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無駄とは何か

経済学者や評論家の長文の論説よりも、こうした鋭い一言の方が強い。
孔徳秋水氏の一言。






「無駄だ!削れ!」と言えば言うほど、削られてきたのが、はたらく者の権利や社会福祉だということに、いつまで気づかずにいるつもりかね~






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パソナ会長いわく「正社員をなくしましょう」

「ヤフーニュース」から転載。
他の人々のツィッターなどでもこの竹中平蔵の「正社員をなくしましょう」鬼畜発言は取り上げられているが、きちんと論じた文章は少ないかと思うので、下の文章は貴重だろう。
私自身の前説は不要かと思う。素人が発言すると「竹中shine!」「売国奴竹中を国外追放にしろ!」程度の頭に血が上った言葉になるのがオチだ。



(以下引用)



竹中平蔵パソナグループ会長の「正社員をなくしましょう」発言と派遣法改正案の関係

佐々木亮 | 弁護士・ブラック企業被害対策弁護団代表

しょね

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。


さてさて、新年早々、経済学者を名乗っておられる竹中平蔵氏(株式会社パソナグループ取締役会長)がいろいろ言ってくれたようなので、少しそれについて言及してみたいと思います。

竹中平蔵パソナグループ会長曰く「正社員をなくしましょう」

報道によると、竹中パソナグループ会長は1月1日放送の「朝まで生テレビ 激論!戦後70年日本はどんな国を目指すのか!」で、「改正派遣法の是非」の議論において、同一労働同一賃金に触れ、

「(実現を目指すなら)正社員をなくしましょうって、やっぱね言わなきゃいけない」

と述べたとのことです。


竹中平蔵氏が非正規雇用について熱弁「正社員をなくしましょう」

派遣会社の会長が「正社員をなくしましょう」と言っている

まず、皆さん、よく認識しないといけないのは、竹中平蔵氏はパソナグループの取締役会長を務める人物だということです。



株式会社パソナグループ 会社概要


株式会社パソナグループは人材派遣を事業とする株式会社パソナを中核とするグループ企業の持株会社です。


派遣会社は、正社員が派遣社員に置き換わった方が派遣する労働者が増え、より多くの中間マージンを得ることができ、いっそう儲かるという構造があります。


したがって、竹中氏の頭の中には、派遣会社であるパソナグループがもっと儲かるにはもっと派遣社員が増えた方がいい、という基本認識があります。


この認識は、パソナグループの取締役であるかぎり、パソナグループの利益を第一に考えなければなりませんから、パソナグループ取締役会長という立場の竹中平蔵氏であれば、当然の基本認識と言えましょう。


簡単に言えば、商店の店主が、うちの商品をもっと買ってもらうには・・と考えているのと同じなわけです。

政商との指摘も・・

ただ、竹中氏は学者であるとも名乗っていますので、先のような認識をそのまま露骨に出さず、学者として、派遣社員が増えた方が社会のためであるというスタンスで発言を繰り返しているところが特徴です。


ジャパネットたかたの社長さんが、うちで扱っている商品を買ってください!!と言っているなら、まぁ、宣伝・広告の類なので、受け取る方も、そういうものだと思いますよね。


でも、経済学者然として、正社員をなくそう!と言われると、中には、そうか!と思ってしまう人もいますし、何よりも学者という肩書きで、政府が設置している「産業競争力会議」や「国家戦略特別区域諮問会議」に議員として名を連ねているから、やっかいなことこの上ありません。


産業競争力会議議員名簿


国家戦略特区諮問会議名簿


言うまでもなく人材派遣業は規制産業です。


前にも書きましたが、元来、派遣という雇用形態は、賃金の中抜き(中間搾取)や雇い主の責任が曖昧となることなどから厳しく規制されていた働き方でした。それが1985年に派遣法が成立し、大幅な規制緩和をし続け、今に至っているわけです。


この派遣法を改正してさらに規制緩和しようという議論に、派遣会社の取締役会長が加わっているのですから、利益相反は誰の目からも明らかです。


政府も利益相反なのだから選ばなければいいのにと思いますが、何故か彼は選ばれ続けます。


そして、彼自身も辞退をしません。


この点で、彼を政商と指摘する声もあります。


政商納言・竹中平蔵の「ぱそな儲かりていとをかし」

竹中会長の弁解は?

この派遣会社の会長という身分での政府の中枢の会議へ参加していることへの批判に対し、竹中氏は次のように弁解しています。



──雇用・人材分科会担当の竹中さんが人材サービス企業の会長であることに批判もあります。


経済政策の専門家として入っているので問題ない。派遣など利益相反になることには発言しない。ただそうなると雇用のテーマに会社の経営者が発言できないことになる。それはおかしい。言論封圧ではないか。


出典:東洋経済オンライン

言論封圧というものをあまりご存じないようなのですが、まぁ、その点は措くとして、竹中氏自身も、多少は利益相反という認識はあるようで、「派遣など利益相反になることには発言しない。」と明確に述べていますね。


さて、実際はどうでしょうか?


ここで、2013年9月18日の産業競争力会議の雇用・人材分科会の議事録を見てみましょう。



2点目は、労働者派遣制度の見直しである。8月20日に有識者研究会の報告が出ているが、その中でいくつか、規制強化なのではないかと思われるところがある。例えば、今まで派遣期間の制限を、業務単位で行っていたものを労働者単位とするというのは、おそらく、世界にもそういった例がないぐらいの規制だと思う。多様な働き方を認めようというときに、間違っても規制を強化するような方向には行っていただきたくないので、そこはぜひご注意をいただきたい。


出典:http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou/dai1/gijiyousi.pdf

思いっきり発言しちゃってます!!(>_<)

またまた出てくる?派遣法改悪法案


この竹中氏が議論に参加してできあがった派遣法の改正案が、通常国会で再々提出されると言います(過去2回は批判にさらされ廃案になっていますが、懲りずにまた出すということです)。


この法案は「正社員ゼロ」法と呼ばれていますが、この法案の前提となる会議に参加していた竹中氏が「正社員をなくしましょう」と言っているのですから、この呼び名は言い得て妙ということになりますね。


しかし、派遣という働き方は雇用形態の中でも、最も不安定な形態です。これを激増させるような法案がいい社会につながるとはとても思えません。この点についてはまたの機会に書きたいと思います。また、竹中氏のその他の発言や「正社員をなくそう」の是非についても、追々言及したいと思います。


是非、皆様も、今後の派遣法改正をめぐる議論にご注目ください。m(_ _)m


【参考】


今、提出されている派遣法改正案が成立すると派遣社員が激増する理由


ハケンとマタハラ、混ぜるともっとキケン!~派遣法改正案は女性労働者の敵


厚労相さえも理解できない派遣法改正案の中身~そのゴマカシの“歯止め”措置[厚労相さえも理解できない派遣法改正案の中身~そのゴマカシの“歯止め”措置


一生ハケンは社会の時限爆弾


パソナ竹中平蔵氏肝いりの労働者派遣法の規制緩和を許していいのか


「世界で一番派遣会社パソナが活躍しやすい国」へ竹中平蔵氏肝いり派遣法改悪-若者は貧しさをエンジョイ?


佐々木亮

弁護士・ブラック企業被害対策弁護団代表



弁護士(東京弁護士会)。旬報法律事務所所属。日本労働弁護団常任幹事。ブラック企業被害対策弁護団代表。ブラック企業大賞実行委員。首都圏青年ユニオン顧問弁護団。民事事件を中心に仕事をしています。労働事件は労働者側のみ。ここでは、労働問題に絡んだニュースや、一番身近な法律問題である「労働」について、できるだけ分かりやすく解説していきます!






(追記)面白い現象が見られたので追記しておく。いわゆるステマ記事だが、マスコミを総動員してこの「正社員をなくしましょう」が進行しつつあることを伺わせる現象だ。下の「ビジネスジャーナル」記事が、その記事内容とはすでに乖離した「正社員は特別と考える日本の異常さ」という語句を含むタイトルがつけられ、(これ自体は筆者の了承を取ったものだろう。)さらにその転載であるmsn上の短縮された記事紹介タイトル(記事本文への誘導タイトル)が「なぜ? 正社員の特別扱いは日本だけ」である。こうなると、記事本文との乖離のあまりのひどさに絶句する。記事本文の中で、正社員という言葉はどこにも無く、それらしいのは「・グローバル化の過程で、これまでの「既存の社員は変更の例外」「日本人は特別」は通用しない。」というわずか1行なのである。もちろん、記事そのものはグローバリスト御用学者のものだが、正社員問題(いや、正社員という言葉すら使っていないが)は長文記事の中のたった1行であり、しかも中心点ですらないのだ。問題はmsn上のタイトルの付け方にある世論誘導なのである。

業界順位に意味はあるのか?正社員は特別、と考える日本の異常さ、世界市場での衰退招く

ビジネスジャーナル







 前回の連載で、急速に加速化する技術進歩と融合したグローバリゼーションという環境の中における企業と国家と個人の関係は、「生き残るためには急速に変わらざるを得ないことを理解し、変身するであろう合理的な企業」と「変わりたくないと悪あがきする国家」、その狭間で「リスクテイクの判断を迫られる、変わらなければいけない個人」といった構図になっていると述べた。繰り返すが、企業は国家や個人とは違い、本来は極めて合理的な存在であるはずだ。


 翻って、日本の企業を取り巻く状況に目を向けると、日本国内には高齢者関連、特に高齢者向けの医療・介護とアジア人頼みの限定的な観光関連業以外に成長の可能性のある市場は見当たらない。


 企業は合理的な存在であるので、大企業に限らず成長を志向する多くの日本企業は、海外市場に目を向け自らグローバル化した不確実性が高い経営環境に身を置き、その適応を通してマネジメントも含めて大きく企業体質を転換していくことになるであろう。この転換は企業ごとに異なるはずであるし、異なるべきである。その中に、日本市場にとどまるという選択肢も含め、多岐にわたる生き残りの形態が考えられるが、領域によって日本型組織の特徴が維持できる程度は異なる。


 つまり、日本型組織としてクルマづくりに固執しているトヨタ自動車、日本型にもはや固執していない日産自動車、クルマづくりに必ずしも固執しない本田技研工業が業界の1位、2位、3位ということは大きな意味を持たなくなっているという状況が、他の業種でも当たり前のようになるであろう。そもそも、業界何位という仲間・横並びの認識は機能しなくなる。


●「変える意志と変わる勇気」と「変わらない選択と変えない忍耐」


 日本企業のトップマネジメントには、「変える意志と変わる勇気」と「変わらない選択と変えない忍耐」の違いを理解し、現場力(日本企業の得意とするプロセス主導の迅速なインプリメンテーション力<意思決定より実行が優位のこと>)を口実に決断を避けるのではなく、果敢な経営判断をすることが求められる。つまり、環境変化の程度と速度は高まると思うべきであり、独哲学者フリードリヒ・ニーチェの言ではないが、「脱皮をしない蛇は死ぬ」と心得るべきであろう。しかし、制度変更ではなくプロセスの変化を通して漸次に変わっていくことを得意とする日本型企業にとって、加速的にグローバル化する経営環境の中での脱皮は時間との勝負となる。不確実な環境下での決断に当たっては、下記の観点を考慮する必要があろう。


・価値がハードからソフトに急激にシフトしていく。
・企業の規模の重要性が急速に薄れていくので、大企業だから有利とはいえない。
・組織として環境適応を阻む積極的惰性から脱し、脱学習を試みることが重要になる。
・速いスピードで大きく変化する経営環境に対応するには、組織は多様化(Diversity)していかなければならない。
・グローバル化の過程で、これまでの「既存の社員は変更の例外」「日本人は特別」は通用しない。


「変える意志と変わる勇気」を持つか「変わらない選択と変えない忍耐」を受け入れるかという決断の過程を通して、これまでの業界何位という群れ的な感覚から脱し、ユニークな企業アイデンティティの再構築が求められる。


 この決断は、企業の規模によって当然異なってくる。大企業にとっては、環境変化への迅速な適応を阻む、強い積極的惰性をいかに克服するかが問われるが、その先の適応のあり方は、企業次第であろう。例えば、以下のような企業が考えられる。


・周辺事業の人材をトップマネジメントにすえて外科手術を行う企業。
・中心事業の若手を抜擢し内科手術を行う企業。
・トップマネジメントに外国人を起用し、組織の遺伝子組み換えを行う企業。
・リスクを取って川から海洋に出て、淡水から海水に適応するように組織を転換し、成長するサクラマスのような企業。
・日本市場の勝者として川に残りガラパゴス的進化を遂げるヤマメのような企業。
・グローバル化に挑戦するが失敗し、日本に戻るシーラカンスのような企業。
・かつての捕食者から捕食される側にまわり、環境の悪い深海に潜り、組織永続を図るオウムガイのような企業。
・超長期にわたり大きく変化しない生息領域に棲まい、安定的に存続するカブトガニのような企業。


 ほかにもYKKのように、はるか昔に適応してしまった企業もあるが、それは極めて例外であろう。


 従来の中小企業に関しては、「日本的経営を残したいか」との自問と、残せるかの見極めが必要となるであろう。キッコーマンの茂木友三郎名誉会長も述べているが、グローバル化には「誰にも負けない」というグローバルニッチ的技術優位性が必要である。


 新興のベンチャー企業は、日本を最初から念頭には置いていないであろう。フィールドはグローバルであり、すでに多くの外国人を抱えている企業も多い。情報通信技術のレバレッジを使わず日本市場にこだわっているようでは大きな成功は収められない。


●グローバル化が難しい日本人のメンタリティ


 このような企業の合理的な選択として、日本企業が真にグローバル化を達成した場合、それを「日本の」企業という枠組みに収める考え方は正しくない。


© Business Journal 提供

 日本型組織の特徴は日本の文化に根差して生まれたものであるが、グローバル環境においてそれらが取り入れられるとすれば、利便性のある手法、技法、技術、制度などの文明の要素として受容されるのであり、背後にある思想や規範は取り除かれる。異論のある方もいるかもしれないが、日本の歴史はまさにこの典型的な例であることを忘れてはならない。


 つまり、フォーマット(型)として受け入れられるのであり、その受容を通してフォーマットの中身は変容すると心得なければならない。企業においても、韓国や中国の消費者が、和式キムチや日式拉麺を認めたり、日本の消費者がカリフォルニアロールやサーモン寿司を外道といわず、積極的に受け入れている現状を見習う必要があろう。つまり、文化は一つの変わらぬものがあるという排他的な心理的本質主義的観点ではなく、新奇性を吸収し、常に変化していくものであるとする排他的ではない構築主義的観点を持つことがグローバル化を強く志向する企業にとって重要となる。


 グローバル化の時代とは、外部の影響や内部の異分子の影響(多様性)で文化が変容していく可能性の大きい時代なのである。日本の企業がグローバル化を目指す過程で、その組織体質が自ずと変容し、客観的に見れば出自とは異なったものになるとすると、それを日本の企業と一括りに呼ぶことは適切ではないのである。


 しかし、無意識に「日本人」という境界を設定する日本人のメンタリティで組織的にグローバル化するのは、かなり難しいことも事実である。実際、日本人は海外のものを受け入れる際には、自分たちに合わせるべく変更を加えるのに、海外の人が日本のものを変更することは許容しない傾向にある。フランスでは日本人のシェフやパティシエが受け入れられているが、白人や黒人の板前や和菓子職人を日本人は受けいれられるのかといえば疑問である。日本人は、自分たちがやっていることが外からどう見えるかという意識が欠落しており、加えて自分たちは例外であると思っている節がある。かつてのように日本が世界に対して門を閉ざしていた時代ではないので、意識と現状のギャップがどんどん拡大しているといえるだろう。このような日本人の姿勢を変えないと、グローバル環境下での日本企業の強さを問うても意味がないといえそうでもある。しかし、生き残るためには急速に変わらざるを得ないことを理解し、変身する合理的な存在である企業はもはや日本人の姿勢の変化を待たないかもしれない。つまり、意識の変わらない日本人は置いていかれるのである。


 筆者が読者諸兄に対していえることは、「Do not fool yourself, let’s face the reality(馬鹿なことをしないで、現実を直視しよう)」である。個人はもちろん、合理的存在とはいえ、現実を見ることからしか企業にとっての生き残りの解は見えてこないのである。
(文=小笠原泰/明治大学国際日本学部教授)





























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プーチン大統領年頭の挨拶

私が別に持っているブログに書いた記事だが、こちらにも転載。主眼はもちろん私の駄弁ではなく、プーチンの挨拶である。言は人を表す。このプーチンの言葉のどこにも偽りや偽善は無い。偽善者の言葉は、読む人が読めば一目で分かるものだ。



「阿修羅」より転載。

善と愛が増えれば、私たちはより自信を持ち、強くなれるのです。そうすれば必ず成功を手に入れることができるのです。

そういうことである。
なお、この記事タイトルは「新年の演説」だが、これは演説ではなく、国民への挨拶だろう。



(以下引用)


http://japanese.ruvr.ru/2014_12_31/281842070/


31.12.2014, 19:54


プーチン大統領 新年の演説(全文)






© Photo: RIA Novosti/Alexei Druzhinin


親愛なる友人の皆さん!

数分後には新たな年2015年が訪れます。

いつもと同じように、私たちはこの祝日をどきどきしながら待ち、願い事をし、プレゼントを交換し合い、家族や近しい人々、友人たちと一緒に新年を迎えるというこの素晴らしい伝統を喜んでいます。雰囲気は良く、思いやりや寛大さが私たちの心をあたため、心は明るい考えや善良な行いのために開かれ、希望を抱かせます。

もちろん、今は各人が何よりもまず家族の安泰について考え、近しい人々には健康や幸福を祈っていることでしょう。我々ロシアの繁栄は、皆さん一人ひとりの幸福と成功によってつくらています。

祖国への愛はもっとも強い感情の高まりに数えることができます。これはクリミアそしてセヴァストーポリ市民が自分の生家に戻ろうと固く決意した際、その同胞支援のなかで十分に発揮されました。このことは最重要な道標として祖国の歴史の中で永遠に刻まれることでしょう。

今、去り行く年を総括するとき、皆さんが結束し、連帯してくださったこと、真実、名誉、公平、自分の国の運命に対する責任を深く感じてくださったこと、ロシアの国益を主張する不動の決意を表してくださったこと、勝利の日も試練の時もロシアとともにいて、われわれの最も大胆で大規模な計画の遂行を目指してくださったことに心からの謝意を表したいと思います。

今から数年前はソチでの五輪開催は夢物語のように思われていました。ところがこれは単に実現されただけではありません。われわれは冬季五輪史上、最高の五輪を準備し、 開催しただけではありません。これで大勝利を収めたのです。この勝利には、私たちの国の全市民の貢献があります。つまりこれは五輪参加選手たちと彼らを支えた人々全員 の貢献なのです。

来るべき年、私たちの解決せねばならない課題は少なくありません。そしてこの年がどうなるかは私たち自身の手で作るままになるのです。それがどれだけ効果的に創造的に成果を出すようになるかは、私たち各人にかかっています。これより他の方法はありません。そして私たちは計画したすべてを遂行し、実現せねばなりません。これは自分のため、私たちの子どものため、ロシアのためなのです。

友達の皆さん! 新年はもうすぐそこまで来ています。近しい人たちを迎え、一番温かい言葉をかけあいましょう。理解と信頼、忍耐と配慮を示してくれたことを感謝しましょう。善と愛が増えれば、私たちはより自信を持ち、強くなれるのです。そうすれば必ず成功を手に入れることができるのです。

皆さん、おめでとう! 2015年、明けましておめでとう!

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雪深し

正月三が日の間くらい、全国民は会社も学校も休んで家でゆっくりしろ、という天のお告げだろう。雪など、そのうち溶けるし。私自身は正月だろうと休めない仕事で、風邪をひいているのに出勤して雪の中での仕事である。それで風邪は悪化したが、家ではひたすら寝ていて、何とかやりすごしている。下は風邪で朦朧とした頭で夢うつつに作った句。

風強し 幾葉落ちけむ ハナミズキ (夢人)

解説:風邪をひいて鼻水がすごい。ティッシュを何枚使ったことか。(私自身はハナミズキがどういう植物かはまったく知らない。変な名前の植物だ、と思っているだけだ。)


(追記)気が付かない人がいるかもしれないので、注釈も。
tissue:動植物の細胞組織。薄くて軽い織物。
tissue paper:薄葉紙。
ついでに、
a tissue of absurdities:うそ八百




(下記記事のように引用が明瞭な場合は今後「以下引用」は省略させてもらう)

京都市中京区で61年ぶり20センチ超える積雪 観測史上3位タイの22センチ






雪で覆われた京都市中心部の烏丸通=3日午前3時30分、京都市下京区

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 強い冬型の気圧配置の影響で、3日は日本海側を中心に大雪となった。


 降雪のピークは既に過ぎ、冬型の気圧配置は西日本からゆるみ始めた。気象庁は、雪崩や落雪に注意するよう呼び掛けた。気象庁によると、3日夕までの24時間の降雪量は、青森市・酸ケ湯46センチ、新潟県妙高市37センチ、長野県飯山市36センチ。酸ケ湯の積雪は3メートルを超えた。


 京都市内も3日未明にかけて大雪に見舞われた。京都地方気象台によると、京都市中京区で3日午前1時、昭和29年に41センチを観測して以来、61年ぶりに20センチを超える22センチを記録。京都市内で観測史上3位タイとなる積雪となった。


 4日午前6時までの24時間に予想される降雪量は、いずれも多い所で北海道と北陸40センチ、東北30センチ、近畿と東海、関東甲信20センチ。


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恋愛という幻想による世界の美化

タモリの言い方が面白い。
男にとっては恋愛は片手間仕事であり、恋愛とそれ以外の仕事(日常の業務)は厳然と区別される。女は恋をするとそれが生活のすべてに優先する。仕事をしながら恋愛もする、という女は中身は男だろう。社会性という面から言えば、恋愛とその他の生活を明確に区別できる方が便利だ。だが、そういう恋愛が真の恋愛と言えるとも思えない。
すなわち、タモリの言うように「女は人を愛するプロ」であり、男は人を愛することのアマチュアだ。ただ問題は、そういう女の相手となって、親も兄弟も友人も捨てて、すなわち社会生活のすべてを犠牲にしても恋愛にのめりこむ男は、社会的見地からは人間のクズだ、ということだ。なぜあれほど素晴らしい女性が、あんな人間のクズと一緒になるのか、という事例は多いが、それは男から見ての話であり、女は恋愛のできる相手と恋愛をしているというだけのことだろう。相手のあらゆる欠点は、恋愛中の女にとってはどうでもいいことなのだ。
まあ、要するに恋愛とは、一過性だが何度も再発する精神病の一種である。(もちろん、「運命の人」など存在するはずはないw)
子供に対する愛は、また話が少々違うかと思うが、論じるまでもないか。
なお、恋愛は精神病だと書いたが、それが無価値だとは言っていない。大方の精神病も、当人にとって実は価値があるというものもあると私は思っている。むしろ、恋愛をすることで世界のすべてが輝いて見える、ということもあるだろう。自分がそう思うならば、それが正しいのであり、実際、その時世界は輝いているのだろう。
どこかで書いたステンドグラスの比喩(リルケの言葉だったか)で言えば、我々の見ている世界は、客観世界の白色光線が主観というステンドグラスで彩色されて壁に映ったものなのである。その色彩が美しければ、それでいいわけだ。



(以下引用)

タモリが男と女の“愛情の違い”を語る「女は人を愛するプロ」










タモリ

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21日放送の「ヨルタモリ」(フジテレビ系)で、タモリが男と女の愛情の違いについて鋭く指摘する一幕があった。

同番組でママ役を演じる宮沢りえは、自信(夢人注:「自身」の誤記だろう。)が子どもを出産し、母親になったことでどういった心境の変化があったかを告白した。

宮沢は基本の自分は変わらないと話す一方で「(子どもが)自分より大事だと思える存在になるっていうのは(あった)」と胸中を明かした。

すると、岩手のジャズ喫茶マスター「吉原さん」を演じるタモリは「女性の愛情はスゴイ」「女は人を愛するプロなんだよね」と女性の愛の深さに感じ入る様子をみせた。

続けてタモリは「それにくらべたら男は愛するなんてことは仕事も同然よ」と、独自の視点で男女の愛情の違いを分析し、女性の愛情や女性が子どもに与える愛情は「スゴイもの」だと語った。










(追記)孔徳秋水氏のツィートより。私の言う主観と客観の間にこの「空」観を入れるといい。「空」を観じる(私流に言えば、「自分」という存在を完全に度外視して、世界を観、その価値を考えること。)ことで主観を離れ、客観世界を垣間見ることができるのではないか。だが、「自分」という存在(世界認識の主体)は、その外(自我の外)に存在する無限の客観世界と同価値なのである。




.”空”…それは、買ったばかりの新品のパソコンのようなもの…何にも入っていないから、無限の可能性がある 


2.[1/2 15:27] 手放せば手放すほど入ってくる…空っぽにすればするほど満ちてくる…
 
3.[1/2 15:25] たとえば、「交通安全は、譲り合い」というではないか。わずかなパンと魚を分け与えたら、3000人が満腹になり、かごいっぱいに余ったというのも、それほどおかしな”奇跡”ではない。

4.
[1/2 15:23] 愛の法則とは、余計なものを手放しなさいという教え。みなが余計なものを手放せば、みんながもっと豊かになれる。幸せになれる。








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日本という「柔らかなファシズム」社会



私の記憶では、誰かの言葉に「一人在る時、人は高貴である。衆と共に在る時、人は動物である」というような言葉があったと思うが、集団的行動は集団的思考に基づくものだ。集団的思考は当然、集団の平均値となり、その中で声の大きい人間に支配されることになる。集団としての人間がしばしば動物的であることは確かだろう。一致団結し、リーダーの統制に従順に従う集団? それは羊の群れだろう。
アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」の一節に、「日本の下層階級は支配されることを大いに好み、権能をもって臨む者には相手がだれであろうと容易に服従する。(中略)もし両刀階級(夢人注:武士のことだろう。)の者をこの日本から追い払うことができたら、この国の人民には服従の習慣があるのであるから、外国人でも日本の統治はさして困難ではなかったろう」(岩波文庫下巻P141)とある。
日本人とは家畜民族であるようだが、それが日本社会の驚くべき規律と安全性をも作っている。だが、その秩序とは見えないファシズム、柔らかなファシズムではないだろうか。羊たちははたして自分たちの意思で牧羊犬を選んでいるのだろうか。



(以下引用)



小田嶋隆 @tako_ashi  ·  8時間前

好き嫌いは、個人の感情である限りにおいて、さして有害なものではありませんが、集団を束ねる原理として使われると、にわかに物騒なものになりますね。対象がなんであれ。

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アメリカという国家の正体

私の持っている何本かのフラッシュメモリーが「生きて」いたらしく、昔書いた記事や昔保存していた他人の記事を再読している。その中から、白石隆氏の文章を転載する。
書かれたのはおそらく2002年前後だと思うが書かれた内容は今でこそその先見性が分かる。現在のアメリカの状況、日本の状況を考えながら、この文章を読むと書かれた内容の正しさがよく分かるだろう。



(以下引用)論点を明確にするため、冒頭を一部省略した。


現在われわれ日本人はどのように美化しようと実態はアメリカというお釈迦様の掌の上で遊んでいる孫悟空に過ぎないのである。アメリカがその気になればわれわれのちっぽけな繁栄など直ぐに消し飛んでしまうことだろう。日本国の繁栄は米軍による事実上の軍事的占領という土台の上に成り立っている空虚な幻想にすぎないのである。われわれ日本人は見てみぬ振りをしているが、いずれ今のようなあやふやな関係ではなく明確な形でこの軍事占領の問題に決着をつけねばならない時がやって来るだろう。これまでのように国際経済が安定を保った状態が続いておれば問題は表面化することはなかったろう。臭いものに蓋をする格好で「思いやり予算」で問題を糊塗しておけばそれで済んだからだ。しかし今やアメリカ経済も日本経済も土壇場にまで追い込まれている。経済は瀕死の状態であり破綻は必至である。もし経済が破綻すれば資本主義の当然の帰結として戦争が必要になるだろう。戦争は最大の経済需要をもたらすからだ。この時瀕死の重傷を負った日本国の政府と財界は国民をそそのかし扇動して経済回復をスローガンのもとに当然アメリカのお先棒を担いでその戦争に荷担することになるだろう。その先は見え見えだ。日本人が米軍の先兵としてアジアに中東に血を流すことになるだろう。現在の米軍による軍事占領という事実と先の日米ガイドラインの動向を鑑みれば行き着く先がこのような結論に達することは必至なのである。その時日本人はアメリカ国民と同様に今以上にアメリカを助けるために奴隷のようにこき使われ奉仕する家畜のような存在に成り果てることだろう。アメリカ国民と同様にである。アメリカ国民は我々と同じ被害者である。私のアメリカ観の結論をここで言っておこう。アメリカを支配しているのはアメリカ国民ではない。ほんの一握りの富裕階級である。この連中は国際的に連帯して国際金融財閥を形成している。彼らは金融をバックに企業を動かし、軍隊を動かす事実上の地球の支配者なのである。アメリカという国は彼らに富みをもたらす巨大な工場であり、アメリカ国民は彼らに収奪され搾取され富みを生み出すために必要とされる奴隷に過ぎないのだ。この事実をはっきりと認識しなければ問題の本質に近づくことはできないだろう。

私は実際にアメリカで生活したことはないし、それどころか旅行もしたことがない。これまで述べたことはあくまで数少ない米国人の著作を通じて自分なりに考察して得たアメリカ観である。したがってその結論に不安がない訳ではなかった。しかし世界中で起こっている様々な出来事から類推して私のアメリカ観は絶対に正しいという自負をもっていた。ところが最近アメリカで生活した経験のある日本人がその体験を綴った本を出版しており、たまたまその本を買って読んでみたが、その内容は私のアメリカ観とドンピシャリに符合していたのである。その著作は
   「僕はアメリカに幻滅した ―― 繁栄の影でいま何が起こつているのか?」
という題名で作者は小林至氏、出版元は太陽企画出版である。この本にはとても具体的にアメリカ社会の実態が記述されており、アメリカを知る上で日本人には必読の書といえるだろう。文章がうまく内容が明快で分かりやすく書かれている。何よりも統計数字を利用した説得力のある説明がとてもよい。早速、母にこの本を読むように薦めた。母もよいと思ったのだろう別の家族のものに読むように薦め、今は山口家で読まれている。したがってここでその本の概要でも解説すべきところなのだが、都合のよいことに本日インターネット上でこの本の書評にお目にかかった。その書評の内容が私の意見を見事に代弁しているので以下にそのまま掲載しておく。むろん大マスコミによる書評ではない。「週間日本新聞」というインターネット上のとてもマイナーな貧乏新聞に掲載されたものである。評者は奇人とうたわれる太田竜氏である。

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小林 至著 太陽企画出版(平成十二年十一月)


「僕はアメリカに幻滅した ―― 繁栄の影でいま何が起こつてゐるのか?」


小林至、この著者は、昭和四十三年生まれ。東大経済学部卒業。プロ野球(ロッテ)に入団。二年で解雇。平成六年渡米してコロンビア大学経営学大学院卒業。平成八年、米国フロリダのケーブルテレビ会社に入社。平成十二年六月解雇されて日本に帰国。六年間の米国生活の体験記、といふ。


この人とこの著書は、今時、貴重だ。東大は東大でも、野球部員。そして、卒業すると、プロ野球に入る。東大野球部からプロ野球に入団する人は滅多に居ない。野球選手のみならず、スポーツ選手は、概むね、知識教養はお粗末であらう。しかし、東大を卒業していれば、まあ、或る程度の学力はある。野球では通用せず、二年で退団。そしてそのあと、米国に留学してMBA(米国の大学院経営学修士)を取る。近頃では、米国でMBAの資格を取る日本人売国奴志願者はきはめて多い。そしてその全員が、ユダヤ化され、骨の髄までの売国奴と化するであらう。しかし、この著者の場合は、少し違ふ。コロンビア大学でMBA(経営学修士)を取つたあと、金融界に入らずに、スポーツ関係の小さなテレビ局に入つた、といふ。つまり、この人の四年間の仕事上の地位は、中より以下。生活して見ると、米国の社会の仕組みは、貧富の差を拡大して社会を二極分化させる、最悪のものであつた。日本では、米国を地上天国のやうに描き出すアメリカかぶれの言論が充満して居る。それ以外のアメリカ観は、事実上、日本のマスコミには存在しない。この著者も当然、さうしたマスコミ言論で洗脳されていた。しかし、現実に米国で生活して見ると、大違い。いや、「違い」、といふ程度でない。そのことに著者は気付いた。のみならず、その会社から解雇されるときの会社側の仕打ちがすさまじい。


「人間味を捨てた者だけが『勝ち組』になれる」(二百三十四頁)、それが米国である、という。
つまり、米国で「勝ち組」の人間になるといふことは、ロボットか、動物に喩えれば爬虫類(三百三十六頁)だといふ。
「冷血で残忍ならば、誰でも米国式合理性を身に着けられる」。
「圧倒的大多数の米国人は、正義感が強く、むしろお人好しが多い。ところが残念なことに、そういう人間は、馬鹿をみるやうに、この国(米国)の社会制度がなつているのです。」(同上)
 この観察は全く正しい。このやうに冷酷で残忍な「勝ち組」は、人間味のある行動をとる普通の人々を軽蔑する、という。全くその通り、であろう。米国の勝ち組は爬虫類だ、とはまさにぴつたりの表現だ。


 米国の一般人の間では「医者と弁護士は悪者」、といふ評価が常識化した(百二十三頁)、という。いづれも、ユダヤ禍の典型である。 十五、六世紀、ユダヤ教のラビがユダヤ教徒に対して与えた、史上、有名な訓戒に、
「お前たちは、子供を教育して、弁護士、医師、キリスト教会の僧侶、この三つの職業に進ませなさい。そしてそのことによつて、キリスト教会の支配体制を打倒して、我々ユダヤ人が世界の主人と成ることができる。」
とある。その後、十八、九世紀に成ると、第三項の「僧侶」に、「科学者」が追加される。この方式が、もつとも完璧に実現されたのが、英国、オランダ、そして米国、この三ヶ国であらう。とりわけ、米国はその中でも飛び抜けている。前掲書、四十五頁に、
「貧困層以下の人々の割合(いはゆる先進十二ヶ国)」(図表12)が引用されている(国連統計、二〇〇〇年)。
 それによると、


 第一位  オランダ(14・4%)


 第二位  米国  (14・1%)


 第三位  英国  (13・1%)


つまり、貧しさ度上位三ヶ国が、見事に、ユダヤ化フリーメーソン化のもつとも進んだ国なのだ。これを言い換えれば、ユダヤイルミナティ国際金融寡頭権力の本拠地、である。


日本は第九位、三・七%。


とある。ところが、あら不思議。日本では、まぎれもない地上最悪の地獄たる米国を、地上最高の天国楽園唯一普遍の理想文明の国、としてほめたたへるアメリカかぶれ国賊売国奴がマスコミと学界政界官界宗教界芸能界財界を完全に掌握している。これは一体何のことか。摩訶不思議、とはこのことだ。


斎藤貴男著「機会不平等」(文芸春秋社、平成十二年十一月)。


この本は、この十年ないし十数年、とりわけ平成元年(一九八九年一月)以降、狂つたやうに推進されている「アメリカ化」によつて、日本の国家社会の全分野に於て、惨澹たる状況が展開されつつある、その記録である。成るほど、良く調べられている。しかし、にも拘はらず、あれよあれよといふ間もなく、最短期間で日本の伝統がたたき潰され、アメリカ化される。つまり、日本の国家と民族の解体破壞壞滅死亡宣告である。そしてその悪逆無道なやり口に対して、意味のある抵抗はゼロに近い。一体、これは何のことか。


小林至氏は、米国の正体(本質)は、金権寡頭権力体制だ、と述べている。米国には、「民主主義」など、ひとかけらもない、と断定しておられる。全く正しい。いや、正しい、などと改めて云々するのも阿呆らしい。そんなことは常識中の常識だ。しかしそれでは、何故そのあまりにも当り前の常識が日本のマスコミによつて日本国民に伝へられないのか。何故日本のアメリカ問題専門家学者官僚ジャーナリストマスコミ芸能界宗教界そして政治家などによつて、その自明の事実が、日本人に教へられないのか。
日本のエリート指導者階級全員、一人残らず、売国奴、国賊、である。これが、その理由である。


日本は完璧に亡びた。「日本国」と自称するしろもの、それは、ニセモノの日本国、以外の何者でもない。
小林著に曰く。
「日本中央競馬会もさうですが、博打業界といふのは、本当に宣伝が上手です。テレビ映りがよく、話術に長けた金融界の教祖たち。刺激に満ちた金融ニュース番組。ノンストップで報道される株価の動向。インターネットが可能にしたリアルタイムでのアクセス。これらに加へ、過去数年間の記録破りの利益を背景に出てきたにわか長者が大々的に取り上げられるわけです。「博打であることを肝に銘じていても、楽しくて魅惑的なゲームに見えてきます。」(二十四頁)。
 宣伝が上手、といふ。これは現象論だ。そのやうに見えるであらう。しかし、そんな水準に甘んじていてどうする。


 B・K・エヒクマン著「アメリカ人の心の複製」(Cloning of the American mind)はこの際必読だ。エヒクマン女史には「新世界権力のための教育」(一九九一年)、「マイクロチップを埋め込まれるといふこと。教育体制権力はどのやうにして我々をビッグ・ブラザーの更にその先へ突き出したか」(一九九四年)、 といふ著作があるといふ。「ビッグ・ブラザー」とは、例のジョージ・オーウェルの「一九八四年」に登場する未来の独裁者を意味する。つまり、我々が、「一九八四年」に描かれた状況よりもはるかに高度化した独裁体制に既に組み込まれている、といふ。


斎藤貴男著「機会不平等」は、オルダス・ハクスレイの「すばらしき新世界」の「優生学」を問題として居る。「優生学」は、左翼イデオロギー、右翼イデオロギー、そのいづれにも関係ない。むしろ、左翼、右翼を超越している。その上に君臨する何者かである。そのことに、この斎藤といふ著者は、ほんの少々、気付いている。それは結構だ。それにしても「優生学」といふ日本語の訳語は良くない。その意味するところは、優勝劣敗。優れた者を生かし、劣つた者を殺すこと。従って、勝ち残つた者同士の競爭は、加速度的に強化されて行く。その結末は何か。


ジョン・コールマン博士によれば、三百人委員会は、地球人口八、九割殺戮処分計画を実行しつつあるといふ。コールマン博士のこの警告は、荒唐無稽な放言か。いやさうではない。英国(ユダヤイルミナティ世界権力の本拠地)には、この二百年来、
マルサス→ラッセル卿→H・G・ウェルズ→オルダス・ハックスレイと、
この人類大殺戮作戰を暗示又は公然と煽動する、作家学者思想家の系列が存在する。


小林至氏は、「米国崇拜もいい加減にしろ!」(七十九頁)、 と言はれる。
しかしこれは表層しか見て居ない。「米国式」、といふ表現は現象論だ。「米国」の主人公は、実はイルミナティ世界権力である。 この深層を明示しない限り、小林至氏の著作は、体制の安全弁に成つてしまうであらう。


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価格が一部1800円と少し高いが、買って読むに十分価値のある本である。一読をお薦めしたい。

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