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8月30日、「戦争法案」反対全国一斉蜂起

「阿修羅」記事を転載。
記事の中のツィッター部分が消えてしまうので、中身がスカスカだが、これでも拡散の一助になるだろう。
NEWS23がどこの局の番組かは知らないが、この報道をした英断を讃えたい。
別のサイトでこの「赤旗」記事を読んで、その時にも転載しようとしたが、その時、なぜか突然ネット接続が切れて(切られて?)転載できなかった。「赤旗」関係のネット記事には妨害工作が働いているのではないか。
記事のコピー自体はドキュメントに保存したので、後で追記するかもしれない。写真よりは読みやすいだろう。
日本全体で「戦争法案」に反対する気持ちを持っているのは100万人どころではないと思うが、わざわざデモに参加するのは面倒だ、という人や、休日でも仕事の人、あるいは公務員などで、上に睨まれたくない人なども沢山いるだろう。100万人の背後には、少なくともその10倍くらいの、同じ気持ちの人がいると私は思っている。政治に無関心な人間はまたその倍くらいいるだろうが、そうした人々も、目の前の運動の盛り上がりを見れば、関心を持つようになってくるはずだ。民主主義はそういう小さな努力の集積でしか本物にならないのではないか。
日曜日、デートに行きたい人、行楽に行きたい人も、東京近辺の大人は、この日だけはこの集会に参加する「義務」があると思う。それは後世への義務でもある。




(以下引用)




全国は一つ 100万人大行動へ/「戦争法案」廃案へ  8.30大行動を成功させよう/NEWS23が告知会見を報道
http://www.asyura2.com/15/senkyo191/msg/169.html
投稿者 gataro 日時 2015 年 8 月 21 日 10:17:55: KbIx4LOvH6Ccw
   
 
  

















 

   
 


     


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コメント
 
1. 知る大切さ 2015年8月21日 10:29:17 : wlmZvu/t95VP. : ehszIwkFFc
今までに無い正しい報道姿勢素晴らしい!

本来はこうあるべき!(権力側に)民衆が蹂躙されない為に。


今後もこの国の民主主義に沿った報道姿勢をNEWS23以外の


全ての報道に切に望む!


あとNEW23にエールの電話やメールもしましょう。


2. 2015年8月21日 15:08:30 : YylixLkL5Y
このような動きをほとんど報道しない報道機関は国民の支持を失う。そしてもう二度と戻らない。

名指しすれば、NHK、読売新聞、産経新聞、読売テレビ、フジテレビ。
こやつらはもはや日本のゴミ。


3. 2015年8月21日 19:34:15 : yO3Alo8G8M
あらゆる面で女性化が進む現代社会にあっては「イメージ」というものがひじょう

に重要になってくる。山本太郎議員は国会での質問で、安倍政権の反動的な政策が


アーミテージレポートの内容そのものだ、と糾弾した。


安倍首相はじめ安倍政権の面々がアーミテージに隷属するというイメージをデモ集


会、パレードでも強調することにより、安倍政権の対米隷属性が宣伝できる。


タコ入道を思わせる禿げ頭の巨体はグロテスクであり、この怪人に隷属する安倍、


というみじめなイメージを広げるとよい。


4. 2015年8月21日 20:16:08 : Q1AShcAlNU
どう考えても、米国政府と関係ない、右翼シンクタンクのアーミテージに、安陪政権がペコペコするのが分からない。オバマ大統領だってアーミテージなんか鼻にもかけない人間だと思うよ。
まあ、別に法律に違反しているわけでないので勝手にやれっというところかな。

8月30日のデモ、いてもたってもいられないので参加します。バスや電車を乗り継いで
片道2時間半はちょっとつらいけど、傍観だけだと後悔することが分かっているので行きます。



5. 2015年8月22日 00:14:47 : vqJnkWgHYs

ネズミをとる猫なら、色は白でも黒でも良い猫です。

安倍ネズミをとりに、息子・親戚を誘って4名で行きます。
北庭と南庭間の車道を、緊急車両用の車道を残して開放する交渉中との事です。
是非とも正面の車道を、デモ参加者に開放して貰いたいものです。
   
※各々の意志で態度を示す直接民主主義、本物ですね。









(追記)


戦争法案廃案に 空前の国民的たたかい今こそ

日本共産党・しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-08-21/2015082101_05_1.html

「戦争法案を廃案に」の一点で国民のたたかいが、空前の規模で日本列島を覆っています。参院安保法制特別委員会では、日本共産党をはじめ野党の追及に安倍晋三政権の閣僚らは答弁不能に陥り、たびたび審議が中断する事態です。マスメディアの世論調査では5~6割が法案に反対し、安倍内閣支持率も低迷するなど、国会論戦と国民的運動が安倍政権を追い込んでいます。戦争法案阻止へ、8月下旬にむけ一連の国民的行動をさらに大きく飛躍させましょう。

「列島騒然」の状況に

「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」は30日に「戦争法案廃案! 安倍政権退陣!国会10万人・全国100万人大行動」を呼びかけています。

SEALDs(シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)は23日、大規模な「表参道デモ」を計画し、あわせて「若者中心に全国でうまれた抗議行動を一斉にこの日に行えたらと思います。北海道から沖縄まで、各自の地元でデモや街宣アピールをしましょう。これは若者から全世代への呼びかけです」と訴えています。若者憲法集会実行委員会も同日、「戦争法案つぶすデモ@吉祥寺」に取り組みます。

24日には「戦争法案に反対する宗教者・門徒・信者全国集会」が実施されます。日本弁護士連合会は26日に「安保法案廃案へ! 立憲主義を守り抜く大集会&パレード」を計画し、「法曹・学者・学生・市民 総結集」を打ち出しています。この日は「安全保障関連法案に反対する学者の会」も連帯して行動します。

これらの呼びかけにこたえて、全国で集会やデモ、アピール行動など多彩な運動がおこなわれます。東京での集会やデモを大きく成功させるとともに、全国津々浦々で総決起し、空前の規模の国民的運動で「列島騒然」の状況をつくりましょう。


2 パイルドライバー(宮城県)@\(^o^)2015/08/21() 23:08:35.75 ID:vHPhHGzL0.net 


この間、国会論戦や野党共闘のもとで、労組や団体は、共同の力、草の根の力を大きく発揮してきました。各地の「九条の会」が、保守といわれる方々もふくめた憲法を守れとの一人ひとりの思いを結び合わせ、立ち上がっています。

青年・学生、子育て世代、学者・研究者、弁護士などが、自らの問題として自主的・自覚的に行動をはじめ、共同の輪があらゆる階層、あらゆる世代に広がってきました。

このもとで自民党の県議や市議が戦争法案廃案を主張し、ストップをさせる団体や「会」をつくるなど新たな動きも始まっています。

戦争法案廃案のたたかいのなかで、「民主主義って何だ!」という若者のコールがわきおこっています。安倍政権の暴走で、平和、自由や民主主義、基本的人権という国の根本が脅かされることへの強い怒りです。国民的規模での運動の発展は、戦後70年、国民主権の原則が脈々と受け継がれ、しっかりと根を下ろし、大きな力を発揮していることを示しています。

世論広げる先頭に立ち

国民的エネルギーを、8月下旬の一大国民的運動へと、総結集する時です。日本共産党は、23日から30日までを「戦争法案阻止 全国いっせい宣伝週間」と位置づけています。戦争法案の「合理化論」を打ち破り、廃案の展望をしめし、国民的運動の発展のために全力を尽くものです。

ソースは>>1


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チプラス辞任へ

チプラスの「変節」は、私にはまったく予想外だった。私は、自分は人を見る目はある方だと思っていたが、これほどの見間違いは初めてである。もともと、左側の人間に対しては見る目が甘くなるところはあったが、チプラスが公約破りをする人間だとはまったく思わなかった。だが、辞表を提出しただけまだマシかもしれない。嘘をつくような人間が政治家をやっていてはいけない。それが平然と許される日本のような国が異常なのである。


(以下「朝日新聞デジタル」から転載。



チプラス首相が辞表提出 ギリシャ、来月総選挙

ローマ=山尾有紀恵、ロンドン=寺西和男


2015年8月21日11時25分


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 ギリシャのチプラス首相は20日夜(日本時間21日未明)にテレビを通じて演説し、辞任して、総選挙を行うと表明した。欧州連合(EU)などと合意した緊縮策を巡る与党の分裂で政権維持が難しくなっていた。投開票日は9月20日の見通し。EU側からの支援と引き換えに約束した財政改革が遅れる懸念もある。


 チプラス氏は演説で「すべては国民が投票で決めてほしい」と述べ、EU側と合意した支援プログラムについて信を問うとした。演説後、パブロプロス大統領に辞表を出した。


 ギリシャ国会(定数300)は14日、国有企業の民営化や早期退職の段階的廃止などの財政改革の法案を可決。野党3党は賛成したが、与党・急進左翼進歩連合(シリザ・149議席)は反緊縮の公約に反するとして40人以上が造反した。


 チプラス氏は選挙で造反勢力を排除し、EU側との合意を履行する考えだが、シリザのラファザニス前エネルギー相は反緊縮新党の結成を呼びかけている。7月までの世論調査では、シリザが再び第1党になる可能性が高いが、単独過半数は難しい模様だ。連立協議が難航する懸念がある。


 EUのユーロ圏財務相会合は14日、ギリシャに3年間で最大860億ユーロ(約11兆8700億円)の支援をすることで合意。ロイター通信によると、ユーロ圏財務相会合のデイセルブルーム議長は20日、「ギリシャユーロ圏との約束を守ることが重要だ」と改革を履行するよう釘を刺した。(ローマ=山尾有紀恵、ロンドン=寺西和男)


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盟友「山本太郎・広瀬隆」

「阿修羅」記事のコメントの一つを転載。
冒頭の「講演」は「山本太郎、子供の夢をぶっ壊す講演を」とか題された動画のことである。この動画タイトル自体に山本太郎を貶める「工作員」的なニュアンスも感じるが、動画が流布されていることは喜ぶべきだろう。私はその動画自体は見ていない(私のパソコンは、動画を再生するとほとんどフリーズするのである。)が、要するに、今の奨学金のほとんどが「返済前提」で、しかも「有利子」であること、奨学金を使って大学を出るということは、最初から借金を背負って社会に出ることだ、という趣旨の講演のようだ。他のコメントの言葉を借りれば、「子供の夢をぶっ壊す」のではなく、「幻想」をぶっ壊し、この資本主義社会の現実を教える、「真に子供の役に立つ」講演だったわけだ。
ところで、下のコメントを載せたのは、山本太郎のブレーンの一人が広瀬隆であるらしい(後援会会長らしい)ことが書かれていたからである。広瀬隆は原発の真実について長年訴え続け、その言葉が真実であったことが「3.11」の福島原発事故で証明された後もなぜかマスコミからはほとんど黙殺状態にあったのだが、彼が山本太郎のブレーンであることは、実に心強い。
山本太郎が政治家になる決心をしたのも、フクシマが原因だったのだから、この結びつきは実に自然なものだったとはいえ、同じ反体制を標榜する者(という言い方はサヨク的だから、「現政権批判者」としてもいい。)でも、少し意見が違えばいがみあい、仲間割れし、最後には内ゲバ状態になるのが日本の反体制運動の常だったから、こうした「同じ志」を持つ者同士が支えあい、共闘していく様子は見ていても爽快だ。
「現代世界」の真の姿に深い理解を持つ広瀬隆が、弁舌と対応力に優れた山本太郎の軍師となることで相乗効果が生まれ、それが前回と今回の見事な参院質疑になったのだろう。
もちろん、広瀬隆以外にも山本太郎のブレーンはいるのだろうし、そうしたブレーンを集めたのも山本太郎の人徳だろう。そして、山本太郎を背後で支えている大きな力が小沢一郎であると言えよう。
そう考えると、組織や集団の力や価値は数によるものではなく、その組織や集団を形成する個人の能力や人格次第だな、と思う。今の自民党には数はいるがその9割はただの「陣笠」であり、「人間」ですらないではないか。




(以下引用)



14. 2015年8月19日 10:15:21 : 6Eqpp3L932

山本太郎議員、よい講演ですね。
街頭での「超早口演説」を聞きながら、「もう少し内容をしぼって、ゆっくり話せばいいのになぁ」と思っていましたが、高校生への講演はゆっくりていねいに話していて、選挙演説のときにくらべて話術がうまくなったなぁと感じました。
山本太郎の魅力は、何と言っても「型にはまらない、国民の声を代弁する正直な語り口」だと思います。広島・長崎の平和祈念式典において、安部首相にたいしては「帰れ!」のヤジが飛び、山本太郎にたいしてのみ拍手が起きた!という事実は、この国の国民もようやくそろそろ真実に気づき始めたことを示しています。

「政治家が誰の(利益)のために政治活動をおこなっているか!?」という問いは、学校教育が触れたがらない、避けて通る永遠のテーマの1つです。しかし、感覚の鋭い高校生世代には、教科書よりもわかりやすい山本太郎の解説でしたね。
20世紀以降の(実は、それ以前も)世界の政治活動は、つねに「だれの利益代表か?」をめぐるどろどろの攻防の中で繰り広げられてきました。広瀬隆の「アメリカの経済支配者たち」「金融戦争」「赤い楯」などの著作がその内実を明らかにしていますが、なかなか広く読まれるほどにはなっていません。
しかし、広瀬氏が山本太郎議員の後援会会長にいるという事実は、たんに「反原発」だけにとどまらず、広くこの国の経済政策と対米外交にも目の届く有能なブレーンがいるということです。
2011年3.11以来、数々のメディアバッシングにあいながら、山本太郎は国民目線を忘れない議員として着実に進化成長してきました。様々な数字を挙げて論をわかりやすく展開する語り口には、なかなかに頭の良さも感じます。他方、「絶滅危惧種の議員先生たち」「高校1年生を2回もやった山本太郎でも理解できる」と茶目っ気たっぷりに辛辣な体制批判を展開する彼の姿勢は、おそらく権力をもつ者どもにはかなりの脅威なのではないでしょうか?
国民の代表であるという信念を貫いて、この国をつくり直す(対米従属から対米自立へ)新しい時代の国会議員として活躍して欲しいと願う。

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現代の「小さな恋のメロディ」の結末は

「ライブドアニュース」から転載。
この事件についてさほど知らないので、論評する資格は無いが、まだほんの子供を30箇所以上も刃物で刺す、というのは何なのだろう。
過去の残虐殺人と比べても、どこか違うものがあるような気がする。おそらく、被害者少女と同行の少年も既に殺されているのではないか、と思うが、彼らがそうなった事情は何なのか。彼らの様子を見た青年(たち)の、「子供同士のくせにいちゃいちゃしやがって気にくわねえ」くらいの気持ちが、簡単に殺人にまで至ったとすれば、これは個人の精神的病いなのか、時代の病いなのか。
「短絡性」「衝動性」「こらえ性の無さ」というのは時代風潮だ、と私は思っている。
この12歳の少年少女の逃避行(なのか何なのか、詳しくは分からないが)から私が即座に連想したのは映画「小さな恋のメロディ」だった。現代の「小さな恋のメロディ」が、これほど残虐な結末になろうとは、この少年少女は想像もしていなかっただろう。
時代が変わったのである。子供たちを取り巻く環境が変わったのだ。
牧歌的な時代は終わったのだ。


(以下引用)

【高槻少女刺殺事件】ネット掲示板に犯行予告か…猟奇的すぎる新展開






写真はツイッターより

写真拡大



 お盆休み中の日本列島を震撼させた猟奇事件が急展開だ。


 大阪府高槻市の物流会社駐車場で8月13日夜、顔や手を粘着テープでぐるぐる巻きにされた少女とみられる遺体が見つかった事件。発覚から5日後の18日、遺体が大阪府寝屋川市の中学1年、平田奈津美さん(13)だったと判明した。平田さんは12日夜から「友だちの家へ泊まりに行く」と言い残して出かけたまま行方が分からなくなっていた。


 平田さんと同行していたとみられる同級生の星野凌斗さん(12)の所在も明らかになっておらず、大阪府警は、2人が事件に巻き込まれた可能性があるとみて捜査を進めている。


犯行を示唆する内容の書き込みが…

 被害者の身元が判明する前から、インターネット上では、消息を絶った平田さんらの情報を求めるツイッターの書き込みなどが拡散し、事件との関連を指摘する声が挙がっていた。


「平田さんや星野さんの写真とともに『この子達を探しています』と書かれたビラの画像が出回っていた。服装や身体的特徴が似ていたことから、『遺体の少女じゃないか』と一部で話題になっていた」(捜査関係者)


 刃物で30か所以上もめった刺しにするという残忍な手口から、快楽殺人の可能性も指摘されるなど、犯人像に注目が集まっている。


 そんななか、事件の詳細が明らかになる前に大手掲示板「2ちゃんねる」に不穏な書き込みが何者かによって行われていたことが判明した。


 書き込まれたのは、遺体が平田さんであると明らかになる前の8月16日のことだ。事件に関するスレッドの中に唐突にこんな投稿が寄せられた。


《怯えて身を寄せ合った二人組みを刺したから身体半分しか傷がつかなかった》


 犯行を示唆するかのような内容。さらに文章はこう続く。


《自家用車に乗せてた死体をトラックに詰め込もうとおもったが、死に顔がこわかったので、テープでぐるぐる巻きにしたらまだ動き初めてあせった。(中略)運び出そうと思ったら車が着たから焦って逃げ出したんだ。だから車にはもう一つ死体が乗ったまま》


 書き込みがなされた時点で少女の遺体発見の一報があったのみで、星野さんに繋がる情報は出ていなかった。犯人しか知り得ないような内容に「犯行の告白ではないか」とネット上は騒然となった。


 さらに書き込みはこう締めくくられている。


《今日は大雨警報がでている。河にでも流そうか…ということで明日か明後日もいっこ見つかる。淀川芥川あたりか》


 果たしてこれは犯人の言葉なのか。幼い少女の命を奪った事件だけに、この書き込み自体がウソであれば、かなり不愉快であるが、この書き込みが示す最悪のシナリオが現実のものにならないよう切に願うのも確か。一刻も早い犯人逮捕が待たれる。


(取材・文/浅間三蔵)





(追記)下記ツィートのような可能性もあるので、私自身がこの事件をブログに取り上げたこともスピンへの協力になってしまったかもしれない、と自戒する必要がありそうだ。


カマヤン1192 @kamayan1192

寝屋川の殺人事件、そんなに連日トップ報道するほどの事件だと思わないけどなあ。国会報道時間を削るために寝屋川の殺人事件報道を過剰にしているんじゃないかなあ。俺の住んでいたアパートでの殺人事件なんて全く報道されなかった。










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情緒的・非論理的言説を見抜く目

「日々平安録」から転載。
『逝きし世の面影』(ブログではなく、本のほう)は、まだ読んだことがない。読まなくても、だいたいこんな本だろう、というのが想像がつくからだ。その著者の渡辺京二が何者なのかも分からない。文芸評論家なのか、社会評論家なのか。
で、下の文章中で紹介された渡辺氏の言説を読むと、相当に頭が混乱した人間のように思えるのだが、それでも断定的な口調で何かを語られると、ついそれに耳を傾けてしまい、「そうかもしれないなあ」という気持ちになるのが、頭の鈍い私のような人間の常だ。だから、そういう人物の著書は「読まないに限る」。
もちろん、読めば、中にはいいことも有益な知識もたくさん書いてあるだろうが、「独断的な人間」の怖いのは、洗脳能力の高さである。
その代表が小林秀雄で、彼の文章は、「一切の論証無しで、すべてを断定する」ような文章で、しかもその内容が面白いものだから、読んだ人を洗脳する力がすごい。私もだいぶ洗脳されたものだ。そうなると、それは私自身の精神の一部を形成しているのだから、今さら除去するつもりもない。(洗脳云々以前に、それまで考えもしなかったような「物の見方」を教えられた、という部分も大きい。)まあ、「欠点も長所も主観の問題だ」というのが私の主義だから、その「精神の偏り」を含めての自分なのだ、と考えている。ドストエフスキーなども私の精神を形成した(つまり洗脳した)重要な要素である。読む者が洗脳されるくらいの力が無い「軽い書物」を読むのはただの「気晴らし」であって、どうせ読むなら読者を洗脳するくらいの「凄い本」を読んだ方がいい、とも言える。若いころなら特にそうだろう。
というわけで、読書と洗脳(読書の影響力)という問題はここまでとするが、「日々平安録」管理人氏くらいの冷静な読解力(あるいは知性)があれば、読んだ本に洗脳されることも無いだろう、というのは少し羨ましい。若い頃はともかく、他者の愚劣な主張(あるいは非論理性)を見抜けないようでは社会人としての資格に欠けるだろうからである。


(以下引用)

2015-08-16

[][]渡辺京二対談集「近代をどう超えるか」(2)Add Star

   弦書房 2003年


 


 この対談集には、7人との対談を収めるが、榊原英資氏と中野三敏氏との対談は(1)でとりあげたし、また岩岡氏との対談「石牟礼文学をどう読むか」も一部論じたので、ここでは、大島仁氏との対談「9・11とグローバリズム」、森崎茂氏との対談「魂の飢えこそ思想の課題」の二つの対談を見ていくことにしたい。


 9・11が2001年で、この対談は2002年に行われている。渡辺氏は、自分は「資本制によって前近代的共同体が世界的な規模で破壊される過程が「近代」である」としているが、グローバリズムの実体は政治にあるのではなく、経済の世界での話であり、それは資本主義の新しい段階ではあるが、国家が主導したものではないと考えるという。


 9・11のようなイスラムテロリズムは、抽象的な観念によって社会を計画的に変えようとする思想の流れの中にある急進的な社会革命の論理にもとづいているという点で、スターリン主義や毛沢東主義と同じものと考える、自分の基本は個々人の尊厳を重んじるのが一番大切であるとする啓蒙である。抽象的な理念で社会を変革しようという革命の思想は近代が生んだ驕りである、という。


 キリスト教においては、近代化に直面したときにバチカンは中世的な神の理念を反省した。イスラム教ではそれができていない。世界を単純に善と悪に分け、自己を善とし、異教徒(悪)を改宗させなければならないとする。これはスターリニズムと同じ考え方である。


 政教分離ができていないから、思想的に自由な模索ができない。一番の問題はイスラム教普遍主義であることで、イスラム改宗すれば故郷を失わなければならなくなる。聖地がアラビア半島にあるのだから。それはイリイチのヴァナキュラーな(土地に根差した)ものを否定する。これも「労働者には祖国なし」とするマルクス主義と同じである。イスラム教グローバリズムなのである。


 米国こそが最大級のテロ国家であるというチョムスキーは、自分をヒューマンな立場に置いて、回りを攻撃する聖人なのである。己一人を高しとして、他を批判するのは、聖人的な自己満足を与えるだけで、何ら問題を解決するものではない。チョムスキーは理性主義を奉じるウルトラ原理主義者である。


 昭和初期の青年テロリストたちはすでに近代にさらされていたので、単純に農村共同体に帰りたいとしたわけではなかった。ただ資本主義の社会が共同体的なものや人間同士のきずなを破壊していくのを目のあたりにして、共同体的なものへの飢えを感じ、それを天皇投影した。そこまではイスラム原理主義と似ている。しかし北一輝も2・26の青年将校も近代を肯定していた。彼らは白樺派なのである。大切なのは個人だった。三島由紀夫も2・26にこだわったが、彼には近代化に置いてけぼりを食らった民衆への共感がなかった。北一輝や2・26の将校たちを動かしたものは悪い感情であるとはいえないが、北がもつ日蓮の霊的世界の部分は自分は苦手である。


 グローバリズム自体は資本主義の宿命である。問題はそれがもたらす世界の均質化である。伝統的な生活の根っこが押し流されようとしていることである。人間にとって大切なのは何らかの土地に生きて、具体性な食べ物や言語で生きることである。アフガンの子供たちは貧しいがいい顔をしている。グローバリズムがもたらす害を否定するには、生活民衆が自立するしかない。一人の人間がいて、家族、友人に囲まれた毎日の生活の中で、息が通うようないい世界をつくるのがまず第一となる。そこでは国家は関係ない。しかし同時にぼくらは国家の一員でもあるので、国家の行動に責任を負っていかなかればならない。(→自分たちの生活文化を守ろうとすれば、国民国家の立場をとらざるをえない。)


 土地の霊性に代表されるような生命の流れが現代文明によって圧殺されていることへの反抗がイスラムの過激主義の根底にあることは認めなければならない。フランスの現代文学を読むと、男女の関係にしても何と孤独な世界かと思う。


 自分は国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたいが、一方で、人間の共同的なあり方は求めたい。


 ここまでが大島氏との対談での渡辺氏の論のまとめで、以下が森崎氏との対談。


 人の生はただそこにあるだけで価値そのものである。石牟礼氏とであって、それまでの自分の知識人的な個でない、ほんとうの生活民に目を開かされた。


 自分が抱えている問題は魂の飢えということである。


 古代や中世の思想の中には真善美の価値観が確固としてあって、人間はそれを目指せばいいという安心感があった。近代はそれをことごとく打ち壊した。それを極限まですすめたのがポストモダン思想である。しかし、人と人の交わりを成り立たせる原理、道徳や倫理は古今を通じて変わっていない。とすればそれは生物進化の過程に裏づけられているはずである。古今変わらざる真善美を信じるというのは自分の決断であり、選択である。しかし選択の対象は恣意的なものではなく、(進化の過程に)根拠づけられているとしか言いようがないものである。人間は事実問題として倫理を抱え込んでいるのであるから、それは生物的進化の産物としか考えられない。これは自分の信念の問題ではない。信念であれば、恣意であり、相対であるに過ぎなくなる。信念ではなく、人間が進化の過程で形成してきた揺るがぬ普遍的な価値なのである。それへの自信の回復が今日の最も大事な課題である。われわれは進化の過程でそういう感覚をもつような生物として形成されたのだという事実をもとにそれを取り戻さねばならない。


 


 9・11の事例がスターリン主義や毛沢東主義と同じというのがわからない。イスラム宗教であるのだから、社会主義思想も一種の宗教であるとするのであれば別であるが、


「抽象的な観念によって社会を計画的に変えようとする思想」とするのだから、そうではない。宗教は抽象的な観念なのだろうか? 宗教には個人の救済と民族(集団、共同体)の救済の二つの側面があって、もしも宗教が「個々人の尊厳を重んじる」方向のみにのみ特化しているとすれば、それは宗教として衰弱した形であるとする見方もあるだろう。近代化に直面したときにバチカンが中世的な神の理念を反省したのだとすれば、それは共同体を統合する力の衰弱を自覚して、カイザルのものはカイザルに帰しただけのことであって、政教が分離せず一元化しているイスラム教のほうが本来の宗教としての生命を保っているのかもしれない。宗教というのは人間の理性の判断をこえるものであって、理性の産物であるマルクス主義と同じに根のうえにあるとするのは無理な議論の進め方であると感じる。「個人が一番大切であるとする啓蒙」の立場にたてば当然、宗教というものは否定せざるをえないわけで、それが「抽象的な理念で社会を変革しようという革命の思想」であるか否かは関係がないはずである。


 政教分離ができていないから、思想的に自由な模索ができない、というのも変な議論で、思想的に自由な模索などというのは宗教の立場からすれば、神をも恐れぬ人間の傲慢ということになるはずである。


 イスラム教普遍主義であることが一番の問題なのだろうか? 故郷を失ってもあまりある何かが得られるからこそ宗教帰依するひとが出るのではないだろうか? マルクス主義だって同じで、普遍主義には普遍主義の魅力があるのである。


 チョムスキーは、自分をヒューマンな立場に置いて、回りを攻撃する聖人で、己一人を高しとして、他を批判しているというのはその通りであろうが、渡辺氏の論をみて、チョムスキーに似ていると思うひともいそうな気がする。


 昭和初期の青年テロリストたちは(あるいは北一輝)は白樺派なのだろうか? 白樺派のような微温的なものでは何も変わらないと思ったからこその行動なのではないだろうか?


 人間にとって大切なのは何らかの土地に生きて、具体性な食べ物や言語で生きることであるとするならば、亡命するひとたちは人間たることの資格を欠くのだろうか? 「アフガンの子供たちは貧しいがいい顔をしている」というのは、村上龍の「希望の国のエクソダス」でアフガニスタンのパシュトゥーン族の民族衣装を着たナマムギ少年がいう「あの国には何もない、もはや死んだ国だ、日本のことを考えることはない。・・すべてがここにはある。生きる喜びのすべて、家族愛と友情と尊敬と誇り、そういったものがある」というのを思い出させた。だが、ナマムギ少年は日本の土地と食べ物と言葉を捨てて、幸せなのだろうか? そこには、「家族、友人に囲まれた毎日の生活、息が通うようないい世界」があるのだろうか? ナマムギ少年は、国家の一員であることをやめ、国家の行動に責任を負うこともやめた。


 渡辺氏は「生活民衆の自立」ということをいうのだが、それはとても観念的で理念的で生活の実感をともなわない言葉であるようにわたくしには思える。「理性」の産物であるように感じる。「土地の霊性に代表されるような生命の流れ」というのもまた同じである。そういうものを感じ取れるひとは(少数であるのかもしれないが)間違いなく存在する。しかし、そういう感性というのは同時に宗教的な何かともきわめて親和性が高く、理性の対極にあるものではないだろうか?


 「自分は国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたいが、一方で、人間の共同的なあり方は求めたい」というのは虫がよすぎないだろうか? これはあちらを立てるとこちらが立たないような二律背反に近い関係にあるのではないだろうか?


 「知識人的な個でない、ほんとうの生活民」というのも随分と観念的な言葉に思える。渡辺氏が抱えているという「魂の飢え」を「ほうとうの生活民」はみな感じているのだろうか?


 古代や中世の人間には安心感があったのだろうか? そもそもそこには「個人」がいなかったというだけはないだろうか? 近代が「個人」というものを持ち込むと、それは壊れざるをえなかったというだけなのではないだろうか?


 「人と人の交わりを成り立たせる原理、道徳や倫理は古今を通じて変わっていない」というのが一番わからない。この古今というのはいつからのことなのだろうか? というのがこれが「物進化の過程に裏づけられているはずである」としているからで、現在の進化の主流の見方では人間という生物を進化の過程から規定しているものは狩猟採集時代の生活であって、農耕以降の時代は進化の過程に組み込まれるには時間的に決定的に不足しているとされているからである。そうであるとすれば、「古今変わらざる真善美」というのが狩猟採集の時代に人間に組み込まれたことになるが。


 人間は事実問題として倫理を抱え込んだのは文明以降ではないのだろうか? 倫理というのは文明の産物であって、進化の過程とは無関係なのではないだろうか? 人間というのはきわめて弱い動物であったはずで、集団で生きるしかなかった。その集団を保持統制する上で宗教とつながっていくような何かが人間のなかに生まれたということはありうると思う。しかし人類などという概念をその頃の人間が持っていたはずはないので、ある数の構成された自分の集団の外にいる人間は敵であったはずである。そこから真善美などというものが生まれるだろうか?


 渡辺氏の「なぜいま人類史か」を読むと、進化ということで想定しているのはローレンツの論であるらしい。「ローレンツは、動物の行動の非常に大きいしかも重要な部分が生得的なものであることを明らかにしたのですが、さらに進んで、人間の儀式や伝統や習俗や倫理のもつ意味も、おそらくそれが生得的な行動様式によって基礎づけられているところにあるのではないかと考えました。そしてそこから彼は、伝統や倫理を合理主義的な批判によって解体する現代文明の動向に警告を発したのですが、そのためにこの偉大な生物学者は学問的な名声まで失墜する危険にさらされることになりました。・・ローレンツは文化には生物学的な基礎があると主張していることになります。これは重大な論点です。一般に、人間は文化を獲得することによって生物進化の法則から離脱したとされています。」 渡辺氏はネオ・ダアーウィニズムが嫌いらしく、「じつはローレンツの確立したエソロジーという学問はいまや、彼の弟子のティンベルヘンを経由してE・O・ウィルソンやドーキンスなどの社会生物学という、極端に戯画化されたネオダーウィニズム的畸形に到達している」などという。そして今西錦司などを「観念や知的なものの基礎に自然のいとなみをみいだそう」としたといって、ローレンツもそれに近いという。そして最後にはこんなことを言い出す。「この地球という実在系はしかるべき方向性をもって進化して来たのだ。その方向性はそのもっとも基礎には物理化学的法則性が存在するものであって、なにも神秘的な生気論は必要としない。意識も精神も文化も制度も言語も進化の産物である。その進化の方向性は一種の目的論的解釈を当然許容するものである。」


 日高敏隆氏はローレンツノーベル賞を受賞する以前からローレンツをふくむエソロジーの日本への紹介につとめた人である。その日高氏は、ローレンツの受賞(1973年)の直後に書かれたローレンツを論じた文で「西欧人には共通したことかもしれないが、《人間》の優越性という感覚と、それに対応すべき道徳感覚がローレンツの頭からはどうしても消しきれないらしい。つまりぼくからみれば、ローレンツはエソロジーの考えから逸脱しているようにみえるのである」といっている。渡辺氏はローレンツを援用することによって、人間のもつ道徳感覚も生物学的基盤ももつ進化に基礎を持つものとして説明できるとしているわけで、したがって道徳感覚も超越的な何かを持ち出すことなく自然科学的なものとして提示できているとしているようである。しかし、ローレンツはデズモンド・モリスの「裸のサル」という表現を嫌い、人間は「累積的伝統をもったサル」と呼ぶべきであるとするひとである。日高氏によればモリスのほうがエソロジーの考えに忠実なのであるが、生物学の正統(つまりネオ・ダーウィニズム)にいるドーキンスなどを渡辺氏は嫌うのである。日高氏は突然変異の累積だけで新しい種が生まれるだろうかという疑問を提出してほとんどの生物学者はそれを内心ではうたがっているとしている。


 このことでもわかるように日高氏は“種”の問題にこだわっており、ローレンツもこだわっている。ローレンツの仕事は今から50年も前のものでノーベル賞をとったけれども、その学問の基礎となったものは、渡辺氏が嫌いなネオ・ダーウィニズムのドーキンスらによって、今ではほぼ完全に否定されいるとしていいであろう。


 長谷川真理子さんの「進化生物学への道」は簡潔な学問的自伝のようなものであるが、長谷川氏が大学にはいった翌年の1973年にローレンツらがノーベル賞を取ったことが書かれている。そのころに長谷川氏も「刷り込み」とかを知ったらしい。長谷川氏もいうように、動物行動学によって従来からの本能と学習の二分法が通用しなくなっていった。長谷川氏は博士課程の2年の時にチンパンジーの言語訓練で有名なプレマック夫妻の来日のアテンドをし、その時に自分が書いている論文を見てもらい、「この論文は、観察事実としてはたいへんおもしろいが、理論的には完全に間違っている」という指摘を受け衝撃を受ける。論文を「群淘汰」の観点から書いていたのだが、「遺伝子淘汰」の観点から書き直すようにいわれたのである。群淘汰はたとえば人間という種に淘汰の圧がかかるという考えだが、遺伝子淘汰は個体(正確にはその遺伝子)に淘汰の圧がかかるとする。そしてその時にドーキンスの「利己的な遺伝子」をはじめて知ったのだという。読んで目から鱗だった、と。「群淘汰」から「遺伝子淘汰」へのパラダイム変換は1970年代前半におきていたのだが、まだ情報の伝わるのが遅かった当時ではそれに気がついていなかった、と。


 ローレンツの著作はすべて群淘汰の考えに基づいて書かれている。学問の根源的な基礎が間違っていたのである。もちろんローレンツが見出した事実は残る。しかしそれをどのように説明するかの方法論の基礎が崩れたのである。「社会生物学という、極端に戯画化されたネオダーウィニズム的畸形」などという問題ではないのである(たしかにウイルソンの「社会生物学」は戯画化といわれても仕方のない部分をたくさんふくんでいるが)。


 とすれば、「この地球という実在系はしかるべき方向性をもって進化して来たのだ。・・意識も精神も文化も制度も言語も進化の産物である。その進化の方向性は一種の目的論的解釈を当然許容するものである。」というようなことはとてもいえなくなる。渡辺氏の主張の根拠が消えてしまう。どうもこのあたり「神」のかわりに「進化」をもってきただけで、たまたま自説に合致する(ということもあるが、それだけではなく、単なる生物学者ではなく、文明の問題をも論じる人でもある)ローレンツの説をもってきただけという気がしてしまう。渡辺氏は自説は人間と人間以外の動物の連続性を主張するものと考えているようだが、日高敏隆氏もいっているように、ローレンツは人間は人間以外の動物とは切れている、飛躍があるとしているようにも思えるので、渡辺氏もまたそうではないかと見えてしまう。


 「進化の方向性」とか「目的論的解釈を許す」というような言い方は限りなく「人間原理」それも「強い人間原理」の方向を示しているように思う。こういう考えはキリスト教の伝統のある西欧でしか生まれないものではないかと思えて、わたくしにはほとんどカトリックの代用品のように思えてしまう。


 進化論について多くの人が感じる不安はそれが倫理や道徳といったものの根っこを掘り崩してしまうのではないかということだろうと思う。人間も動物であるとするならば倫理とか道徳とかを持った動物など他にはいないのだから、神といった超越的な存在を別に仮定しなければならなくなる。しかしそうする必要はなく《進化が倫理や道徳を保証すると》いう渡辺氏の論は特異である。その論によって、根拠のない倫理や道徳にこだわる多くの人文系の学者を斬り、他方、社会生物学といった《狭い生物学によって人間も説明できる》とする能天気な自然科学系の学者をも斬るというのが渡辺氏の行き方である。とすると周囲は敵だらけということになってしまう。


 人は倫理的である(渡辺氏はそれを事実とする)、人は進化の産物である(渡辺氏はこれも事実とする)、よって倫理は進化の産物である(これは一個人としての渡辺氏の考えではなく、これまた事実である)、というのはかなり杜撰な三段論法のように思う。人は進化の産物であるというのは事実であるとわたくしは思う(しかしアメリカでは、そう思うひとは半分もいないらしい。日本では多くのキリスト教徒進化論も受け入れているであろうと思う。万世一系天皇進化論が両立した国である)。しかし、人は時に倫理的であるが、いつも倫理的ではないと思う。ひとが倫理的でありうる基盤は進化がもたらしたものであるかもしれないが、その基盤がつねに倫理をもたらすとはいえないだろうと思う。「偉大な創造的行為やまっとうな人間関係は、すべて力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるのである。この休止期間が大事なのだ。私はこういう休止期間がなるべく頻繁に訪れてしかも長くつづくのを願いながら、それを「文明」と呼ぶ。・・力はたしかに存在するのであって、大事なのは、それが箱から出てこないようにすることではないだろうか。いずれは出てきて、そうなれば、人間ばかりか人間がこれまで創ってきた美しいものをすべて破壊してしまうのだから。だが、しじゅう出ているわけではないのだ」とフォースターはいう。フォースターは間違いなく啓蒙の伝統のなかにいる人である。「神よ、私は信じません―どうか許したまえ」を自分のモットーとするとフォースターはいう。渡辺氏は信じる人である。正直、渡辺氏の論をみていくと氏がなぜ、カトリックに入信しないのかがよくわからない。パステルナークソルジェニーツィンイリイチもみなカトリックに通底しているひとだと思う(カトリックではなくロシア正教などかもしれないが)。


 「国家からも思想集団からも宗教集団からも縛られない個人でありたい」が、一方で、「人間の共同的なあり方は求めたい」というのはちょっと欲張り過ぎなのではないだろうか? 「私の世界文学案内」とか「細部にやどる夢 私と西洋文学」などという渡辺氏の著書を読むと、氏がいかに西洋の小説を愛するひとであるかということがよくわかる。そこに表れた西洋の「個人」をいかに愛しているひとであるかもわかる。しかし、そういう「個人」を求めてきた結果が「フランスの現代文学での男女の関係の孤独」ということになり、だからこそ「共同体」なのかと思うが、「個人」を求めたら「孤独」がくるのは当たり前なのではないだろうか? 吉田健一の「文学の楽しみ」の最終章は「孤独」と題されている。「我々は望みを絶たなければならない事柄に就ては望みを絶たなければならない」と吉田氏はいう。「文学に必要なのもこの孤独である。・・我々は或る言葉を美しいと認める時に自分一人になり・・ここに一人の人間がいるという意味での、その限りでは凡ての人間である自分であり、これは我々がその経験をすることで何の得をしなくても、その瞬間に少なくとも我々が自分というもの、自他の区別というものを忘れることで解る。」 渡辺氏が「人の生はただそこにあるだけで価値そのものです。それは何も人間の生命の尊厳などということじゃなくて、人間なんて犬猫以上にえらいものでもなんでもないけれども、それでもただ生きているだけで価値なんだと思います」というのと、吉田氏のここで言っていることはあまり違ったことではないと思う。われわれはただ生きるためにも文学を読んだりするのである。


 渡辺氏は「個人」と「共同体」に分裂している。その分裂こそが渡辺氏の魅力でもあるのだろうが、E・S・エリオットがたどった道を氏もまたその後を追おうとしているように見えないこともない。「荒野ははるか南の熱帯地方にあるのではありません、荒野は街かどをまわったところにあるだけでなく、荒野はみなさんのまぢか、地下鉄のくるまのなかにひしめいています、荒野はみなさんの仲間の心のなかにあります。・・主といっしょに建てるのでなければ、私たちが建ててもむだです。主がみなさんの手をかりずに守っている都市を、みなさんは守ることができますか。交通整理をするたくさんのおまわりさんも みなさんがどうして生れ、どこへゆくかを教えることはできません、ひとむれのテンジクネズミや活発なモルモットの方が 主なしでつくる人間たちより、りっぱなものをつくります。」(「『岩』の合唱」から、詩の行分けをはずして引用)


 しかし何だか口語訳の聖書みたいで、訳文がダルである。原文。


 The desert is not remote in southern tropics,


 The desert is not only around the corner,


 The desert is squeezed in the tube-train next to you,


 The desert is in the heart of your brother.


 ・・


 We build in vain unless the LORD build with us.


 Can you keep the City that the LORD keeps not with you?


 A thousand policemen directing the traffic


 Cannot tell you why you come or where you go.


 A colony of cavies or a horde of active marmots


 Build better than they that build without the LORD.


 


 西欧社会の若者たちからイスラム国へ向かうものがでてきているらしい。彼等は「魂の飢え」を感じていて、西欧の飼い慣らされた宗教には満足できず、宗教の原初の荒々しさを未だ失っていない(ように見える?)イスラムに惹かれるのかもしれない。世界を単純に善と悪に分ける見方も超越的なものに惹かれる心情もともに進化の基礎を持つのだろうと思う。「啓蒙」というものこそが進化の基礎を持たない、したがっていたって危うい基盤の上にかろうじて建っているものなのだろうと思う。「この芸術(小説)は、誰も真実の所有者ではなく、しかもだれもが理解される権利をもっている、あの魅惑的な想像的空間を創出することができました。この想像的空間は近代ヨーロッパとともに生まれました。それはヨーロッパのイメージであり、というか、すくなくともヨーロッパに抱く私たちの夢です。・・しかし、個人が尊敬される世界(小説の想像的世界と、ヨーロッパの現実の世界)がもろく、はかないものであることを私たちは知っています。・・個人の尊重、個人の独自な思想と侵すことのできない私的生活の権利の尊重、このヨーロッパ精神の貴重な本質は、わたしには金庫ともいうべき小説の歴史のなかに、小説の知恵のなかに預けられているように思われるからです。」(クンデラ「小説の精神」)


 「悪魔の詩」を書いたことによりホメイニ氏に死刑宗教布告を出され逃亡を強いられているラシュディが9・11の後、「日常性に戻ろう」という文を書いて、イスラム原理主義者たちが反対する「社会的多元性世俗主義ミニスカート、ダンス・パーティ、髭をそる自由、進化論、セックス」のすべてに自分は賛成すると述べ、ただの自由、日常生活でのささいでありふれた自由、安逸な日常生活、ぬるま湯につかった平和、これらすべてが大切なのだ」といっていることを、加藤典洋氏が「ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ」の中で紹介している。しかし西欧の少女たちのなかには、ミニスカートやダンス・パーティにはただただ虚しさを感じ、安逸でぬるま湯につかった生活にひたすら空虚だけを感じてイスラムにむかうものがいるのだろう。渡辺氏からすれば、西欧世界に生きて「魂の飢え」を感じるのは、いたって当然のことなのであるが、その解決策はイスラムというグローバリズムに赴くことではなく、それぞれの地域で根をもった生活をとりもどしていくことにある。渡辺氏には何が正しいかわかっている。しかし、それは「誰も真実の所有者ではな」いという啓蒙の根本に反する。だから渡辺氏はこれは自分の見方、考え方ではなく、進化の過程がもたらした客観的な事実であるとすることで、その難点を回避しようとする。しかし、進化を論じるひとたちの中で、渡辺氏のいっていることが主流であるかといえば、まったくそういうことはなく、進化心理学の分野は利他心をどう説明するかの問題を血縁淘汰といった考えで乗り切ることに四苦八苦している段階である。人間のもつ倫理とか道徳とかが進化がもたらしたものであると胸を張れる生物学者はいないだろうと思う。そもそも倫理とか道徳とかが人間に普遍的なものでなければ、それを進化で説明しようという方向さえ出てこないわけである。だから本来、そんなに自信をもてるはずはないと思うのだが、渡辺氏は自信たっぷりに自説を滔々と披露している。なんだか「己一人を高しとして」いるようで、(宗教の人ではない)啓蒙の人としてちょっと異例である。


 「渡辺京二評論集成」に収められたもう少し古い文章では、議論がもっと緻密で、いろいろなところに目配りもとどいているように思う。書いていることに絶対の信を抱いてはいるのだが、それでも自分の言論が世にあたえうる影響ということについては醒めている。「逝きし世の面影」が評判になって、ある程度売れて、なにがしか自分の論が世を変えうるという思いがでてきているのだろうか?


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食事は健康の土台

「阿修羅」から転載。「in deep」にも使われていた統計資料による記事のようだ。
沖縄県が長寿県から転落したのは、「運動不足」と「食生活の変化」のせいだろう。沖縄には短い都市モノレール以外の鉄軌道乗り物が無く、通常の社会生活を送るには各家庭に1台か2台の乗用車が必須である。そして乗用車があると、「ドアからドアへ」の生活になり、日常ではほとんど歩かなくなる。わずか100メートルほど先のコンビニでも、重い荷物を抱えて帰るよりは、と歩行より車を選んでしまうことが当たり前になる。車を止める位置でさえ、できるだけ店の出入り口に近い方を選ぶのだから、運動不足になるのは当然だろう。
食生活の点では日本全体と同じく、米や芋中心で後はわずかな野菜とわずかな肉という粗食から、飽食・過食が当たり前という状態になったようだ。特に女性は、米よりもパンや菓子を好むことが多いというのは日本全体に共通しているのではないか。
この「米からパンやケーキ中心に変わった食生活」というのが日本人の食生活の悪い方向への変化ではないか、と私は見ている。たしか、パンやケーキに大量に使われているトランス脂肪酸を米国では禁止したのではなかったか。それでなくても、パンはジャムなどを塗れば菓子も同然であり、それだけで満腹する。体に必要なビタミンやミネラルが不足するのは当然だろう。そこが、必ずオカズを必要とする米飯との違いだ。(逆に、それが面倒だから米飯は主婦に嫌われるのだろう。だから、米飯でもオカズの要らないカレーライスやチャーハンなどが好まれるのかと思う。それではビタミン不足になるのは言うまでもない。)
私自身、長年の頭脳労働者(の一種だと思う。少なくとも体を使う仕事ではなかった。)から、高齢になって肉体労働者に転身(日本の軍隊風に「転進」と言うべきか。ww)した結果、食事が肉体に及ぼす影響を明確に体で知ったので、上に書いたようなことを言うのである。
若い人でも激しい肉体労働をすると、足などがつったりする。甲子園やプロ野球などでよく見る光景だ。あれは、発汗に伴うミネラル分(おそらくカルシウムとマグネシウム)の流出の結果だろう。それほど、ミネラル分は(そしてビタミンもだが、こちらは長期的な欠乏の結果、症状は出るものかと思う。)体を動かすのに必須のものなのである。したがって、そうしたミネラル分やビタミンの欠如した食事をしていることが体に良くないことは言うまでもない。
まあ、ほとんど運動らしい運動をしない生活をしていると、そうしたことには気づかないが、たまにいきなり激しい労働をすると、自分の体がいかに不健康なものかがすぐに分かるはずである。これを単に「体がなまっていた」などと軽く考えるべきではない。
そして主婦の方々は、家族の体の健康は自分の食事にかかっている、と考えてほしい。ただし、砂糖や塩や化学調味料を使わないで不味い飯を作って、それを家族に強制的に食わせようとするのは、家族に家庭料理と母親を憎悪させるだけである。(不味い食事を強要する母親に対する憎悪は世間でごく普通にあるもので、それに気づかないのは当の母親だけである。)
食塩や糖分や脂肪分や炭水化物を制限すれば健康になる、というような単純なものではないのである。

なお、体を動かす必要の無い生活をしているならば、健康維持には粗食だけで十分かと思う。
過食の傾向があるなら運動は必須だ。



(以下引用)


コレステロール・ショック(7) 長野県の怪(BMIは違います)  武田邦彦
http://www.asyura2.com/15/health17/msg/169.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 6 月 02 日 13:55:05: igsppGRN/E9PQ
   
 
   コレステロール・ショック(7) 長野県の怪(BMIは違います)
http://takedanet.com/archives/1029243053.html
2015年05月31日 武田邦彦 (中部大学)


(大失敗!!)
  目がかすんでBMIについて「長野県」と「長崎県」を間違いました。この記事はもう一度、書きますが、とりあえず「塩と血圧と長寿」という点でお読みください。失礼しました。またご指摘をしていただいた方、ありがとうございます。



長野県の男性は都道府県の中でももっとも長寿だ。かつて、山間部で雪の多い地域だから、どちらかというと運動も不足し、新鮮な海の幸にも恵まれないので、長寿日本一とは縁が無いと考えられていた。


しかし、県をあげての健康運動が実って、それまでトップだった沖縄を抜いて堂々、一位を続けている。関係者のご努力に深い敬意を表したいと思うが、長野県のデータを参考にしようとすると、どうも国や医師の指導と比較するとデータがかけ離れている。私たちはなにか重要なことに気がついていないのではないか??


というのは表紙のグラフに示したように、長野県の男性の平均寿命は47も都道府県があるのに、もっとも長寿だ。でも、際立っているのは肥満度(BMI)も一位(太っている)、塩分摂取率は二位(お塩を多く採る)なのだ???


「健康」は「肥満を抑えて、塩分を控える」と言うはずなのに、都道府県でもっとも肥満度が高く、塩分をとっている長野県の男性がなぜもっとも「長寿」なのか? このような時に科学者はまずとんでもないことを考える。


まず、「不健康」なら「長寿」なのか? と考える。科学は予見を持ってデータを見てはいけない。「健康なら長寿」というのが間違っているかも知れない。「一病息災」というように、ある程度病気がちの方が息災であるということわざもあるぐらいだ。


次に、「肥満で血圧が高い」というのが「長寿のもと」なのか? とも考える。 これも予見を持ってデータを見てはいけない。「肥満と健康」と言っても、BMIが30ぐらいまではむしろ「肥満の方が健康」というデータも多い。つまり程度問題で、肥満というのはBMIで30以上とも考えられ、そうなると長野県は「都道府県の中でもっとも肥満だが、BMIが24.4だから「日本全体のBMIが低すぎるので、もっとも肥満な長野県がもっとも長寿」とも言える。


この報告書は厚労省が膨大な税金を掛けて報告している詳細なレポートからなのだが、調査対象人数が少し少ないと思うが、これで統計的には大丈夫とみているのだろう。今回はこのデータを利用する(最近では大学への研究費が削られて、官庁がお金を持っているので、データが官庁からでる。政治的なデータが多くて困るので、できるだけ学者が調査をできるようにしておかないと日本の進路を見誤る)。


また食塩の摂取量は長野県は全国2位でかなり高い。それでも長寿なのは「野菜を食べるから」などと見当外れの説明がされている。それも野菜にカリウムが含まれているからという奇妙な説明で、それなら食塩をとってもその中にカリウムが入った醤油などを使えば、「減塩」などというものは無くなる。


長野県のこのデータは考えさせられる。また塩分摂取量のデータや脳疾患の統計はあるが、「男性の平均血圧」のデータがなかなかみつからない(女性はある)。「塩分摂取量」というのは「血圧に関係がありそうなもの」ではあるけれど、「血圧」そのものではない。だから、統計データとしては、「塩分と寿命」では遠い関係になるので、「塩分→血圧→主要な死因→寿命」の関係データが同じ調査対象でなければならないが、見当たらない。


「肥満の方が長寿」というのは理解できる。人間はBMI=25ぐらいが標準的で、体重が減ると体力を失い、感染症やがんなどにかかりやすくなる。日本はあまりに体重を気にして「やせている方が健康」という間違った考えでいるので、長野県がもっとも肥満なのにもっとも長寿ということになったのだろう。


「塩分をとった方が長寿」というのも納得できる。

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8月18日放映のNHKアニメ「団地ともお」のこと

昨日、偶然にNHKのアニメ「団地ともお」というのを後半だけ見たのだが、それが「あの戦争」について今の日本人がどう対しているか、という姿をリアルに描いていたので驚いた。画風は(原作漫画もそうだが)どちらかと言えば稚拙な感じで、内容は「あまり出来のよくない小学生とその家族や周辺人物の日常」をのどかに描いたものであり、まあ、「ちびまる子ちゃん」か「サザエさん」の同類だと思えばいい。それが「あの戦争」を、戦争そのものではなく、「学校ではほとんど教えられることが無かったために、『あの戦争』とどう向き合っていいのか分からない」普通の人々の今の姿を描くことで、逆に、これまで何が隠されてきたのか、これからそれとどう向き合っていけばいいのかを考えさせるという、見事に教育的な(揶揄的な意味ではなく、肯定的な意味で言うのである。)内容のアニメになっていた。NHKも現場にいる人々は知的で良心的な人々が多いのだと思う。彼らの「籾井体制」へのひそかなレジスタンスをこのアニメに見た思いである。
この回の「団地ともお」は、ぜひネットなどで流布されてほしいものだ。



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男性
職業:
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考えること
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空を眺め、雲が往くのを眺め、風が吹くのを感じれば、
それだけで人生は生きるに値します。

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