスなどを渡辺氏は嫌うのである。日高氏は突然変異の累積だけで新しい種が生まれるだろうかという疑問を提出してほとんどの生物学者はそれを内心ではうたがっているとしている。


 このことでもわかるように日高氏は“種”の問題にこだわっており、ローレンツもこだわっている。ローレンツの仕事は今から50年も前のものでノーベル賞をとったけれども、その学問の基礎となったものは、渡辺氏が嫌いなネオ・ダーウィニズムのドーキンスらによって、今ではほぼ完全に否定されいるとしていいであろう。


 長谷川真理子さんの「進化生物学への道」は簡潔な学問的自伝のようなものであるが、長谷川氏が大学にはいった翌年の1973年にローレンツらがノーベル賞を取ったことが書かれている。そのころに長谷川氏も「刷り込み」とかを知ったらしい。長谷川氏もいうように、動物行動学によって従来からの本能と学習の二分法が通用しなくなっていった。長谷川氏は博士課程の2年の時にチンパンジーの言語訓練で有名なプレマック夫妻の来日のアテンドをし、その時に自分が書いている論文を見てもらい、「この論文は、観察事実としてはたいへんおもしろいが、理論的には完全に間違っている」という指摘を受け衝撃を受ける。論文を「群淘汰」の観点から書いていたのだが、「遺伝子淘汰」の観点から書き直すようにいわれたのである。群淘汰はたとえば人間という種に淘汰の圧がかかるという考えだが、遺伝子淘汰は個体(正確にはその遺伝子)に淘汰の圧がかかるとする。そしてその時にドーキンスの「利己的な遺伝子」をはじめて知ったのだという。読んで目から鱗だった、と。「群淘汰」から「遺伝子淘汰」へのパラダイム変換は1970年代前半におきていたのだが、まだ情報の伝わるのが遅かった当時ではそれに気がついていなかった、と。


 ローレンツの著作はすべて群淘汰の考えに基づいて書かれている。学問の根源的な基礎が間違っていたのである。もちろんローレンツが見出した事実は残る。しかしそれをどのように説明するかの方法論の基礎が崩れたのである。「社会生物学という、極端に戯画化されたネオダーウィニズム的畸形」などという問題ではないのである(たしかにウイルソンの「社会生物学」は戯画化といわれても仕方のない部分をたくさんふくんでいるが)。


 とすれば、「この地球という実在系はしかるべき方向性をもって進化して来たのだ。・・意識も精神も文化も制度も言語も進化の産物である。その進化の方向性は一種の目的論的解釈を当然許容するものである。」というようなことはとてもいえなくなる。渡辺氏の主張の根拠が消えてしまう。どうもこのあたり「神」のかわりに「進化」をもってきただけで、たまたま自説に合致する(ということもあるが、それだけではなく、単なる生物学者ではなく、文明の問題をも論じる人でもある)ローレンツの説をもってきただけという気がしてしまう。渡辺氏は自説は人間と人間以外の動物の連続性を主張するものと考えているようだが、日高敏隆氏もいっているように、ローレンツは人間は人間以外の動物とは切れている、飛躍があるとしているようにも思えるので、渡辺氏もまたそうではないかと見えてしまう。


 「進化の方向性」とか「目的論的解釈を許す」というような言い方は限りなく「人間原理」それも「強い人間原理」の方向を示しているように思う。こういう考えはキリスト教の伝統のある西欧でしか生まれないものではないかと思えて、わたくしにはほとんどカトリックの代用品のように思えてしまう。


 進化論について多くの人が感じる不安はそれが倫理や道徳といったものの根っこを掘り崩してしまうのではないかということだろうと思う。人間も動物であるとするならば倫理とか道徳とかを持った動物など他にはいないのだから、神といった超越的な存在を別に仮定しなければならなくなる。しかしそうする必要はなく《進化が倫理や道徳を保証すると》いう渡辺氏の論は特異である。その論によって、根拠のない倫理や道徳にこだわる多くの人文系の学者を斬り、他方、社会生物学といった《狭い生物学によって人間も説明できる》とする能天気な自然科学系の学者をも斬るというのが渡辺氏の行き方である。とすると周囲は敵だらけということになってしまう。


 人は倫理的である(渡辺氏はそれを事実とする)、人は進化の産物である(渡辺氏はこれも事実とする)、よって倫理は進化の産物である(これは一個人としての渡辺氏の考えではなく、これまた事実である)、というのはかなり杜撰な三段論法のように思う。人は進化の産物であるというのは事実であるとわたくしは思う(しかしアメリカでは、そう思うひとは半分もいないらしい。日本では多くのキリスト教徒進化論も受け入れているであろうと思う。万世一系天皇進化論が両立した国である)。しかし、人は時に倫理的であるが、いつも倫理的ではないと思う。ひとが倫理的でありうる基盤は進化がもたらしたものであるかもしれないが、その基盤がつねに倫理をもたらすとはいえないだろうと思う。「偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしかも長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。・・力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることではないだろうか。いずれは出てきて、そうなれば、人間ばかりか人間がこれまで創ってきた美しいものをすべて破壊してしまうのだから。だが、しじゅう出ているわけではないのだ」とフォースターはいう。フォースターは間違いなく啓蒙の伝統のなかにいる人である。「神よ、私は信じません―どうか許したまえ」を自分のモットーとするとフォースターはいう。渡辺氏は信じる人である。正直、渡辺氏の論をみていくと氏がなぜ、カトリックに入信しないのかがよくわからない。パステルナークソルジェニーツィンイリイチもみなカトリックに通底しているひとだと思う(カトリックではなくロシア正教などかもしれないが)。


 「国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたい」が、一方で、「人間の共同的なあり方は求めたい」というのはちょっと欲張り過ぎなのではないだろうか? 「私の世界文学案内」とか「細部にやどる夢 私と西洋文学」などという渡辺氏の著書を読むと、氏がいかに西洋の小説を愛するひとであるかということがよくわかる。そこに表れた西洋の「個人」をいかに愛しているひとであるかもわかる。しかし、そういう「個人」を求めてきた結果が「フランスの現代文学での男女の関係の孤独」ということになり、だからこそ「共同体」なのかと思うが、「個人」を求めたら「孤独」がくるのは当たり前なのではないだろうか? 吉田健一の「文学の楽しみ」の最終章は「孤独」と題されている。「我々は望みを絶たなければならない事柄に就ては望みを絶たなければならない」と吉田氏はいう。「文学に必要なのもこの孤独である。・・我々は或る言葉を美しいと認める時に自分一人になり・・ここに一人の人間がいるという意味での、その限りでは凡ての人間である自分であり、これは我々がその経験をすることで何の得をしなくても、その瞬間に少なくとも我々が自分というもの、自他の区別というものを忘れることで解る。」 渡辺氏が「人の生はただそこにあるだけで価値そのものです。それは何も人間の生命の尊厳などということじゃなくて、人間なんて犬猫以上にえらいものでもなんでもないけれども、それでもただ生きているだけで価値なんだと思います」というのと、吉田氏のここで言っていることはあまり違ったことではないと思う。われわれはただ生きるためにも文学を読んだりするのである。


 渡辺氏は「個人」と「共同体」に分裂している。その分裂こそが渡辺氏の魅力でもあるのだろうが、E・S・エリオットがたどった道を氏もまたその後を追おうとしているように見えないこともない。「荒野ははるか南の熱帯地方にあるのではありません、荒野は街かどをまわったところにあるだけでなく、荒野はみなさんのまぢか、地下鉄のくるまのなかにひしめいています、荒野はみなさんの仲間の心のなかにあります。・・主といっしょに建てるのでなければ、私たちが建ててもむだです。主がみなさんの手をかりずに守っている都市を、みなさんは守ることができますか。交通整理をするたくさんのおまわりさんも みなさんがどうして生れ、どこへゆくかを教えることはできません、ひとむれのテンジクネズミや活発なモルモットの方が 主なしでつくる人間たちより、りっぱなものをつくります。」(「『岩』の合唱」から、詩の行分けをはずして引用)


 しかし何だか口語訳の聖書みたいで、訳文がダルである。原文。


 The desert is not remote in southern tropics,


 The desert is not only around the corner,


 The desert is squeezed in the tube-train next to you,


 The desert is in the heart of your brother.


 ・・


 We build in vain unless the LORD build with us.


 Can you keep the City that the LORD keeps not with you?


 A thousand policemen directing the traffic


 Cannot tell you why you come or where you go.


 A colony of cavies or a horde of active marmots


 Build better than they that build without the LORD.


 


 西欧社会の若者たちからイスラム国へ向かうものがでてきているらしい。彼等は「魂の飢え」を感じていて、西欧の飼い慣らされた宗教には満足できず、宗教の原初の荒々しさを未だ失っていない(ように見える?)イスラムに惹かれるのかもしれない。世界を単純に善と悪に分ける見方も超越的なものに惹かれる心情もともに進化の基礎を持つのだろうと思う。「啓蒙」というものこそが進化の基礎を持たない、したがっていたって危うい基盤の上にかろうじて建っているものなのだろうと思う。「この芸術(小説)は、誰も真実の所有者ではなく、しかもだれもが理解される権利をもっている、あの魅惑的な想像的空間を創出することができました。この想像的空間は近代ヨーロッパとともに生まれました。それはヨーロッパのイメージであり、というか、すくなくともヨーロッパに抱く私たちの夢です。・・しかし、個人が尊敬される世界(小説の想像的世界と、ヨーロッパの現実の世界)がもろく、はかないものであることを私たちは知っています。・・個人の尊重、個人の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、わたしには金庫ともいうべき小説の歴史のなかに、小説の知恵のなかに預けられているように思われるからです。」(クンデラ「小説の精神」)


 「悪魔の詩」を書いたことによりホメイニ氏に死刑宗教布告を出され逃亡を強いられているラシュディが9・11の後、「日常性に戻ろう」という文を書いて、イスラム原理主義者たちが反対する「社会的多元性世俗主義ミニスカート、ダンス・パーティ、髭をそる自由、進化論、セックス」のすべてに自分は賛成すると述べ、ただの自由、日常生活でのささいでありふれた自由、安逸な日常生活、ぬるま湯につかった平和、これらすべてが大切なのだ」といっていることを、加藤典洋氏が「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」の中で紹介している。しかし西欧の少女たちのなかには、ミニスカートやダンス・パーティにはただただ虚しさを感じ、安逸でぬるま湯につかった生活にひたすら空虚だけを感じてイスラムにむかうものがいるのだろう。渡辺氏からすれば、西欧世界に生きて「魂の飢え」を感じるのは、いたって当然のことなのであるが、その解決策はイスラムというグローバリズムに赴くことではなく、それぞれの地域で根をもった生活をとりもどしていくことにある。渡辺氏には何が正しいかわかっている。しかし、それは「誰も真実の所有者ではな」いという啓蒙の根本に反する。だから渡辺氏はこれは自分の見方、考え方ではなく、進化の過程がもたらした客観的な事実であるとすることで、その難点を回避しようとする。しかし、進化を論じるひとたちの中で、渡辺氏のいっていることが主流であるかといえば、まったくそういうことはなく、進化心理学の分野は利他心をどう説明するかの問題を血縁淘汰といった考えで乗り切ることに四苦八苦している段階である。人間のもつ倫理とか道徳とかが進化がもたらしたものであると胸を張れる生物学者はいないだろうと思う。そもそも倫理とか道徳とかが人間に普遍的なものでなければ、それを進化で説明しようという方向さえ出てこないわけである。だから本来、そんなに自信をもてるはずはないと思うのだが、渡辺氏は自信たっぷりに自説を滔々と披露している。なんだか「己一人を高しとして」いるようで、(宗教の人ではない)啓蒙の人としてちょっと異例である。


 「渡辺京二評論集成」に収められたもう少し古い文章では、議論がもっと緻密で、いろいろなところに目配りもとどいているように思う。書いていることに絶対の信を抱いてはいるのだが、それでも自分の言論が世にあたえうる影響ということについては醒めている。「逝きし世の面影」が評判になって、ある程度売れて、なにがしか自分の論が世を変えうるという思いがでてきているのだろうか?


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食事は健康の土台

「阿修羅」から転載。「in deep」にも使われていた統計資料による記事のようだ。
沖縄県が長寿県から転落したのは、「運動不足」と「食生活の変化」のせいだろう。沖縄には短い都市モノレール以外の鉄軌道乗り物が無く、通常の社会生活を送るには各家庭に1台か2台の乗用車が必須である。そして乗用車があると、「ドアからドアへ」の生活になり、日常ではほとんど歩かなくなる。わずか100メートルほど先のコンビニでも、重い荷物を抱えて帰るよりは、と歩行より車を選んでしまうことが当たり前になる。車を止める位置でさえ、できるだけ店の出入り口に近い方を選ぶのだから、運動不足になるのは当然だろう。
食生活の点では日本全体と同じく、米や芋中心で後はわずかな野菜とわずかな肉という粗食から、飽食・過食が当たり前という状態になったようだ。特に女性は、米よりもパンや菓子を好むことが多いというのは日本全体に共通しているのではないか。
この「米からパンやケーキ中心に変わった食生活」というのが日本人の食生活の悪い方向への変化ではないか、と私は見ている。たしか、パンやケーキに大量に使われているトランス脂肪酸を米国では禁止したのではなかったか。それでなくても、パンはジャムなどを塗れば菓子も同然であり、それだけで満腹する。体に必要なビタミンやミネラルが不足するのは当然だろう。そこが、必ずオカズを必要とする米飯との違いだ。(逆に、それが面倒だから米飯は主婦に嫌われるのだろう。だから、米飯でもオカズの要らないカレーライスやチャーハンなどが好まれるのかと思う。それではビタミン不足になるのは言うまでもない。)
私自身、長年の頭脳労働者(の一種だと思う。少なくとも体を使う仕事ではなかった。)から、高齢になって肉体労働者に転身(日本の軍隊風に「転進」と言うべきか。ww)した結果、食事が肉体に及ぼす影響を明確に体で知ったので、上に書いたようなことを言うのである。
若い人でも激しい肉体労働をすると、足などがつったりする。甲子園やプロ野球などでよく見る光景だ。あれは、発汗に伴うミネラル分(おそらくカルシウムとマグネシウム)の流出の結果だろう。それほど、ミネラル分は(そしてビタミンもだが、こちらは長期的な欠乏の結果、症状は出るものかと思う。)体を動かすのに必須のものなのである。したがって、そうしたミネラル分やビタミンの欠如した食事をしていることが体に良くないことは言うまでもない。
まあ、ほとんど運動らしい運動をしない生活をしていると、そうしたことには気づかないが、たまにいきなり激しい労働をすると、自分の体がいかに不健康なものかがすぐに分かるはずである。これを単に「体がなまっていた」などと軽く考えるべきではない。
そして主婦の方々は、家族の体の健康は自分の食事にかかっている、と考えてほしい。ただし、砂糖や塩や化学調味料を使わないで不味い飯を作って、それを家族に強制的に食わせようとするのは、家族に家庭料理と母親を憎悪させるだけである。(不味い食事を強要する母親に対する憎悪は世間でごく普通にあるもので、それに気づかないのは当の母親だけである。)
食塩や糖分や脂肪分や炭水化物を制限すれば健康になる、というような単純なものではないのである。

なお、体を動かす必要の無い生活をしているならば、健康維持には粗食だけで十分かと思う。
過食の傾向があるなら運動は必須だ。



(以下引用)


コレステロール・ショック(7) 長野県の怪(BMIは違います)  武田邦彦
http://www.asyura2.com/15/health17/msg/169.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 6 月 02 日 13:55:05: igsppGRN/E9PQ
   
 
   コレステロール・ショック(7) 長野県の怪(BMIは違います)
http://takedanet.com/archives/1029243053.html
2015年05月31日 武田邦彦 (中部大学)


(大失敗!!)
  目がかすんでBMIについて「長野県」と「長崎県」を間違いました。この記事はもう一度、書きますが、とりあえず「塩と血圧と長寿」という点でお読みください。失礼しました。またご指摘をしていただいた方、ありがとうございます。



長野県の男性は都道府県の中でももっとも長寿だ。かつて、山間部で雪の多い地域だから、どちらかというと運動も不足し、新鮮な海の幸にも恵まれないので、長寿日本一とは縁が無いと考えられていた。


しかし、県をあげての健康運動が実って、それまでトップだった沖縄を抜いて堂々、一位を続けている。関係者のご努力に深い敬意を表したいと思うが、長野県のデータを参考にしようとすると、どうも国や医師の指導と比較するとデータがかけ離れている。私たちはなにか重要なことに気がついていないのではないか??


というのは表紙のグラフに示したように、長野県の男性の平均寿命は47も都道府県があるのに、もっとも長寿だ。でも、際立っているのは肥満度(BMI)も一位(太っている)、塩分摂取率は二位(お塩を多く採る)なのだ???


「健康」は「肥満を抑えて、塩分を控える」と言うはずなのに、都道府県でもっとも肥満度が高く、塩分をとっている長野県の男性がなぜもっとも「長寿」なのか? このような時に科学者はまずとんでもないことを考える。


まず、「不健康」なら「長寿」なのか? と考える。科学は予見を持ってデータを見てはいけない。「健康なら長寿」というのが間違っているかも知れない。「一病息災」というように、ある程度病気がちの方が息災であるということわざもあるぐらいだ。


次に、「肥満で血圧が高い」というのが「長寿のもと」なのか? とも考える。 これも予見を持ってデータを見てはいけない。「肥満と健康」と言っても、BMIが30ぐらいまではむしろ「肥満の方が健康」というデータも多い。つまり程度問題で、肥満というのはBMIで30以上とも考えられ、そうなると長野県は「都道府県の中でもっとも肥満だが、BMIが24.4だから「日本全体のBMIが低すぎるので、もっとも肥満な長野県がもっとも長寿」とも言える。


この報告書は厚労省が膨大な税金を掛けて報告している詳細なレポートからなのだが、調査対象人数が少し少ないと思うが、これで統計的には大丈夫とみているのだろう。今回はこのデータを利用する(最近では大学への研究費が削られて、官庁がお金を持っているので、データが官庁からでる。政治的なデータが多くて困るので、できるだけ学者が調査をできるようにしておかないと日本の進路を見誤る)。


また食塩の摂取量は長野県は全国2位でかなり高い。それでも長寿なのは「野菜を食べるから」などと見当外れの説明がされている。それも野菜にカリウムが含まれているからという奇妙な説明で、それなら食塩をとってもその中にカリウムが入った醤油などを使えば、「減塩」などというものは無くなる。


長野県のこのデータは考えさせられる。また塩分摂取量のデータや脳疾患の統計はあるが、「男性の平均血圧」のデータがなかなかみつからない(女性はある)。「塩分摂取量」というのは「血圧に関係がありそうなもの」ではあるけれど、「血圧」そのものではない。だから、統計データとしては、「塩分と寿命」では遠い関係になるので、「塩分→血圧→主要な死因→寿命」の関係データが同じ調査対象でなければならないが、見当たらない。


「肥満の方が長寿」というのは理解できる。人間はBMI=25ぐらいが標準的で、体重が減ると体力を失い、感染症やがんなどにかかりやすくなる。日本はあまりに体重を気にして「やせている方が健康」という間違った考えでいるので、長野県がもっとも肥満なのにもっとも長寿ということになったのだろう。


「塩分をとった方が長寿」というのも納得できる。

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8月18日放映のNHKアニメ「団地ともお」のこと

昨日、偶然にNHKのアニメ「団地ともお」というのを後半だけ見たのだが、それが「あの戦争」について今の日本人がどう対しているか、という姿をリアルに描いていたので驚いた。画風は(原作漫画もそうだが)どちらかと言えば稚拙な感じで、内容は「あまり出来のよくない小学生とその家族や周辺人物の日常」をのどかに描いたものであり、まあ、「ちびまる子ちゃん」か「サザエさん」の同類だと思えばいい。それが「あの戦争」を、戦争そのものではなく、「学校ではほとんど教えられることが無かったために、『あの戦争』とどう向き合っていいのか分からない」普通の人々の今の姿を描くことで、逆に、これまで何が隠されてきたのか、これからそれとどう向き合っていけばいいのかを考えさせるという、見事に教育的な(揶揄的な意味ではなく、肯定的な意味で言うのである。)内容のアニメになっていた。NHKも現場にいる人々は知的で良心的な人々が多いのだと思う。彼らの「籾井体制」へのひそかなレジスタンスをこのアニメに見た思いである。
この回の「団地ともお」は、ぜひネットなどで流布されてほしいものだ。



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「戦争法案・TPP・フクシマ」は日本を滅ぼす3点セット

「逝きし世の面影」から記事後半を転載。
私も「戦争法案」以上にTPPは大問題だと思う(それが、回避されそうな情勢であるらしいのは結構だが、まだ油断はできないだろう。)し、フクシマはそれ以上に大問題だと思うのだが、マスコミは「TPPはいいもの」という報道姿勢だし、フクシマは「無いもの」としている。
これによって国民の頭がどう作られるかは言うまでもないだろう。「戦争法案」そのものが巨大なスピンである、というのが宗純氏の意見のようだが、確かにそういう面もあるだろう。
だが、「戦争法案」ができれば「戦争ができる」ようになり、「戦争ができるなら戦争をやる」、というのが予想される成り行きではないか、と考えるなら、戦争法案がTPPやフクシマよりも重要性が低いとは言えないだろう。
ついでに言えば、自国民が死ぬのは許せないが(中国などの)他国民が死ぬのはかまわない、というのが右翼頭脳らしい。こういうのが自称愛国者であり、愛国心というものであるようだ。また彼らがTPPやフクシマについてはまったく発言しないか、無害なものであるかのようにしか言わない、というのも面白いところである。
彼らが愛するのは本当に日本という国なのか。まあ、そういう連中のほとんどが工作員であるのは知ってはいるが、まだまだ右翼言説に騙されている馬鹿も(特に無知な若者の中には)多いかと思うので言ってみただけだ。
なお、「無知」と「馬鹿」は別物である。知識だけは大量にある馬鹿が特に日本には膨大にいることは誰でも知っているだろう。トルストイの『イワンの馬鹿』のイワンが、無知ではあるが賢い人間であるのはその対偶命題である。(か?)



(以下引用)


現在最もマスコミが大問題だとしている日本の自衛隊がアメリカ軍の手伝いをする安倍晋三『平和法案』ですが、(直接関係する自衛隊員とか自衛隊家族にとっては大問題だが)日本の根本が破壊される危険性が濃厚なTPPに比べれば些細な問題である。
そのTPPでも、4年目のフクシマの被害に比べれば些細な問題であると考えられるのですから恐ろしい。
他とは大きく違い、原発事故では一度起きると天文学的な損害額で日本国が逆立ちしても到底払える額ではない。
しかも、日本のフクシマはチェルノブイリとは大きく違い現在進行形で、まだまだ本当の地獄は始まっていないのである。



『政治と密接にリンクしていた福島検討委の発表日付』

『今までの福島第一原発事故後の、小児甲状腺がんの発症状況(一巡目)の推移』

(1)
小児甲状腺がんの一番最初(一人目)は2012年9月11日だった。
3・11福島第一原発事故の発生から、丁度1年半後の2012年9月11日に福島県の18歳未満の子供たち対象の甲状腺検査で『初めての小児甲状腺癌がん』と発表されている。(2011年度以前、長い間福島県では『ゼロ』が続いていた)
(2) 
二回目の発表は 2ヶ月後の11月17日だった。
二人目の小児甲状腺癌の発生で大慌て。大混乱に陥ったのである。
11月の時点では『二人目の小児甲状腺がん』発症の事実を隠して、あたかも『8万人分の検査で最初の一人が見つかった』かのように、挙国一致の大政翼賛会状態で、マスコミ全員が口を揃えて偽装発表している悪質さ。
『一人目の小児甲状腺がん』との福島県当局の大本営発表は真実とは程遠い真っ赤な嘘であり、日本国のマスコミ総がかりの悪質極まる印象操作である。
日本のマスメディアが大混乱に陥っていた隙間を付いて、野田義彦が突如解散を宣言して12月16日総選挙に突入、大敗北を喫する。
(3) 
3回目の発表は前回から3ヵ月後の2月13日だった。
政権交代で成立した安倍晋三は マスコミが北朝鮮の核実験一色で大騒動になっている隙を突いて2月13日に小児甲状腺がん『3人確定』と真っ赤な嘘の発表をする。(事実は『疑い7人』と合わせて10人が発症していたが、新聞号外が出る騒ぎで誰も気が付かない)
(4) 
4回目の発表は前回から4ヶ月弱の6月5日だった。
福島県の県民健康管理調査で、1次検査の結果が確定した約17万4千人の内、18歳以下で甲状腺がんの診断で『確定12人、疑い15人』合計27人が発症と発表した。福島県の18歳以下の子供の数は36万人。
(5) 5回目の発表は前回から2ヵ月後の8月20日だった。
東京電力福島第1原発事故の影響を調べている福島県の県民健康管理調査で、甲状腺がん『確18人、疑い25人』合計人数43人と発表する。
ところが、同じ情報源の筈なのに朝日新聞では総計が18プラス25の『43人』ではなく、一人多い『44人である』と繰り返す。東北地方では有名な妖怪『座敷わらし』が現れたのである。
(6) 
6回目の発表は前回から2ヵ月後の11月13日だった。
毎日新聞は『福島原発事故:甲状腺がんの子、8人増え26人に』と題して、他紙とは大違いで、福島県検討委の言う『確定』の意味が、子供達の甲状腺の全摘出手術であるとの『恐るべき真実』を伝えている。
朝日新聞は子供の数が一人多い『恐怖の座敷わらし』で、『計59人で甲状腺がんやその疑いありと診断された』と他紙よりも一人多い。
(7) 
7回目の発表は前回から3ヵ月後の2014年2月7日だった。
前回の2013年11月12日の福島県検討委発表(確定+疑いの合計が59名)は、曲がりなりにも日本国のマスコミ各社が、誰にも気が付かないように小さく報道した。
ところが2014年2月7日発表の福島県の小児甲状腺がん(確定+疑い)75人になった事実は誰も怖がって報道しない。
アルゼンチンのブエノスアイレスのIOC総会での『アンダー・コントロール』発言は大嘘だったが、原発とは違い『マスコミ』の方は完全に安倍晋三がアンダー・コントロールしていたのである。
(8) 
8回目の発表は前回から3ヵ月後の5月17日だった。
ところが報道しない。大騒ぎしていたのは『鼻血騒動』で30年続いていた『美味しんぼ』の5月17日発売号での掲載中止(実質的な発禁処分)が発表されている。
福島県検討委発表から遅れること2日。それまで報道しなかったが、5月19日『確定50人、合計では90人』と一斉に流しだす。
(9) 
9回目の発表は前回から3ヶ月後の8月24日である。
合計人数が104人と、とうとう三桁に達した福島県の甲状腺検査の発表とは、丸っきり国家ぐるみの詐欺であり、余りにも御粗末な21世紀の大本営発表。
『県内を一巡』とは誇大宣伝かハッタリである。
一巡どころか実は検査したのは全体の8割であり、2割の子供達は丸々甲状腺検査から取り残される杜撰さ。

『放射能は喫煙と同じで直ぐに健康に影響しないが、時間が経てば確実に影響が出てくる』

今回はなんと、原発周辺の13市町村と沿岸部と中部の中通りと会津若松地域とに分けて地図まで添付して、『地域差が無い』ことを印象操作しているのですが丸っきりのヤブヘビである。
フクシマ原発事故から1年目の福島第一原発周辺の双葉町や大熊町飯館村など最も放射能汚染が酷い13市町村と、3年目の一番汚染度が低い会津地方やいわき市などとの発症率が『同じ数値』なら、自動的に放射能被曝の大小で決定的に大きな違いが存在していたことが証明されて仕舞うのである。
生命の設計図であるDNAを傷つける低線量の放射能の被害は『直ぐに影響しない』が、年月が経てば確実に被害が出てくる。



(以後は『福島県検討委の二順目』との発表数値)
(10)
10回目(二順目では初回)の発表は、前回発表から4ヵ月後の12月25日だった。
マスコミが『アベノミクスを問う』とのスローガンの総選挙(2014年12月14日)の検討委員会で前回の甲状腺検査(1巡目)では健康とされた4人が小児甲状腺がんと診断されていた。
(11)
11回目(二順目では2回目)の発表は前回から3ヵ月後の2月12日である。
『県の甲状腺検査で、事故直後から3年目までの1巡目の検査では「異常なし」とされた子ども1人が、昨年4月から始まった2巡目検査で甲状腺がんと診断が確定したことが11日、関係者への取材で分かった。また、がんの疑いは7人になった。』と発表される。
1順目の検査以降に、新たに福島県では合計8人の子供達が新たに甲状腺がんが発症したのである。
(12)
12回目(二順目では3回目)は5月17日。今回もまた新たに4人が発症している。合計では二順目だけでも12人。一巡目の104人を加えると福島県の小児甲状腺がんの合計人数が、116人にもなる。

(13)
二順目(本格検査)では4回目、前回発表から3ヵ月後の8月31日に検討委発表が行われると8月10日に公表される。
基本的に2012年12月時点で日本国の正当性は失われており、それ以後はゾンビ政権の安倍晋三首相により挙国一致の隠蔽工作の大本営発表で破滅の先送りと続けているだけ。先送りも二年半も延々と続ければ限界に来るが、8月31日発表が最後になる可能性がある。

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天皇の戦争責任と日本国民としての戦争責任

「播州武侯祠遍照院」所載の、作家赤坂真理の文章の一部である。引用元は「あいば達也の『世相を斬る』」らしい。
この赤坂真理の文章は、ここに抜粋した部分以外にも興味深いところがたくさんあるが、長くなるので割愛した。
「昭和天皇の戦争責任」問題は、当時の日本人にとっては「自分自身の戦争責任」を問われる問題だった、というのがこの問題の根底ではないだろうか。(このことは私自身が別の文章の中で書いているが、他の人がそれを言うのはあまり聞いた記憶が無い。ほとんどの言論人は「無辜の民」と「戦争責任者である天皇」を無関係の存在とし、当時の一般国民を「無罪」にすることに努めているように思う。だが、日本が戦争をした以上、それに明確な反対をした人々以外は、「戦争責任」がある、と私は思う。そして、当時、明確な戦争反対の意思表示をした人は、全人口の1%もいなかったのではなかったか。)
戦後に天皇の戦争責任を言い立てた人々の中で、戦争開始時や戦時中に戦争反対を言った人がどれだけいたか、知りたいものである。
下の文章の中の「BC級戦犯」は、立場がそうなれば、自分も同じことをしていただろう、ということが当時の人なら誰でも想像できたはずだ。運よくそういう運命を免れた、というだけで自分を「まったく無罪だ」と考え、「そういう戦犯どもは自分とは関係がない」と思える人を私は嫌悪する。
もちろん、真の戦争犯罪者たち(それはむしろ戦勝国側に多い。)を憎むことに関しては、私は他人より激しいことは、私のこれまでの全ブログから分かるとおりである。

なお、「天皇陛下を裁いたら日本がめちゃくちゃになった」という言葉は、当時の日本という国を考えれば正しい見方だと思う。そして、GHQはそのことをよく見抜いており、それをうまく利用したのである。これは賢明な判断だったと私は思う。ただ、その事が「日本政治と日本国民の無責任性」を著しく増大させたことは言うまでもない。




(以下引用)



 論理的には罪を問われるべき人が罪を問われない場合、その人はよじれそのもののような存在となる。そこに人々は、自分の罪が支えられて押しとどめられているのを、無言のうちに見ていたのではないか。
  私の母は、軍国主義を信じていた子供の自分を嫌悪している、という意味のことをぽつりと言ったことがある。それと「天皇陛下を裁いたら日本がめちゃくちゃになった」と言う彼女は、同じ人であり、どこかが解離している。巨大な空白のようなものがある。
  戦争を知る多くの人にその空白があったろう。傷とはまた別の、空白、断絶。
彼らの空白を、昭和天皇は引き受けていたのではないかと思うことがある。
あるいは、彼らが、天皇に仮託したのだ。

■沈黙の理由


 母は、東京裁判の文書を見たという話のとき、こう言い放った。(第2回参照)
 「BC級だから下っ端よ」
 そのときは聞き流していた言葉に、別の側面があるかもしれないと思えたのは最近のことだ。
  BC級の文書をもし仮に見たのであれば、それはむしろ、そちらのほうがつらいことだったかもしれない。なぜならBC級戦犯の文書とは、ごくふつうの日本人の行った非道な行為であり、そちらの方が残虐だった。
 上の命令だったという人、「空気」に逆らえなかったという人、出世したかっただけの人、いじめられたくなかっただけの人、恐怖や不安に駆られた人……今の私たちともどこも変わらないようなふつうの人たち、どちらかと言えば小心で人を害するなど考えもつかなかったような人たちが、極限と閉塞のなかでどうなっていったかということがそこには克明に書かれている。その人たちに起こったのなら、今でもいつでも誰にでも、一定の条件で起こりうることとして。
 これは、今母に確かめたところで、記憶も答えもないことだが。
 そういう膨大な罪の記憶、恥の記憶、それと同時に被害の記憶、被害を被害と言えないつらさ、生き残った者の罪悪感、などなど、そういうよじれがあるとしたら、地を埋め尽くして足りないほどであるに違いない。
 人々は、被害者でもあり加害者でもある自らの姿を、ひとつの象徴として、昭和天皇に見たのではないだろうか。
  ならば、だからこそ、心の中でも、天皇を裁けなかったのではなかろうか。 自分も、免罪されるほどに罪のない存在だとは思えないから。 だから、黙った。
 誰にも内面を覗かれないようにした。
 そのとき、かの人の生身の肉体は、生き残った者たちの免罪符そのものとなり、同時に、無数とも言える生き恥を、代わってさらしてくれるものだったのではないだろうか?

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自民党内部の良識派の造反を引き出すために「内閣不信任案」を提出せよ

「飯山一郎のホームページ」から転載。
実は私も、安倍談話を最初に読んだ時、飯山氏と同じような印象を受けたのである。もちろん、安倍総理が現在進めている「戦争法案」その他の行動とこの談話が真逆であることは言うまでもない。だが、談話自体にはケチのつけようがない、と思っていたら、談話発表直後から、さまざまなところで、「あの談話はこう読むのだ」という記事が登場して、自分の国語読解力の無さを嘆いたものである。
だが、言葉の表面だけを捉えれば、飯山氏が言うように、安倍総理は「不戦の誓い」をした、と言っていいのではないか。ということは、これだけでも「戦争法案」は廃棄にできる言質を野党各党は手に握ったとも言えるわけだ。もちろん、安保関連法案は「戦争法案」ではない、と安倍陣営は強弁するだろう。だが、「米国の戦争に協力して世界中で自衛隊が活動できるようにする」法案が「戦争法案」以外の何物でありえようか。そもそも、国会に諮ることなく、安倍が米国議会で「戦争法案」成立を約束したという事実だけで、安倍が三権分立の原則を踏み外しており、総理失格であることは自明である。
そういう内閣は不信任案を提出して、倒せばいいだけの話である。(補足)に書いてあるように、内閣不信任を成立させるのは(議会の過半数の賛成が必要なので)困難に見えるが、与党議員の中でもこの「戦争法案」に本気で賛成している者は少ないと私は見ている。野党がこの不信任案を突きつけることで、与党内部の「隠れ平和主義者」も自分の最後の決断を迫られることになる。そうなると、案外「キチガイ右翼」が支配する自民党の体制に不満な議員の造反が出て来る可能性は高い、と私は見ている。



(以下引用)


◆2015/08/14(金)  あれれ? アベッチは戦争屋を辞めたの?
およよ? 別人みたい!
70年談話
首相官邸の内部で、大きな勢力交代現象が起きている。

それは…、安部総理が本日(14日)発表した「70年談話」に明らかに出ている。


その内容は、隣国への「お詫び」に徹していて、ネットウヨを発狂させた「村山談話」を完全に継承している。


もっと魂消るのは…、
「事変、侵略、戦争、いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう2度と用いてはならない」と不戦の誓いを宣言した部分は、安倍総理が大嫌いだった憲法第9条そのままなのだ。


しかも…、
「70年安倍談話」は…、闘犬みたいに下品だった安倍晋三には似合わない上品さで、しかも大変に格調が高いのだ。


これは、今まで安部総理に張り付いていた戦争屋のパシリとは全く違う別の勢力が取って変わった!というコトだ。


どうやら…、
戦争屋のヌーランドがウクライナでの紛争解決を目指す和平派に転じたような動きが、日本にも波及してきたようである。


いったい、この世界的な規模での「和平を目指す潮流」を引き起こすエネルギーの源泉は那辺(なへん)にあるのか?


安部総理は「21世紀構想懇談会」の意見を受けたと述べたが、じつは、もっと巨大な「意見」が天下った(あまくだった)!と、鷲は見ている。





(補足)内閣不信任について

内閣の存立には議会の信任を要するとすることは議院内閣制の核心的原則とされている[2]。実際には議院内閣制の下では与党が議席の過半数を占めているのが通例で、与党内の分裂といった事態に陥っていない限り内閣不信任決議が可決されることは稀であり、先例では内閣不信任決議案が可決された事例は4例と少ない。また、慣例として認められている一事不再議の原則により、同一会期中には1度しか提出できない。そのため、会期中に否決されてしまうと会期終了時まで内閣不信任決議という対抗手段が失われることになってしまうため、現実には不信任決議案の提出には慎重にならざるを得ない。野党側からは、政権与党との対決色を示すために、国会の会期末あるいは内閣が衆議院の解散を実行することが確実になった段階において内閣不信任決議案が提出されることが多い(内閣不信任決議案の採決前に解散となる例も少なくない)。一方、与党内が分裂の様相を呈している場合などには、野党側から会期末に至る前に提出されることがあり、また、分裂状態にある与党内からの内閣不信任決議案の提出とその可決が確実視される政局において、内閣が採決前に自ら総辞職した事例もある。

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「ネット発言禁止法」

「まめ太のブログ」というブログ(実際はもっと長いブログ名で、まめ太さんはたまえという女性らしい)から転載。
「刑事司法改革法案」の危険性について書かれているブログも他所で瞥見した記憶はあるが、その詳細は知らない。だが、それが「ネット発言禁止法」であるならば、これは大問題だろう。ほとんどの政治ブログは閉鎖され、場合によっては罰を受ける可能性もあるのではないか。
とりあえず、今は、そういう可能性を心に置いておくだけでも、まったく知らないよりはいいだろう。

なお、これは個人的なメモだが、今朝の覚醒時の朦朧状態の頭で考えたのが、政府による「妄想禁止令」という冗談だった。筒井康隆的なSF小説のネタにならないかな、と思って覚えておいたのだ。「ネット発言禁止法」とシンクロしているような気もする。



(以下引用)


戦争法案の影で「「ネット発言」禁止法(全体名=「刑事司法改革法案」)が可決!?
NEW !
テーマ:
こんちは!まめ太です(-""-;)


今の政権与党は法案を束ねて、訳分からないようにしてササッと都合良く通すという
姑息な手段ばかり使っています。

安保法制案(戦争法案)ですったもんだしてるうちに発言もデモも禁止する「盗聴自由法案」が、
今や目前だそうですヾ(。`Д´。)ノ

http://ameblo.jp/jcjk-now/entry-12058727372.html



前の国会では「秘密保護法」を通しましたね!

結局やりたいことは

☆国民の主権を奪って

☆自分たちが何をしているか秘密にする

☆国民は黙って働いて税金を払って、国の言う事を聞け!

これだと思います叫びガーンプンプン


怖ろしい与党!公明党も自民党のブレーキ役でははく完璧に内助の功ですねガーン

**********************************************************************

高校生のかたが集団的自衛権についてとってもわかりやすい図を作られていたので
ちょっとお借りします。


集団的自衛権とは

安倍総理は日本に中国や北朝鮮が攻めてきたらどうするんですか!

と言って集団的自衛権行使の必要性を説明していますが、
もともと個別的自衛権があるので、攻められたら応戦できます。

あかりちゃんの解説聞いてね♪

https://www.youtube.com/watch?v=WVpX-fuN98s&sns=fb

今安倍内閣がやろうと思っていることは、日本を攻めようとしていない国でも
アメリカが攻められてたら攻撃しに行く。というものです。

「あんた関係無いやろ!あんたもやりかえしたるぞ!!」

ってなって日本は攻められますガーン
で、戦争に巻き込まれちゃいましたドクロ

でも、もう自衛隊がたくさん辞めているのでどうしたらいいでしょうか?

大丈夫です!(自民党)パー

貧乏な学生に利子のつく奨学金を借りさせて、就職もなかなかできない社会を
作って借金地獄に陥らせましょう~♪(自民党)

そして自衛隊に入ったら借りてた期間の1.5倍働いたらもう奨学金かえさんでええよ~~にひひ
と言う事で「経済的徴兵制」のできあがり!!

「徴兵制、やろうと思えばできるが「格差社会」さえ用意すれば、
経済徴兵が可能となるため、その必要は全くない。
TPPで保険をアメリカ型にすればその需要は飛躍的に高まる。」
(自民党・船田議員)
「日本も米に倣い経済徴兵制へ」

http://matome.naver.jp/odai/2140478244240465801


20150816-6

戦争法案絶対反対!

misaさんのブログお読みくださいね。
http://ameblo.jp/aries-misa/entry-12060094909.html

戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人・全国100万人大行動!!

*********************************************

安倍総理・自民党の嘘つき発言の写真集~ガーン


20150816-2

はい!起こりました!

20150816-5

ウソつきました!ブレてます!!
TPP推進しようと必死です!

20150816-4

消えた年金未解決~~><

20150816-3

消費税上げた分は大手企業の法人税引き下げの充填にあてられたそうですよプンプン
社会保障費はどんどん少なくなってますガーン

あと!!オリンピックの際の「放射能汚染水は完全にアンダーコントロールですから」
って・・・これもウソですよね。

****************************************
最後にツイッターでこんな写真見つけました☆(阿波踊り風に)

20150816-1

今ほっといたら将来に悔いが残りますよ~~~~~わんわんにゃー



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