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「八面六臂」対「社会的低脳」

「小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・ア・警句』」から、一部転載。
夏目漱石の『こころ』の、語り手ではなく、真の主人公である「先生」が自殺した理由を、「先生」自身は「自分という人間がこれ以上生きていても結局(「ひっきょう」という漢字が出ない!)時代遅れだから」と、遺書(手紙)で語っている。昔読んだ時には、この理由にまったく納得できなかったから、一般に理解されているように、Kへの裏切りという過去の悪事に伴う心の負担を清算するため、というのが自殺の真の理由だろう、と思っていた。というより、悪を憎みながら、自分自身が悪を為したことに、「先生」は長い間悩んでいたが、「解けない問題を解決する手段は、その問題自体を消滅させることだ」という、「ゴルディアスの結び目に対するアレキサンダーの解」よろしく、自分自身を消滅させた、というのが「先生」の自殺の真相だったと思う。しかし、「先生」が表向きの理由とした「時代遅れになったから」という言葉は、けっして荒唐無稽な自殺理由でもない、と最近は私も思うようになっている。
下記記事を読んでみても、私自身、時代遅れの人間だなあ、と思う。
もともと若い頃から社会生活不適応者であり、ここまで生きてこられただけでもいわば「社会のお目こぼし」で生きられたようなものだから、いつ死んでも不満はないのである。その社会不適応とは、何よりも「頭の回転が悪い」ということである。他人との思考スピードが全然違い、相手との会話に付いていけないのだ。従って、世間話がまったくできない。相手が言った言葉の意味を考えているうちに、相手の言葉は次の段階に移るのだから、こちらは馬鹿みたいに相槌を打つしかない。相手の話の半分も理解できていないのだ。
その代わり、読書速度は速かったから、文章の読み書きには不自由はなかった。だから、こうしてネットでブログを書いているのは、私にとっては日常会話の代用みたいなものだ。日常会話なら、相手の気持ちをあれこれ気にして話すから、思うことの半分も言えないし、相手と共通の話題があることも少ないから、ネットで好き放題に書いているほうが、私にとってはマシかもしれない。それもこれも私が「思考速度が極度に遅い」人間だからだ。「社会的低脳」と言っていいだろう。
まして、下記記事にあるようなマルチタスク人間は私にとっては別世界の人間である。そういう人間と共存することは私のような人間には相当なストレスだろう。いやはや、早々と社会から降りていて正解であった。(今やっているパート労働は、いわば「隠居仕事」であり、社会の第一線の仕事ではないから、ストレスもほとんど無い。)




(以下引用)



博覧強記対八面六臂


小田嶋 隆


2013年11月8日(金)

1/5ページ



 大阪のホテルの一室でこの原稿を書いている。

 当地に滞在している理由は、昨晩(水曜日の夜)、市内のとある書店で開催されたトークイベントに登壇者として呼んでいただいたからだ。
 イベントは盛況だった。終了後の打ち上げも、終始なごやかにこなすことができた。

 ところが、ホテルに着いてみると、携帯電話が無い。
 イベント会場の書店に、上着ごと忘れてきたらしい。

 東京を離れると、かなり高い確率で、所持品を失くしたり、忘れてきたりする。
 昔からそうなのだが、旅先でのオダジマは平常心を失う設定になっている。
 ノマド適性が低いのだと思う。

 とにかく、夜が明けたら、書店の開店を待って、ブツを引き取りに行かないといけない。なのに、携帯電話がないと、携帯電話を回収するための連絡さえままならない。ダブルバインドだ。
 というよりも、大げさに言えば、世界とのつながりを絶たれた感じだ。

 電波世界のロビンソン・クルーソー。
 お手上げだ。

 で、仕方なく開店を待つ間、ホテルにとどまって原稿を書いている。
 ところが、うまく執筆のリズムに乗ることができずにいる。
 そんなに繊細至妙な文章を書いている自覚は無いのだが、どういうものなのか、調子が出ない時は筆が進まない。

 おそらく私は、自室の執筆環境に依存している。
 いつも使っているパソコンの扱い慣れたエディタや、ブラウザのブックマークや、各種の辞書や、気晴らしのためのゲームや、逃避先としての紅茶やテレビといった、固有の環境が揃っていないと、アタマが十全に機能してくれないのだ。

 とはいえ、ノマド環境に適応するべく自分を最適化すれば良いのかというと、単純にそうとばかりは言えない。
 マックブックエアでバリバリ仕事ができるようになると、今度はどうせあいつに依存するようになる。私はそういう性質(たち)の人間なのだ。

 持ち歩き用のパソコンやタブレットに依存している人々は、昨今、珍しくない。

 たとえば、昨晩のようなトークイベントに若い世代の登壇者が登場するケースでは、彼らは、まず間違いなくモバイルのパソコンを持ち込んで来て、それを目の前に開いた状態で話を始める。必ずそうするのだ。

 シンポジウムでも、単独の講演でも、公開の鼎談や座談会でも同じことだ。三十代までの若手文化人は、デジタルのガジェット込みの拡張版の自我を介して現実に対応していて、それらのモバイルなエゴのスイッチがオンになっていないと、自分の知的活性力を十全に機能させることができない。だから、彼らは生放送のスタジオにさえ自前のマシンを持ち込む。

 彼らは、場の話題に追随しながら調べ物を続行する能力を備えている。具体的に言うと、口から言葉を発しながら、同時に、手元では資料を並べ直していたりするわけで、訓練の行き届いた人になると、会場のナマの声(ツイッター経由だったりニコ生のコメントだったり)を拾いながら、パワポの資料をスクリーンに展開しつつ、絵柄に沿ったジョークをカマすことができる。おそらく、生まれた時からあのテのマシンと並走してきた彼らのアタマは、デフォルトの設定がマルチタスクになっているのだと思う。


(以下「会員ページ」なので、略)




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